~“0”~
私は路地を横切り全速力で駆け出した。
「おいハーフ野郎! 待て、ま、ハアア」
「マッ公があ! 」
私を追いかける学生服の男たちは息を切らし、膝に手をついて止まった。
「あいつ、早すぎる」
「早いというより持久力だあ、畜生、荷物持った身で俺達の全速力を保つなんて」
「クロンボのハーフが……」
後ろからの罵声もどこ吹く風、私は依然軽やかに走り続けた後、振り向いて追手がいないことを確認した。そして、マッ公と言う仇名を思い出して口元を緩めた。マコウネンと言う名前を弄られたのだ。
「マッ公か、ふん……毎回荷物持たされるわタカられるわ、勘弁しろよ」
団地の入り口に悠然と入り、左右にそびえる壁の様な建築物を見上げた。不意に、写真で見た、父親の故郷の高原を思い出した。息が詰まりそうなこの団地の中で、私は素直に家に帰る気分にもならず、狭い公園のベンチに座り、空を見上げた。近所の主婦が口元を歪ませ、遊ばせていた幼児をベビーカーに載せて足早に去っていくが、それももう気にならない。
「黒人の足が速いのは生れ付きじゃない……昔は獲物を追うために、今は征服者から逃げるために速くなったんだ、か」
いつか父親から聞いた話だ。だが、少年はもう一つ大事なことを知っていた。
「でも、エチオピアは、一度はイタリアに勝ったし、皇帝だってぶっ殺した……」
何も考えずに、足の速いこと、息の続くこと。それだけが取柄だった。歴史とか数学とかそんな才能ではなかったことを少年はある意味感謝していた。いじめや差別から逃げる時には、徳川家の歴代将軍も、三角関数も、身を助けてくれないのだ。ふと見ると、公園の隅に鎮座している銀色に輝くオブジェに、自分の顔が歪んで映りこんでいる。
「……ハーフ、か」
ステレオタイプのハーフ像なんか、エチオピア人との混血にはない。テレビに出るようなアングロサクソンの美貌など、当然該当しない。だが、かと言って悲痛な思いがする訳でもなかった。自分に走りの才能が有るのと同様に、彼らは彼らで相対的な美貌や芸を武器にしているのだから。
その時、頭上から鋭い声がした。
「マツ! 早く帰って来なさい!」
振り返り見上げると、7階のベランダで母親が洗濯物を干している。仕方なく腰を上げ、8号棟の入口へ向かうが、その間も、周囲で誰が聞いているかも気にせずに母親は声を張り上げた。
「マツ! ちゃんとスカウトさんへの返事考えたの!? 」
ああ、母親は自慢しているのだ。電灯が切れかかった暗い入口を潜り、私は階段を上った。自宅の705号室に入ると、スカウトから送られてきた二つの封筒がこれ見よがしに置いてある。それを取らずにリビングに進み、カバンを放り出した。
「ねえマツ、本当にちゃんと考えてる? こんなチャンスないんだよ、才能的に日本人なんかより恵まれてるんだよ、あんたは」
ベランダから聞こえる母親の声に、私は返事をする気にもならず、ソファに寝転がった。日本人より、恵まれてる? 私は目を閉じ、ため息をついた。自分がどんな扱いを受けているか、まともに知りはしないのだ。だが、それを言い出すこともまた出来ない。自分の足の才能とは何だろうか。自分が黄色人種だったら一目や二目くらい置かれて、肌の色が黒いとすばしっこく憎たらしい黒鼠という扱いなのか。
「封筒見た? ねえ、マツ……」
スカウトの申し出に従って進学した場合、環境はリセットされ、あるいは才能だけを生かしてもはや虐められることもなく走りに専念できるかもしれない。少なくとも数週間前まではよだれを垂らしてこの提案を単純に受けることも出来たかも知れない。だが、駅の売店を通りかかった際に、保守系の雑誌がオリンピックの代表団における“人種”“国籍”の神聖さとやらを強調する記事を前面に押し出しているのが気になりチラと立ち見てから、どうも心に不快なトゲが刺さったように、行動が追い付かなくなった。
『表彰台に確かに日本国籍の者が上り、君が代が流れます、あるいは園遊会において天皇陛下と歓談されることも……しかし、そこにいるのが、文化も肌の色も違うハーフだとしたら……』
私はソファの背面に顔を向け、押し黙った。背後では母親がベランダから戻り、もはや話しかけることも無くテレビの電源を付けた。
「あー、あれ、ドラマ三十分早かった? なんかつまんない番組やってるわ」
テレビは皇室スペシャルの再放送を流している。御用学者の声が響き渡る。
『思えば平成時代はその始まりからバブルによる拝金思想、民主党の政権交代前後の混乱のように、政治権力の陳腐化と停滞が著しかった時代と言えます』
『大災害、社会不安の増大も見られましたね』
