昭和二十三年四月三日の報せは、正確な日付を伴って届いたわけではなかった。海峡を渡る手紙は、書かれた日と届く日の間に、いつも十日、二十日の隔たりを持つ。届いたとき、島ではすでに山狩りが始まっていた、という。武装した者たちが蜂起し、討伐隊が村々を焼いている、という。焼かれた村の名を、手紙は一つずつ、私の知っている名で挙げていた。
去年の三月に発砲事件があってから、島は一年、ずっと不穏であった。総罷業があり、検挙があり、拷問の噂があり、それでも島の暮らしは、どうにか日々の形を保っていた。今度の報せは、その保たれていた形そのものが、根こそぎ崩れたことを告げていた。手紙の文字は、書き手の手の震えをそのまま伝えるように、行の終わりへ行くほど乱れていた。乱れた文字を読むというのは、乱れた手そのものに触れるということである。私は紙の上から、遠く離れた誰かの震えを、自分の指に移された。
私は手紙を、店の奥の暗がりで三度読んだ。三度目に読んだとき、文字が滲んだ。涙のせいではない。私自身の手が震えていたからである。
オモニの生まれた村の名が、その中にあった。
私はその晩、店を閉めた後、箪笥の奥から、渡ってくるときに持たされた小さな包みを出した。開けたことのない包みである。オモニが、これは困った時だけ開けなさい、と言って持たせた。十二の年から十二年、私はそれを一度も開けずに来た。困った時、というのがいつのことか、これまで判断がつかなかったからである。紡績の機械が止まった時も、姉が空襲に連れて行かれた時も、私は包みに手を伸ばさなかった。あの時々の困り方には、まだどこかに、自分の力でどうにかなる余地があった。今度の困り方には、その余地がない。だから私は、初めて包みの結び目に指をかけた。結び目は十二年前のまま、固く、湿気を吸って少し変色していた。解くのに、思いのほか時間がかかった。時間をかけて解いている間だけ、私は何も考えずに済んだ。
包みの中には、干した唐辛子と、小さな貝殻が一つ、それから紙片が一枚入っていた。紙片には、オモニの字で、村の親戚たちの名が並んでいた。何のための名簿か、書かれてはいなかった。だが私には分かった。これは、何かあったときに、誰を頼り、誰に報せるべきかを記した、オモニなりの換算表であった。
換算表という言葉が、自分の頭に浮かんだことに、私は驚いた。オモニの紙片と、辻の紙は、似ても似つかぬものであるはずだった。片方は血の繋がりの記録、片方は正体の知れぬ何かが書く比率の記録である。それでも、両方とも「誰が生き延び、誰が消えるか」を、静かに記していく点で、恐ろしいほどよく似ていた。
翌日、私は市場の辻へ、いつもより早く出た。換算表には、この数日、圏点の並びに新しい動きがあった。海峡由来の品の点が、これまでとは違う打たれ方をしている。一列に並んでいた点が、まばらに散らばり始めていた。まるで、島から渡る道筋そのものが、細く、いくつにも枝分かれしていくのを映すように。
私は圏点の中に、これまでなかった符牒を見つけた。品名の右肩ではなく、左肩に打たれた点である。右肩の点は「渡る品」を示していた。左肩の点は、おそらく「渡る人」を示していた。
最初は見間違いかと思い、私は目をこすって幾度も見直した。見間違いではなかった。左肩の点は、その日の紙に、たった一つだけ打たれていた。品目のところに、まだ何も書かれていない。空欄の右肩に、点だけが先に打たれている。まるで、これから渡ろうとする誰かのために、あらかじめ席が用意されているようだった。私はその空欄を見つめながら、去年の英男のことを思い出した。あの子の失踪も、こうして先に用意された空欄の中に、後から名が書き込まれる形で起きたのではなかったか。空欄が先にあり、人間が後から嵌め込まれる。順序が、私の知る順序とは逆であった。
私はその朝、初めて換算表を前にして、商いのための紙としてではなく、祈りのための紙として、それを読んだ。左肩の点の付いた品目の中に、見覚えのある字面がないか、私は目を皿のようにして探した。ない。まだない。だが、いつか現れるかもしれない、という恐れが、その日から私の中に住み着いた。
島の報せと前後して、こちらの土も揺れた。民族の学校を閉めよという命令が府から出て、府庁の前に幾千の人が集まったと聞いた。集まりに行った近所の若い者が、腫れた顔で帰ってきた。帰らなかった者の噂も聞いた。大阪のどこかで、英男と同じ年頃の少年が、撃たれて死んだという。名は金太一というのだと、幾日も経ってから知った。名が伝わってきた、ということが、私にはかえって刺さった。英男の名は、消えるときに先に消えた。あの少年の名は、死んでから皆の口に上った。名の残り方にも、幾通りもあるのだ。どちらの残り方が浮かばれるのか、私には決められなかった。海の向こうでも、海のこちらでも、同じ春に、同じ年頃の子供が、誰かの帳面の数に入れられていく。数に入れる側の帳面と、数から零れた者を拾う帳面と。辻の紙がそのどちらであるのか、私はまだ見極められずにいた。
網干屋の店先で、楠木さんが私の顔色に気づいて声をかけてきた。「順伊さん、顔色が」私は答えなかった。答えられなかった。内の言葉も外の言葉も、その朝は箪笥の底に沈んだまま、出てこようとしなかった。楠木さんはそれ以上訊かず、ただ黙って、私の店先の水甕に水を足してくれた。渡ってきた者の事情に深入りせず、それでいて見捨てもしない、この人らしいやり方だと、私は後になって思った。あの朝の彼の沈黙を、私は生涯忘れないだろう。
私はその夜、オモニの紙片を、店の一番奥の、誰の目にも触れぬ場所にしまい直した。しまいながら、私は初めて、換算表の書き手が誰であろうと構わないと思った。書き手が誰であれ、私がこれから読み取らねばならぬのは、あの紙の左肩の点だけである。渡る人の印を、一日でも早く見つけ、一人でも多く、渡り切らせること。それだけが、今の私にできる唯一の商いであった。
私は寝床に入っても、なかなか眠れなかった。目を閉じると、島の家の裏山が浮かんだ。子供の頃、その山で遊んだ記憶と、今そこで起きているという山狩りの光景が、うまく重ならなかった。同じ山であるはずなのに、私の記憶の中の山は、いつまでも子供の足で登れる、明るい斜面のままであった。記憶が現実に追いつかないというのは、これほど苦しいことかと、私はその晩、初めて知った。
――昭和二十三年四月附 換算表(写・順伊控・部分)
左肩圏点、新出(意味未詳・「渡る人」の疑い)
圏点品目の分散、この週より著しい
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