月曜の朝はつらい。また一週間が始まる憂鬱さに登校する足も重くなる。私はバスを降り、いつもの通学路を歩きながら、ケータイをいじりながら歩いている。道すがら同じ学校の生徒に会うが、やっぱりみんな憂鬱そうだ。ああ、また一週間が始まるのか。
学校まであと5分のところに大きな交差点がある。うちの高校は街中にあるせいか、けっこう車が多い。それに、学生ばかりではなく、サラリーマンやOLも朝はよく見かける。ケータイに夢中になっていたせいか、点滅信号に気がつかず、私は信号を一回待たなければならなくなった。
「もう、この信号長いのよね」
独り言を言うと、同じように信号に引っかかった高校生がいる。
「おっはよ! 詩織。朝からダルそうね」
同じクラスの由美だ。あいかわらずテンションが高いなあ。
「だって今日いきなり佐々木の授業だよ? もうサイアク」
私は数学が苦手だ。油ギッシュな中年オヤジも大嫌いだ。キモすぎる。同じ人類とは思えない。いや、同じ生物と思いたくない。
その両方が一時間目から私の身に降りかかってくるのだ。これがサイアクと言わずしてなんと言おうか。
「あはは、ま、今週がんばればヨシキに会えるんだから、がまん、がまん!」
「う~ん、そうだね。はあ……」
私はまたため息をつく。
そうなのだ。日曜日には三度目にしてやっとゲットした『REX』のライブにいけるのだ。ヨシキに会える!
そう考えてこの一週間乗り切ろうと私は決意した。長かった信号が変わる。
「ねえ、なに着ていく?」
私が由美に話を振った時、隣りのサラリーマンが突然奇妙な動きをし始める。
「けけっ! けけけけけけけけけけけけけけけけけ!」
くねくねと身体をくねらせながら横断歩道を1歩1歩ゆっくりと進んでいく。
「やだ、なにあれ! キモい!」
由美が私の腕に取りすがる。私も渡るのを忘れて見入ってしまった。私たちの隣りにはサラリーマンの黒い皮のカバンが投げ捨てられていた。
朝の学校はけだるさと活気の入り混じった一種独特の雰囲気がある。まぶしい。一言で言えばそんな感じだ。
一年二組の教室は一階にあるため、かったるい階段を上らなくてすむのがありがたい。私は由美とさっきの変な男のことを興奮して話しながら教室に入る。
「ストレスかなあ」
「現代病じゃない?」
「素だったりして」
「やだ~キモい!」
「詩織、由美、おはよ!」
早紀だ。陸上部の朝練があるために、毎朝六時には登校しているという信じられないヤツだ。「ねえねえ、さっき詩織とすんごいもの見ちゃったんだ」
さっそく由美が話し始める。早紀は運動部、しかもストイックな人たちが集まっていると評判の陸上部員だけあって話を聞くと顔をしかめて、あからさまに嫌悪感を示す。
「確かにキモいけど、もし病気だったらどうするの? 偏見はよくないよ」
さすが良識派。私は反省した。
「え~、でもあんなのありえないよ。ねえ、詩織?」
私に振られても……
「でも早紀の言う通り、病気だったら悪口言うのよくないと思うな」
由美は口をぶうっと尖らす。
「まあ、詩織と早紀がそう言うなら…… それよりさっきの話! なに着ていく?」
私たちはまたキャーキャー言いながら土曜日に買い物に行く計画を話し合った。
「つまり、この数式を代入すれば……」
眠い。最高に眠い。数学考え出したヤツ、マジで死んでほしい。私は佐々木の油ぎった顔をなるべく見ないようにノートを書く。来月には期末考査がある。バラ色の夏休みを送るためにも、補習だけは絶対に避けなければならない。もう中坊ではないのだから、最低限やるべきことはやっておかないと。
二つ隣りに座っている由美を見ると、完全にあっちの世界へと旅立っている。早紀は一番前の席で、真剣に話を聞いている。朝練やって、数学もまじめに受けて……アンタすごいよ。まじ尊敬する。私はあと十分の命だな。授業はまだ三十分以上ある。薄れゆく意識の中で、ノートの文字がミミズのようにのたくっていくのが見える。
「けけけっ! けけっ! けけけけけけけけけけけけけけけけけ!」
突然『あの笑い声』が聞こえて、私は完全に目が覚める。見ると佐々木が教卓の向こうでくねくねと身をよじらせている。
「佐々木先生、どうしたんですか!? 先生!」
一番前に座っている男子が席を立って、佐々木の両肩をつかんで揺さぶる。
「いやあ! やだっ! キモい!!」
教室の前の出口に近いところに座っていた女子が、他の先生を呼びに出て行く。教室内は騒然となる。
「けけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけ!」
佐々木は時には激しく時にはゆったりと身をよじらせ、黒板の前を左右に行ったり来たりしている。キモい…… 本当に気持ち悪くなってきて、私は吐き気を覚える。
「おえぇ!」
私の前に座っている女子、みどりが本当に吐き始める。教室内に独特のつ~んとした臭いがたちこめる。私は急いで窓を開ける。
「おえ~」
「うげえ~」
連鎖反応で次々と教室内のあちこちで吐く者が出始める。
「どうしたんですか! 佐々木先生!」
そんな惨状の中に、教頭がやってくる。
「佐々木先生、佐々木先生!」
教頭もさっきの男子と同じように佐々木の両肩を揺さぶるが、佐々木は笑い続けるだけで、まったく正常な反応を示さない。
「そこの君、手伝ってくれ!」
教頭は近くの男子に声をかけ、佐々木を教室から連れ出す。
「けけけっ! けけけけっ! けけけけけけけけケケケケケケケケケケケケ……」
佐々木の笑い声が廊下を遠ざかって行く。つ~んとした刺激臭と、佐々木の笑い声の余韻が私たちを縛り付け、教室内は静寂が支配していた。
私は家で今日の出来事を家族に話した。
「もう今日は朝からサイアクだったよ!」
