ヤルダバオト・プセフティコス

ヤルダバオト・プセフティコス(第1話)

ハイギ

小説

7,398文字

Ⅰ.鳥籠

Ⅰ. 鳥籠

人間を支配したければ、その心を支配しなければならない。しかし、人間を骨の髄まで服従させたとしても、その心までも支配することはできない。私にとっては、置かれた環境がそうさせている。より具体的に言えば、既存のシステムにおいて、人は確かに(表面上であれ何であれ)支配を受けてはいる。彼らはおそらく自身の卑小さを、無力さを日々噛みしめており、まとまった姿を取って蜂起するということは、現状に限っていうならば決してあり得ないだろう。ところが、一人の人間の抵抗が他者の共感をよぶに至り、危険分子のいくつかを形成することが、将来においてあり得ないわけではない。にもかかわらず、一定数の人間を一括支配するという型のこの既存のシステムは、人の心を掌握するまでには至らない。このシステムへの対抗措置としてのウイルスもまた、人間を服従させる性質のものではある。それはもちろん、病原体がそういう性質のものであるうえに、システムの代理、代替としての性質を持つがゆえにその姿は元のシステムのそれに酷似しているのだ。だから、それにもまた、心を支配することはできないのである。
私は太陽系外生命体ヤルダバオト・プセフティコスの養殖に成功して二年になる。この生物(と言っていいだろう)の主たる属性は、種族ごとに(と言っておこう、少なくとも何らかの集団、集合体が彼らの内には形成され、一つの群を作るのである、あるいはある群は他のある群に対して排他的、もしくは不干渉である)、一者を崇めること(というのは詩的表現に過ぎるが)、一者に絶対的に服従するというものである。と言っても私はもちろん、ヤルダバオト・プセフティコスの言葉を解するわけではない。そもそも彼らに言葉があるかどうか。こんなゴキブリのように醜悪な見た目で、ダンゴムシに毛が生えたような微小な生命体には、少なくとも我々人類と同列の感情形態は存在しないだろうし、私は観察によって彼らの一者への、一個体への絶対的服従をみるだけである。彼らの内部に隷属の感情があるとか、あるいは逆に彼らを統べる一個体の方に、支配を容易にする何かがあるとか、そういったことは全くわからない。ただし一つ言っておくとすれば、私はヤルダバオト・プセフティコスを数百個体、先天的な群ごとに、あるいは後天的、人為的な群ごとに(この分類については今は説明を省こう)、いくつかの水槽に分けて飼育し研究を重ねた結果、≪彼らを統べる一者へ服従し得る「意識」を人工的に産み出す≫ことに成功した(繰り返すが、ヤルダバオト・プセフティコスについて理解しているのはきっと表層的なことなのだけれど)。それは、ヤルダバオト・プセフティコスによく似たダンゴムシのような形態の体躯を持ち、個別具体的な一者に服従する「意識」にいつまでも留まるものであった。しかし私は、この経験をもって、いかなる群の、いかなる個別性・特殊性を持つ一者にも、それぞれ対応し得る「意識」を造ることができるようになったのである。ただし注意しておかねばならないのは、それがあくまでもダンゴムシの姿を取っていたこと、加えて「それぞれ」という前文の言葉が指し示すように、「意識」が服従するのはあくまでも一個体に対して、に留まるということである。けれどもそれは私の技術力の限界ではない。むしろ、これは一つの個人への、一つの個人のみへの絶対的服従に近づく鍵である。
さらに、その「意識」、性質は、≪一個体によって≫規定されるものである。換言すれば、≪一個体の存在を前提に、アポステリオリに≫生み出されるのであって、決して≪服従だけが純粋な形であるのではない≫。つまり私は結果的に、服従という機能を、対象ありきで造り出したのだということになる。それは、私の考えでは、より程度の大きい従属を可能にするはずである。
この「意識」は、本来的な意味での「意識」ではもちろんないだろう。というよりもこの「意識」は、≪無意識的に一個体に服従する≫という属性、機能である(ヤルダバオト・プセフティコスに代替し得るこの「意識」の機能は、一個体への服従だけではない。他にも、ヤルダバオト・プセフティコスには集団で自身のルーツに関わる同一の記憶を持つなどの属性がある。ただ、ここでは蛇足になるから、触れないでおこう)。さらに言えば、属性や機能といったものは主体の外見的な振る舞いに関連する(認めざるを得ないが、私の産み出した機能は厳密には心とは切り離されて存在する。この「意識」を持った人は皆、心とは裏腹にそれを機能させるのだ)。
私が実験的に設置した村では、このヤルダバオト・プセフティコスの意識を持ち、共通の存在に服従した状態のアンドロイドが共同生活を送っている。この村の住人は人間の姿をしているが、実は彼らが神聖化し、服従しているのは水槽の中のみっともないダンゴムシの一体なのである。
ここまで来れば、話は簡単であろう。私が言いたいのは、人間の心を支配することはまだ完全にはできないかもしれないが、ただし既存のシステムやウイルスよりはまだマシなやり方を見つけたのだということである。程度の差ではあるかもしれないが、とは言え私の「意識」の従属性のレベルは、そもそもヤルダバオト・プセフティコスの一者への服従の度合いが高いことに加え、従属対象にアポステリオリに生み出されるものであることから、極めて高い。それに、特定の一者への服従を強いるにあたって、私の産み出した方法を用いるならば、比較的楽な点がいくつかある。例えば、私は確かに対象ありきで服従を作り出すけれど、それは必ずしも服従を強いられる側がその対象に服従する中において何らかの個性を持っていることを要請しない。一者を分類の指標とすれば、確かに服従者の個性は一者ごとにそれぞれ異なってみえるであろうが、あくまでも私のは人工的な属性、機能なのだから、服従者の先天的な個性(私は今アンドロイドに「意識」を持たせる話をしているのである、決して人間の頭にこの服従心を植え付けようとは思っていない……ということにしておこう、というわけで私がしているのは、服従者の先天的個性、つまり……つまり、アンドロイドの身体のことを言っているのだ)とは全く関わりがない。……もう一点、私の「意識」の優位性を挙げるならば、既存のシステムはあくまでも集団内の人間を監視すること、あるいは自分が監視されていると人間に思わせることで個人を支配するものである。つまり、単純化してしまえば、支配する側の機能、能力、特性が服従者を無力化し、服従を生んでいるのである。一方の私の発明は、言うまでもなく、服従する側が持つ、≪一個人に服従するという≫能力である。……

