充電よ、迫るな。

巣居けけ

小説

5,884文字

ペンウィーという人間が最悪であることは間違いないが、彼は人類史上最も山羊の気持ちを理解できる人間だ。

誰もが小麦粉色のタートルネックを好んでいる。削岩の音が耳鳴りよりも誇張されている。すると街中のニワトリたちが騒ぎはじめ、アパートに住む患者が暴れだす。暗室には誰も居ない。街の誰もは深夜に高級な味噌汁を作りたがる。そして味噌樽に人質が居ることに気が付く。

朝のラジオでは流線型の音波が流れている。煉瓦で出来あがった市街地は、大体の土地がさらさらな肌色の砂。そよ風ですらも巨大な土煙を作り出すので、街で住む人々は瞼が発達している。彼らの瞼は色濃く、そして分厚い。肉がぎっしりと詰まっていて、血管も同様にびっしりと引かれている。焼いて食べると健康に良いので、重宝する貴族は多い。毎年、まるで山の中を探索する感覚で街に現れ、街の人々を大きなクワで捕獲する。鋭い黒光りの先端をうなじに差し込み、そのまま背中に取り付けた大きな籠に投げ入れる。それを行う貴族たちは立派な狩人だ。彼らは泥臭い農場からやってきた狩人。

三割が可決したレコードを鳴らす軍隊。彼らのうなじは接着剤でコーティングがされているので、狩人のクワをただの鉄くずにしてしまう……。
「おい。比喩を使うな、と言っておいたはずだ。どこまで砂嵐をまき散らすつもりなんだ?」朝食のパンをむさぼり、それから素早くシャツを脱いで、着込む。お気に入りの雑嚢を肩からぶら下げ、黒色軍手と革靴を装着。すると足元の赤いラジオに躓き、昨日のプレイで使った赤ちゃんのお人形をベッドの下から救出する。レンタン軍曹はいつでも多忙。

軍曹が外にでると、そのたびにどこからかクラシックの演奏が流れ出てくる。それはまるで歩道に漏れ出した泥水だ。しかし軍曹の耳に、患者たちの騒音は届かない。軍曹は耳が飛ばされていく妄想にうんざりとしながら、黒い軍人靴を砂嵐の中で鳴らす。

 

「さあ諸君。どうしてこの街は、こうも慌ただしい日々が続くのだろう。まるで鬼のようだな。それとも、焼き肉屋の醤油か? ああ、おれは断然、これを水餃子だと思っている」軍曹の低い声が会議室に響く。部下の軍人たちの顔には色が無い。そしてこの街の会議室は、どこもしっかりとした施錠がされていない……。
「ここは赤く、それでいてとても熱い。強烈な騒音でもなければ、莫大な被害が出ているわけでもない。しかし我々は、確実に困り果てている。どういうことかわかるかね? ええ?」

その迫力に怖気づく者、または死にかけミミズのように汚い床をのたうち回る者は誰一人として現れてはいない。軍曹は右耳をひねった。行き詰った際の癖だ。そのまま軍袴に黒紐で縛り付けた飴色の円柱単一電池を取り出し、凝視する。十人程度の部下たちも凝視する。軍曹が眉間に力を込めていくと、胃に残った昨日の酒が脳に回っていくのがわかる。沸騰している。やがて目の前の電池が、高級なお人形であると思い込む。
「ほら、これが諸君らの、頼もしい友達だ」軍曹は電池をテーブルに置く。部下たちは混乱の中に突き落とされ、すでに手足の中身はボロボロだった。すると電池は、壊れかけの蓄音機のような高い声でロシア語を披露する。部下の一人には、それがとあるDJの新曲に聞こえていた。またとある軍人には、それがあの患者たちの騒音に聞こえていた。電池はロシア語を切り上げると独りでに歩き、そこに居る全ての軍人の顔を認識し始める。
「貴方はどこから来たの?」一人の部下は電池の頭に相当するてっぺんの円形を指でこする。まるでスクランブルエッグに指を突っ込んでいるような感触の中で、部下は自分がれっきとした軍事関係者であることを自覚し始める。
「あの軍曹の手の中」どうしても居酒屋に行きたがっている。「でも、あの人の手は油の臭いがきつい……」
「それなら機械じゃないかもね」
「ハイボールはどう?」