私は夕食のトンカツをかじりながら、妹の咲花に不満をぶちまける。
「あはは! でもお姉ちゃん、それってある意味貴重な体験だったかも」
妹は小学生だけあって、生意気盛りだ。
「もう、人事だと思って! 咲花は!」
「でも、佐々木先生ってまだ独身でしょう? そんな病気にかかってしまってこれからたいへんねえ」
母は至極まっとうな意見を述べる。
結局あの後救急車がやって来て、佐々木は病院に搬送されたらしい。私にとっては佐々木がどうなろうと関係なかったが、数学の授業が進まなくなるのは迷惑だ。
二時間目からは普通に授業が行われたが、刺激臭の残る教室での授業はかなり辛かった。おかげで残りの授業で眠くなることはなかったが。
お昼はみんな外に出て行った。みどりだけは教室に残ってお弁当を食べていた。一番最初に吐いてしまったから、気を遣ったんだろう。かわいそうなみどり……かなり陰で言われてたな。男子の中には『みどり』をもじって『ゲロり』とか言ってたヤツもいたし。
「それよりお父さん、今度の土曜日由美と服を買いに行きたいの。お小遣いちょうだい?」
私はできる限りかわいらしくおねだりしてみる。
「あら、詩織。お小遣いの日まではまだあるわよ」
母が食器を洗いながら聞きとがめて注意する。ちっ、聞こえないように言ったつもりなのにバレてたか。
「だって『REX』のライブだよ? ヨシキに会えるんだよ? おしゃれしていかなきゃ!」
「ヨシキってボーカルの人?」
お笑いにしか興味のない咲花は、バンドのことはほとんど知らない。
「ヨシキはリードギター! 少しは勉強しなさいよ!」
「そんな勉強いりません。テスト近いんだから本来の勉強しなさい!」
くそっ、明日の朝またチャレンジしてみよう。
「お父さんお願いね」
私が父に囁くと父は微笑み、母に見えないように小さく親指を立てた。
私は部屋に戻りテストに備えて数学の勉強を始める。
『けけけけけけけけ……』
佐々木の奇怪な笑い声と動きが思い出され、やる気がすぐに失せてしまう。
「もう、あのクソ教師のおかげで数学がトラウマになりそうだよ!」
私はイライラしてヘッドフォンをつけ、『REX』の最新アルバムを大音量で聞きながらベットに横になる。
結局その日はそのまま寝てしまった。
『ケケッ! ケケケッ!』
家の外で警官が笑いながらくねくねと巡回していたのを、私は全く気付かなかった。
『けけけけっ!』
はっ! 今あの笑い声が聞こえた気がした。時計を見ると朝の六時半だ。気のせいよね……昨日あんなことがあったから、神経質になってるだけ。
「ふぁ~」
いつもより少し早いけどここでもう一度寝てしまうと遅刻するのは間違いないので、仕方なく起きることにする。
私は髪を整え、軽く化粧をして制服に着替える。早起きしたお陰で今日はゆっくり朝ご飯が食べられそうだ。それにしても静かだな。もうみんな起きてていい時間なんだけど。私はカバンを持って階下に降りる。
「お母さ~ん、おはよ……」
私はぎょっとする。母は台所にいてこっちを向いているが、壁で顔が半分隠れている。その半分の顔が『あの笑顔』を形作っている!
「けけっ! けけけけっ! けけけけけけけけけけけけけけけけ!」
母の両腕は互い違いに波のようにゆらゆらと上下し、身体をくねくねとくねらしながら台所から出て来る。
「お、お母さん! いやあぁ!」
私はリビングを横切って玄関に向かう。玄関口には父がスーツを着て立っていた。身体をくねらしながら。
「けけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけ!」
「お、お父さん!」
父は玄関をふさぐ形で身体をくねらせているので、外に逃げることができない。私はまたリビングに戻る。
「けけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけ」
リビングの向こうにあるキッチンでは、あいかわらず母が笑って身体をくねらせている。
「お母さん……」
涙があふれてくる。私はそのまま二階に駆け上がり、咲花の部屋へ向かう。
「咲花、咲花!」
私は乱暴に部屋のドアを叩く。しかし、何も反応はない。私は思いきってドアを開ける。
「けけけっ! けけっ! けけけけっ!」
妹はパジャマのまま床に仰向けになり、身体をくねらせていた。
「いやあぁぁぁぁあああ!」
私は再び階下へ駆け下りる。くねくねと笑う母を横目に、玄関の父の前に来る。
「けけけけけけけけけけけけけけけ!」
父は玄関のドアの前でくねくねと身体を揺らしている。私は思いきって父を横に押しのける。
「どいて!」
父は壁に激しくぶつかり、床に倒れる。
「けけっ! けけけけけけっ!」
父は起き上がるでもなく、咲花のように寝そべったまま身体をくねくねとくねらせている。私は急いで靴を履き、外へ飛び出した。
「何なの? いったい何なの?」
私は頭が混乱していた。外に出ると、隣家のおばさんが緑色のエプロンをつけたまま垣根ごしにゆらゆら揺れているのが見える。
「けけけけけけけけけけけけけっ!」
「もう、やだっ!」
私は自転車に飛び乗って走り出す。家は東京郊外の高台にある。遠くに新宿の副都心が見え、晴れている時には霞んで富士山が見える。いつもなら通学途中の小学生やサラリーマンが行き交う道路に今日は人気がない。眼下に見える町並みも、今日はどこかおかしい。車が走っていない。
「いったい何があったの? みんなで私をバカにしてるの?」
坂道を自転車で駆け下りる。途中で何人もの人たちがくねくねと笑いながら揺れているのを見る。ウィルス? 細菌兵器? 宇宙人の侵略? 何でみんなおかしくなってしまったの? 何で私は大丈夫なの?
