りんご一個、舌をまくあざやかさでシャネルのバッグにすべりこませた若マダムは、けっして屈さなかった。じっさい、映像にのこっているわけでもなし、ただ万引きGメンが見たというだけのこと、屈強たる精神力でどこまでも否定されれば、やがて分がわるくなるのはこちらの方であった。
「おやつ代わりに入れていたものなんです」
女は毅然とした態度をくずさなかった。
「スーパーでバッグに手を入れたのはうたがわれてもしかたのない行為だったかと思いますが、でもやってないものはやってません」
さっきからずっと、万引きGメンの安田はだんまりだった。押すのも引くのも、あらゆる技は出しつくしたのだ。
わたしは、しかし、この女を帰すつもりはなかった。落とすのが絶望的なのはわかっていた。その上で、この女ともうすこし話がしたいという気になっていた。
「奥さん、では、そのりんごをぼくに売ってくれませんか」
「良いですよ」
女に動揺はなかった。
「値段は奥さんが決めてください」
「二一四円でいかがでしょうか」
あきらかに挑発であった。うちのスーパーで売っている値段なのである。
「安田さん、すみませんが、更衣室からぼくのカバンをもってきてください」
そう言ってわたしは安田にロッカーの鍵をわたした。安田は事務室を出ていった。
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