他の二人の部下は、すでに螺旋階段のような自覚症状の中に取り込まれ、その中で大量の飛ぶ蟲に追いかけまわされている。椅子ごと床に倒れ落ちた一人の部下を無視して、蛸のように酒を勧める。
「これは赤いカクテル」
「ああ。まあ、良いかもね。でも、あの人は許してくれない」電池は路上生活をしているロシア人のような声を出す。さらに、無いはずの指を軍曹に向ける。「あの人は政治に無関心だ!」軍曹はテーブルから遠い位置にある別のテーブルに向かい、新しいお茶ポットから直接麦茶を飲んでいる。
「でもさ!」四人目の部下。「軍曹は絵の具を食べることができるぞ!」エナメル質の頭髪を、片手でパサリと洗い流している。実家のパイプにミルクを掛けたい衝動がある……。「ほら、この手には緑色が付いたよ!」右手には植物の葉のようなはっきりとした緑色があった。

 

電池はある程度の知性を有している。それは軍曹が自宅から軍用会議室にたどり着くまでの間、必要以上に電池の全身を自分の指紋だらけにしてしまったからこそ発生したものであり、透明だった。三日前に足を踏み入れた病院の中では、誰もが同じ帽子を被っていて、額の数字が病状の深刻さを表していた。軍曹は当時の様子を思い返す……。サイレンが外で鳴っている。タンカーに乗せられたホームレスが運ばれる……。帽子はまだ被っていない。タンカーは、二人の黒い肌の医師によって廊下を高速で駆けていく。しかし、高級そうな荷台に乗せられた貴族がそれを停止させる。
「おれは五万ドルを一気に動かせるんだ! さっさと道を譲れ……」
「いいや……こちらの方は足がつぶれている。すぐにペンウィー医師の元へ運ばなくては」
「ペンウィーだと? やつは占い師の真似事を繰り返す蛮族だぞ? それがここに居るのか? この大都会の病院に?」

黒肌の医師はひねり出した声で肯定した。
「なんだと……」貴族はすぐに自身が乗った荷台を運ぶ看護婦に唾を飛ばす。先頭の看護婦のうなじに黄ばんだ唾が飛び、びしゃりと粘りつくと同時に両肩を飛び上がらせて喘ぐ。貴族は自分の白棒を大きくさせて後ろを向き、そのまま泣きそうになっている後方の看護婦の唇に白濁した唾液を飛ばす。「さっさとこんなクソ病院から退散しろ!」

二人の看護師はすぐに荷台を病院出入り口に向ける……。

後方看護師の震えている肩を見つめる黒肌の医師は、すぐにタンカーをペンウィー医師の元に送り届ける。

 

