呑みに行ったのである。
私らはかねてから話題のハプニングバーに・・・というのは嘘で、中年男三人とお肌の曲り角を過ぎて成熟しはじめた元気のいい三〇代女性三人とでの合コン・・・というのももちろんありえない話で、メンバーは皆「ギンギンのオヤジ野郎」の上から五八歳、五五歳、四一歳の私の三人、仕事で付き合いのある仲間で、だいたい月一のペースで会っているのである。
私以外の二人はビール一杯で顔が赤くなってしまう人達なので、いつもは酒ナシで小料理屋とかファミレスでの食事会となる。酒好きの私としては、少々ツライところもあるが、この仲間で会うと話が尽きることがないので毎回楽しみにしているのである。
五八歳のオヤジは私が生業としている「ある職人仕事」の師匠であり、前に同じ会社にいたのだが、その会社が潰れ、師匠は他の会社に移り、私は独立したのである。五五歳のオヤジは仕事に使う機械、工具、道具などを扱う販売店の営業マンであり、私が独立した時にも大きな力を貸してくれた人である。この世界でまだ「ヒヨッ子」である私が独立できたのは、この二人の力に負うところが大きい。
「たまには、酒も入れようか。オレも嫌いじゃないんだよ、まあ、そんなに呑めないけどよぅ、そういう雰囲気は好きなんだよ」
そう言ったのは師匠である。つきあいの長い師匠の言葉を弟子の私が翻訳するとこうなる。
「オレはほらっ、完全に離婚しちゃってからさ、女日照りだろぅ。普段酒も呑まねえから、ああいうスナックみたいなとこ(ずっと前にお前と行ったことがあるあそこだよぅ)にたまには行きたいじゃないの。こないだ、お前、店出る時にオレと同年代のママを抱きしめてたじゃね~か。いいよなあ~。オレは恥ずかしくて出来なかったけどよぅ、あん時ホントはオレもママを抱きしめたかったんだよぅ・・・」
で、今回は「呑み会」になったのである。
まずは鳥料理専門の小料理屋で生ビールを呑みながら、それぞれの近況報告である。
私「連休前までは、目一杯。納期きつくてガタガタ忙しかったけど、休み明けからパッタリ・・・」
師匠「うちもそうだな。昨日の午後から仕事がない・・・」
工具屋さん「明日(日曜日)、機械の搬入で出勤なんだ・・・」
だからって、どうってことなくワイワイやるのだった。
舌も滑らかになり師匠の移った先の会社でのグチがえんえんと続き、私は聞き役に回っていた。見ると工具屋さんは頬を「まっ赤っか」に染めて居眠りを始めている。工具屋さんはこのところの家庭の事情(親父さんがガン)で疲れが相当たまっているのだろう。
「今日は工具屋さん疲れているみたいだから、この辺でお開きにしましょうか」
私がそういうと師匠は「これくらいでなんだよぅ」と、工具屋さんの身体を突っ突いたのである。さらに、ムクッ、と起き上がった工具屋さんに向かっていったのである。
「これからイイとこ行こうと思ってたのになあ」と、同意を求められた私も、まあ、と頷く。
「イイとこって?」
「イイとこだよ」
「行くよ!!」
工具屋さんも乗り気なのであった。
珍しく「今日は呑むぞぅ」と気合いを入れる師匠は自転車で、工具屋さんと私は一旦車を自宅に置き、電車で来ていたのである。
その一帯は工業地帯で、華やかな街ではない。大手工業メーカーや、その下請けの中小企業、町工場などが密集する地域である。
風俗店などはない。ちょっとした小料理屋やチェーン店ではない居酒屋、そしてスナックなどが駅から少し離れた通り沿いに並んでいる。
私らが入った店は「場末のスナックバー」という形容がピッタリのお店である。8席のカウンターと四人座れるテーブル席が一つ。カウンターの突き当たりには「DAM」ではなく「TAITO」のカラオケ設備が備えてある。
ママはいなかった。眼鏡をかけた清潔そうなマスターとハキハキした二〇代のオネーチャンがカウンターの向こうにいた。客は入り口に近いカウンターの隅っこに二〇代の若いオニーチャンが一人いるだけだった。
「あれっ、ママは?」
「このところ体調を崩していて、お休みしているんです」
「そうなの、彼、楽しみにしてたのに・・・なあ」
酒が入り調子のイイ師匠がそう言って私を指す。
「残念だなぁ、ママに会いたかったのに・・・大丈夫なの?ママ」
「ええ、今日も早い時間に顔だけは出したし、もうだいぶ良くなったみたいですよ」
この店は、ママが三〇代の頃にオープンして以来、営業歴二〇年以上になるということを前回来た時に聞いていた。決して「オシャレなお店」ではないが、昨年、心機一転、改装したばかりなので清潔感があり「色気よりもおいしいお酒を売る店」という感じで、落ちついた雰囲気があった。
「私、お客さんのこと憶えていますよ。以前いらした時、別れ際、ママを抱きしめていましたよねン」
そういってオネーチャンが上目遣いで私を視る。悩ましい視線だった。
確かにそうだった。私はあの抱きしめた時のママの「ぬくもり」を今でも思い出すことができる。柔らかくて、ふわ~っと、猫のように気持良く、あたたかかった。
「あの時、ママのことがすごくチャーミングに見えたんだ。ずっと年上の人に失礼かもしれないけど・・・とても素直でかわいらしく思えたんだよ」