坂道を下っていくと商店街に出る。よく母や妹と買い物に行くスーパーの前を通り過ぎる。
「けけけけけけけけけけけけけけけっ!」
「けけけっ! けけけけけっ!」
スーパーの前のバス停でも学生や老人がくねくねと笑いながら左右に揺れている。正気なのは私一人の気がしてきて、涙がどんどん溢れてくる。
「おらぁああああああ!」
すると、突然目の前に組み合う二人の男たちが現れる。
「バカにしてんじゃねぇぞ!」
中年くらいの男の人がおじいさんを殴っている。おじいさんは鼻血を出しながら笑っている。
「けけぐえっ! けけ…… けけけけげっ! がふ! けけけ……」
おじいさんはどんなに殴られても笑顔を崩すことはない。
「おらおらおらおらあ!!」
中年男性は容赦なくおじいさんを殴り続ける。それでも一向におじいさんは笑うのを止めない。中年男性の暴力はとどまることを知らない。普通は死んでもおかしくないくらい殴っている。そして強烈な蹴りが腹に入り、おじいさんは倒れてしまう。
「けげげ…… けけけっ! ぐえっげけけ……」
中年男性は倒れたおじいさんの顔や腹など、めちゃくちゃに蹴り始める。
「くそっ! このっ! 死ね! 死ねっ! このやろう!」
おじいさんの顔はもう原型をとどめていない。鼻からは止めどなく鼻血が流れ、口には歯は一本も残っていないようだ。それでもおじいさんは笑うのを止めない。
「ひぇひぇひぇひぇ…… ぐえっ…… ひぇひぇひぇ……」
歯のない口から空気が漏れるような笑い声が続く。
おじいさんは血まみれになりながらもくねくねと仰向けのまま身体をくねらせ、動きを止める様子はない。
「くそ~、こうなったら……」
中年男性は横に置いてあったコンクリートブロックを両手で取り上げる。そして、重そうに両手で頭上へ持ち上げ、おじいさんの頭へ向けて狙いを定める。
「きゃあああああ!」
私は思わず叫び声を上げてしまう。
「おい、何見てんだよ! あっち行け!」
中年男性は返り血を浴び、鬼の形相で私に怒鳴る。
「す、すみません!」
私は急いでその場を離れる。ペダルをこぐ私の後ろで、重い物が地面に落ちる音がした。
「狂ってる…… みんな狂っちゃった」
私は汗にまみれながら自転車をこぐ。とりあえず学校へ行こう。だれかまだ正気な人がいるかも知れない。友達だったらいっしょに助け合えるかも知れないし。そう希望を持ち、私は懸命にペダルをこぐ。
三十分ほど自転車でとばすと、昨日あのサラリーマンを見た交差点へたどり着く。先ほど暴れていた中年男性以降、まともな人は見かけていない。みんな身体をくねらせ、笑う人ばかりだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
交差点へたどり着くと、見慣れた後ろ姿を見つける。
由美だ!
「由美!」
制服姿の由美は交差点の手前で信号を待っている。くねくねとは動いて…… いない!
「由美!」
私は再度呼びかけ、由美の隣りで自転車を止める。
「由美、大丈夫? みんなおかしく……」
由美はくねくねとは動いていなかったが、顔は『あの笑顔』だった。
半月型の目。昔お正月に遊んだ『ふくわらい』の『おかめ』の笑っている目。半月型の口。両端をつり上げ、微妙に開き、笑顔なのに禍々しささえ感じられる。
由美がカバンを地面に落とす。
「けけけっ! けけけけけけけっ!」
由美が両手を高々と上げ、左右にゆらゆらと揺らす。両膝は極端な内股となり、つま先もくっつくほど内向きだ。その状態のまま、ゆっくりと、笑いながら由美は横断歩道を渡って行く。どんなにゆっくり渡っていても車が通ることはないので、事故に遭う心配はない。
「由美…… アンタまで……」
私はまた目の奥が熱くなる。とにかく、学校へ行こう。私はまたペダルに力を込めて自転車をこぎ出す。横断歩道の真ん中あたりでくねくねと身体をくねらせ、笑っている由美の横を通り過ぎる。
「けけけけっ!けけけけけケケケケケケケケ……」
由美の笑い声が遠ざかる。私は後ろは振り向かなかった。
ものの数分で学校へ着いた。校門の中へ突っ走り、自転車置き場へ自転車を止める。校内にはあまり人気がない。
「ケケケケケケケケケケケケケケケケッ……」
あの笑い声がしたのでその方向を見ると、昨日佐々木を必死に止めていた教頭が、二階のベランダで左右にくねくねと揺れている。こちらを向いた顔は、由美と同じあの笑顔だ。
「だれか…… だれかいないの!?」
私は大声で叫ぶ。しかし、だれも応えてくれる人はなく、私の声だけが朝の校舎に響いている。私は走って昇降口へ行ってみる。しかし、だれもいない。がっかりしてふと校庭を見ると、だれか走っているのが見える ……早紀だ!
「早紀ぃ!」
私は両手を口にあて、あらん限りの声で叫ぶ。目にはまた涙がにじみ始める。正気な人がいた! しかも頼りになる早紀だ! 私は今日初めて安心することができた気がする。
「はっはっはっ…… おはよ!」
早紀はいつもの朝練という感じで、ランニングシャツに短パンという姿だ。
「早紀…… あなたは大丈夫なの?」
「うん。何だかみんなおかしくなっちゃって……学校へ来てもだれもいないし。職員室へ行ってみたけど先生たちもみんな笑ってばっかりだし、話も通じないし……それで走ってた」
「何でそれで走ることになるのよぅ」
私は早紀らしいなと思う。でもなぜか涙がこぼれる。正気な人と話せてとてもうれしかった。
「どうしてこんなことになっちゃったのかな?」
私は制服に着替えてきた早紀と自転車置き場へ向かって歩いている。
「わかんないよ、そんなの。パパとママも朝起きたらおかしくなってた」
早紀は淡々と言う。悲しくないのかな?
