「右脳開発センター」父が広げたパンフレットの表紙には赤い字でそう印字されていた。ピラミッド、灯台、シャチ、エレベーター、電球……イラストだけが描かれた赤い幾何学模様が表に印刷されたトランプのようなカードを幾何学模様の方を上にして、客間の畳の上にばらまいてから父は満足げに頷いて言った。
「神経衰弱やるぞ」
「え?」
唖然とするわたしと幼い弟を前に、父は胡坐をかいたままカードをひっくり返した。タンバリンのイラストが描かれていた。父は雑然と裏返ったカードを見回しながら彼の正面で一番手前のカードを右手でバシッと叩くようにして裏返した。黒電話――受話器と回転式の番号入力機が一体となった固定電話――のイラストが見えた。ああ、違った! 父は興奮気味に叫んでカードを元に戻した。
「次、時計回りな」
父はそう言って、顎を弟の方にしゃくって頷いた。弟は目を輝かせながら、正座の姿勢でめい一杯上半身を伸ばしてカードをひっくり返した。三本線が尾びれのように付いた星に目鼻口の簡単な顔が描かれたカード。
「流れ星!」
弟はそれを手に取って満足げに叫んだ。
「もう一枚同じのが出たら取っていいから」
父は弟にカードを元の位置に戻すように指示した。父の言葉に弟は素直に頷いて、次のカードを透視でもするようにじっくりと眺めながら頭をぐるぐる回した。彼の右斜め前に手を伸ばしてカードをひっくり返す。シルクハットを被って玉乗りをしている道化師のイラストは少し不気味だった。怒ったように乱暴に弟はカードを元に戻した。その瞬間、わたしは自分の膝元にあったカードに視線を落とし、ゆっくりとひっくり返し始めていた。なぜ? 自分でも気づかないうちに、わたしはこのゲームに前のめりに参加していた。白い灯台から光が海上に伸びたイラストがそのカードには描かれていた。最初に父がばら撒く前に見たカードの中にあった。ということは、父の周辺にある可能性が高いのではないか……わたしは正面で胡坐をかいた父の前のカードに視線を向けた。赤い幾何学模様は無言の圧力をかけるように全てが同じ表情で押し黙っている。わたしは少し汗ばんだ。父の左膝辺りにあったカードに目星をつけて右手を伸ばした。流れ星のカードだった。しまった……と思った瞬間には、父の右手が弟の最初に手にした同じ柄のカードを裏返していた。
「儲けたあ~」
父はにやけながら流れ星のカード二枚を彼の背中の方に除けて次のペアを探し始めた。くそっ! 心の中で叫んだ時にはもう、わたしは父の術中にいた。父が裏返した赤い林檎を手にしたローブ姿の魔女が描かれたカードは、まるでタロット占いのようにわたしの状況を説明していた。父は腕組みをしながら首をゆっくりと動かして散らばったカードを眺める。その姿は完全にこのゲームを掌握したキングそのものだった。彼は王者の威厳を示すようにゆっくりと、わたしと弟の間の丁度真ん中あたりにぬっと右手を伸ばしてカードをぺりっと返した。茶色い石が積み上げられたピラミッドが王の偉大さを物語るかのように出現した。
「ダメやった」
父は余裕の笑みを浮かべてカードを元に戻した。弟は小さな体を移動させて、父の左手前のカードをサッと手に取ってひっくり返した……ピラミッド。な! わたしは目をひん剥いて中央のカードを見てしまっていた。その視線を追い、弟はにんまりと笑って背伸びするようにしてカードの上に小さくて柔らかな手を乗っけた。
「やったー!」
はしゃぐ弟に父は早く次選んで、と声を掛けた。弟は焦らすかのようにわたしの背後を歩いて隣接する居間の境界である襖溝に裸足を乗せて直角に曲がり、わたしの右膝あたりのカードを裏返した。道化師のイラスト。え! わたしは心の中で叫び、次はアシストしないように天井の木目を見上げた。弟はあのカードを覚えているのか、再び歩いてわたしの背後を通り、父の方へと向かった。バシッと大きな音を立てて、畳の上でひっくり返ったカードには黒い翼を広げ、頭に二つ角を生やして牙を剥いた黄色い眼の悪魔のイラスト。
「えー」
弟の悲嘆する声にも動じず父はカードを元に戻し、ギラついた目で弟の前まで上半身を伸ばして、彼の右手をサッと動かした。道化師は彼に微笑んだ。そして、父は笑いを堪えられないといった表情で立ち上がった。ぬっと大きな体の腹部にはたっぷりと贅肉を携え、それを隠す気もない白い肌着の下は紺と緑のチェック柄のトランクスという裸の王様を想起させる出で立ちだ。彼の影の下でわたしは俯いたまま、彼が間違えることだけを祈り続けた。祈りもむなしく、わたしの眼前で父はシルクハットの下、緑色に染めた髪で白塗りの笑顔を見せる道化師のカードを堂々とひっくり返した。悪魔をも服従させたキングは威風堂々、彼のテリトリーにゆっくりと戻った。
「いや、順番飛ばしとるやん」
わたしはあまりにも堂々とした父の姿に冷静さを失ってしまっていた。あっ、ごめんごめん。父は悪びれた様子もなく、カードを戻した。わたしはわなわなと震える拳を握りしめ、赤い幾何学模様の軍勢に向き直った。あ……怒りに我を忘れたわたしは、道化師の居場所まで見失ってしまっていた。まるで父の掌の上で踊る道化だった。わざと隙を見せて、相手を油断させる。そんな駆け引きまでも父は持ち合わせていた。わたしは彼の戦略にまんまとひっかかり、わずかな勝機を見逃してしまったのだ。落ち着け……わたしは自身に言い聞かせた。あの道化師は……右膝あたりの赤い幾何学模様は静かに息をひそめている。三枚にまで絞り込み、その真ん中のカードに手を付けた。シルクハットが見えた瞬間、わたしは拳を握ってガッツポーズを見せた。自分でも制御できないほどに興奮していた。もう一枚の道化師は……あ……れ? 目の前のカードに集中しすぎていた。