師匠を見ると、仕事中には見せたことがない「複雑な顔」をしていたので、私は話題をかえようと思っていた。今宵の私の役割は師匠と工具屋さんを心地よく酔わせ、ヨッパラッてしまった場合、その二人の面倒を最後までみてあげる、ということのような気がしていた。できれば「師匠が抱きしめたい」と願ったなら、その気持をオネーチャンが受け入れてくれればいいなぁ、などと思っていた。
「あっ、そうだ。飲み物を・・・」
師匠はライムサワーを、道具屋さんはオレンジジュースを、私はカメ入り焼酎をロックで注文した。オネーチャンの分も「一杯どうぞ」と忘れなかった。
マスターはいつの間にかのれんの奥のキッチンに引っ込んでおり、オネーチャンが飲み物を作っている。工具屋さんは眉間にシワを寄せてカラオケの曲本をパラリパラリめくっている。その顔がパッとあがると、満面の笑みに変わっていた。
「カラオケ、久しぶりなんだよなぁ。唄っていい?」
「どうぞ、どうぞ、思う存分唄って下さいよ」
盛り上がればイイ、と私は思っていった。
飲み物が全てそろい、皆でオネーチャンと乾杯した時に、私は気付いてしまったのだった。
オネーチャンは、襟が大きめの淡いピンクのカッターシャツを着ている。下はジーンズで前掛けをはおり、その姿はバーテンダーのように見えなくもない。
そのカッターシャツの第一ボタンは、はずしてある。第二ボタンはパンパンに張った胸の上を苦し気にとめている。そして、第三ボタンから第四ボタンの間が・・・「まるでどこかの口のように」パックリ開いていたのだった。
工具屋さんは早速、カラオケの曲本の番号を指差し、オネーチャンに示している。師匠は「あれっ、マスターどこ行ったの?」などと、今さらながらに狭い店内を見回している。
二人は「パックリ開いた口」に気付いていないのかも知れなかった。なぜなら、私が座っている席が絶好の位置だったからである。
店の入り口からみて、カウンターは右手にある。その奥から工具屋さん、師匠、私の順で座っている。オネーチャンはカウンターを挟んで、三人の真ん中にいる師匠の前に立っていることが多い。女性用のシャツのボタンは右前なので、左に位置する工具屋さんには見えないだろう。師匠も正面にいるので、運が良い時だけに、チラリと見えるくらいだろう。で、右に位置する私からは常に「パックリ開いた口」が見えるのだった。
しかし「見える」といっても、その「口の奥」までがはっきり見えるわけではないのである。店内は、程よく「肌の皺」がカムフラージュできるくらいの照明に落とされており、そこにいる人々の年齢は実年齢プラスゼロ、マイナス一〇歳の幅で判別される程である。
「パックリ開いた口」がそこにあるのは確かだが「口の奥」は影になり、なんとももどかしい「グレーの空間」が見えるだけなのである。私はモヤモヤした気分になった。あの影にピンスポットライトをあてて、はっきりとその姿を浮かび上がらせて欲しい、と願った。
「さつき、です。憶えてないんですね。前、いらした時にいったはずですよ~」
師匠が聞くとオネーチャンの名前は「さつき」で、二七歳だといった。この店では二年になるのだという。
「最近、物忘れがひどくってよう。す~ぐ忘れちゃうんだな、これが」
師匠はそう言って笑い、ごまかす。実は私もよく憶えていなかった。前回来たのは以前取り引き先だった企業の重役に連れて来られたのだった。もう半年程前になるだろうか。その時は、ママとのおしゃべりが楽しく、おそらくさつきちゃんは他のお客についていたのだろう。
「改装前は、多いときで七人くらい女の子がいたんですよ~。服装ももっと露出したやつを着て、カウンターを出てそちらのお客さんの席の方にもついていたんです」
背の高い(一七〇cmくらい)さつきちゃんは決して「おデブ」ではないのだが、シャツもジーンズも「むっちりパンパン」に張っている。無理な姿勢をとったなら、以前私が「ガソリンスタンド」で妄想したように、パーンッと、勢いよくボタンが弾け飛んでしまうのではないかと思う程だった。そのさつきちゃんが今よりもっと露出の高い服装を・・・。そう考えただけで、私の股間はモコモコしてきた。
「改装してからは、そういうことはいっさいやめて、美味しいお酒を呑んで楽しんでもらえるようにしたんです。ほらっ、これだって九州の酒蔵から直接取り寄せているんですよ、どうですか?お味のほどは」
そうふられて、私は慌てた。それまで「パックリ開いた口」のことで頭が一杯で、焼酎の味を味わっていなかったのである。あらためて口をつけると、なるほど、私の舌の記憶にはない味だった。
「うん、美味しいよ。焼酎っていうより日本酒っぽい感じもする」
さつきちゃんは、均整のとれた顔だちをしている。目や鼻、口などのパーツが全体に比べやや小さめで、そこがまたカワユイ。会話をしていて、客に媚をうるような「おバカさん」っぽい喋り方はしないし、声の質が子供っぽくない。さすが、プロだなと思った。まだ若いのに「オヤジ野郎の取り扱い方法」を知ってるな、と感じたのである。
私らとさつきちゃんとの会話が楽しくなり始めた頃、私は何か強い視線を背後から感じていた。振り向くとあのニーチャンからの視線だったことがわかった。おそらく、睨んでいたのだろう。私と目が合うとニーチャンは目をそらした。
私はその時になって、やっと合点がいったのである。他に客が誰もいなかった店内でニーチャンがなんであんな「じゃまクサイ」入り口に最も近い席に座っていたのかが・・・。