「うちもそうだった。妹までおかしくなってたよ」
そう話す間も、そこいら中であの笑い声がする。
「ねえ、警察か病院に行ってみない? 何かわかるかも」
早紀のその提案に私は即座に賛成する。
「うん、そうだね、それがいいよ!」
警察署までは歩いて二十分くらい。自転車だと五・六分かな。病院は歩いて十五分くらいだけど、高台にあるから坂道を登らなくちゃならない。朝ご飯を食べていない私にはちょっときつい。
「どっちでもいいけど、とりあえずコンビニ寄らない? 私お腹空いちゃった」
早紀に会えた安堵感からか、私は先ほどから空腹を我慢できなくなりつつある。
「いいよ」
早紀と私は学校の目の前にあるコンビニに入る。
「けけけけけっ!けけっ!」
まるで「いらっしゃいませ」と言っているように、店員さんがカウンターの中でくねくねと身体を揺らしている。両手は母のように、左右互い違いに上下に揺れている。
「キモい……」
私が店員に見入っていると、早紀がおにぎりとお茶を持ってくる。
「あ、ありがと。やっぱりお金払わなくちゃいけないよね?」
私が残念そうに言うと、早紀はいたずらっぽく笑う。
「別にいいんじゃない? みんなけっこう勝手に持っていってるみたいだし」
見ると店内は少し荒らされている。飲み物や食べ物が床に散らばって、包装が開けられ、こぼれているスナック菓子もある。明らかにだれかがここで勝手に食べたようだ。
「そっか。そうだよね」
私は安心してお茶のペットボトルのふたを開ける。
「でもさぁ、荒らされてるってことは誰か正気な人がまだいるってことだよね?」
コンビニの駐車場でおにぎりを食べながら早紀に聞くと、早紀はスポーツドリンクを口から離す。
「あぁ~おいしい。のど渇いてたんだよね。そうだね、どこ行っちゃったんだろうね?」
「やっぱり警察か病院かなぁ?」
「そうかもね」
「ねぇ早紀、どっちに行けばいいかな?」
「う~ん、とりあえず警察じゃない?」
堂々と万引きをした手前行きづらいが、早紀がそう言うなら異論はない。
「よし、警察に行ってみようか。早紀、後ろに乗って!」
「あはは、詩織にニケツなんて無理じゃない? アタシがこぐよ」
確かに私じゃ力不足かも。
「けけけけけけけけけけけけけ……」
通る人はみんな笑顔で気味の悪い笑い声を上げ、身体をくねらせている。おじいさんを殴っていた男の人と早紀以外の正気な人は見かけていない。もし、日本中がこんな状態だったら、正気なのは私たちだけ? そうなったらこの国はどうなるの?
「ねぇねぇ早紀! テレビとかでこのニュースやってないかなぁ?」
「アタシ朝テレビも新聞も見てこなかったからわかんないけど、やってるかもね」
早紀は自転車をぐんぐんこいでいる。
「あ、ねぇ、あそこで見てみようよ!」
私はこの辺では一番大きい家電量販店を指差す。
「おっけー!」
早紀はペダルをこぐ足に力を込める。
『現在詳細は不明ですが、まだ正気を保たれている方は自衛隊の指示に従って避難してください』
私たちはお店のディスプレイにある大型液晶テレビでニュースを見ている。テレビでは臨時ニュースが流されている。よかった! まだ正気な人たちがたくさんいるみたいだ。しかも、自衛隊が避難させてくれるみたい。
「自衛隊ってどこにいるのかな?」
私が聞くと早紀はあごに手をあてる。早紀は難しい問題を考える時、よくこのポーズをする。
「もうちょっと見てれば教えてくれるかも」
「そうだね。もうちょっと詳しい情報も言ってくれるかもね」
店内には誰もいない。開店前だったので私たちは社員通用口から侵入したのだ。幸い電源は入っていたので、テレビを見ることができた。
『現在、ヨーロッパ各国、アメリカ、オーストラリアなど、先進国全ての国が同じ状態だということでけけっ!』
女性アナウンサーのまじめな顔がいきなり笑顔を形作る。
『けけけけけけけけけっ! けけけっ! けけけケケケケケケ……』
『ちっくしょ! こいつもだめだ! 連れ出せ!』
番組スタッフらしき男の人数名が画面に背中を向け、女性アナウンサーを画面の外へ連れ出す。
「早紀…… 私、怖い……」
私は早紀の手を握る。早紀もぎゅっと握り返してくれる。
「ワタシも…… 怖いよ」
しばらくだれも座っていないスタジオが映っていたが、今度はスーツ姿の男性が画面に現れる。
『失礼しました…… 正気な方は自衛隊の指示に従って避難してください。最寄の警察署に各方部より自衛隊が派遣されています。正気な方は最寄の警察署へ……』
「早紀!」
「うん!」
私たちは店を出て、警察署へと急いだ。
轟音がしたので空を見上げると、空をヘリコプターが飛んでいく。ということは正気な人が操縦しているんだ! ヘリコプターは警察署の方へ向かっている。機体には日の丸のマークがついている。きっと自衛隊のヘリだろう。
警察署に近づくと大勢の人のざわめきが聞こえる。『あの笑い声』じゃない! 何だか私は嬉しくなってくる。
警察署の前の駐車場にはかなりの人たちが集まっている。数百人はいるだろう。横にはネイビーカラーの幌つきトラックが二台ほど停められている。自衛隊のトラックだろう。
「いったい何があったんだよ!」
「侵略か!?」
「治療法は!?」
大勢の人が自衛隊員に詰め寄っている。私たちは自転車を警察署の前に停め、中に入って行く。
「おい、お前ら無事だったのか!?」
聞いたことのある声が聞こえそちらを向くと、同じクラスの和也が走り寄って来る。彼は昨日佐々木を止めようとしていた男子生徒だ。まじめでイケメンなのでけっこう気になっている。
「和也、あんたも大丈夫だったの?」
私が嬉しそうに聞くと、和也は表情を曇らせる。
「あぁ、何とかね。朝、目が覚めると親父もお袋も弟もみんなおかしくなってた。びっくりしているとテレビで警察署に行けって放送してて、ダッシュでここに来たんだ」
和也は一気にそう話すと、私の持っているコンビニの袋を見る。
「それ、飲み物か? 俺なんにも食わないで出てきたからのど渇いてんだ」
