小椋は上司の金谷のあとに続いて大病院の廊下を足早に歩いていた。時折すれ違う看護婦が不思議そうな表情を浮かべ、そしてすぐにアッと察する。
「なんでまたァ、こんな辛気臭いところなんですかね」
小椋の問いに金谷はなにも答えなかった。
壁に染み付いた薬品の臭いが鼻をつく。昔から小椋はこの臭いが嫌いであった。過去のドロドロとした嫌な記憶を無条件に思い出させるこの臭いが大嫌いであったのだ。出来ることなら出入りしたくないのだが、職業柄そういうわけにはいかない。
施錠された鉄製の、錆に侵され始めた扉を押し開けて更に奥へ進む。重苦しい湿気た空気に纏われ、息苦しく感じるこんなところに患者を置くだなんて正気の沙汰ではない。
ついと線香が香った気がして小椋は思わず立ち止まった。少しだけ開いた扉が気になり注視する。
ーーただの処置室に何があるというのか。いや、線香であるから霊安室か。病院なのだから毎日誰かしら死ぬだろうに、当たり前のことにいちいち反応してられるか。
そう思い通り過ぎようと思うが足が動かぬ。意思に反してあの隙間が気になって仕方がないのだ。
唄が聞こえた。女が唄っている。聞き覚えがある、でも思い出せない声。
隙間から幼い子供と女が見えた。
息子に似ている気がした……いいや、あれは十ぐらいの頃の俺、俺にそっくりだ。一寸誰かに体を圧されてしまえば簡単に折れてしまうに違いない……ヒョロヒョロと貧相な首を撫でるのは白い指。それは何をかを毟ったであろう真っ赤な鱗片がついた爪がついている。乱れた髪が横顔を覆って見えないがあの女は知っている……確かに知っている。それなのに靄がかかったように思い出せない。首を撫でられる子供がか細く「怖い」と言うと女もまた弱弱しく、けれどもほんの少し悦ばしそうに「大丈夫」と言う。
「もうすぐ鐘がなる、神様のもとへ行けるわ」
女が首にかけた手に力を込めたのが見えた瞬間、小椋は息苦しさと共にひどい眩暈を感じた。
あれは……俺の母だ。宗教に心を奪われた母と、俺自身。なぜ、こんなところでそんな記憶が蘇るっていうんだ……畜生め。
汗が背中を伝う感覚が不快だ。まるで神に撫でられているような。
「小椋」
金谷に呼ばれてハッとした。顔の筋肉をひとつも変えずに彼は小椋を見つめている。
「どうした」
「いえ……この訳の分からない空気に吐き気を催しただけです」
それを聞くと別段心配する様子もなく金谷はいくぞ、とだけ再び歩みを進めた。
全く、妙に胃が震えていやがる。
もう一度あの扉の向こう側に視線をやったが、ただの暗闇が広がっているだけであった。
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