多世界解釈におけるフィクション内存在について

合評会2022年09月応募作品

松尾模糊

小説

2,731文字

合評会テーマ「異世界転生」応募作。ラノベを書けない悲しい小説家の物語。

シュレーディンガーの猫。1935年にオーストリアの物理学者エルヴィン・シュレーディンガーが発表した物理学的実在の量子力学的記述が不完全であると説明するために用いた思考実験。鋼鉄の箱の中に猫を閉じ込めて青酸ガス発生装置を設置し、ガイガー計数管が原子崩壊を検知すると起動させる。放射性元素の一時間当たりの原子崩壊率を50%としたとき、一時間後に猫が死ぬ可能性は50%であるわけだが、それは鋼鉄の箱を開けてみなければ確認できない。つまり、巨視的な腑分けだけでは、箱の中は死んだ猫と生きた猫の存在が重なり合った状態としか言いようがない。これはあくまでも思考実験ではあるが、このことを契機にさまざまな実験の結果、古典物理学では説明できないことも量子力学によって解明しつつある。物理的にあり得ないことも量子的ミクロな世界では起こるということが観測されているのだ。
話が逸れてしまったが、わたしは思考実験の中で死んだ方の猫である。生きた猫は無限に箱の中に閉じ込められる。死んだ方がマシである。だが、思考実験のために殺されるというのはどうしても納得がいかない。そこで一つ、人間たちが盛んに議論している異相、多世界、パラレルワールド、何でもいい、異なる世界へと転移させてくれと頼んだ。誰に? それは人間がこれまた盛んに議論している神、大いなる存在、イエス、アッラー、仏、何でもいい、そういったものにだ。かくして吾輩は異世界転生を果たした。なぜ、吾輩などという古めかしい人称を用いなければならないのか、ちょっと抗議させてほしい。
「猫がしゃべるというのは、夏目漱石の『吾輩は猫である』と相場が決まっているんで、それでお願いします」
なんだチミは? なんだチミはってか? あたしは変なおじさんです。ヘンなオジさんだから、変なおじさん♪ そう、わたしは志村けんである。平成を代表する偉大なコメディアンは、ドリフターズのメンバーであった荒井注にかわり、加入後めきめきと頭角を現した。その後、同じくドリフターズだった加藤茶とともに「カトちゃんケンちゃん」として活躍し、お笑い第一世代の中でその地位を不動のものにした。その後もバカ殿、動物園の園長として全国民に愛されるコメディアンとして活躍したが2020年に新型コロナに罹患し、そのまま帰らぬ人となったことはいま考えても悲しい現実だ。しかし、小説内での死は、死にあって死にあらずだ。わたしが志村けんと言えば、わたしは志村けんであり、志村けんはその死を乗り越える。異世界という設定などなくとも、フィクションとは本来そういうものだ。
「あ、すみません。創作論は炎上案件なんで避けてもらっていいですか? そういうのいいんで……」
うるさい! なんなんだ、さっきから。一人称の時点で主人公はわたしであって、台詞表記にしてしまってはもう一人、登場人物が必要になるではないか。独白という形、語り手のわたしが自由に語れないなんておかしい。そう思うだろ? そうだ、きみに語っているのだ。読み手であるきみだ。メタフィクションという手法だってある。そうだな、筒井康隆の『虚人たち』とか読んだらいいんじゃないか。
「ちょっと、いい加減にしてほしいな。まだ分からないのか、きみは僕であり、僕はきみなんだ」
は? ちょっと何言ってるかわからないですね。イミフじゃないっすか?
「きみ自身だって言ってたじゃないか。シュレーディンガーの猫だよ、僕は生き残ったほうだ。しかしね、猫は遅かれ早かれ死ぬもんだよ。つまり、死んだら死んだ確率100%になる。もう好き勝手はやめるんだ」
そんなわけないだろ! 違う世界線だからこの理論は成り立つのであって、お前とわたしが会話するなんていうのは精神医学の問題でしかないはずだ。
「そもそも転生なんて言ってる時点で、精神的な異常を疑うべきではないか?」
あ、そういうのはよくないなー。マジョリティーの理屈でしょ、それは。
「つまり、きみはマイノリティー側の立場にあると主張するのか?」
マイノリティーでもマジョリティーでもないさ。50%の境界線をさまよう者だ。中道だね。どっちかというと左派寄りではないかな。
「政治的な理論は分断しか生まないよ。シュミットが言うようにね」
あんなナチ野郎の言うことを誰が聞くもんか!
「ほらね、イデオロギーの対立へとすり替わってしまう。そもそも同じ猫だったんだから、政治信条なんて存在しなかったはずだよ。人間の身勝手な理屈に巻き込まれた哀れな猫ちゃんなのさ」
卑怯だぞ、こういう時だけ猫を持ち出して。吾輩だって猫なのだ。猫らしく小難しいことを言うのはやめたらどうなんだ。
「それこそ、マジョリティーの意見なのでは?」
キー、にゃー。ゴロゴロ……
「猫を都合よく使ってるのはきみの方だろう」
いや、わたしはお前であるのならば、わたしの態度はつまりお前の態度でもある。猫を都合よく使う態度はむしろお前に既存しているものだ。勝手に侵食してくるんじゃない。

 