「コンビニから勝手に持って来ちゃった。私の飲みかけでよかったらいいよ」
「お前らけっこうやるな。サンキュー」
和也はそう言うと私のお茶をおいしそうにのどを鳴らして飲む。こんな時なのに私はキュンとしてしまう。間接キス…… きゃっ。
「きゃ~!」
群衆の前の方で叫び声が上がる。見ると警察署の前に並んでいる警官の三、四人がくねくねと動いている。
「けけけけけけっ!」
「けけけけっ! けけけっ!」
「うわぁ!」
群衆がその警官から離れるように逃げ出す。警察署前の駐車場は騒然となる。
「みなさん、落ち着いて! 落ち着いてください!」
自衛隊の人が拡声器で群衆に呼びかけるが、一度パニックを起こした群衆は止まることができない。
「おい、こっちに逃げよう!」
私たちも危険を感じて、和也に促されて警察署の敷地から外に出る。
「うおお! ちくしょぉ! 何だってんだよ!」
同じ列に並んでいた若い警官が拳銃を取り出す。
「きゃぁああ!」
それを見た群衆がまた逃げ出す。すでにかなりの数の人たちが警察署の敷地から外に逃げ出している。
「くっそぉ! 死ね!」
拳銃の乾いた音が辺りに響く。音がするたび、ゆらゆらと動いていた制服姿の警官たちが頭を打ち抜かれ、地面へ倒れるのが見える。
「きゃあ! ひどい!」
私は思わず目を覆いしゃがみ込む。かばうように早紀が私の両肩を抱いてくれる。
「詩織、大丈夫よ。こっちに来る様子はないみたい」
早紀の冷静な声を聞いて、私はやっとのことで呼吸が落ち着く。人が撃たれるところなんて、ドラマでしか見たことがないよう。
「えっ?」
「なんだ、あれっ!?」
早紀と和也の怯えたような声を聞いて、私は二人の視線を追う。
「ええっ~!」
信じられない! 今頭を撃ち抜かれたばかりの警官たちが、何事もなかったようにゆらゆらと揺れ動いている!
「い、いったいどういうこと? 拳銃の弾が当たらなかったの?」
私が聞くと、和也が震える声で答える。
「いや、確かに撃たれたよ…… 見てみ?」
そう言われ、おそるおそる揺れ動く警官たちをよく見ると、一人は頭から血がどくどくと流れ出ている。もう一人はもっとひどい。頭の三分の一くらいが吹き飛んで、何か白いもの、脳? が頭からプラプラ垂れ下がり、身体の動きに合わせてゆらゆら揺れ動いている。
「げっ! げぇぇ~!」
少し前にいる男の人があまりの光景に吐き出す。私はあまりの非現実的な光景に気持ち悪くなるどころか、放心してしまう。
「詩織、詩織!」
早紀に揺すぶられ、はっと我に返る。
「早紀…… なによあれ! なんで生きてるの?」
「そんなのワタシにもわからないわよ!」
「うげぇ~気持ちわりぃ……」
和也はさすが現代っ子だけあって吐くまでには至っていない。ゲームなどでああいうシーンは見慣れているのだろう。でも近くでなくてよかった。目の前で見せつけられたり、臭いとかがしたりしたら私も戻してしまったかもしれない。
「撃てぇ!」
自衛隊が機銃を撃ち始める。あのような状態になった警官、いや、人間はもはや助けるべき存在ではない。それはもう脅威でしかない。自衛隊数名による機銃掃射によって、警官たちは全身から血飛沫を上げながら後ろに吹っ飛ぶ。もう民間人はだれ一人として警察署の敷地内にはいない。私たちを含め、十人ちょっとが成り行きを見守って、警察署の前にいるだけだ。他の人たちは別の警察署に行くか、自分の家に帰ってしまったりしたのかな?
しばらくすると、機銃掃射の音が止む。撃たれた警官たちは四人だったが、みんな地面に倒れている。全身真っ赤に染まっている。あれだけの銃撃を受けたのだから当たり前だ。
「ねぇ、早紀、私夢見てるのかな? こんなことって信じられないんだけど……」
「ワタシだっておんなじよ。こんな映画みたいな光景……」
私と早紀が呆然としていると、和也が叫ぶ。
「おい、見ろ! まだ動いてるぞ!」
私は全身から血の気が引く音が聞こえた気がした。この場合『動いてる』のは自衛隊員ではなく、私たち民間人でもなく……
「きゃああああああ!」
「うわぁあああ~!」
周囲の人たちから叫び声が上がる。撃たれた四人の警官たちがゆらゆらと立ち上がり、笑顔で揺れ始めたのが見える。
「ぐえっ…… げげっ…… ごぼっ!」
もう原型をとどめていない顔から、なおも笑い声を出そうとする警官たち。
「うああ! バ、化け物だ! 撃て! 撃てぇ!」
乾いた連続音が続いて、また機銃掃射が始まる。警官たちはゆらゆらゆれながら、さらに銃弾を浴び続ける。しかし、今度は後ろに下がるだけで、倒れない。半分ちぎれかけた腕を揺らす者。肘から先がない腕を上げようとする者。頭が吹き飛んでいるのに立って歩く者。この世のものとは思えない光景が目の前に繰り広げられている。
「あ、あ…… 早紀…… 私……」
私は意識が遠くなるのを感じた。
身体が揺れている…… 身体中が痛い…… 一際大きな衝撃で身体が跳ね上がり、私は目が覚める。目の前には何人かの人たちが鉄製の硬い床に座っているのが見える。
「ここは…… どこ?」
「目が覚めた?」
早紀の声がして顔を上げると、心配そうに覗き込む早紀の顔と布でできたらしい天井が見える。
「早紀…… ここ…… どこ?」
また大きく揺れ、私は背中を打ってしまう。
「痛っ! 何、動いてるの?」
「自衛隊のトラックの中よ」
次第にはっきりしてきた意識で、幌つきのトラックの荷台に乗っていることがわかる。
「私…… 気を失って……」
そう言うと、早紀はやさしく微笑む。
「無理ないよ。あんなの見ちゃったら」
「あんなの?」
機銃を撃ちまくる自衛隊員。撃たれても撃たれても立ち上がる警官たち。逃げ惑う人々…… 夢じゃなかった……
「夢じゃ…… なかったのね……」
「残念ながらね」
早紀は私の横に膝を抱えて座っている。トラックが揺れるたびに背中が硬い床に当たって痛いので、私も早紀と同じように壁に背中をつけて座る。
「ねぇ早紀…… あの後どうなったの? 私たちどこに向かってるの?」