 

* * *

つづいて、「既存のシステム」についてもう少し仔細に物語ることにしよう。≪人間を監視するための≫現行のシステム、サイボーグである一般人の脳内に仕掛けられた人工知能<ヒオウギ>は、上皇ニウグル・ヒョワンエによって統括され、仮にもニウグルの意に沿わない言動が個人によってとられた場合、個人はその<ヒオウギ>を通じて殺害される。より詳しく言えば、脳内の<ヒオウギ>の抹消によって、人体は癌化し死に至る(癌化による死だけでなく、<ヒオウギ>の死に起因する衝撃死のようなものもごくたまにみられる。それは個人の持病などと関連があると言われている)。また、ニウグル自身の破壊、死によっても<ヒオウギ>を装填した個人は死に至る≪とされている≫。
ここで問題となるのは、ニウグルとは誰か、ということである。ニウグルの正体は公然の秘密となっている。彼は、彼もまた、人工知能なのである。ニウグル及び<ヒオウギ>を造ったのはハイ・テイリという人物であるが、(まったくありがちな話であると私は思うのだが)彼は自分の産み出したニウグルがここまで監視能力を強大化させるとは思ってもみなかったのである。
ハイ・テイリはニウグルと<ヒオウギ>を、地球及びその周辺を征服するために産み出した。今となってみれば些細な違いではあるが、ハイ・テイリの活躍した当時、征服者であり<ヒオウギ>を身につけた<新人類>と、地球に存した勢力で旧型の人工知能に統括された<旧人類>の差異は、<ヒオウギ>の圧倒的な優位性によって際立っていたのである(<ヒオウギ>は冥王星からやってきたと言われる。つまり言うまでもなく、<新人類>が征服者となったのは地方分権のお陰である)。確かにハイ・テイリにはニウグルの力を高める必要があっただろう、私の考えではハイ・テイリは精神を病んでおり、また指導者としての力量はさほどのものでもなかった。ただ彼は技術者としては一流であり、自分の力量の乏しさを補うために、ニウグルの能力を高めたのである。
ところで、ニウグルが個人を、ニウグルに対する忠義心を失ったとみなすとき、それは個人の具体的行動、表層にあらわれる行動によってのみ判断されているのである。要するに、良心の自由は保障されているのである。しかしそうは言っても、我々は常にニウグルに<ヒオウギ>を抹消される懸念を抱いて生きており、そういった恐怖心によっては言動のみならず思考、意思に制約を受けているとされる。
ここまで概観して私は、<ヒオウギ>が人の心を支配することに成功しているのではないかとの疑問に立ち会うことになるだろう。結論はノーである、というのも、ハイ・テイリの時代にも、自らの主張する所のために命を投げ出す者はいたし、ハイ・テイリの時代から崇十年が経過した私たちの時代においては、ニウグル自体の力が相対的に弱められているからである。相対的にと言うのは、ニウグル自体の能力に変化がないまでも、<ヒオウギ>あるいはニウグルに対抗するウイルスが発明され、それなりの効力を発揮していると言うことである。つまり、現実の世界において、<ヒオウギ>は人間の心を支配できたりはしない。ところがもちろんこれだけでは、前述の疑念に対して正確に答えられてはいない、この疑念の根底にあるのは、これから先の未来において、いかなる条件の下においても、歴史がいかなる展開の下にあったとしても、人類を支配することのできる人工知能が現れるのではないか、ということだからである。そのような人工知能が、我々の心をも支配することがないと、果たして言えるのか。
しかし私はこの問いにも否を答えとするだろう。服従とは、支配する側の能力によって起こる現象ではない。ニウグルがいかに監視能力を高め、個人に抹殺の懸念を抱かせようと、個人の方に隷従の≪能力≫が備わっていなければ、いつの日かそれは打倒されるのだ。