ニーチャンもまた、もちろんさつきちゃん目当てで、しかもさつきちゃんの「第三ボタンと第四ボタンの間」を知っていて覗きに来ている一人なのであろう。
「身をきるような~ 身をきるような~♪ 思いを わかってくださいますね あなたなら~♪・・・」カラオケが始まった。工具屋さんが「ムード歌謡」を唄い始めていた。
・・・と、いうことはだ。さつきちゃんは今日だけ特別なのではなくて、常にあの「第三ボタンと第四ボタンの間」が「パックリ開いた口」状態になっているのだろう。ニーチャンの様子から判断するとそういうことになるのである。
すると、これはもしかして客を引き付ける方法として、さつきちゃんが意識的に「狙って」やっていることなのだろうか。こういう仕事のプロであるさつきちゃん自身が気付いていないとはどうしても思えないのだ。
「身をきるような~ 身をきるような~♪ 思いを わかってくださいますね あなたなら~♪・・・」
しばらくして、いや、そうではなく、さつきちゃんの体形が必然的にそうさせてしまうのかも知れないと私は思った。
シャツの第一ボタンははずしてあり、そこは思いっきり開かれているが、さつきちゃんの胸の谷間の始まりは全く見えない。さつきちゃんのオッパイはその重さ故、少し下寄りで第三ボタンのちょっと上あたりに乳首がくるのだと思う。だから、第二ボタンから第三ボタンまではシャツがパンパンに張っている。それが第四ボタンまでいくと少し余裕がある。
おそらく、あの「パックリ開いた口」の奥にはさつきちゃんの乳房の下部があるはずで、それを窮屈に包むブラジャーの色くらい見えてもいいようなものだが、あいかわらず「グレーの空間」が見えるだけであった。
しかし、私はそれだけでも「幸せな気分」に浸ることができるのであった。なぜなら私は「アホなスケベオヤジ」だからである。それだけで「モッコリ君」なのである。
工具屋さんの唄が終わり、私らは口笛と拍手で迎える。ニーチャンは全く反応していない。「お上手ですねン」さつきちゃんにそう言われた工具屋さんはまたもや満面の笑みで、照れたのかデレデレしている。相当嬉しそうなのである。
「いや~、カラオケ本当ッ、久しぶりでさぁ~、どう?音はずれてなかった」
「あれ~、うまいじゃないの~、どんどん次唄いなよぅ」
師匠は工具屋さんにどんどん唄わせて、その間にさつきちゃんと数多くの話をしたがっているのだと私には思えたのだが、もちろんニーチャンがそうはさせなかった。
「さつきちゃん、これっ!」
さつきちゃんは「あっ、ごめんね」と言ってニーチャンのグラスを一杯つくり始めた。ニーチャンは開いた曲本をさつきちゃんに示して、あれやこれや曲を選んでいる。
同世代であろう、さつきちゃんとの口振りからして、ニーチャンはあきらかに「常連さん」だが、まださつきちゃんを口説いている途中で、まだ「イッパツ」はやっていないと私は睨んだ。
土曜日である。製造業の多いこの辺りの会社は皆、半ドンか休日で夜は閑散としている。客は週のうち、もっとも少ないはずで、それを狙ってニーチャンは通っているのだろうと推測した。
緑色の焼酎のボトルを置き、水割りで呑んでいるニーチャンはサンダル履きである。私が羨む程の前髪を垂らしている。カウンターに前のめりの猫背スタイルで足を組み、サンダルをブラブラさせている。
私がいうのも何だが、こういう若者を見るともったいないなぁ、と私は思ってしまう。「姿勢が悪すぎる」のである。顔のつくりは悪くない。若さを持っている。髪の毛の量も多い。弾けるようなパワーもエネルギーもあるはずである・・・が、こんな姿勢をしているようでは、今しかないせっかくの「特典」が発揮されないばかりか、むしろその存在をみすぼらしくさえしてしまう。
私の仕事は身体を張って「腕一本」で銭を得る職人仕事である。姿勢を見ただけで「デキル奴」か「デキナイ奴」かは一発で見抜ける。他の業種にはあてはまらないかも知れないが、まず私らの仕事ではつかいものにならない。いらんぜよ、なのである。
さつきちゃんがいないと、私らは途端に仕事の話になる。師匠が昔、今のような機械や道具がなかった頃に、どうやって工夫していくつもの壁を乗り越えてきたかというような話は、今の私に物凄く貴重でタメになるのである。私がいろいろと質問し、その答えが失敗談もまじえて、いささか乱暴な職人言葉で語られるので、私らの間には笑いが絶えない。
「職人は仕事も一流、遊びも一流」と、今でもいう人がいるが、もはやそういう時代ではない。中国の人件費の安さに「仕事」の多くは向こうに持っていかれている。日本国内もその影響でどんどん単価が下げられている。状況は非常に厳しい。儲かる仕事は本当に少ない。中国を含めた他所ではできない「難しいこと」をやっていかなければ、私らは食っていかれない。
その為には、いろいろと頭を捻る。豪勢に遊ぶ時間もなければ金もない。「貧乏暇なし」なのである。
師匠は趣味は豊富に持っているが、昔から酒もギャンブルもあまりやらない希有な人である。工具屋さんは、幼児期の病気が原因で脳に障害を持った二八歳の長男を抱えている。長男の話になると、愛情たっぷりの言葉が次から次へと溢れだしてくる。二人ともどちらかといえばマジメで、遊びベタで、世渡りも上手な方ではないと思う。