「あの後…… あの撃たれた警官たちは結局何度も立ち上がってたよ。そしたら…… 自衛隊の人たちの中にもああなっちゃう人が出始めて、また撃たれてた」
私は想像すると吐き気がした。
「そして、ワタシたち民間人の中にも笑い出す人が出始めて、自衛隊の人たちは撃つのをやめてまだ正気な人たちをトラックに誘導し始めたの」
「それで?」
「『あいつら』は別に襲ってくることもなかったから無事にトラックに乗れたよ」
「私を運んでくれたのは早紀?」
「ううん、和也だよ。」
そこで初めて私は気づいた。このトラックには和也が乗っていない。
「そういえば和也は? 別のトラックに乗ってるの?」
私が聞くと、早紀の表情が暗くなる。
「和也は…… 笑い出したのよ…… このトラックが出発してからすぐに……」
「そんな……」
知り合いがまた一人いなくなってしまった。私は目の奥が熱くなる。
「それで、この人たちと協力してトラックから降ろしたの」
「そうなんだ……」
見るとこのトラックには十人しか乗っていない。男の人が二人、中年のおばさんが二人、中学生くらいの男の子が一人、女の子が一人、小学生くらいの男の子が一人と三歳くらいの女の子が一人だ。三歳くらいの女の子は中学生くらいの男の子と手をつないで座っている。きっと兄妹なんだろう。みんな一様に疲れた表情で座っている。トラックの奥を見ると、制服を着た自衛隊員が二人座っている。
「それで…… 私たちはどこへ向かってるの?」
「基地だよ。自衛隊の」
「基地……」
私たちの住む街には自衛隊の基地なんてない。一番近い基地は福生だ。
「じゃあ、福生に向かってるの?」
「うん、自衛隊の人がそう言ってた。この地域の人たちは一時福生に避難させるんだって」
「でも、『あいつら』襲ってこないんでしょ? 食べ物はコンビニやスーパーにだってあるんだし、家にいた方がいいんじゃないの?」
私がそう言うと、早紀はふっと笑う。
「ばかね、みんなおかしくなり始めてるんだよ? 発電所だってガス会社の人だって……」
そうか! いずれ電気の供給は止まってしまう。いつまでも街で生活できるわけはないんだ。
「あの病気、治らないのかなぁ…… また元の通りに楽しく生活できないのかなぁ……」
私は涙があふれるのを感じる。
「わかんない…… でも、国が何とかしてくれると思う。頭のいい人で無事な人は絶対いるはずだもの」
「そうだね…… 基地に行けばきっとそういう人がいるよね……」
私も早紀もまだおかしくなっていない。きっとしばらく我慢すれば、また元の通りに生活できる。家族や友達もきっと元通りになる。そう信じることにした。
「けけけけけけけけっ!」
突然トラックの後ろの方に座っている若い男の人が笑い出す。
「ちょっとすいません」
奥に座っていた自衛隊員二人が、私たちの前を通り過ぎる。
「また一人だめになったか……」
自衛隊員はそうつぶやくと、くねくねと身体をくねらす青年をトラックから突き落とす。走行中のトラックから突き落とされた青年は地面に激突し、足や手を変な方向に曲げながら転がる。しばらく転がると明らかに折れているその手足で立ち上がり、ゆらゆら揺れ始める。その姿もだんだん遠く小さくなり、ついには見えなくなってしまった。 一人少なくなったトラックの荷台では、中学生くらいの女の子のすすり泣く声だけが聞こえる。
「くすん……くすん……」
和也もあんな風に突き落とされたのかなぁ。そして手とか足とか変な風に曲がったまま、くねくね動いているのかなぁ。私もおかしくなっちゃったらあんな風に『モノ』みたいに扱われて捨てられちゃうのかなぁ。
ぼうっとして考えていると、早紀が私の肩を抱いてくれる。
「詩織…… ワタシが笑い出したらそっとしておいてね。詩織を傷つけたりしないから」
早紀がやさしく微笑む。
「あたり前だよぅ。私のこともそっとしておいてね」
また涙が出る。今日は何度泣いただろう? しばらくすると、福生基地に着いた。
福生基地に来て一週間が経った。初めは千人近くいた人たちも今は百人以下に減少している。一日平均十人以上は笑い出しているだろうか? 笑い始めた人は撃たれることもなく、基地の外に出されるだけだ。私も早紀もまだ大丈夫だった。でもいつ笑いだすかわからない状況は恐怖とストレスを募らせ、みな憔悴しきっている。電力の供給は基地に来て三日目に止まった。幸い基地には自家発電機があったので、日に日に募る暑さにも快適に過ごせている。笑い始めるのは年齢・職業に関係なく突然やってくる。基地に残っている人たちの半分は民間人だ。
六月末のある日、大事な発表があるとかで、大会議室に集められた。
「発表って何だろうね?」
「さあ? 『希望を捨てずに笑顔で頑張りましょう』とか言われたりして」
早紀は辛辣な皮肉を言うとスポーツドリンクを一口飲む。また走っていたみたい。基地は広いし今は飛行機も滅多に来なくなったから走るのには最高の場所かも。『あの笑い声』さえ我慢できれば。外に出ると『あの笑い声』が空に響いている。東京だけでも一千万人以上の人たちが一斉に笑っているのだ。
私たちは会議室に入ると、かなりの人数がいるのに気づいた。基地内の全ての人が集まっているみたい。会議室の前面の壁がスクリーンになっている。何か観るのかな? 一人の自衛隊員が無精髭だらけの疲れた顔で会議室に入って来る。
「みなさんお集まりでしょうか? 今日はこの後、アメリカの科学者によるこの現象の研究発表があります。今後我々はどうすればよいか、解決策が見出だせるかも知れません」
アメリカの科学者? 私は早紀と顔を見合わせる。みんな元に戻せるのかな? 会議室にいる人たちもざわざわと話し始める。
「世界同時放映が始まるまで後三十分です。それまでこの国や世界の状況をご説明いたします」
この会議室はかなりの広さがあり、ゆうに三百人は座れる。集まった人々はそれぞれに座り、自衛隊員の説明を待っている。
「私は陸上自衛隊東部方面音楽隊所属の山下二等陸尉と申します。今朝防科省から東京全域の治安維持を任されたところです」
音楽隊?