 

* * *

服従が支配者に備わる能力によってではなく、服従者の、服従する能力のために起こることを妄想した、かの手記の作者、彼の孫こそ、私がこれから記述しようと思う対象である。とはいえこの孫ディン・ハン・トゥオンが地球(テラ)の上皇領で誕生したとき、祖父は既にこの世にいなかった。世界の醜悪さに嫌気を覚え、醜い顔立ちのアンドロイドばかりを生産していた祖父は、結局のところ死を恐れて醜態をさらしつつ老衰によってこの世を去ったのだった。ハン・トゥオンの家系、ディン家は皇帝にとって外戚にあたる。祖父の代から徐々に勢力を伸ばし、上皇の通訳者エビルンの地位を得た。その息子、つまりハン・トゥオンの父親は残虐なことで知られたエビルンであり、地方の五つの王位を持つ。この五王の邸は小宮廷とも呼ばれた。上皇や皇帝の住まいを凌駕するほどに豪著であり、規模も大きく、また無視できない勢力としての兵力を具備していた。彼は自身の領域において皇帝派の拘束、収監、大量虐殺を行った。それだけではない。五王は自身に親しい人間についても、気まぐれで殺すということがよくあった。ハン・トゥオンは、殺人が日常茶飯事の環境に生まれた。実際、五王は息子の誕生を聞き及んだまさにそのときにも、例の気まぐれで人の舌と指を切り落としたところだったのである。五王の殺人趣味の萌芽は彼の子供時代に遡る。彼は、後に生まれてくる息子そっくりの容貌を持つ彼は、そもそもは小動物を虐めるという卑屈な遊びを楽しむ子供であった。それが周りに溢れる醜い顔のアンドロイドに、ひいては人間に代わったとしても驚くにはあたらない。そして初めて人を殺したとき、人の首に刀を突き刺したとき、そこから血が噴き出すのを彼は見た。子供の五王はまるで自分の体がそうなったかのような錯覚を覚えた。彼は貧血を起こしつつ、気を紛らわせるために地に倒れたその人の首に刀を刺したり抜いたりを繰り返した。私はこの人に恨みがあるわけではない、少年は思った。存在を消したいと思ったのでもない。ただ、この人の存在は私においては必然ではない。いや、必然であるとみなすことはできない。いなくても良いということだ。彼は、いなくても良い人間、彼には必要のない人間が過剰に存在していることに気づいた。こうして、彼の殺戮は始まったのである。
私はこうした彼にとって必要な存在がその息子であったという美談を繰り広げたいわけではないが、ハン・トゥオンによれば、五王は彼の一人息子を盛大に愛していたのである。五王は息子をどんなときにも同伴した。ニウグルの前にも、上皇領の隣の皇帝領にも連れて歩いた。ところが、五王が死んだあと、ハン・トゥオンはこれまた盛大に父親を憎むようになるのである。何しろ幽閉の憂き目にあうことになる原因が、自分の父親だったのだから。五王はその執拗な残虐さとそれによる実害に加え、皇帝の宮殿の廊下で侍女と交わり、皇帝の後宮の女と寝たことから、皇帝側に軽蔑され、恨みを買っていた。恐れられてもいたのだが。五王がついに、多大なるリスクの中、謀叛の疑いで拘束され、次いで処刑台に登るのに伴い、その息子ハン・トゥオンもまた捕らえられ、罪を犯した皇族や外戚、貴族などを閉じ込めておく檻の暗闇の中へ、すなわち鳥籠へと幽閉された。彼はここで14年を過ごす。

