海。

巣居けけ

小説

2,793文字

もう、何も見えないよ……。

体の中で何かが溜まっていく音が、ふらついている頭の中で鳴り響く……。おれにはその何かがわからない。埋め尽くされていく感覚。無くなっていく感覚。居場所が無くなっていく『あれ』によく似ている。おれは歩道の隅に腰を下ろした。視界には抽象的な光が浮かんでいた。体が水浸しになり、それからサウナの中を忠実に再現しだす……。
「まあ! アナタもマーガリンを飲用しているのね!」バアさんが金属製のしゃもじを片手に、家の玄関から出てくる。おれは無視をして歩道を行く。途中でシスターとすれ違う。薔薇の臭いが強くて顔をぐしゃぐしゃにする。「これはおそらく高いものだ……」

おれは歩いている。おそらく二つの足を使っている。体が四足歩行を求めているせいなのか、どうしてもふらついてしまう。口から何かが垂れているような気がする。それがアスファルトの上に落ちて、その部分だけを濃くする。それが原因で誰かにつけられる。「なんだ。誰もいないじゃないか」

おれはポケットの中をまさぐる。出てきたのは小銭ではない。牢獄に居たような気分も、病棟の柱に手錠で縛られていた感覚もちゃんとそこにあった。苦味が舌から離れない。まるで脳をちょくせつ殴られた気分。顔を少し上げると、それだけで横長になっているカフェインの看板が目に入る。視線を戻すといつもの遊歩道があった。おれはいつの間にか立っている。いつの間にか座っていた。歩行を再開すると、それと同時にカメラからのシャッターが眼底に届く。

おれの背骨はとっくに曲がりくねっている。おれの眼球はすでに左右に動かない。おれはつねに自分の本当の姿をしっている……。まるでムカデのようだ。まるでカエルのような声だ。喉が上下を繰り返し、おれは体の中の骨同士が争いをしていることを察知する。

動かない首を無理やり動かした。誰かに動かしてもらっているような感覚を皮膚に覚える。視界が晴れていくと、より濃い味が頭髪を掴む。味は額を流れ、目や鼻すらも包む。やがて唇から口内にやってくると、そのまま全身が苦味でうごかなくなる……。

皮膚が炎と宴会を営んでいた。枯れ葉のように道に落ちた眼底の写真が、おれの中で恐怖を産んでいる。写真は独りでに動き出す。おれの眼底と同様の動きを見せる映像からは、やがて何かが滲み出る。たじろいでしまったおれの手には、薬物用の注射器があった。空っぽになっているそれを見たおれはさらに慌てふためく。灰色の風景が二転三転と動く。器具が手の中から跳ねる。そして畳の上に転がる。おれはダンゴムシのように丸くなる。するとまた、体に何かが溜まっていく……。

体が上昇していく。内臓が物理的に上昇している気がしてしまう。ここの清掃員の連中は、色がわからない蝋燭を吹き消したつもりでいる。
「このブラシ、どうして先端が曲がっているんだろう……」
「それは賭け事に使うからだよ」ロドが後輩のブラシをひょいと取り上げる。すると先端から小さい長方形の固形が出てくる。「たとえば麻雀とかね」

おれはそんな会話を壁越しに聞いていた……。

終業のチャイムのようなうるさい音が脳に響き、再び体が気持ち悪く満たされていく。たたみの上でダンゴムシになると、そのまま辺りは暗くなり、自分の感覚すらも消えていく。自分が虫になって、誰かの腕を這いずり回っている……。潰される両足はすぐに再生していく。

身体が、まだ残っている光を通している。ここはどこだ。手探りで空間を掴むが、空気のようなものが指の隙間をすりぬけていく。迷路に居る時と同等の重圧が両肩の骨だけにのしかかる。急速に時間が過ぎていく感覚にとらわれる。足元すらも喪失した。そこまでクると、もう元の自分がわからなくなる。

緑色の小さいヒジキがあった。それでもおれの眼球は光を見ない。街角にある弁当屋での騒動が懐かしい。温かい騒音が短い糸ととして分解され、そして暗闇の中に散っていく。

古くなっている太陽のような笑顔をしている看護婦が、おれの毛深い体を撫でている……。まるで熱湯のような手つきだ。みんなが、上の方角から呼んでいる……。誰もが下にこいと言っている……。

穴に落ちたおれを囲んで見下ろしている。白い眼球が無数に光る。おれの眼球はいつでも穴だった。意識がおぼろげで、まるで発泡スチロールのような音がする……。

おれはどこにいる? 「おれはどこにいる?」おれは自動販売機のボタンを永遠に押している。

頭がどこにあるのかが全くわからない。景色として見えるのは火炎で、瓶詰されている思考の中で、海の心地の良い流れに身をゆだねている。……コカインになってしまった。液体になってしまった。おれは優秀になってしまった? おれはすぐに立ち上がる。頭が動く。首の皮が故障した。それでも四肢を動かす。錆が出てきて辺りが鉄臭くなる。吐き気を感じてすぐに腹に力を入れる。吐瀉物が出ていったのかはわからない。いつでも吐き出しているようなきがしている。天井が壁のような気がする……。

辺りは、濃い緑色の葉をいくつも付けた木に囲まれていて、おれが浮かんでいた湖の水は、ミネラルウォーターのcmで見る水みたいに、不自然な青色で透き通っていた。おれは両手で湖の水を救い上げる。山羊の手でもカップは作れる。おれの両手は紙コップ。しかし、それで取った水はすでに砂。

おれの中の千と九百年代の、薬物常用者について話しておこう。
「彼らは自分の肌に穴を開けることに関して、一切の躊躇が無い。毛深い体を親指と人差し指でかき分けて、硬い皮膚を見つけると、すぐに注射を行う」とても目立つハットを被った若者は、液状のクスリが体内に入っていく感覚をつかむと、同時に自分が真っ当な人間になったと思いはじめる。それから歩道を歩く。しかし真っ当であると思い込んでいる連中は、常にサイドステップを忘れない。通行人が何に見えているのかはソイツ次第……。「小さい太陽が浮かんでいやがる!」
「スポーツ用の自転車みたいだ!」
「まるでお月見じゃないか……」ちゃぶ台を囲んでいる男。頭の蛙はとっくに腐っている。「どうして金属片を入れておかなかったの?」
「だって、どうして涙が出てくるのかがわからなかったんだもの……栄養のトンネルに放り込まれたみたいになっていったの」
「ねえ、そんなことよりも、さっさとそのクソ蛙をどうにかしてほしいんだけど」
「焼酎じゃ、もう足りないってことか」隅にある四角いテレビに蛙を投げる。液晶に張り付いた蛙は緑色の粘液になって消えていく。「これが生命の行進ね……」
「私は、はやく新しい燃料が欲しいわ。どうしても大仏にお祈りをしなくちゃいけないし、長い湖にも、はやく全身を浸さないと……」

ふすまを開け放った先の路地裏には、いつでも中毒者が居る。そこは彼ら彼女らにとっての実家であり、しかし楽園ではない。

おれは、どうしても自動販売機が欲しい……。

2021年10月13日公開

© 2021 巣居けけ

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