『ええ、しかしご皇室はそのような中でも、国民の中に交わり、象徴としての役割を強く果たされてきました、そして現在、日本と言う国家への誇りが戦後最高に高まる中で……』
~“0.9”~
土砂降りの雨がガラス窓に模様を作った。汎太平洋わくわく大学体育棟の2階、教官室の前の廊下で、私はもはや何も頭に思い浮かばず、窓の向こうを眺めていた。ただ、自分の状況は何も良くなっていないことだけは確信していた。後ろで音がして振り向くと、ジャージ姿の男が教官室から手招きしている。
「藤原監督」
「入ってくれ」
教官室に入ると、大量の資料やらDVDケースやらゼッケンやらトロフィーやら物で溢れかえっており、ただ一直線に奥の机に向かって導線が確保されているのみだった。そして机の奥には日の丸が立てかけられていた。
「座って」
引き出されたパイプ椅子に座り、教官と向き合う。ふと机の上に目をやると、前の前の天皇と握手する若き日の藤原監督の姿があった。この写真はこの間来た時には置いていなかった。藤原は私の視線に気付き、微笑んだ。
「……これは私があのオリンピックで優勝した後、園遊会で撮ったものだ、肝心のメダルは今、家にあるが……」
「先生、その、私はどうなるんです」
「私は絶対に君を出場させるよ」
藤原は新聞を指さした後、手で叩いた。更に、スクラップブックを取り出し、わざとらしく記事を幾つかを拾い出して見せた。
『文科相『日本人の日本人による日本人のための、身体の祭典を』 来年初の駅伝で具現化か?』
『『日本人の連帯の象徴として、他の個人競技よりも日本固有でタスキを繋げる駅伝の方が相応しい』 日本体育協会長・談』
『北海道、沖縄……各地から上がる疑問 『日本人とは?』 文科省返答せず』
『首相『真の多様性は自己・民族・文化の区分をはっきりさせることから』 文科相更迭せず 野党は対応に差』
『相撲、野球、そして駅伝……これまで為されてきた外国人競技者議論とは』
私はここ数年の、著しく右傾化し、まさに神話の時代へ突き進んでいるような日本社会を、今ここで改めて感じさせられた。それも空気ではなく、身に感じる圧力として。
「私には一向に訳が分からないのです、5年前にはこんなこと……」
無かった、と言おうとして、口をつぐんだ。あった。だが、やはりここまでではなかった。どう言うべきか悩む私を無視するように藤原は立ち上がり、後ろにあった日の丸を撫で触り始めた。オリンピックで優勝した時に羽織ったものだろう。
「マコウネン君! 私はね、私は、こう、この、その、今度の機会はそういう政治的な困難だとかもっと言うと意地悪としてでなくね、改めて走る喜びを感じる機会としたいんだよ! 」
私には藤原の言っていることの半分も理解できなかった。藤原は日の丸をついに引き上げ、机の上に置いた。
「いや、君は選手の立場、あるいは今ちょっと困惑してる立場だろう、だが私は監督としてね、むしろ君が目立ち、そしてああいう人たちを改心させる良い機会になるんじゃないかと」
「……」
「日の丸はね、マルいだろ、みんなが一つなんだよ、な、ウン、君も、足がとても速い一人としてここに貢献できる、そう思い知らせてやれる良い機会なんだよ……そして、だ!」
藤原は、金箔の付いた高級そうな便箋を取り出した。
「読みなさい、宮内庁からの手紙だ! 」
私は驚いて椅子から軽く腰を上げ、両手でそれを受け取った。
『汎太平洋わくわく大学 藤原様……宮内庁と致しましては……此度の天覧駅伝におきまして、日本国籍保有者という原則を広げも狭めもせず……一切外的評価は行わず、原理原則に則り……』
一見読んでもあまり意味が伝わらないような文面を、目を上下させ何度か読もうと試みたが、結局自分がどうなるのかはっきり分からなかった。
「あの」
「君の扱いについてとやかく言わないってことだよ、この手紙が一番の武器だ……天皇陛下が君を認めて下さったんだよ!」
藤原は意味ありげに甲高く叫び、更に肩を叩いてきたが、その良さやあるいは肯定感というものが良く分からない。ただ、自分は出場できるらしいことは分かった。それならそれに専念するのみだと、目の前で何かを言い続ける藤原をよそ目に私はこれからのことを考え始めた。ゴールにやけに風格のある老夫妻が立っているだけだろう、それだけだ。多分……。
~1~
一月の寒い空気にも関わらず、沿道には多くの人々が詰め掛ける。
亀頭院性 投稿者 | 2018-09-26 18:41
もちろん、破滅派サイトだけでなくちゃんと天覧駅伝全編を購入して読んだ上で私は評価している。全体を通して山田風太郎「甲賀忍法帖」のような文体だと感じた。