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ここ十年

かきすて(第7話)

吉田柚葉

量子力学と朱子学は非常に似ている。「気」を「粒子」とすれば、ほとんどそのままである

タグ: #サスペンス #ミステリー #純文学

小説

2,004文字

 たとえば、ろうそくの炎。墓まいりの習慣がない私は、ここ十年くらいじっさいに目にしていない。それでも、想像しろと言われればできないこともない。くらやみの中、風もなくゆらめくそれは、だれかの顔をてらすけしきだ。げんに、ぼんやりと女の顔がうかんでいる。だれか。妻である。それも、きのうきょうの顔ではない。若さのさかりにはげしく燃える顔だ。おそらく十年以上むかしである。そのまなざしの向かうさきは、むろん、炎ではない。炎がてらす、男の顔である。この男がだれであるかは判然としない。つまり私ではない。若かりし日の妻と男は、一本のろうそくが放つ光でたがいの顔をてらし、恋人らしく見つめあっている。

 あるいは、海。なぜ行かないのかと問われても困るが、ともかく十年は行っていない。妻のひとみに燃えるのは炎と見えたが、どうやらちがうらしい。浜辺にぶちまけるごとくうちつける水しぶきが、その正体であった。妻の隣には、これも男。光の季節にあって、はだか同然のすがたとあれば、こいつがだれかなんぞすぐに判りそうなものだが、この痩せぎすの青びょうたんにはついぞ見おぼえがない。となりにいる妻が、また十年以上むかしのすがたらしいのを見ると、おそらくは同年代、二十歳そこそこなのは確実かと思われる。確実なのはそれだけであり、どこの馬の骨かはさっぱりである。

 または、公園。これは毎朝、通勤の際にそのまえをとおる。十年前に、ここに越して来たときからずっとあるせまい公園だ。むろん、七時すぎにそこをとおったところで、まだだれもあそんでいない。帰宅の際、十九時頃にふたたびそこをとおっても、やはりだれもあそんでいない。時間が悪いか。そう言っても、ブランコのクサリは外され、草はのび放題とあれば、どうも時間の問題ではない気がする。死んだ公園だ。では十年前は健在だったかと言うと……、その記憶は曖昧である。だから仮に、そのときにはまだ健在だったとしよう。子どもがそこいらを駆けまわる。すこしはなれたところで、それを監視する男女もいる。父親であり、母親である。痩せぎすの青びょうたんであり、妻である。こうなると、さしもの私もさすがにギョッとする。ガキは五歳くらいに見える。とすれば、妻が十五とか十六とかにこしらえた子ということになる。だからこれは、げんじつの妻の子ではないだろう。近所の子どもがあそぶのを、ふたりで観察しているのだ。そう思えば、まわりにはほかに幾人も子どもがいるし、それを見まもり、あるいは井戸端会議に花を咲かせる母親たちのすがたもある。そうすると、このふたりの存在は、この公園にあってあきらかに異質だ。

© 2020 吉田柚葉 ( 2020年3月7日公開

作品集『かきすて』第7話 (全40話)

かきすて

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