それから一週間、塾に勇樹くんの姿はなかった。夏期講習期間に入り、この間に勇樹くんは英語と数学で各三コマずつ取っていたのだが、すべて無断欠席だった。俺は勇樹くんの担当講師二人から糾弾された。勇樹くんが来なかった場合でも事務給は出してほしいとの彼等の要求を呑むことで二人の怒りは治まった。もちろん、それらは俺のポケットマネーから出すことになる。
頭が痛いのは勇樹くんの件だけではなかった。佳穂ちゃんの友だちの親から苦情が来たのだ。なんでも、一緒に模試会場に行く約束をしていたにも係わらず、当日、約束した駅に佳穂ちゃんが来なかったらしい。結局、その子は自分一人で電車に乗って模試を受けに行ったとのことだが、二人で受験会場に行くのを指示したのが俺だということで、怒りの矛先は塾に向った。電話の向こうの相手に向かって、俺はネクタイが揺れるほど深々と頭を下げた。謝罪は二十分ほどもつづいた。Aコマが始まる十分ほど前に来た電話ではあったが、夏期講習中ということもあって、塾の入口は騒々しく、俺の見苦しいところを多くの生徒に見られてしまった。
電話を切ると俺は、ミントタブレットを十粒程度、口に放り込んだ。自動ドアの向こうのけしきを眺めた。向かいの交差点では絶えず車が行き交っていた。夕映えすさまじく、空と道路が一体になって豊かに燃えた。そしてその中心には、ぼんやりと信号機が浮かんでいた。地の果てにいる。俺はそう思った。
電話の向こうの相手は、二人で行くことを指示した俺の責任を問うた。しかし、その指示は俺が自分で考えて出したものではなかった。佳穂ちゃんのお母さんからお願いが来たのだ。珍しく返信があったと思えば、「佳穂が塾で出来た友だちの西野彩ちゃんと仲良くしているらしく、一緒に模試を受けたいと言っている。出来れば、塾長の方から彩ちゃんにお願いして欲しい」云々といったものであった。佳穂ちゃんが彩ちゃんに依存傾向にあるのは傍目にも明らかであり、おまけに精神的にややこしい状態にある佳穂ちゃんのことだから、もとより俺には気の進まないお願いだった。つまり、こうなるような予感は始めからしていたのだ。夕映えの道路を諦観が泳いだ。
「せんせー、これどうすんの。」
その声で俺は息を吹き返した。中三の刀根修一くんだった。彼が指さしたテキストを見ると、正負の数についての例題だった。
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