はたからみれば、ただの「冴えないオヤジ野郎」の寄り集まりに過ぎないが、私はこの二人を心から敬愛しており、この三人で盛り上がれることがことのほか嬉しいのである。
ニーチャンは一曲選んだようだ。彼が何を唱うのか私は興味津々でいた。モニターに映し出されたタイトルを見て驚いてしまった。
「M」
作詞に奥居香織とあり、プリプリの曲だとはわかったが、ブログを始めたばかりの私はどうにもこうにも「アニマル女史」や「Mの日記」のブログイメージが思い浮かび、モコモコと竹の子のように「股間がパツーンッ」と、張ってくるのを押さえることが出来ないのであった。
彼がどうしてプリプリを唱うのか、ああ、実は彼は「カマ~ン」であったのかと思ったのは早合点で、マイクを口に、優しく、くわえそうに握ったのは、さつきちゃんだった。
「♪・・・いつも一緒にいたかった~ となりで笑ってたかった・・・♪」
さつきちゃんがマイクを優しく握っている。小指を立てるのではなくて、軽く浮かしている。艶のある唇が歌詞に合わせて開いたり閉じたり、パクパク動いている。曲は「M」である。「第三ボタンと第四ボタンの間」には刺激的な「パックリ開いた口」が見えている。
私の「モッコリ君」は今や「マイク君」になりたい、と切望していた。
さつきちゃんの声は適度にひかえめな感じで、私は好感を持った。こういう夜の社交場には、たま~に「私、歌手になりたいんです」というような娘がいる。そういう娘は、本気で唄ってしまう。仕事中を利用してカラオケを数多く唄うことによって、唄を練習しているのである。そこそこ上手くなるのは当然だと思うし、それで本当に歌手になれるならそれに越したことはない。
しかし、そういう娘に限って「ああ、歌手になるのは無理なんじゃないの」と私には思えてしまう唄い方をする。だいたいが「お水特有」の変なクセがついてしまっているのである。音程はとれている。声量もまあまあ、ある。が、一様に鼻にかかったような妙な声を出す。声を腹からではなく、喉から「誰かになったつもり」のように出すので、身体のどこかを無理に絞ったような声になる。
「♪・・・あなたを忘れる勇気だけ 欲しいよ・・・♪」
客である私は、その娘の「生の声」を聞きたいのである。唄が上手いとか、へたくそとかは二の次でいい。私はその娘の、その娘だけが持っているニュアンスが含まれていない唄を聞かされるのは退屈極まりないのである。
そういう意味で、さつきちゃんの唄はヨカッタ。「お水特有」の変なクセがなく、さつきちゃんの「生の」息遣いが唄に反映されていた。
自分の娘と同世代のさつきちゃんが唄う姿を、工具屋さんと師匠がどういう気持で聞いていたのか、その歳になるまで私にはわからないだろうが、ニコニコと見守るようにさつきちゃんとモニターを交互に眺める二人は微笑ましかった。
「♪・・・季節はまた変わるのに 心だけ立ち止まったまま・・・♪」
その場にいる皆がカウンターの一番奥のモニター方向に身体を向けているなかで、私が振り返ってニーチャンの様子を探るのは不自然極まりなかったが、私はどうしてもその欲求を抑えることができず、不意にニーチャンを見た。
すると、ニーチャンはやはりというべきか、カウンターに頬杖をついて、さつきちゃんの「第三ボタンと第四ボタンの間」に目をやっていた。私の視線に気付いた瞬間、慌ててグラスに手を伸ばした。その時のニーチャンの顔が忘れられない。目が「トロ~リ」として完全に「魅惑の世界」へ行ってしまっているようだった。
「♪・・・あなたの声 聞きたくて 消せないアドレスのMの・・・♪」
私は久しぶりにに反省をした。私も人のことを言えず、あれと全く同じ顔をしてしまっていたのではないだろうか、と。男はどこまでアホなのだろう、あの魅惑の「第三ボタンと第四ボタンの間」に全くもって振り回され続けられているのである。
私は、はたと、まだ自分が何もアプローチしていないことに気付いた。まず、私の「生」をさつきちゃんの前で少しでもアピールしなければと思ったのである。今、私はさつきちゃんにとっての「M」を演じるべきなのである。私の声をさつきちゃんは聞きたがっていると解釈すべきなのだ。
さつきちゃんの唄が終わった。工具屋さんと師匠の拍手がさつきちゃんの「照れ」に花をそえた。リクエストしたニーチャンの拍手が霞んでしまっていた。
まず、師匠に歌を選ぶように勧めたが「いや、まだいい。お前が先に唄えよぅ」と一応、了解を取ったような格好になり、私はRCサクセションの「スローバラード」を入力してくれるように頼んだのだった。
工具屋さんと師匠のてまえ、イケテるロケンロールを唄う訳にもいかない。二人にも聴きやすい(歌詞がわかる)スローナンバーで、なおかつ、さつきちゃんの興味をグッと引きつけなくてはならない。
私がさつきちゃんに曲本の中の一曲を示すと、彼女は私にだけ聞こえるように顔を近づけてきて、小さな声で、一言「シブイ!」と言った。RCサクセションの「スローバラード」を知っていたのである。私は心のなかで、まずは小さなガッツポーズをした。
さつきちゃんは、手で包むようにリモコンを持ち、素早く転送してくれた。その指先を見ながら、私の「モッコリ君」はまたもや「リモコン君」になりたいと切望していた。