ペンウィー医師のおでましだ。彼は緑色のゴム手袋に消毒液を染み込ませながら、堂々と手術室に入り込む……。
「やあやあ! さて、どうしてキミはこんなにひどい足の怪我を食らってるのかね?」手術台で横たわるホームレスの顔を覗く。すぐにガソリンのような臭いを鼻で感じ取る。「ああ、もしかして、味噌汁作りにでも失敗してしまったのかい?」
「いいや……あの、実は煉瓦が」
「いいや待て。とにかく私の話を聞いてほしいんだ……私は昨日の深夜。……いいや、おそらくアレはすでに今日だった。とにかく夜の暗い時間帯に、味噌汁を作り出そうとしたんだ。おかしいだろう? そんな時間に味噌を溶かしている医学者が、この世界のどこにいる? はは。六時間前、私の自宅に居たさ! それも、その時の私はとても無様な恰好だったんだ。無職で、さらに住居すらも無いキミは医者と聞くと、とても知的で、青系とか白系の色が抜群に似合って、格好良くて、眼鏡なんかを自慢げにかけている人間だと思うかもしれないけれど、事実は違う。彼らは自分たちのイメージを大事にしている。だって他人の命を預かるから。全然知らない人間の命を急に、自分の物かのように大事にするなんて、常人にはできない。クールなイメージをこすりつけて、なんとか『普通じゃない』を作っていかなくちゃいけない」騙す相手は客だけではない。自分自身ですら、イメージで洗脳しなくてはならない……。
「その話まだ続く? 足の治療をしてほしいんだけど。麻酔だけじゃあ何も終わってないでしょ?」
「始まってすらいません」
「ああ! 助手は黙っていてくれ。彼は私の客だ。……で、味噌汁を作り出そうと思い立った私の出で立ちは、現在のとは比べ物にならないほどにひどいものだった。ピンクと白の縞模様のパンツの上からは何も履いていなくて、醤油に似ている色をした肌に生えた、ヒジキすね毛が丸見えだった。なのに上半身は青色のシャツに黄色い白衣を着ている。白衣のひらひらが素足やすね毛に触れて気持ちいい……。どうしてだ? なぜ白衣なのに黄色なんだ? 前回の休日の初日は白だった。でもその休日が終わるころにはすっかり黄色だった。レモンでもこぼしたのか? 私は……」
「アンタの服装。今もそれと同じじゃないか……」

ペンウィーは一度無視をする。
「あのペンウィー先生。そろそろメスを入れたほうが……」
「黙れ! 私はいま、大事な客との商談中なんだ!」革靴が手術室の床を叩く。壁際にある輸血パックが全て落下する。「そんなに気になるのなら、アンタには応接間の掃除を命じるよ! 今日は軍曹がここに来る日なんだろう? 私はそういう権力争いにはキミと同じで興味がないが、キミと違って人体を使った実験を容認してくれる医学になら、祈りを捧げても良い……」

ペンウィーは、しいいいっと息を吐きながら、助手の目の前で両手を合わせ、天に向けて伸ばす。助手はその細々とした姿が、教会にある灰色のタワーのようだと思った。ペンウィーは両目を閉じて数秒すると手を振りほどき、そのまま助手の持っているメスを奪う。「綺麗にするんだぞ」メスで切りつけられた助手の右頬からは、粘土のような香りがする……。

ペンウィー医師は助手の血液が付いたメスをホームレスの腹に刺す。それがペンウィー流の医学であり、やり方だった。三十年の月日をこの治療方法だけで乗り切っているペンウィーは、自分でも計り知れないほどの信頼を、この方法に抱いている。
「ほれ、もう少しだ。お前、胸毛がすごいな……」ゴム手袋を忘れた左手でホームレスの胸毛を撫でる。自分とは違い豆腐のような肌から生えている毛は、ヒジキには見えなかった。「とても健康的だ。きっと、ふろ上がりにストレッチをしているに違いない」ペンウィーはピンセットを取り出し、ホームレスの胸毛の一本を引き抜く。ホームレスはそれにだけ反応して叫ぶ。触覚を折られたカマキリのようだった。

赤子のようなめちゃくちゃな叫び。ペンウィーは自分の鼓膜が簡単に敗れていく感覚にさいなまれる。ちょうどホームレスの胸元に穴が開く。しかしホームレスは自身がしているカマキリらしい、赤子らしい動きをみっともないものだとは思っていない。
「おい! もうやめろ。とっくに穴は開いている。お前の仕事は死ぬことではないはずだ!」ペンウィーは叫び、そしてホームレスの胸元の穴に右手を入れる。
「先生! 彼はすでに血液が足りていません!」助手が傍らの四角いモニターを指さす。「この数値を見てください。すでに平均から大きく下回っています!」
「うるさい! すでにこうするしかないんだ……この手段を執行することでしか助からない。そういう局面なんだよ。今は」

