グランド・ファッキン・レイルロード(2)

グランド・ファッキン・レイルロード(第2話)

佐川恭一

小説

3,716文字

受験に落ちてへこんでる男がまだからまれてます。

野洲駅を過ぎ、トリンドル玲奈は草津駅で降りて行ったが、いれかわりに「藤原紀香」が乗り込んできた。私は彼女を運命の女性だと思った。ややギャルじみた、肌の露出の目立つ派手な出で立ちであるが、ほんとうは誰よりも優しい心を持ち、将来は多くのひとを助ける職業に就きたいと考えており、今年の受験ですでにユニセフ医大の赤十字学科に合格していることが、私にはわかった。
「ハイちゃん、元気してた?」

初対面にも関わらずこの馴れ馴れしさ、これこそ、私たちが運命共同体であることの証だろう。
「元気だよ」

私は精一杯の嘘をつき、精一杯の笑顔をつくろった。ほんとうは誰よりも優しい心を持つ藤原紀香には、それが偽りであることがすぐにわかったようだった。
「そんなに落ち込まんでもさぁ、浪人したらええやん」

彼女のその言葉は私にはうれしかったが、私は現役合格ということに異常にこだわっていたようだったから、彼女の気遣いがうれしかったというだけで、その言葉の内容自体に救われたというわけではなかった。東大文Ⅰ現役合格――医学部を除き、これ以上の素晴らしい学歴があるだろうか? 私は一浪して東大文Ⅰに合格するかどうかも疑わしかったが、一浪して東大文Ⅰに合格したところですでに私はベストの人材ではないのだということが悲しかった。どのフィールドに価値を見出すかということによりベストの定義は変わるが、少なくとも自分が参入してみようと試みた大学受験においてのベストを自分は逃した。その先、東大文Ⅰに入った後もベスト争いは続くのだ、しかし、まずそのスタートラインに立ち、「俺はベストかもしれない」と少なくとも四年間夢想するための権利を、私は失ってしまったのだ。
「ありがとう藤原さん、でも、もう俺はだめだよ、もう欲しかったものは絶対に手に入らない。俺の欲しいものはいつも、いつでも手に入るという種類のものではないんだ。その瞬間を逃せばもうそれは消えてしまうというようなものなんだ……日本ダービーが一生に一度しか出走できないレースであるようにね」
「それは大学の現役合格っていうこと?」
「いや、それだけじゃなくてさ」

私は能登川駅で目にした吉高由里子のことを思い出していた。彼女と私は相思相愛だった……それなのに電車のドアが少し速く閉まったというだけで、私の立ちあがるのが少し遅れたというだけで、彼女に出会うことは二度とできないのだ――それに、今後運よく彼女に出会えたとしても、もう彼女はあの瞬間の彼女ではない。私は、まさにそこしかないというような一瞬を逃し、TSUTAYAの青い袋を持っていたところから、次に私に出会うまでの彼女を知らないまま、出会うのだ。その空白は彼女を根本から変えてしまわぬとも限らない。
私は取り返しのつかないことをしてしまったんだ。

……そもそも、取り返しのつくことなんて一つもないのさ。みんな、取り返したと思っているだけでね。

そういうものかね?

そういうものだよ。

「ハイちゃん、どうしたん? 大丈夫?」
「大丈夫だよ、ありがとう、ちょっと、哀しくなっただけだから(It’ s all right now,thank you.I only felt lonely,you know.)」私は『ノルウェイの森』の冒頭部分を真似して微笑んだ。私はあのようにお洒落に大学生活を送りたいと願っていたのに、いまやすでに浪人が確定しており、とてもじゃないがお洒落な生活を楽しんでいる場合ではないのだ。予備校の学費を出すのも親だ。私の家には経済面での余裕がなく、大学も奨学金でなんとか通うはずだったのに、私は浪人してしまったのだ。自宅で浪人すればおそらく精神が崩壊するだろう。予備校に通わなければ一浪で東大に入ることは不可能だろうし、もし通っても可能性は半々といったところだろう、とんでもない賭けに親を巻き込んでしまったのだ。それに、私は東大に入って官僚になりたいとか、大企業に入りたいとか、学者になりたいとか、そんな具体的な野望を持っているわけではなかった。ただ、東大に入りたいのだった。
「Well,I feel same way,same thing,once in a while.I know what you mean.(うちさぁ、こないだ彼氏と別れてん)」

彼女も気を利かせてノルウェイの森の冒頭部分を引用してくれたが、その訳はかなり間違っていた。意訳だったとしても相当に無理のあるものだったが、私はその事実の方に興味をそそられた。
「彼氏って、陣内くん?」
「陣内くん。うちは、何かが違うんやってさ」
「何かって?」
「さあ。『何か』は『何か』であって、具体的に言葉で表せるものじゃないんやって。そんなん、うちどうしようもないやん」
「どうしようもないね」