カラオケは私も久しぶりなので「気負い過ぎないように」と適度に緊張していた。
さあ、心の準備をせねばと、カウンターに置かれたマイクに、私がさりげなく手を伸ばした瞬間、そのマイクを奪うように掴んだのは工具屋さんだった。
「あっ、ごめんね。また俺だ」
満面の笑みでそういう工具屋さんには「悪気」は全くない。この人はこういう人なのである。工具屋さんは、週に一日は私の仕事場へ顔を出す。注文するものがなくても「近くに来たから」といって、お茶を飲んでいく。私の仕事が溜まっているのを見て「あぁ、いいよいいよ、そのまま仕事続けて・・・」といいながら、私のまわりをブラブラしているのである。
私は仕事に集中できない。また何か話したいことがあるのだろうと、私は仕事の手を休め、お茶を出す。工具屋さんの話はとどまることをことを知らない。たいてい、私は聞き役を務める。
「こないださぁ、ブックオフ寄ったらあったんだよ、[戦う翼]のDVD。びっくりしちゃってさぁ、それも一五〇〇円でさぁ、買っちゃったよもぅ・・・(満面の笑み)」と始まり、まず映画のストーリーを話し、私も大好きである主演のスティーブ・マックイーンの魅力について他の主演作品も交えて語り、親父さんのガンの経過、自分のギックリ腰の近況を延々と喋っていく。酒も煙草もやらない工具屋さんはそうやって喋ることでストレスを散らしているのだと思う。
こんな個人でやっている私の仕事場へ寄るだけで、気が少しでも楽になれるのならと、私は相手をする。師匠ともそうだが、いわゆる下ネタは一切ない。根がマジメなのだ。
個人でやっているから、ロスした時間分の仕事は夜に引きのばせるが、例えば納期が詰まっていたり、どうにも忙しい時などは、私はハッキリ言うことにしている。そういう時は「わかった。じゃ、また来るね」といって工具屋さんは「さらり」と去って行く。
今、お喋りがカラオケに変わっただけで、そういう人なのである。時に、迷惑だと感じることもあるが、どこからくるのかあの「満面の笑み」を見せられると許せてしまうのである。私がこの歳までに出会った人のなかで、この「満面の笑み」を越える人はいない。
「あれっ、シッブイなぁ~。矢吹健じゃんかよぅ~・・・」
そう声をあげたのは師匠である。矢吹健・・・私には見たことも聞いたこともない名前なのであった。
さつきちゃんが私に言ってくれた「シブイ!」と、師匠が工具屋さんに言った「シッブイ」のニュアンスはとても似ている気がした。いや、全く同じかも知れなかったが、私はそれを一緒にされたくなかった。
「うしろ姿」というタイトルがモニターに映っている。「知らない」という私に師匠が教えてくれる。
「この曲、流行ったんだよなぁ~、確かレコード大賞、獲ったんじゃなかったっけなぁ~。あれっ、新人賞だっけぇ~?ほらっ、詞が山口洋子だろ、銀座のママ。もぅ~この曲唄ったら、皆、イチコロよ」
「イチコロ」・・・なにが「イチコロ」なのかイマイチわかりにくかったが、師匠の話からすると昭和四〇年代の前半、彗星の如く現われ、賞を総なめにして一世を風靡したらしい。
今、私は歌詞を思い出せないのでここに書くことはできないが、なるほど甘くて、少し危険なムードを感じさせる男と女の歌であったりするのである。
工具屋さんの唄は声がノッてきて、ググッ、と「ムード」を漂わせ始めている。
これは多分に年齢的なことがあるのだと思うが、一〇代でロックミュージックの洗礼を受けた私は、若い頃、こういった日本の歌謡曲を「ヘドが出る程」軽蔑していた。「カッコイイ」男になりたいと思っていた少年にとって歌謡曲は「とてもカッコワルイ」世界に映っていたのである。
それがこの歳(四一歳)になって聞いてみると、それがそんなに「カッコワルイ」ものでもないと思えてきた自分が不思議である。子供騙しの歌謡曲とは異なり、こういう「ムード歌謡」には、はっきりと「大人の男と女」の危うい姿が描かれていて、シャレっ気も感じる。妙に感心してしまう私なのである。中年になり「桃春」を迎えている私には「リアルな世界」を感じ、着々と「アホなスケベオヤジ」への階段を昇っている実感があるのである。
が、そうは言っても自分が唄うには、まだ抵抗がある。もう少し他の「ムード歌謡」も聴いてみたいと思っている。今、いずれ私もこういう曲を唄うことになるだろうとの変な確信がある。
「そのイチモツ」を軸にして、身体を左右にユラユラ揺らしながらムードたっぷりに唄っていた工具屋さんの「うしろ姿」が終わった。
さあ、今度こそ私の番である。工具屋さんからマイクを受け取り、私は構えたのである。
「OK ようこそ サンキュウべイベ~ よしっ!じゃあこの曲をさつきちゃんに捧げるぜ、べイベ~!・・・」
酔っぱらって調子に乗ってくると、私はイントロが流れる間に、大抵このくらいの「語り」を入れるのだが、メンバーがメンバーなのでロケンロール調よりもムード調の方が良いと思い、それはヤメにした。
本当に久しぶりなので、一声を出すまでは不安だったが、上手く唄うことよりも「生の私」をさつきちゃんに晒すことが目的なのだと自分に言い聞かせると、緊張がほぐれた。
「♪き~の~うは 車の~なかで 寝た~ あの娘と 手をつないで~・・・♪」
