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符牒市場 第三章 計測

符牒市場(第3話)

ゐで保名

昭和二十一年、鶴橋の闇市。毎朝貼り出される正体不明の一枚の紙「換算表」だけが、統制経済に見放された人々の拠り所だった。復員兵、密航ブローカー、GHQ調査員、カストリ記者、生駒の老人――五人がその書き手を追ううち、紙は彼らの生活そのものを侵食していく。済州島の激動とドッジ・ラインが市場を解体する中、様式は現実を規定するのか。戦後大阪を舞台にした、AIパラノイド群像劇。

タグ: #AI #幻想文学 #歴史小説

小説

2,357文字

私の日本語は、母がカリフォルニアの台所で使っていた日本語である。それは一九二〇年に広島を出発したまま、更新されることのなかった言語であった。私がそれを話すとき、鶴橋の人々は一様に奇妙な表情をする。丁寧すぎるのだ、と通訳のミハラ氏は言う。あなたの日本語は、まるで死んだ人に対して話しているようです、と。

私の任務は計測である。私は計測されることについても、いくらか経験を持っている。一九四二年、私の一家はマンザナーの砂地で登録番号を与えられた。忠誠登録の質問票、第二十七問と第二十八問。人間を二つの設問に還元する様式を、私はあの砂の中で学んだ。父は答えを拒み、私は答えて軍に志願し、以後、父と私は同じ食卓で別々の国の人間として飯を食った。だから私は知っているのだ。数えられる側に立った人間が、数える側の紙をどのような目で見るか。それを知りながら、私は数える側の職を選んだ。理由は単純である。数える側の紙だけが、数えられた人間の存在した証拠を残すからだ。マンザナーの私を証明するものは、今も陸軍省の登録簿の一行しかない。

経済科学局の物価調査班に属する私は、週に三度、この市場を歩き、主要品目の実勢価格を記録し、公定価格との乖離率を算出し、報告書を作成する。ワシントンから見れば、闇市とは統計上のダーク・エリア――照明の当たらぬ領域である。我々の仕事は、そこに照明を当てることだと班長は言った。私は当初、その比喩を疑わなかった。照明は対象を変化させない。それが照明というものの定義であるはずだった。

市場を歩く私は、二重に異邦人である。制服は占領軍のものであり、顔は被占領者のものである。商人たちは私の顔に向かって値を言い、私の制服に向かって値を引っ込める。乾物屋の朝鮮人の女主人は、私の丁寧すぎる日本語を聞くと、品物を扱う手つきのままの正確さで、内地の言葉と半島の言葉の中間のどこにも属さない一瞥を寄越した。彼女は私が何であるかを、書類なしで分類した。この市場の人間は、分類において我々の局より速い。彼らは生存のために分類する。我々は報告のために分類する。速度が違うのは当然であった。

二月の第一週、私は奇妙な事実を見出した。

市場の辻に掲示される一枚の紙――人々がカンサンヒョウと呼ぶところの交換比率表が、私の報告書と一致するのである。一致という言葉は正確でない。私の報告書は円建ての価格を記載するが、あの紙は物と物の比率を記載する。しかし比率に還元すれば、両者は小数点以下二桁まで同一であった。米一升対石鹸五個。私が前週に算出した交叉比率、一・〇〇対五・〇二を、あの紙は丸めて掲示していた。

最初の仮説は漏洩であった。報告書は局内で複数の人間の目を通る。誰かが数字を市場に流し、市場がそれを権威として採用する。ありうることだ。占領とは巨大な漏洩の体系である。私は検証のため、次の報告書に統制記号を仕込んだ。実測値をわずかに操作し、鰊の価格を実勢より三パーセント高く記載したのである。もしあの紙が私の数字を写しているのなら、三パーセントの偽りもまた写されるはずであった。

紙は写した。翌週の比率は、私の偽りを小数点以下まで正確に含んでいた。

ここまでは、まだ理解の範囲内である。問題はその次の週に生じた。私は火曜の夜、宿舎の自室で報告書の草稿を作成した。提出は金曜である。草稿は鍵のかかる抽斗に収め、鍵は身につけていた。水曜の朝、市場の辻で、私は自分の草稿の数字を見た。

提出前の数字である。私以外の誰も、まだ読んでいない数字である。

私は三つの仮説を順に検討した。第一、私は水曜に見たものを火曜に書いたと錯覚している――記憶の前後の混乱。私は草稿の作成時刻をミハラ氏に証言させることで、これを棄却した。第二、何者かが夜間に抽斗を開けた。錠前に痕跡はなく、また草稿の数字のうち一箇所、私が消しゴムで訂正した跡の、訂正前の数字までが紙に載っていたことから、これも棄却された。盗み見た者は、消された数字を採用しない。第三の仮説を、私はまだ言語化できずにいる。強いて言えばこうなる。私の計測が市場を動かしているのではなく、市場が私の計測を先取りしている。私が数えるであろう数を、市場は私が数える前に知っている。

統計学の教程は、観測者を方程式の外に置くことを教える。しかしこの市場では、観測者は方程式の項である。それも、市場の側が先に代入を済ませた項である。私は照明のつもりで歩いていた。実際には、私は照らされていたのだ。誰に? その問いを報告書に書くことはできない。報告書の様式に、観測者が観測される欄は存在しない。

夜、宿舎の寝台で、私はマンザナーの質問票のことを考えた。第二十七問に「はい」と書いた瞬間、私は設問の想定する人間になった。答えが人間を作ったのである。ならば、と私は天井に向かって考えを進めた。私の報告書が市場の価格を記載するのではなく、市場の価格が私の報告書を先回りして実現するのだとすれば、この市場のどこかに、様式が現実に先行することを知り抜いた者が――様式の側から世界を書く者が居ることになる。私はその者を、憎むべきなのか、それとも同業者と呼ぶべきなのか、判断を保留した。保留は、私の民族が二つあることの、最も正直な帰結であった。

金曜、私は草稿を清書し、消しゴムの跡のない完全な報告書を提出した。班長は数字を一瞥し、良い仕事だ、と英語で言った。私は日本語で、恐れ入ります、と答えた。死んだ人に話すような日本語で。誰に向かって話したのか、自分でも分からなかった。

 

――昭和二十二年二月附 換算表(写・抜粋)

米一升 = 石鹸五・〇二個

鰊十尾 = 煙草「光」二・七函

干鱈・・一貫目 = 〇・一四三石鹸

(小数表記の混入、この週より始まる)

© 2026 ゐで保名 ( 2026年7月28日公開

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