過ち

一二三

小説

4,370文字

主人公の生き方の過ちを日々の仕事、想い出によって気付いていくストーリー。 取り戻せないものに気付いても遅い。

私は薄情な人間だ。最近は物忘れも激しくて、愛しかった人の面影を忘れそうになる。「永遠に忘れない」私だって例に漏れずそんなことを思ったものだ。だが時が残酷なのか私が残酷なのか、その定説など本当は存在しないのか、私は長く続いた苦しさの記憶まで最近は殆ど思い出す事は無い。あの時は何かに付け思い出していた思い出がすっかり顔を出さない。無論記憶がないわけではない。それに伴った感情を忘れてしまったのだ。今はもうなんだか虚しい。自分が虚しくて堪らない。私の薄情さを責めてくれる人はいない。よく立ち直った、だとか気を遣って触れなかったりする。私は悲しむ振りをする。悲しみを乗り得た振りをする。それが暗黙の了解のような気がする。社会の秩序を壊してしまうような気がして言えないのだ。一生演じなければならない芝居を私はいくつもしている。本当の私は私の中にしか存在しない。私は存在しないに等しい。みんなどんな風にして生きているんだ。私には演じているようにしか見えない。だから尚更言えないのだ。

私は公務員だ。安全な道を歩いている。私が配属になった部署に新しい仕事が増えた。私はその担当になった。それは押し付けられたに等しい気もするが嫌な気はしない。そんなこと私にとってはどうでもいいのだ。

仕事内容は刑務所にいる人の間違った概念を正し、再犯の確率を下げるのが目的だという。カウンセリングのような事をしながら正しい考えへ導くのだそうだ。「正しい考え」私にはわからない。恐らく正しいであろう考えを説くしかない。私はなんの資格もないがこんな仕事もさせられる。人が足りないのだ。それほど力を入れてないらしい、私ひとりで全てやるのだという。協調性と使命感が薄い私には丁度よかった。

私は小さな刑務所に入った。小さいといっても百五十人は入る。今は収容所が足りず二百人は入っているという。

通された部屋はパイプ椅子が二つだけの殺風景な部屋だ。四畳ほどの狭いはずの部屋はその静けさのせいか広く感じた。私は該当者の到着を待っていた。連れて来られた人は手錠をしたまま椅子に座らされた。ひとりの刑務官が部屋の扉を閉めて扉の横に立ってこちらを監視している。

初めての該当者は二十代後半の男。罪は窃盗。

男は力なく腰掛けている。まるで使ってない操り人形だ。

「窃盗ね、何盗んだの?」

「‥‥金。‥‥金目のものならなんでも。」

「金に困ってた?」

「‥‥困ってた。」

「調書には君は働いていたと書いてある。普通の暮らしは出来たはずだ。特に借金をしていた訳でもないようだけど何のための金が必要だったの?」

「‥‥あの子達が僕の金を待っている。」

「あの子達って子供がいるの?」

「世界には飯を食えない子供がいる。なのにこの国では膨大な食料が廃棄されている。おかしいだろ?」

「つまり君はあしながおじさんになったてこと?」

「社会が矛盾していたから。」

「君の矛盾は人の金で救ったってところ。」

「僕の給料じゃとても足りない。あいつらはそんな端金なくったって生きていける。」

「そんなこと分からないだろう? 人の汗水垂らして働いた金だ。他人がそんな事思う資格は無い。」

「僕が狙ったのは働いてた会社の取引先の株主だ。その株主達は政治献金なんかしていたから僕が有意義に使ってやったまでだ。」

「たとえどんな金だろうと君にそれを使う権利はないだろう? それに救われる人だってそんな金じゃ嫌だろう。」

「でも現にたくさんの子供が飯にありつけた。どんな金だって変わらない。」

「君の出来る努力をしたらいいじゃないか?」

「そんな事高が知れてる。スラム街の子供が売るものを一つ二つ買ったところで何の意味も無い。そんな気休めじゃ僕は嫌なんだ。嫌なんだよ‥‥。」
その人は泣き出した。僕にはその人がどうして会った事も無い大勢の人々にこんなにも肩入れするのかわからなかった。

「でも、それでも人のものは取っちゃいけない。どんなものでも、その人がどんな人であっても。それが最低限のルールだ。君の出来る努力をしなさい。それが君という人間に与えられたものなんだ。」

私は彼を諭しながら悪い事をしている気分になった。私の中の私の口はへの字に曲がったまま動かなかった。彼の純粋さを私が押し殺した。社会で押し殺した。彼がもしまたここに戻らなかったら私は彼の中の彼を殺したことになる。彼はうまく生きられないばっかりに自分を失ってしまうのだ。私はうまく隠しながら生かしている。一体どっちが本当の意味で生きているのかその矛盾はもやもやと心にあらわれてずっと拭う事ができない。

それでも私は今日もここに来た。

2人目の該当者。小柄な中年の女。罪は薬物所持。

薄い顔は幸も薄そうだが化粧映えしそうだからきっとここに来る前はそこそこ綺麗だったのだろう。今では結わいた髪から少し前に落ちる毛が見窄らしく見せている。

「いつから使いはじめたの?」

「三年ほど前です。」

「どうして使ってしまったの?」

「友達が私の育児ノイローゼを見かねて自分も使っているから試してみないかって誘ってきた。その時は不安だったけど、彼女は大丈夫だからって、こんな私を見ていられないからって勧めてくれた。半分押し切られる形で私はそのクスリを貰った。」