「あの~音楽隊っておっしゃいましたが、どういうことですか?」
一番前に座っている若い男性が手を挙げて聞く。
「自分が官僚以外では最高位だからです」
「ええっ!」
会議室に驚愕が走る。音楽隊の人が治安維持の指揮を取らなきゃいけないほどに状況が悪化してるなんて……
「まずこの現象の呼び方がWHOより通達されました」
山下陸尉はホワイトボードに英語を書き始める。
「『Laugh People Syndrome』(笑う人々症候群)略して『LaPS』(ラプス)と呼びます」
『症候群』…… この現象は病気なの?
「現在この国のラプス率は八十八%です。」
八十八%! 十人に八~九人はラプスなの? みんなあまりの現実に信じられないという様子だ。
「早紀、つまりラプスじゃない人…… 私たちみたいに正気な人はこの国で何人くらいいるの?」
「単純計算で一千三百万人くらいだよ……」
い、一千三百万人! 東京都の人口と同じくらいの人しかいないの!?
「みなさんお静かに! アメリカを始めとした先進国では日本はまだよい方です。アメリカはラプス率九十二%、中国が九十五%、フランス九十一%…… ほとんどの先進国が九十%を超えています」
「えええっ!」
「いやぁ!」
泣き始める女性や拝み始めるお年寄りがいる。早紀の表情も固い。私も全身の力が抜けてくる。世界はこのまま終わってしまうの? 私の頭の中に『人類滅亡』という単語が浮かぶ。山下陸尉は話を続ける。
「しかし、皮肉なことに世界の死亡率、犯罪率も激減しました。また紛争や民族闘争も止みました」
みんな笑ってるんだもん当たり前だよ。死亡率だって…… あんなに撃たれても平気だったんだもん。ラプス率の上昇に反比例して死亡率が下がるのも当たり前だよね……
「発電所の復旧は絶望的です。とにかく人手が足りません。そして何よりも切迫した問題は水と食糧です。現状では輸入も生産もままならない状態ですので、保ってあと半年くらいだと思われます」
山下陸尉や周りの自衛隊員が沈痛な面持ちで俯く。会議室のそこここではまた叫び声やすすり泣く声が聞こえる。
「ねぇ早紀! なぜ!? なんで私たちは、ううん、人間はこんな目に遭わなくちゃいけないの? この世に神様はいないの!?」
早紀に言っても仕方のないことはわかってる。それでも口に出さずにはいられない衝動に駆られていた。早紀は悲しそうにため息をつく。
「ワタシにわかるわけないじゃない…… でも…… 人間に神様のバチが当たったとは言えないかも……」
「えっ? 早紀、それってどういうこと?」
早紀が何か言いかけると、山下陸尉の大きな声が会議室に響く。
「みなさん落ち着いて! 落ち着いてください! 間もなく放送が始まります。何らかの解決策が提示されるかも知れません。お静かにご覧ください」
私たちは話すのを止め、スクリーンに注目する。プロジェクターの電源が入り、節電のためにエアコンが止まる。自家発電機の燃料だっていつかは尽きてしまう。節約するのは当然だろう。
会議室のざわめきが落ち着いたころ、スクリーンの青い画面に国旗が映し出される。今現在放映可能なテレビ局は二局のみになっている。NHKと民放一局のみだ。画面が切り替わると見たことのない男性のアナウンサーが映る。
『日本国内のまだ笑っていないみなさん、こんにちは。これからアメリカからの緊急生中継を放送いたします』
喋り方がたどたどしく聞き取りづらい。きっとプロのアナウンサーがいなくなってしまったのだろう。会議室は水を打ったように静かだ。みんなこれから始まる放送に希望を託して、固唾を飲んで見守っているんだろう。男性アナウンサーの画面が少しちらついた画面に切り替わる。人工衛星も幾つか制御不能になってしまったから、うまく電波を伝えられないのだろう。画面には星条旗と国連旗が交差したマークのついた演台が映る。演台には白い無精髭の生えた、四十代くらいの白人が座っている。この人がアメリカの科学者?
『全世界の未ラプスのみなさんはじめまして。わたしはボストン工科大学教授のサミュエル・キスリングです。これから人類に訪れたこの未曾有の出来事についての研究結果と考察を、世界同時中継でお送りします』
キスリング教授はもちろん英語で話しているのだが、基地のスピーカーからは機械的な女性の声で日本語が流れて来る。いわゆる同時通訳の機能がこの会議室には設置されているのだろう。
「詩織、聞いた? 『未』ラプスって言ってたわよ。こういう時って普通『非』って言わない?」
早紀が囁いてくる。
「う~ん…… ごめん、わかんない。」
頭のいい早紀がそういうならそうだろうと思う。
「でもそれに何か意味あるの?」
早紀が何か言いかけた時またサミュエル教授が話し始め、私たちは画面に集中する。
『まずラプスについての生物学研究結果です。みなさんお気づきかと思いますが、彼らは不死身です。ラプス状態になると細胞がそれ自体独自の生命体となり、その人に死は訪れません。…… 人と呼べるのならばですが』
教授は皮肉に笑う。
『さらに、老化も起こりません。ただし成長もしません…… つまり不老不死ということです』
「ええっ!?」
会議室のあちこちから驚きの声が上がる。
『当大学の研究室でラプスを一体解剖しました。その検体は今だに生きています。内臓はなく、頭部を切り離した状態で、でもです』
私は想像して気持ち悪くなる。
『さらに生殖機能も機能しません。つまり子どもは生まれません』
会議室内の女性たちから一斉にため息が漏れる。
『肺呼吸も行わず、食料も必要としません。つまりどこでも生活できるということです。まさに完璧な生命体です』
この教授何だか嬉しそうに見えるのは気のせい?
