父親が亡くなっていくらかの遺産がはいった一週間後の今日、杉田はあまりつよくにぎりしめたためにひしゃげて熱をもった馬券をその場で踏みつけて競馬場をあとにした。地面には彼が捨てたほかにも無数の馬券があちこちにうち捨ててあって、負け犬どもの冷めきった情熱がはなつかびくさいにおいが亡霊のごとくそこいら一帯をおおっていた。雨がちらついてきた。
「どうだったよ」
入口で待っていた友人の塩崎が彼に傘を手わたしながらそう訊いた。
「俺が買うと来ないんだよ」
杉田は苦笑して言った。
それから二人は傘を刺して塩崎が車をとめた駐車場まで歩いた。
「馬券はどうしたんだ」「捨てた」「持ってれば俺が買ってやったのに」「どういうことだよ」「なんか今、そういう気持ちになってたんだよ。三十代無職のかわいそうなお前の馬券代くらい俺が払ってやろうか、みたいな」「ばかにすんな。……じゃあアレだな、前に言ってた過払い金が戻ってきたんだな」「当たり」「いくらよ」「百四十万」「すげえはなしだよ」
車に乗り込むと塩崎はエンジンをかけて、国道に沿って車を走らせた。車内には流行歌がながれる。
「何食いたい? きょうは何でも奢ってやるよ」
と塩崎が言った。
「……中華が良いな。あ、やっぱり何でも良い」
「中華、な。判った。それなら良い店を知ってる」
それから三十分間、車は右往左往、来た道をかき消すようにむちゃくちゃなルートを走り、あやしい路地に入ってしばらく進むととつぜんに停車した。その道幅はわずかに車一台分であった。
「おいおい、こんなところに停めて良いのかよ。通行人の邪魔になるぜ」
「通行人なんかいないから良いんだよ」
塩崎はあらっぽく言って電工版に『ラーメンショップ』と字が光る、大衆食堂のような、それでいてただの民家のようにも見える建物の赤い暖簾をくぐっていった。杉田はそれで納得のゆくはずもなかったが、あとで誰に怒られようと自分の知ったことではないとなかば呆れるかっこうで彼につづいた。
うすぐらい店内は小汚く、冷暖房設備もろくに整っていないのか、ひどくうすらさむくてじめじめした。それでいて外見からは想像もつかないくらいむだに広く、ゆうに三十席はあると見えた。客はほかに誰もおらず、店員の出てくるけはいもなかった。
「ほんとに大丈夫なのかよここ」
「大丈夫だよ。安心しろって」
と塩崎が言うと、店の奥の方から「いらっしゃい」と女の高い声がした。それからほどなくして、声のした方から、ぬっと、まるで浮き上がるようにしてあらわれた女は、割烹着を着た、一見して幸のうすそうな、白い肌をした美人であった。
「あら、塩崎さん。また来てくださったんですね」
と美人が言うと、塩崎はにわかに色めき立って、
「いやあ、ねえ。週に一回くらいはねえ、外食をさ。それに、奈緒子さんのこともね、心配だしさ」
とうわずった声で言った。
奈緒子は、そのことばのふくむところを充分に理解していますよ、しかしあえて何も言いませんよ、といったふぜいで塩崎ににっこりとほほえみ、それから杉田に目をやった。「いらっしゃいませ。ようこそおいでになりました」
杉田は「ああどうも」とだけこたえて、黙した。なんでもいいからさっさと座りたかった。
塩崎はそんな杉田の思いに気づかないらしく、ああだこうだと奈緒子に話題をふっては、上手に受けながされ、それでもどうかして彼女との会話を盛り上げようと必死になるあまり、杉田の競馬惨敗記録についてかたりだした。彼の会話の中で杉田の連敗記録は五倍に引き伸ばされ、負けた金額はゆうに百万をこえたが、それでも奈緒子の興味を引くには足らず、聞きおえた彼女は「お気の毒に」とだけつぶやいて、あきらかに退屈そうであった。杉田はじぶんが幸のうすそうな女に嘲笑われることすらさえされずに、ただ鬱陶しがられておわった話題そのものであるように思えて、無性に死にたくなった。
「そろそろ、座りたいのですが」
と、思い切って杉田が切り出した瞬間、彼の背中を、
「おい」
と、どすの効いた声がつらぬいた。杉田と塩崎が振りかえると、高身長でガタイのよい、あきらかにその筋の人間と思われる男が入口で仁王立ちになって、ふたりににらみを利かせていた。「車、じゃまなんじゃ!」
「じゃまだってよ、塩崎」
杉田が塩崎にだけ聞こえるよう、小声で言った。
「くそ、じゃまなのかよ……」
と言った塩崎は、はてしなくなさけなかった。が、奈緒子さんのてまえ、はてしなくなさけないままではすまされないと思ったのか「でも、とおれないほどではないでしょ」と、謎の反撃に出て、「とおれんほどじゃ!」と一蹴された。杉田は塩崎に、この際なんでも良いから謝ってほしいとねがった。というか、どう見てもこれはこちらに非があるわけなのだから、そのようにつっかかる意味が判らなかった。杉田は神に祈った。
杉田の祈りもむなしく、あたりには、押しつぶされたような沈黙がつづいた。
杉田は、俺は死んでいる、一週間前、親父の代わりに死んだのだ、と思い込もうとして、ふと隣の塩崎を見ると、今までに見たことのないような、覚悟を決めた男の顔をしていたので、次の瞬間のことを考えてまったくうんざりした。
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