自然に、さらりと唄い始めることができた。最初、頭のなかに忌野清志郎の声があったが物真似になってはイケナイ。私はオーティス・レディングが唄うときのハートを思い浮かべ「私のソウル魂」がさつきちゃんに向かって届く様子をイメージしながら唄った。
「♪・・・悪い~ 予感の~ かけらも(ジャン)ないさ~(ガッ、ガッ、ガッ、ガッ、ガッ、ガ)・・・♪」
さつきちゃんからの強い視線を感じていたが、それを意識してしまうと恥ずかしさが唄に出てしまう気がして、とにかくハートだけを込めて唄った。
「♪・・・ぼくら 夢を~ みたのさ とっても よく似た夢を~・・・♪」
「おっ、イイ声してるよな~」「やっぱバンドやってただけのことはあるわなぁ~」「お前、声がデッケエなぁ~」「もうちょっと離れて唄ってくんない~」「マイク、いらねえじゃねえかよぅ~」などと、私が唄っている最中に師匠と工具屋さんはチャチャを入れる。
「・・・シブイ!ですねン」
唄い終わるとさつきちゃんはそう褒めてくれた(のだと思う)のだが、マイクを離した途端に私はなんだか急に恥ずかしさが込み上げてきてしまった。「愛の告白」をした後の気分に似ていた。
「桃春さんって・・・実はシャイなんですねン」
アァ~ン、そんな風に言われるともっと恥ずかしくなってしまう私なのだった。私は喉がからからに乾き、残りの焼酎を一気に呑みほした。グラスを差し出すと、さつきちゃんは手早く焼酎を注ぎ足してくれた。それを私の手元にゆっくり置く。顔を上げると、さつきちゃんは私の顔をうっとりするような視線で見つめている。
私のハートが伝わったのだろう。グッ、とさつきちゃんの心を捕らえたのだ。私は心のなかで「大きなガッツポーズ」を決めた。もう照れている場合ではない。一度掴んだ手を離してはイケナイ。私もさつきちゃんを見つめ返した。「下心まるだしの眼」ではなく、あくまで「クール」にだ。
もはや「二人だけの世界」だった。そんなタイトルのムード歌謡があったら、今すぐにでも唄い出したかった。もうこの際、師匠も工具屋さんもニーチャンも関係なかった。「見つめ合う二人」「萌える二人」「確かめ合う二人」・・・。
「今夜は店が終わるまでさつきちゃんに付き合うよ。送っていくよ、いいだろう。夜道は危ない・・・いやいや、そんなんじゃない、ホテルなんかにはまだ誘わないよ。ただ、送ってあげたいんだ。なぁ、いいだろ?」
私は「クール」な視線で彼女にそう伝えた。さつきちゃんの手は、グラスを掴んだまま私の目の前にある。その手に手を重ねようとして、彼女はふと笑みを浮かべた。ああ、またもや伝わったのだ。私の念力パワーは本物だ。「ありがとう。じゃあ、そのお言葉に甘えようかしら」・・・彼女の眼がそう言っているようにしか思えなかった。
悩ましい彼女の瞳が私の口元を見ているのがわかる。キスしたいのだろう。彼女の柔らかそうな唇が濡れているように思えた。カウンターに身を乗り出さんばかりに近づいてくる。でも、今はマズイぜ、さつきちゃん。私の「鼻」を見て、ズンズン持ち上がった私の「イチモツ」を想像しているのかもしれない。おそらく彼女はすでに感じてしまって「アソコ」を濡らしていることだろう。あぁ、私も罪な男である。
・・・が、それはもちろんただの「思い込み」でしかなかった。
「・・・桃春さんのそのお髭」
「えっ?」
「そのお髭・・・やっぱりキヨシローの?」
私は唇のすぐ下の所だけに、髭を生やしているのである。
さつきちゃんはさらに私に顔を近づけると言った。
「それって、やっぱりお髭ですよねン・・・私、眼が悪いから、はじめ大きなホクロかと思っちゃいましたン」
ただの私の「思い込み」だったことに気付いた時「二人だけの世界」はあっけなく終わってしまったのだった。途端に師匠や工具屋さんやニーチャンの姿が視界に入り、ザワザワと現実の音に包まれてしまった。師匠がニヤニヤ笑っている。私は動揺を隠そうと、必死に平静を装わなければならなかった。
「うん、そう・・・でね、ここの髭は名前があるんだけど、知ってる?」
さつきちゃんは、首を傾げて「イヤ~ン、ワカンナ~イ」と実は人の話しを全く聞いてないブリッ娘のようにではなく、「えっ、名前なんてあったんですか!それは全く知らなかったですン」と驚いた様子で首を横に振った。
「二人の世界」は終わってしまっていたが、その反応からして、まだまだ望みはあると私は思ったのである。さつきちゃんは少なからず、私に興味を持っていると感じた。さつきちゃんのリアクションは「ウソっぽくなくて」そこが、やっぱりカワユかった。焦ることはない。少しずつ、少しずつお互いを知っていけばいい。
「ソウル髭っていうんだよ。もともとは黒人のミュージシャン達、例えばレイ・チャールズなんかが生やしていたんだ・・・」
「あっ、その人知ってる。昔、テレビのコマーシャル出てたでしょう?ピアノ弾いて、サングラスかけてて、確か目が見えないんですよね?」
そう、その人!・・・イイ感じの会話になってきた。私のフィールドにさつきちゃんが足を踏み込んで来ている。
「じゃあ、キヨシローはそれをパクッタってことなの?」
「パクッタっていう言い方は良くないなあ・・・継承しているんだよ、魂をさ」
工具屋さんは、また曲本と「にらめっこ」をしている。師匠はこの会話には入れないでいる。ニーチャンはと・・・横目でチラリと覗くと、案の定「ふてくされて」いた。オープンだが、ツーショットなのだった。私は「クール」を心がけて話しを続けた。決して、浮き足立ってはイケナイ。