『次にラプスの生態についてです。なぜラプス状態になるのかはわかりません。人種、地域、時間帯、年齢、性別関係なくラプスになります。いつ、どこで、だれがラプスになるかもわかりません。こうしている間にも、わたしもあなた方もラプスになるかも知れないのです』
「だから『非』じゃなくて『未』だったのね……」
早紀の表情が曇る。
『このまま人間のラプス化が進めば、人類は後一年ほどで新しいカテゴリーに入ります。つまり、地球人口は増減せず、食料危機も戦争も環境破壊も起こらず、動植物は本来の食物連鎖に戻り、どんな天変地異でも人類は生き残ります…… 笑顔を絶やさずに』
それっていわゆる人類滅亡!? いや、滅亡じゃないけど……
「新しいカテゴリー…… 喜怒哀楽のない人間なんて人間じゃない。人類じゃない…… 人間は『死』があるから『生』が輝く…… 怒りや悲しみがあって笑顔で幸せになれる…… こんなの…… 人類滅亡以外のなにものでもないわ!」
早紀は怒りと悲しみに震えている。私にも早紀の言いたいことはよくわかる。人を愛することも傷つけることもなくただ奇怪に笑い続ける最強で最終的な生物『ラプス』…… そんなの人間じゃない! そんなものにはなりたくない!
キスリング教授の衝撃的な放送から三か月経った。私はまだラプス化していない。早紀は一か月前にラプス化してしまった。朝、飛行場をランニングしている最中にラプス化して、今現在も笑いながらくねくねと飛行場を走っている。
ラプスは伝染病ではなく、襲われる心配もなかったので、自宅に帰る人が増えた。私も先週自衛隊の人の車に乗せてもらって自宅に着替えなどを取りに戻った。父は相変わらず玄関先で横になったままくねくねと笑っていた。母は家にいなかった。私が玄関のドアを開けっ放しで出て行ってしまったために、外へ出てしまったらしい。咲花は部屋にいた。やはり部屋で仰向けのままくねくねと笑っていた。もう見慣れてしまったため以前ほど怖くはなかったが、悲しかった。山下陸尉も昨日、とうとうラプス化してしまい、基地では指揮を取る人がいなくなってしまった。最も今の状況では指揮など取る必要はないんだけど。
あの放送の後緊急に、国連に設立された『ラプス対策委員会』からは、現在の各国や世界全体のラプス率が提示される。
日本のラプス率九十八%。地球上のラプス率九十七%。単純計算で六十二億人がラプス化してしまったことになる。まともな人間は約二億人弱…… 全世界でだ。
テレビ局は世界で一局のみになってしまった。もちろん番組など作れるわけもなく、ラプス化していない人々へ呼びかけをする程度の内容しか放送していない。
『神に祈りましょう。イエスの御子たる我々の罪を懺悔しましょう。心静かにその時を待ちましょう。そしてその時が来たら心を開いて受け入れましょう。人類に再び幸福が訪れんことを……』
今やテレビはどこかの国の神父らしき人のお祈りばかりだ。つまらなくなった私はお気に入りの場所へ向かう。
この福生基地の燃料庫の横に、楡の木が一本立っている。楡の木は九月の柔らかく、ほんの少し夏の匂いの残った日差しを受けて枝を広げている。私は最後の一個となってしまった乾電池をMDプレイヤーに入れ、今はもう新曲を聞くことのできなくなってしまった『REX』のアルバムを聞く。お気に入りの場所でお気に入りの音楽を聞く。これがほんとの幸せだよね。
♪いつか見た君の笑顔
忘れられなくて
涙を拭いて歩き出す
弱さに一つ気づくたび
僕は一つ強くなる
歩いて行こう どこまでも
いつかきっと辿り着く
幸せという名のゴールへ
for the Heaven
like a Load
その時は君の笑顔
ごほうびにもらえるかな♪
飛行場の反対側に、早紀が走っているのが見える。走っているのではなく、くねくね前に進んでいるだけなんだけど。でも早紀のプライドが許さないだろうから、私は早紀が走ってるって思うことにしている。永遠に走り続ける…… 早紀には合ってるかも知れないな。もう服はボロボロで、上半身はほとんど露出した状態だ。早紀が正気なら自分の姿を見てなんて言うかな?
「♪君の笑顔ごほうびにもらえるかな……」
何度も聞いて覚えてしまっているため、何気なく最後のフレーズが口をついて出てくる。この曲は珍しくヨシキがボーカルのワタルと絡んでハモる曲なので、私の一番のお気に入りだ。ふいにある諺が頭に浮かぶ。
『笑う門には福きたる』
小学校の時、国語の時間に習ったっけ。どんな意味だったかな? 笑うと幸せになれる、だったっけ? なんか違うな…… そうだ、『門』は『家』って意味だ。
『笑顔のあふれる家庭には幸せが訪れる』
私ははっとする。これは不幸なんかじゃない…… 『人類みな兄弟』『宇宙船地球号』…… 地球を一つの『家』って考えたら?
「笑顔のごほうび……」
私は独り言を言う。基地には今やだれもいなくなってしまったので、独り言の癖がついてしまった。
「笑顔のごほうびは?」
私は自然に笑みがこぼれる。
「戦争のない世界。憎しみも悲しみもない世界。苦しみも死さえもなく、笑顔にあふれた世界。つまり…… 福…… 笑う門には福きたる……」
そうか。人類は幸福になったんだ。笑うことによって。
「ふふふっ……」
私は何だか楽しくなってくる。
「ふふっ…… ふふふっ! けけけっ……」
楽しくて身体が自然に動き出す。脱力の気持ちよさ。
「けけけっ! けけけけっ! けけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけ……」
一年後、地球には完全なる平和が訪れた。
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