おそらく陣内くんは、あまり直接的なことを言っては彼女を傷つけてしまうので、真実をオブラートに包んでおいたのだろうと私は思ったが、言わないでおいた。ほんとうのことというのは、必ず誰かを傷つける。ひとは傷つくと知りながらやはり真実を求めるが、大抵は後悔することになる。こないだだってそうだった。東大の合格発表が行われる掲示板の前で、不合格者の約三分の一は突発性鬱病を患い、その八割が安田講堂から飛び降りて死んだ。それも毎年の恒例行事であるので誰も驚かない。飛び散る大量の血は赤レンガの赤を毎年鮮やかに塗り直してゆくのだ。死ぬくらいならば真実なんて知らない方が良い……
――六畳の部屋におかれたベッドの下、誰にも見えない場所にゴキブリがはりついているというとき、その存在を知らなければ私たちは快適に過ごすことができるのに、それを知ったとたんに部屋は不快でたまらない空間と化す。私たちはゴキブリの触覚が視界にちらりと入ったのをなかったことにして、ものが散らかっているとか、洗濯物を溜め過ぎだとか、枝葉末節の部分を指摘し、満足している。誰も傷つかない――

なんとなくゴキブリがいることを感じながら、私たちはそのようにやり過ごす。それは悪いことではない。真実に喰われて死ぬくらいならば、全然、決して、悪いことではない。

 

 

気の利いた言葉ひとつ浮かばずまたそのような言葉をかけようという努力すらしなかった私と彼女の間には、しばらくの間、深い沈黙が横たわった。
「ねえ、ハイちゃん」
「何?」
「うちってさぁ、そんなに悪い物件じゃないと思うんよね」
「もちろん、俺もそう思うよ」
「……うちと、付き合ってみいひん?」

私はその瞬間彼女の目を覗きこみ、次に胸と脚を、順番に見た。胸はD~Eカップといったところで、とても大きいのだが、大きすぎて下品であるという印象は決して与えない。脚はとても綺麗に伸びていて思わずその奥にある秘密を覗き込んでしまいたくなる、まるで全てのパーツが私だけでなく他のすべての男性をも誘惑しているようだ――こんな女性と一発やれたら――即座にそのように考えてしまう自分に私はハッと気が付き、落胆した。なんと低俗で卑猥な男なんだろう。この藤原紀香という人間的にも素晴らしい女性を前にして、こんな女性と一発やれたら、だって? 私は彼女に対して自分自身があまりにもふさわしくないことを感じ取った。そして言った。
「藤原さんには、俺なんかよりも良い相手がいるよ」
「誰?」
「たとえば――」

わかるはずがなかった。彼女と私は初対面なのだ。陣内くんのことも彼女の脳内に浮かびあがる像と言葉が外界に漏れ出していたからわかっただけで、実際彼に会ったわけではない。その他の彼女の知る男を、私は一人として知らなかった。しかし、彼女にとって私が最適の相手でないことだけは確信をもって言えるのだった。大体、私は、誰かにとって最適の相手たりうるのだろうか? 私だけでなく誰ひとり「ベスト」ではないにしろ、私は、選び取っても大失敗ではない程度の人間たりうるのだろうか?
「うちはハイちゃんのこといいなぁって思うし、ハイちゃんは、うちのことどう思うんかなって」
「とても素敵だと思うよ」
「じゃあ――」

その時、藤原さんの携帯が鳴った。「ごめんね」彼女はそう言って電話に出る。私たちの前に座っていた老婆が舌打ちをしたが、藤原紀香は気にも留めず、電話に夢中になっていた。
「何ぃさ」
「何なんよ、そんなんでうちが……え?」
「うん……うん……」
「そんなこと……うち知らんしさ……」
「……最初っからそう言ってくれてたら……うちかて……」
「うん……うん……」
「わかった、今から行くわ。勘違いせんといてほしいんやけど、うち、許したわけちゃうから」

藤原さんはとても、とてもうれしそうな声で話していた。通話を終えた藤原さんの目にはうっすらと涙が浮かんでいた。それが負の意味でないことは童貞の私にでもわかった。
「陣内くんから?」
「うん」
「何て?」
「もう一回話がしたいってさ。ホンマ、男の人ってようわからんなぁ」

彼女は得意げに言った。
「じゃあ、うちここで降りて折り返すから。じゃあね」

大津駅で美しい手を華麗に振りながら降りていった彼女の後ろ姿を見ながら、私はただ黙っていた。

そんなものかな?

……そんなものだよ。

 

第二章・完

2015年7月3日公開

作品集『グランド・ファッキン・レイルロード』第2話 (全17話)

© 2015 佐川恭一

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