「偉大なブラックミュージックのルーツを忘れないように、っていう感じかな・・・それで俺もすごく好きなの、そういう感覚。偉大な先人達に敬意を払うっていう感覚がさ。もう二〇年位剃ったことがないよ。まめにハサミで短めに切ってるからそんなには伸ばさないけどさ」
「その分、こっちに欲しいよなぁ(笑)」
ここぞとばかりに師匠がツッコミを入れ、オデコを指で示す。受けたので「OK」だった。「愛する師匠」を邪険にしてはならない。師匠は師匠で頭のてっぺん辺りまで髪の毛がない。これについては遺伝的な影響が大きいと思うが、私らの仕事の環境もあると思う。帽子、または手ぬぐいを頭に巻き、熱に晒される環境である。汗で蒸れ、長い髪は邪魔なので、私は坊主頭にしているのである。・・・余談だが、私は最近和田アキ子が宣伝に加わっている「リ―ブ・ニジュウイチ」が気になっているところなのである。
「だからさ、ファッションみたいに見た目がカッコイイって訳じゃなくて・・・お守りみたいなものかな」
「お守り?・・・あぁ、ん~、なんかイイかも。・・・桃春さんって、やっぱりなんか、シブイ!」
カワユイさつきちゃんと、こうやって会話が成り立っているだけで私は十分楽しい。もちろんさつきちゃんは、仕事として客に話しを合わせているだけかも知れないが、とても自然でイイ。少しずつ、少しずつ・・・だ。
「・・・でも、ちょっとエッチな感じ・・・する」
小声でそう恥ずかしそうに言うさつきちゃんに、私はまた感じてしまった。折れ曲がっていた私の「イチモツ」が、苦しそうにブリーフのなかでビンビンもがいている。
「穴があったら入りたい」・・・とはこういう時にこそ私は使いたい。さつきちゃんの耳元で、こっそりそう囁いてみたい。さつきちゃんは「イヤァネ~ン」などと言いながらも、私を遠ざけない。逃れようとするわけでもない。私はその腰をつかまえ、グッと引き寄せる。太腿を押さえ、私の「イチモツ」をお尻に擦り付ける。
さつきちゃんの身体から少しずつ力が抜けてくるのがわかる。もたれかけてくるその重みを私は感じている。むしろ彼女がお尻を突き出すようにしてフリフリながら、私のイチモツを割れ目で挟み込もうとしている。
私は彼女を背後から抱えるようにして、シャツの上から、パツン、と張ったオッパイを揉み揉みする。豊かな乳房なのに、きついシャツが自由を与えないでいる。「・・・オッパイに自由を」と彼女の耳に囁くと、笑いながら身をくねらす。その「恥じながらの笑いの声」にまた反応してしまう私のイチモツは、ブリーフの上端から今にも「こんばんは」と顔を出しそうな勢いである。
背後からではあるが、手を「あの第三ボタンと第四ボタンの間」に滑り込ませる。彼女のヘソの上の素肌の温度に触れる。あぁ、ついに彼女に触れた、という実感に私の欲望は広がる。指先が乳房を弄るが、指三本潜り込むのが精一杯である。
私は「第三ボタン」に指をかける。隆起して痛々しい程の乳首のように、ボタンがツン、と張っている。彼女のうなじに私の息がかかると、聞き取れない程の「恥ずかし気な」声を出す。嫌がらずに身をよじらせた時、第三ボタンがプチンッ、と外れた。
あぁ、こんなにも近くで触れあうことができるなんて。彼女の手が私のイチモツを探しあてる。私の指先は盲目のピアニストのように感触だけで彼女の胸のふくらみをたどっていく。
ギリギリの姿勢で、彼女の唇に私の唇が触れる。プックリした感触が唾液で濡れ始め、ピタリと密着させる。舌と舌を突き合わせ、互いの肉感をさぐり合う。オスとメスの生肉が重なり、音を立てながらさらに奥を通わせる。
シャツの上からブラのホックを外し、下着のなかにスルリと手を入れ、自由になったオッパイのお椀を下方から揉み上げる。少し強引に荒々しく揉み上げると、アッン、と喘ぐ彼女の唇が息を吸いたいと私の唇から逃れようとする。私の唇はそれを逃すまいと、また追いかけてその唇を塞ぐ。呼吸困難のように喘ぐ彼女に私は愛をこめて息を送る。
「パンッ!」
その音が何の音なのかわからなかったのである。
「パンッ!」
見ると、師匠が両手をかざして私を覗き込んでいる。
「おい!大丈夫かよぅ、目ん玉開いたまんま、アブネ~ぞぅ」
私はまたもや妄想ワールドに入ってしまっていたことに気付いたのである。
工具屋さんがまだ唄っていたのである。もう一〇曲近くは唄ったはずだ。石原裕次郎、中條きよし、クールファイブ・・・と「ムード歌謡」を思う存分に唄い続けているのである。酒ではなく、カラオケだけで十分酔っぱらっているように見えた。
「第三ボタンと第四ボタンの間」に気付いてからというもの、さつきちゃんのことばかりを考えていたが、私はふと思い出したのである。
今宵は、普段、酒を呑まない工具屋さんと師匠と、たまにはこういうスナックで盛り上がるのもイイ、と思ってやって来たのだった。工具屋さんはカラオケで気持良く酔っぱらっている。師匠もいつになくサワーなんかを呑んで、ほろ酔い、上機嫌である。
私の役割は二人の面倒を最後までみてあげることだった。
「師匠、さつきちゃんとデュエットなんてどうですか。ねぇ、さつきちゃん」
「いいですわよぅ、唄いましょうよン」