 

* * *

ディン・ハン・トゥオンの父親の頭に、殺人を肯定する思想のようなものがあったとは考えにくい。ではなぜ彼は大量虐殺を主導し、そんなにも多くの人を殺害したのか。彼においては、殺人を善いものとは思っていなかった形跡すらある。彼が息子に対してと同様、最後まで殺害しなかった人びとに対しては、極めて心優しく、また遠慮がちな人間であったことが知られる。にもかかわらず彼は人を殺すことに固執した。私が思うに、それは人を服従せしめたという快感を得るためであろう。彼によって命を落とした人間は数えきれないが、彼は自分の命を犠牲にしてでも何らかの主張を行うような人びとに、敢えて手を下すことをしなかった。彼が望んだのは、ただ娯楽、快楽の源泉として、一人の人間が自分に絶対的に服従する瞬間を現出することであり、彼の権力が一定程度この国家において、少なくとも彼の支配する領域において浸透している以上、命を顧みないような連中は少数派であり、そういった連中は支配と服従の快楽を提供しないばかりか、現実的にあるいは政治的にも、五王の脅威ではあり得なかったのである。したがって、彼の殺戮の標的は、臆病で政治についてろくな付言をしない一般人、そもそも自分に従う立場の周囲の人々という具合に、一部の勇気ある人びとを除外した形を取ったのである。
五王にとって大量虐殺は、まだ政治的目的によるものと言いきれるのかもしれない。むしろ我々は、それとは別の卑小な殺人の数々に目を向けなければならないだろう。五王の殺人の始まりは小動物の虐待であり、それが人間にまで拡張されたとのことであった。だがその殺人の契機は、徐々に変容していく。つまり、支配と服従の快楽を得るための殺人への変容である。これらの殺人は、五王として絶大な権力を誇った彼が、その手にあるはずの権力を実感できていなかった可能性、支配の実感を持たなかった可能性を示唆している。彼の上にニウグルの存在があるから、王の上に皇帝が、上皇がいるから、というだけの問題なのだろうか。ニウグルの監視能力、支配能力はこの時期、相対的に衰えをみせ、ニウグルに<ヒオウギ>を殺害されるとの懸念も、多くの人々にとって僅かなもの、例えば交通事故に遭う確率への懸念くらいのものに変わりつつあった。このような中で五王は、自身の領地内で、無許可で<ヒオウギ>とは別の監視システムを次々に試した。しかしどれも、五王を満足させることはない。確かに、監視システムに任せた統治では、五王という一人の人間に対する万人の服従を実現することは困難であろう。簡単なことだ。監視システムの管理人たる五王ではなく、万人は監視システムそのものに跪拝する。だが実際のところそれは、一人の人間への服従ではない。五王が渇望したのは、自分に対して人々が跪くことであった。服従とは何だろうか。自分の意志でないまったく好ましくないことを、外在的な力をかけられて、やらざるを得ないこと、それも、恐怖のために。こうだろうか。そう、五王の考えでは、その人が恐怖を感じていないとしたら、それは服従ではない。ただ命令を遵守しただけである、ただ自分の意志を諦め、別の方法を取ることにしただけである。五王にとって、人は五王に恐怖を感じていなければならなかった。けれど、その人が本当に服従しているか、恐怖を覚えているか、などということが、どうして五王にわかるだろうか。五王は舌を抜いたり指を切り落としたりするし、または斬ることも厭わないけれど、五王に手を下されたことになっている人の多くが、実は自殺である。ただ恐怖を与えるために、指を切り落としたりする必要があったまでのこととも言える。五王によって与えられた恐怖のために、自分の命に手をかける人間、これが五王に究極の快感を味わわせたのである。

2020年2月29日公開

作品集『ヤルダバオト・プセフティコス』最新話 (全1話)

© 2020 ハイギ

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