不幸平

中野Q子

小説

4,078文字

何を求めたら、何を奪ったら、この子は幸せだと思えるんだろうか。

「あ、雨降ってる」

と、私は笑顔になった。
「ごめん」

と、彼も恥ずかしそうに笑った。ゆらゆら揺れる彼の鼻先や鎖骨や長めの髪の先から、さらさらとした汗の粒が私の額や頬や胸に降ってくる。季節は夏。双方冷房は嫌い。体温で蒸す車の中。
「さゆりが好きだ」

そう囁いてキスをした彼には妻がいた。人のこんな好意に、私はふれたことがなかった。彼は苦虫を噛み潰したような苦しい顔を、私に見せまいと(あるいは私の目に映るであろう自分を見るまいと)私の頭を自分の胸に抱え込んだ。
「おれ、こんなこと言える立場じゃねぇんだけど」

私には、こんなに純粋な愛が許されないはずがないように感じた。初めてキスをしたのも私からだった。

荒川を隔てて東京の光は遠い。河原に停めてエンジンを切ったホンダフリードの車内は真暗闇にほど近い。何かに後押しされるようなこの人の往来によって、私は幸福に、こう、背中から押し込まれて行った。

私と出会うまでおそらくサトさんは幸せだった。いや、詳しいことは何も知らないけれど、仕事と家庭を往復して生活を営んで、バイクと私に時間もお金も割ける余裕がある。世間ではそれを幸せと呼ぶんだろう、くらいの私の勝手な認識で、サトさんは幸せだった。初めて彼と会ったとき、「この人は絶対に私を抱いたり踏み躙ったりしないんだ」と思った。そんなふうに、明らかにそんなふうにあったからだ。私の性的逸脱をしばらく見守り、守り、次第に感情的に怒るようになった。

一呼吸ついて、汗を彼に拭ってもらって、体を冷まして服を着る。サトさんも私も髪を束ねる。どうせあとは帰るだけで、化粧を直す必要もない。
「あっちゅい」
「あちゅいね〜」
「ヒェ」
「冷え?」
「ううん」
「寒くなったら言うんだよ」
「ハイ」

ダッシュボードの時計も、私のアイホンも、21時過ぎを指している。サトさんは荒川の土手から車を私の家の最寄り駅、一つ手前の駅に向かって発進させた。

彼の「好きだ」というのを、明確に認識した瞬間はなかった。サトさんは私と出会ってからおそらくずうっと、私のことを好きだったと思う。「好きだ」と初めて言われたとき、一番最初に出て来たのは「これはまずい」。その次に「ああ、やっぱり」だった。私がサトさんと知り合って休息と安寧を舐めたのは少なからず好意と愛的なものを肉体で感じていたからだったらしい。本当の意味で愛されたことなど今思えばなかったからわかる。今なら。
「フヒ」
「何を笑ってんのよ??」
「そこの居酒屋さんの看板がね、初恋の男の子の名前だったから笑ってしまったんです、ふふ、えっとね〜」

彼に話して恥ずかしいことなどひとつもない。サトさんは私を決して否定しないからだ。私への甘さとかではなく、私を尊敬し、信頼し、受け入れようという気持ちがあるから否定しないのだ。これは私の自意識過剰ではない。少なくとも彼自身がそう思っているのは事実だ。彼がそう私に言ったから。

私の独り言は初恋の男の子から幼少期の人間関係に広がり、小中高生時代の失敗や親の話に繋がり、ついこの間の辛いと苦しいとを私にひしひしと思い出させ、今のサトさんを連想させ、私に涙を促した。不意に泣き出した私をサトさんは運転するかたわらに抱いて、たまにティシュペーパーを差し出した。
「さゆりは本当に生きるのが下手だよなぁ。」

ぐすぐす、と鼻水をかんだりすすったりしていると、運転に集中したままサトさんは言った。
「おまえの信念はきっと正しいのに、肝心なところでドジったりなんかするから。さゆりはピュアなだけなんだ。おまえの生き方、おれは嫌いじゃねぇけど。」

サトさんは微笑んで私のほうをちらっと見やり、視線を前方に戻して頭をぽんぽん、と撫でた。
「なんでか、いつも、うまく行かないんです。ヒッ、理想が高いのかもわからないけどわたしのほしいものとか、ズズ、決して高望みじゃないと思うし、けど、ズズ、あれなんか矛盾したことゆってる、フギ、でも、わたしはみんな愛してたし信頼してたのにヒッ、ヒッ」

ほらほら、と彼はティシュペーパーを差し出してくれる。私は続ける。
「わたし、サトさんのことどんどん不幸にしてる気がする」

本当は、”あなたの幸せを奪ってあなたをどんどん不幸にしてる気がする”と言いたかった。サトさんは答える。
「おれは幸せだよ。たとえおれが不幸だとしても、それはおれの問題で、さゆりのせいじゃない。これは絶対だ。おれの幸せをなんでさゆりが決めるんだって話になるだろ?」

彼の話に説得力はなかった。熱も粒子も、勾配に従って均一になろうとする。人も余っていれば与えたくなる。足りなければ補おうとする。それが自然なのである。ぬるい水でも、より冷たい水がいればなけなしの熱を分散させるものだから、彼の話に説得力はなかった。
「そうね。」

