部屋のテーブルの隅に、蚊が留まっている。手元に置いた眼鏡をかけ直して、よく見て、確認をする。留まっていたのは、見覚えのある蚊。椅子に腰をかけながら、両手のひらを太ももに乗せて、わたしは蚊を見つめていた。
その蚊は、わたしに葬られることを願っていた。蚊は、あまりに多くの血を吸いすぎて、その血が蚊の正気を失わせた。正気を失った蚊のなかに、かすかに残っていたものは、抹消されたいという揺るがない思いと、いくつかの血の印象だけだった。
消えかけた意識に、血の印象が淡く過る。
児童雑誌の懸賞品に、心が惹きつけられた。それは、小さな刺繍の施された寝間着。慣れない手つきで、官製ハガキに宛先と、郵便番号、住所、氏名、年齢、電話番号、簡単なアンケートの答えと、希望する懸賞品名を書き込んだ。
ハガキを投函して、そのことを忘れかけていた頃に、小包が届いた。「抽選で一名様」の懸賞に当選した。その寝間着は、着心地が良かった。
滅多にない当選がきっかけになって、町の商工会が主催する、福引抽選祭りに行くことになった。両親から、スーパーマーケットの買い出しなどで貰える福引券を束にして、渡された。
プレハブ小屋のような福引所に入ると、蛍光色の法被を着た係員がいて、紅白幕の敷かれた長机には抽選器が据えられていた。係員を間近で見ると、表情に深い疲れが滲んでいて、法被姿が悲しそうだった。
係員に福引券を手渡して、抽選器の取っ手を握る。抽選器をかるく回すと、からからと音が鳴った。回し続けると、色のついた小さな球が、抽選器の排出口から受け皿に落ちた。
係員が振り鈴を鳴らす。一等賞の温泉宿ペア宿泊券に当選した。旅行をするのは恐いから、宿泊券は祖父母にあげようと思った。そして、これから先もずっと、年老いてもずっと、幸運が続くと思い込んだ。
そのときの血が、印象的だった。
制服に着替える時間がもったいないから、予め、給仕係のシャツを着て、それを隠すように薄手の上着を羽織る。鞄に小物をいくつか入れて、鞄の紐を肩に掛けて、古いアパートの自室を出た。
駅に着いて、改札を通り抜ける。乗り場は、電車を待つ人たちで溢れていて、辺りの空気は生温くなっていた。勤務先は遠方にあって、朝の通勤で混雑する時間帯に出発しなければならなかった。
人で混み合った電車内は、気持ちを滅入らせた。電車を降りた後も、気分は変わらなかった。それは、いつものことだった。勤務先ではもっと気持ちが滅入るのも、いつものことだった。
勤務先に向かう途中に、小さな公園がある。その公園の小さなベンチに座る。いつものことだった。肩掛け鞄から、ラップ紙で包んだ、おにぎりを取り出す。それと、缶コーヒーも取り出した。
駅から公園までの道のりは、できるだけ速く歩くようにしていた。そうすることで、おにぎりと缶コーヒーに没頭する時間を引き延ばせた。
おかかの混ぜご飯を丸く握りながら、梅干しを詰めて海苔で包んだ、おにぎり。甘くて苦い味の缶コーヒー。おにぎりと缶コーヒーを両手に持って、黙って見つめる。そして、これから先もずっと、年老いてもずっと、気持ちは塞ぎ込んだままだと思い込んだ。
そのときの血が、印象的だった。
賃貸マンションの引き払いを済ませて、去り際に、町をかるく散歩した。賃貸退居の立ち会い担当者に、難癖をつけられたけれど、今回も上手く誤魔化した。
歩きながら、改めて町の景色を見回すと、いろいろな所に木々や花々が植えられていた。木と花は、陽射しで鮮やかに照らされているはずなのに、なぜか、どれも色褪せて見えた。
歩き続けていると、個人経営の小売り量販店があって、なんとなく、立ち寄った。偶然にも、会いたくない人物が訪れていて、店内でばったりと会った。
咄嗟に身構えたけれど、思いがけず、好意的に話しかけられた。熱心に近況を聞かされた。上手くいっているらしかった。でも、そんなことはどうでもよかった。
量販店を立ち去ると、酷い疲れを感じた。本当は、散歩なんてせずに、少し眠りたかった。でも、横になって眠れる場所は、ここにはもう無かった。
実家に帰り着いたら、眠れると思った。そして、これから先もずっと、年老いてもずっと、疲れたら眠ってもいいと思い込んだ。
そのときの血が、印象的だった。
テーブルの端に留まっていた蚊が、わたしの顔を目掛けて飛び立った。わたしは両手のひらで、ふらふらと飛んでくる蚊を、勢いよく叩いた。
そっと両手を開くと、手のひらには何も無かった。辺りを見回しても、蚊の姿は無かった。
わたしは、身につけている寝間着の、右側のポケットに手を入れて探った。ポケットの中には、ビスケットしか入っていなかった。同じように左側のポケットも探ったけれど、ツナの缶詰が入っているだけだった。
わたしは、首を傾げた。そして、もう一度、右側のポケットを探ると、乾涸びた蚊が入っていた。ビスケットは、もう無かった。
蚊は一刻のあいだに、何処か知らない場所をさまよって、遠い時間を漂って、からからに乾涸びた亡骸が、寝間着のポケットの中に辿り着いた。わたしは、そんなふうに思った。
蚊の亡骸を右のポケットにしまって、手でかるく叩く。それからポケットの中を探ると、もう何も入っていなかった。
混乱して、なにもかもを見失いながら、葬られることを密やかに乞い続けるうちに、乾涸びていった蚊。
そんな蚊が、さっきまで、ここにいました。
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