「ご飯よー!」
居間の向こうに続くダイニングルームの台所から母がエプロンのポケットあたりで手を拭きながら現れた。何しとるん? 首を傾げる母に父は「右脳開発」とだけ答えた。このやり取りに気を取られ、わたしはもはや完全にもう一枚の道化師カードの行方を見失っていた。右脳開発……そうか! 右脳を使うんだ。左脳は論理的思考に使われるのに比べ、直観や感覚的な身体動作を右脳が司っていると、父の手に持ったパンフレットの裏に宣伝文句が並んでいたことをここに来て思い出した。これぞ、まさに天啓である。勝利の女神は我が母であったのだ! 神よ、祝福あれ! 目を閉じて、右脳解放! 脳裏に浮かぶイメージに身を任せる……わたしはゆっくりと目を開き、弟の座る前にあったカードに左手を伸ばした。
「何? おにぎり……」
母は遊びはもうやめてこっちば手伝って。と言って、くるりと台所に足を向けた。はーい! と大きな声を出して弟が立ち上がった瞬間に、海苔の巻かれた三個のおにぎりとたくわんの描かれたカードの隣で彼の足元にあったカードが一枚めくれて、あの憎たらしい白塗りの男があざ笑うように現れた。父は残念やったな、とつぶやいてカードを集めて紙の箱に収めた。慈愛さえも包括する父の背中は大きく遠かった。わたしは滲む彼の背中について立ち上がった。食卓には、氷の浮かぶ水中にそうめんの入った硝子の器、すりおろした生姜、刻まれた青じそ、錦糸卵がのった小皿、そして大皿に盛られた大量のおにぎりが並んでいた。
Fujiki 投稿者 | 2023-05-17 23:24
脳トレなんて宗教みたいなものでしかないという意味なのか? ちょっとお題への応答がよくわからなかった。そうめんをおかずにおにぎりを食べるのは炭水化物+炭水化物になるのでうちではやらないが、そろそろそうめんが美味しい時期になってきたことを感じさせられた。
ヨゴロウザ 投稿者 | 2023-05-18 02:17
右脳開発なんちゃらとかいうのは血液型診断なんかと同じ俗信ということでしょうか。けれどまあその日の昼ご飯を当てたわけですから直観力が開発されたという事でいいんでしょうかね。わたくし素麺とか冷や麦がなぜか駄目でしてもっぱら蕎麦派ですね。
大猫 投稿者 | 2023-05-18 19:29
お母さまが女神様。お父様は祭祀を司る大僧正、子供らはひたすら二人を信じる純粋な信者……かしらと思ってしまいました。ご飯のシーンがあまりに美味しそうで。
ランニングにパンツ一枚で冷えたそうめんをすすり、おにぎりにかぶりつく以上の幸福、御利益はありませんね。あんまり深刻な事態とは思えませんでしたね。
河野沢雉 投稿者 | 2023-05-19 14:10
ただ神経衰弱をやってるだけの描写なんですけど、ここまで執拗にやられたらそれだけで一級エンタメですね。個人的には弟の仕草や言動に年齢相応のリアルさが備わっていて、筆者の観察眼が素晴らしいと思いました。
諏訪靖彦 投稿者 | 2023-05-19 17:20
人のことは言えませんがお題との繋がりが分かりませんでした。でも夕食を当てるのはスーパーナチュナルな才能が備わっていてうまくやれば教祖になれるかもですね。マインドーシーカー的な偶然だったかもしれませんが。
曾根崎十三 投稿者 | 2023-05-21 07:59
少年マンガのバトルシーン並の盛り上がり方をしている神経衰弱! 所々スローモーションで白熱した戦いが見えました。
ただ、既出ですが、お題との繋がりがわかりませんでした。右脳開発が宗教? 母の一言が宗教? おにぎり食べたいです🍙
春風亭どれみ 投稿者 | 2023-05-21 12:38
右脳開発…脳トレとスピリチュアルはえてして、たまに絡んだりしますよね、利害の一致か?
波野發作 投稿者 | 2023-05-21 14:41
この家族に何が起こるのだろう、何か超常の能力に目覚めて宗教バトルが始まるに違いないそうだ父親の正体は何か得体の知れない何者なのだ、途中で入ってきた母親も怪しいとひとりで身悶えていたら、特に何もなかった。いや、あったのかも?
小林TKG 投稿者 | 2023-05-21 15:37
ある時期、今もあるのかもわからないけども、ある時代っていうか、にはこういうことをやってた家族っていうか、家もあるんだろうなあって。あったんだろうなあ。って思いました。
Juan.B 編集者 | 2023-05-21 17:58
運や乱数で遊ぶということは、信仰に近いのかも知れない。あえて非合理なことに取り組み続けるのも。
しかし家庭内の神経衰弱だから楽しく見えるが、これがパチンコとかになったら……。
退会したユーザー ゲスト | 2023-05-21 18:59
退会したユーザーのコメントは表示されません。
※管理者と投稿者には表示されます。