靴ひも結び

早朝学植物誌(第6話)

多宇加世

小説

3,941文字

読み切り掌編。
読書していて読み終える頃ふと、家族から離れてどこかに行った時と同じ気分になることがある。
その行き先で家族のことを振り返ることや、そこに家族の知らない私があるということ(話したいけれど伝えられない出来事があるということ)は、
まさに読書そのものだったりするのではないかと思う。個人的な体験であありつつ、そうでないような気もする。

父はお客様が来るたび、

「母趾球を意識するんですよ。そうでないとかかとが滑ってすってんころりん」

と偉そうに喋った。退院したばかりの母の病気でどれだけ自分が苦労しているか、また、どれだけ人間の(つまり母の)病気に精通しているかを自慢した。さらには、

「この家ももともとは国内墓石シェア一、二位のホガーチョさん(私にはいつもそう聞こえる)の事務所でね、ほらご覧なさい。そこにもここにもコンセントがたくさんあるでしょう? 昔は大層、人を雇っていたんだ。人が多くなればなるほど、コンセントは必要ですからね。そして、そんな私もね……」

と折しも引っ越してきたばかりのこの家の元の持ち主がいかに立派な人か、さらには自分自身の身持ちがその人とと同じであるかのように自慢するのだった。引っ越ししたてなのでお客はいやいやながらも挨拶しに訪ねてくるしかない。前の持ち主がどんな人か、余所から越してきた私たち家族より、近所に住むお客たちのほうが元から知っているのに。お客たちがいやいやなのを父は気づいていないではしゃぐ。

窓という窓は母の顔写真が貼られていた。若い頃の写真だ。写真を大きく引き伸ばして、ぞんざいにハサミで丸く切り抜いてある。

時計の針は娘の私と兄と母の見ている間にとっくにすべて弾け飛んでいた。

それは父の仕業だ。

元の家から持ち込んだものはすべてパーになった。父がこの家には不釣り合いだと思ったものは皆壊してまわった。家も立派なのだから、置くものも分相応、というわけだ。壊れて顔写真のようになった時計の文字盤も、母の写真と一緒に窓に貼られた。父の趣味は分からない。

いっぽう入退院を繰り返して気の暗くなった母は米を炊く時、

「一ごーう、二ごーう、三ごーう」

と表情の無い低い声を伸ばして秤にかける。

それが兄の神経を苛立たせるらしい。その度、ドアを開けて怒鳴る兄のこめかみに血管が浮くので、看護師ではないが私は点滴針でもそこに刺してみたくなる欲求に駆られる。私の部屋のベッドの下には、看護師に憧れるが故、病院から盗ってきた点滴針やガーゼや入院患者の私物の、イヤフォンなんかで溢れた箱が置いてある。私は見舞客の格好で病院へ入り、トイレで看護師白衣に着替えて色々盗ってくるのだ。その箱が私のいないうちに覗かれているのを私は知っている。おそらく母の仕業だろう。以前、母のシャツから抗生物質の錠剤の殻が出てきた。それは母には処方されていない。だからこれも私の箱からちょろまかしたものだろう。私も他所からちょろまかしてきたものなので、文句は言えなかった。母は退院してからというもの、若くして死んだ母の弟が撮影した大判のネガフィルムを窓に貼り付けて、光を通して眺めている。何か感慨にふけっている。

両親とも窓に何か貼り付けるのが好きなようだ。ただ、窓の数は限られているので、父と母の領土争いが自ずと勃発している。父はフィルムをこっそり剥がし、母は堂々と自分の顔写真と文字盤を剥がす。

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2019年11月25日公開

作品集『早朝学植物誌』第6話 (全10話)

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© 2019 多宇加世

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