「で、使ったの?」

「はい。使ったら本当に楽になった。なんでもできた。でもそのうちそれがないと何も出来なくなった。やめたくてもやめられなかった。何度もやめようとした。その度裏切っていろんな人が私から去って行った。何も無くなってもやめられない自分が憎くなった。それで死のうとしたら見つけられてここにいる。狡さは許されなかった。」

「そうだ、生きなきゃいけない。」

「どうして?」

「また戻れるさ。希望はある。君次第なんだ。」

「どの面下げて戻れるって言うの? ‥‥私、もうひとりでいいのに。もう嫌なのに‥‥。」

「自分を殺すのも罪だよ。君は誰かの子供で、君は誰かの母親だ。その責任を重く受け止めなさい。」

彼女は真面目過ぎた。その真面目さを発揮する方向を間違えた。勿体無い生き方をした。彼女の苦しみはきっと誰にもわかってもらえないだろう。私が口にしたことに保証はない。無責任な私は心にも無い言葉を吐く度に心臓がチクチクと針で刺されるような感覚を覚えた。本当は残酷な事を強いているのではないかと恐ろしくなった。

また次の日も私はそこにいた。なんだか終わりがないような気がした。私もここに捕らわれているのだ。

三人目の該当者。中年男性。罪は殺人。

憔悴してしまったようで生気は一切感じられない。

「あなたは恋人を殺した。」

「‥‥」

「殺しましたね?」

彼は口をぐっと閉じて下を向いた。膝に置いた手も口と同じようにぐっと閉じられた。一気に吹き出した生気を押さえているようだった。

「なぜ殺したんですか?」

「‥‥。」

固く閉じた口は震え、その振動は手にも同じように伝わっている。わなわなと開く口は言葉ではなく気持だけで動いていた。

「ゆっくり、ゆっくりでいいですよ。焦らないで。」

「わ、私は彼女を‥‥愛していました。」

彼はしゃくりあげながら思った言葉を出すのに必死になっている。

「愛していたのに殺した?」

「愛して、愛していたのに彼女はもう先が長くなかった。」

「じゃあ最後まで一緒にいればよかったじゃないですか?」

「彼女が‥‥彼女が私に‥‥。」

彼は下を向いて開いていた目を閉じた。

「彼女がそう願った?」

「‥‥。」

「それでも人の命を人間がコントロールしてはいけない。それがどんなに叶えてあげたい願いでも、例え同意であっても罪なんです。その時が来るまで見守ってあげるしかない。」

「見ていられなかった。彼女の美しく長かった髪も、健康的な体も、溌剌とした笑顔も‥‥全部なくなった。それでも愛しかった。一緒にいて彼女が少しずつ変わっていく自分を辛く思っているのを感じてしまうのが辛かった。」

「‥‥。」

「最後の願いはいつも気丈に振る舞った彼女の初めての弱音だった。ずっと一緒にいて初めて見たんだそんな彼女は。あんなに心が張り裂ける思いはした事が無かった。自分の腑甲斐無さは十分に感じていたけれどもう自分はなんで生きいて彼女が苦しんでいるのか理解できなくて私の中は錯乱していた。彼女はそれでも冷静に私に願った。私には断る理由が無かった。それは何があっても叶えてあげなければならないと思った。‥‥私には、恥ずかしい話ですがそれしかなかったんです。」

中年男性は何も憚る事無く泣いていた。大人になってからこれほど必死な人を見た事が無かった。私は何も言えなかった。その人は全てわかっていたから私には何も言う事は出来なかった。誰も責める事は出来ない。実体のない法だけが彼を縛っていた。私はそこに意味を見つけられなかった。「正しい事」などどうでもいい事を本当はわかっている自分が遣る瀬無かった。

次の日、私は電車に乗っていた。休日が来たので私は久しぶりに田舎に帰ろうと思った。三時間の間電車に乗った。特急券は高いので普通の電車で帰る。田舎に行くに連れて人はまばらになっていった。寂し気な田舎だ。帰ったって誰もいない。私の唯一の身寄りは忽然と姿を消した。後から聞いた話によるとその人は私の母親ではなかったらしい。当時は大人だといっても若かったせいかいろんな思いの交錯に打ちひしがれる日々を送った。母親という帰る場所を無くした私は子供のように途方に暮れて何かに付け、ふと思い出してしまう情緒不安定を押さえるために田舎を離れて暮らした。その気持が薄れ行く今、私は平気でこの電車に乗っている。恐ろしくて乗れなかったこの電車に確かに今乗っている。

電車の人は本当に少なくなって前の七人掛けの座席には人がひとりもいなくなった。音楽を聞きながらぼうっと景色を見ていた。すると耳に心地よい声が流れた。往年のスター歌手の歌だった。「ゆるやかな構図」そうタイトルが出ていた。その曲になんの思い出もない。きちんと聴くのは初めてに等しいその曲はやけに優しかった。私は不意に母はどうして他人の子供なのに育ててくれたのだろうと考えてしまった。急に溢れた涙には自分でも驚いた。それは今の自分の感情ではないような気がする。体が思い出した感情なのだと思う。その感情に急き立てられるようにさっきの疑問が感情を伴ってあらわれた。薄情な自分にはそんな事できない。なぜそんな事が出来るのかわからない。受刑者も同じだ。私にはとても出来ない。自分が一番大事だと思ってしまうから私にはできない。でもそんな風にして守った私には結局何もない。本当に何もなくて私は昔のように母に答えを求めたくて仕方が無かった。間違えてしまった人生をどうする事も出来ずに私はひとり取り残されてしまった。電車は終点に到着していた。

2010年11月13日公開

© 2010 一二三

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