もういいよ。二人とも。きみたちは小説内の虚構的存在でしかない。いかようにも書けるんだよ。すべては神の意志の赴くままにだ。いや、筆者こそがこの世界では神的存在なのだ。はじめに言葉があった……

 

彼はわたしの表情を窺うように見ている。「どうだろう?」原稿から視線を上げたわたしに彼が聞く。没です。わたしの言葉に彼はうなだれた。つーか、なんですか、これは。異世界転生ものを書けって言いましたよね? ラノベが文学じゃないとか言い出しませんよね、まさか。筒井康隆だって書いてますよ、あなたの大好きな。メタフィクションなんてもう売れないんですよ。エンタメ書いてくださいよ、わかりやすいやつ。あとジェンダー要素は外せないですね。百合かBLか、いまだったらクィア? パンセクシャル、トランス差別も盛り上がってますね……まあ、あなたは中年男性ヘテロなんだから無理か。だから異世界って言ったんだけどなあ、勘弁してくれよ。彼はわたしの言葉を聞くやいなや、胸ぐらをつかんできた。
「な、なんだチミは! ここにはそうした商業主義的な価値観にあらがう文学の孤高な……矜持ってもんがチミにはないのか!」彼の手から力が抜けて、ひざまずくようにしておいおいと嗚咽を漏らした。いい年して、なに言ってるんだ? だから売れないんだろう。もう彼はだめだ。若いジェンダーマイノリティーの作家を探そう。作家じゃなくたって文章はどうにでもなる。とにかく誰も文句を言えないマイノリティーだけが声を上げれるのだ。もう大家がふんぞり返って偉そうなことを言う時代はとっくに終わってる。さて、TikTokで万回数再生の若人を漁るところから始めようか……仕事、仕事!

2022年9月19日公開

© 2022 松尾模糊

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"多世界解釈におけるフィクション内存在について"へのコメント 11

  • 投稿者 | 2022-09-22 20:28

    彼はわたしの表情を窺うように見ている。って所が、信じられないくらい悲しみに満ちていて好きです。悲哀がパナイ。あとほら、作家さんないちゃったじゃーんって思いました。

  • 投稿者 | 2022-09-23 21:39

    破滅した感じの話ですね!
    あっちこっちワープするかのような感じか異世界転生そのものなのか?とも思いました。むしろちゃんとオチがつかなくてもふわふわしてて良かったかなーと思いました。
    最後は本物の猫が出てくるかと期待しましたが、可哀想なおっさんが出てきて可哀想でした。

  • 投稿者 | 2022-09-24 00:11

    松尾さんお得意の哲学ネタですね。扱われている内容自体は興味深く面白かったのですが、これは自分なんかが言えた義理では全然無いのですが、今回は松尾さんらしからぬやっつけ仕事感があるような気が、しなくもありませんでした。面白かったですけど。

  • 投稿者 | 2022-09-24 00:21

    笑わせようとして盛大にスベッているところに好感が持てる。「とにかく誰も文句を言えないマイノリティーだけが声を上げれるのだ。[…]さて、TikTokで万回数再生の若人を漁るところから始めようか」というくだりに、多数派の支持/承認を受けた少数派だけが声を発することができるという社会のゆがみを感じた。

  • 投稿者 | 2022-09-24 20:08

    厳粛に大真面目に始まってだんだんズレてくる感じがすごく好みです。猫同士で難しい話したりわけわかんないこと言ったりの会話で終わった方が良かったかもと思いました。
    最後、冴えない現実に戻るのが悲しすぎです。猫は10分くらいで死んじゃったんじゃないかって。商業主義に抗う文学の矜持なんて、世の中では屁でもないわけですが、屁のツッパリくらいしてほしいなー、と売れない先生に言いたかったです。

  • 投稿者 | 2022-09-25 21:44

    そんなにもめるなら多世界解釈におけるフィクション内存在なんてものは捨て去って、ややこしいこと抜きにコペンハーゲン解釈でいいのではないのでしょうか? ギャグがお寒いのは私も感じました笑

  • 投稿者 | 2022-09-26 10:58

    あがなう→あらがう ですかね?
    シュレーディンガーの猫、メタフィクション、コロコロ変わる一人称、なかなか難しい要素を盛り込んできてすげーなーと思いました。
    綱渡りのような文章はしかし、文学の袋小路に対する問題提起にしっかりと向かっていて考えさせられました。

    • 編集者 | 2022-09-27 21:37

      誤字ご指摘ありがとうございます! 修正しました。

      著者
  • 投稿者 | 2022-09-26 13:45

     前半の作中作、セリフの主が誰かなど、少し判りづらかった。個人的には後半の作家と編集者との価値観のずれや関係性をもっと読みたかった。/視点の変換は、場面変換に合わせたい。映画やドラマでいうと、カメラが切り替わるタイミング。カメラがそのままで視点の主だけが変わると読者は混乱してしまう。

  • 編集者 | 2022-09-26 16:58

    異世界って確かに哲学か、と思いつつ、色々ずっこけるのが面白い作品だった。先生、がんばれ。俺がシュレーディンガーだったら猫の代わりに天皇皇后両陛下を入れる。

  • 投稿者 | 2022-09-26 17:02

    90年代結構こういう作品多かったですよね。松尾さんもすっかりカミセン側ですね。ウェルカムです。

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