けれど、私が”あなたのほうが私より幸せそうだからそれは違う”なんていうのは失礼だろう。とりあえず納得をする。
「でも、」
「ん?」
「あなたはこんなによくしてくれるのに、わたしはあなたになんにもしてあげれてない。もっと早く出会えてればよかったってあなたはよく言う。わたしはもっと早く生まれてればよかったってよく思う。そういうふうに、どうしようもないことを後悔させてあげることしかできない。」
「さゆりといるのはおれの勝手なんだよ。さゆりの笑う顔が見たいっていうエゴだ。」

“けど、妻と別れるほどではない。”

と、浮かんだ言葉は飲み込む。

 

彼と初めてセックスしたとき、私は嘘をついた。それをすぐに告白した。だけど一つは隠したままにした。それも彼の暑いホンダフリードの後部座席でのことだ。私の腰は既に裸で、サトさんの太ももの上にあった。
「さゆりの好きなところはね、ピュアなところ。愛を純粋に求めてるだけだ。あとおまえから聞く講義の話は楽しい。あと、おれが何食べたいか聞くと”食券のお店がいい”なんて言うところ。あとその目が好き。三白眼好き。なんだろ、やわらかいのに、でかいところがひとつもないよねさゆりは。鼻も口も歯も爪も、乳首もクリもおしりもおっぱいも。あ、失敬、でもおまえほどいい女知らないよ。要領は悪いけど、素直で頭が良くてうまい具合に可愛くておまけにエロい。」
「わたし欲張りだから誰にとってもいい女でいたいよ」
「わからないやつらがアホなんだ。」
「サトさん騙されてますね」
「あー、ぞっこんだ。」

この瞬間、私は反射的に且つ瞬間的に、彼を愛していたと思う。「好き」にオウム返しで「好き」というふうに、彼からの愛的な何かを感じたら、私から彼が愛を感じられるように。いつも、”でも妻ほどではない。”というのはついて回ったけれど。
「もっとくっつきたい」
「ゼロ距離?」

私はここで一つ嘘をついた。
「我慢できない」
「入っちゃうよ」

一度だけいれて、すぐに抜いた。体温で車内は蒸して、すべての窓ガラスが曇っていた。涙が止まらなくなって視界は更にぼやけていった。
「なんでそんなに泣いてるの?」

私はここでもう一つ嘘をついた。
「好き」

私はサトさんにしがみついたまましばらく泣き止むことができなかった。体を離し、冷やして服を着て、落ち着き始めると改めて涙が溢れてきた。
「サトさん、ごめんなさい」
「なんでさゆりが謝るのよ?」
「わたし、嘘ついたの。ヒッ、我慢できないなんて嘘だ。それを言い訳にして、グス、あなたとくっつきたかったの。」

彼は何も言わないままに私の頭を撫でた。おそらくだけど、嬉しかったんだろう。

私は、ここでしてしまえばもっと、足りない分を補える、と思ったんだろう。彼から奪える、と思ったんだろう。

 

大概の人々は短期的な目標の積み重ねで日々を過ごしているように思う。もっと端的に言えば、”目先の欲求を満たすことだけでとりあえずの満足を得て満たせなければそれをぼやいて生きている”ように思う。私は最終的に”幸せになりたい”。だからその手段はなんだっていい。際限なく涌いてくる欲望は、この身がこの身を幸福に浸しておくための手段として必要だと判断した結果だ。手段を求める過程で、幸福を損なっては元も子もない。私は最終的に”幸せになりたい”。”人生において累計して幸せがより多いならそれでいい”。だから、サトさんと寝た。彼の愛的な何かに応じること、それで彼が喜ぶこと、また自分の目先の欲求を満たすことがその時得られる一番の幸せだった。何よりその時の私は、自分が不幸に半身浸っていると思っている節があったし、都合が良かったんだろう。本当に愛し返していい結末になるとも思えなかったし、私が彼を愛してはいないことが最後の砦だった。

「もう、ちゅーとかそういうのやめますね」

私がサトさんにそう告げたのは、それもまたホンダフリードの助手席での、別れ際のことだった。

「会ってごはんするくらい、いいとは思うんですけどね」

「そうね」

彼は瞬間的に言った。

「ごめんよ、あまりに唐突で」

と、涙を流して笑った。彼はキスをしようと顔をこちらに近づけたけれど、私はそれを拒んだ。

「そうですよね、へへ、すみません。でも、これが最良だと思うから」

 

サトさんと別れた後電車に乗る前、無性に唐揚げが食べたくなった。ほとんど無意識にコンビニで唐揚げを買って、いつのまにかなくなった。硬貨や貨幣でおつりが来る幸せを私は惜しまない。いつ死ぬかわからないのに、目の前の幸福感をみすみす見逃せない。手段を取っておいてなんになる。きっとまたすぐに足りなくなるのだろうけど。

電車の車窓から、流れていく暗闇を観ながら彼とは本当にでこぼこだったな、と感じていた。彼は38歳私は19歳で、きっと恋人同士にも親子にも見えなかっただろう。彼は一家庭の大黒柱で、私は身軽で。彼は私を愛していると言って、私はそんなこと一言も言ってあげられなかった。

あまりにもフェアじゃなかった。公平じゃなかった。次に会ったらキスすらしてあげられないけれど、ごはん代くらい、私が持たないと。手段なんか惜しくないから。と、感じていた。

 

2017年10月9日公開

© 2017 中野Q子

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"不幸平"へのコメント 2

  • 投稿者 | 2017-10-13 10:58

    心理描写が丁寧だと思います。また、「不幸平」というタイトルが、綺麗に内容を表していて巧いなと感じました。

    • 投稿者 | 2018-06-03 03:39

      コメントありがとうございます。読んで頂いてありがとうございます。

      著者
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