そしてペンウィーは穴から一本の円柱を取り出す。それは手の中にすっぽりと納まる大きさのものだった。血液や肉塊にまみれているそれを舌で丁寧に洗浄するペンウィーは、円柱から流れてくる鉄の味を察知していた。「これは電池だ」

そして手術室の扉が開かれる。そして軍服を着た男が入ってくる。
「おい。ここでイカれた実験的施術が行われているっていうのは本当なのか?」
「待てよ。ここでの主はおれだぜ?」ちょうどホームレスから取り出した電池をトレイに置いている。「それに、まだ彼に味噌汁の作り方を教えていない……」
「それでも、頭のおかしい天才は罰せられるべきだ」
「医療機関では医者が王だ!」ペンウィーは素早く動く。軍曹にメスを投てきする。しかしそれは、軍曹の濃い肌色の頬を少し切り裂いただけで、軍曹の後方のタイル壁に深く突き刺さった。
「とにかくそれは回収させてもらう」軍曹は赤い線の付いた頬を拭いながら、トレイの上の電池を取り上げた。ペンウィーは水に浸したワカメのような顔をして両手をばたつかせる。黒い皮の軍手で電池を確認した軍曹は、すぐに自分の雑嚢の中に落とし、そのまま顔を赤くしているペンウィーを無視して手術室を後にした。
「愚かな権力者どもが!」

 

電池はある程度の知性を有している。電池はそれを最大限に駆使し、周りの人間らに自分はお人形のような見た目をしていて、四肢がしっかりと存在していると認識させている。電池は、この世には薬物や酒を使わなくても他人を洗脳できると信じている。

テーブルをまっすぐ歩いた。足音は無い。しかし空気は振動している。周りの軍人たちには足音あがしっかりと聞こえている。全ての軍人の全ての目線が電池を見ている。

電池は軍曹が座っていた位置までたどり着く。軍曹はすでにお茶ポットから紙コップにお茶を入れることに成功していて、自慢の白い円柱を持ってテーブルを見降ろしていた。電池はそれをすぐに無視し、テーブルの上から綺麗に落下する。途端に軍曹や他の軍人たちの野太い悲鳴が聞こえてくる。それも無視をした。そして、すぐに駆けてゆく。埃や土くずが多い床を走ると、五十メートルほど先にオモチャの兵士が一つだけ立ちふさがっていた。木製の人型に兵士らしい勇ましい赤色の兵士服と、格好付けの黒帽子。口元には先がカールした髭を生やしている兵士。電池は特攻する。兵士は回れ右をする。木製の足が床に擦れ、不快な高い音が鳴る。電池はその瞬間にだけ足の動きを鈍らせたが、後ろから迫る軍曹の大きな手の影を見ると再び走る。気が付くと他の軍人たちは直立不動をとっていて、高らかに国歌を歌っていた。椅子ごと崩れ落ちた軍人でさえ、床に唾液を垂らしながら歌っている。正真正銘の祝福を受けている。電池の足はさらに速くなる。兵士の背中には長方形のくぼみがあった。それは電池がちょうどはまるほどの大きさをしている。電池は高速で走る。すでに自分の視界の中では、自分はただの電池だった。軍人たちにもそう見えていたかもしれない。口から飛び出ている国歌も終盤だった。

軍曹の人差し指の先端が後頭部に触れると同時に飛び出すと、電池はそのまま、兵士の背中のくぼみにぴったりとはまった。

兵士は緊急発進で部屋の出入り口に突っ込む。土煙で汚い床を木製の小さな足が弾き、軍用会議室を後にする。
「おい、まるで売れ残りのパン屋のようだぞ!

出ていく兵士に唾付きの怒号を浴びせたのは、蟹股のレンタン軍曹だった。
「愚かな権力者どもが!」

2021年10月12日公開

© 2021 巣居けけ

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