さつきちゃんが快くOKしてくれたことで、デレデレと照れながらも、師匠はさつきちゃんと「銀座の恋の物語♪」をデュエットした。あの「仕事の鬼」の師匠が本当に嬉しそうに、はにかみながら唄った。
私はこれでイイ、と思ったのである。願わくば、師匠が前回なし得なかったことが最後に実現されれば、師匠にとっての最高の夜になるだろう。すなわち別れ際、さつきちゃんをママのかわりに軽く抱きしめることができたなら・・・ということである。
「じゃあ、オレもデュエットしてくれるぅ」
工具屋さんはそういうところに抜け目がない。便乗してさつきちゃんと「居酒屋♪」を唄った。さつきちゃんは仕事柄、さすがにこういうデュエット曲の「ツボ」を押さえている。歌詞をほとんど憶えているので、モニターを見ずに、相手とムードのある会話をするように唄えるのである。その「親切な姿勢」に私はまたギュッ、とそそられるものがあったが、今宵はお世話になっている二人が喜べばそれでイイ、と一歩譲ることにしたのである。・・・例え妄想にしろ、私はあの「第三ボタンと第四ボタンの間」に手を滑り込ませ、オッパイを揉み揉みし、熱い口づけを交わしたのだ。それだけでイイ。
「あっ、もう終電の時間!」
自分が唄い終わった途端に、工具屋さんは時計を見て言った。
「タクシーで帰ればいいじゃんかよぅ」
師匠はまだ帰りたくなさそうだった。私も師匠と同じ気持ちだった。
「明日、オレ出勤って言っただろぅ。朝早いんだわぁ~」
「しょうがねぇなぁ~。じゃあ、シメにお前、唄えよ。若いんだからよぅ」
それは今宵、一歩譲った「私の態度」への、師匠からの感謝の気持のように受け取れた。師匠はそういう気遣いのある人である。四一歳の私に向かって「若いんだからよぅ」と言えるのは、こういう「ギンギンのオヤジ野郎」くらいなもんである。
「じゃあ、奥田民生を・・・」
そう言うと、さつきちゃんが「キャァーッ」と、嬉し恥ずかしそうに声を上げた。私は、さつきちゃんが会話のなかで「奥田民生が好きなんです」と言ったことを思い出したのである。「さすらい♪」を唄う、とさつきちゃんに告げると「ヤァン、大好きなんです、この歌」と本当に喜んだ。
「さすらおう この世界中を 転がり続けて唄うよ 旅路の歌を~♪」
デュエット曲ではないが、サビはさつきちゃんも一緒に唄った。私はほとんど絶叫に近い声で唄った。
「さすらいもしないで このまま 死なねぞぅ~! さすらおう~♪」
最後にニーチャンが不気味な笑みを浮かべていたが、楽しい夜だった。この時間から新たに客が来ることはないだろうし、彼はさつきちゃんを一人占めできるまで待っていたのだろう。が、そのことはどうでもよかった。これから何があるのか知らないが、全く興味がなかった。私らは御勘定を済ませ、外へ出た。
ささやかながら楽しめたことに、皆、浮かれていた。店の外のライトの方が店内より明るい。
私ら三人を見送る為、さつきちゃんも遅れて外に出て来た。実際に並んでみると、カウンターに座って見ていたさつきちゃんより、ひとまわり大きく感じた。身長一七八cmの私の目線と高さがそう変わらなかった。明るいライトの下で見るさつきちゃんもやっぱりカワユかった。私の頭のなかに、なぜかLLサイズの蜜柑が浮かんだ。
「ごちそうさまでした。また来るねぇ~」
そのタイミングを見計らっているのか、動けないでいる師匠を私は後ろから軽く押し出した。が、その時、すかさず手を差し出して、さつきちゃんの手を握りしめる男がいた。・・・工具屋さんである。師匠の心中は「やられた、ギャッフン!」だったと思う。
「いやぁ~、握手だよぅ、いいなぁ、若くて柔らかくて・・・」
工具屋さんはそれまで隠していた「スケベ心」が噴出したのか、ここぞとばかりに手の甲を撫でる。
「じゃあ、オレも握手・・・」
不測の事態で、便乗するような形になってしまった師匠も、さつきちゃんと握手をするにとどまってしまったのである。
師匠の「やるせなさ」が私に伝わったのかも知れないが、もちろんそれだけではない。私はさつきちゃんに歩み寄り、握手をしてから、おもむろに「ガシッ」と抱きしめた。彼女はあらかじめ予測していたのかも知れない。ごく自然に私に抱きしめられるままだった。優しかったのである。
「ま~た、やってるよぅ~(笑)」
師匠の笑い声が聞こえた。笑える分にはそんなに腹を立てたりはしないだろう。
あぁ、たまらん、この感じ。彼女の「ぬくもり」を私の身体が記憶した。私の「ぬくもり」が彼女に伝わっただろうと、身体を離した。笑いながらちょっぴり恥ずかしそうな彼女をもっともっと抱きしめていたかったが、今宵はこれでイイ。ここまでだ。
そうして、私ら三人は手を振って、さつきちゃんにバイバイをした。仕事とはいえ、オヤジ野郎三人をこんなに楽しませてくれたさつきちゃんに心から感謝した。
「来月もここにしようよ、ね」
「そりゃあ、決まりだよ、工具屋さんも隅に置けねえよなぁ~」
駅に向かって三人で歩いた。師匠の家は反対方向だが、自転車を押して付き合ってくれた。見上げると、夜空に月が出ていた。満ちるにはまだ遠い三日月。私はさつきちゃんの「ぬくもり」をその「月の形」に重ねた。
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