部屋に帰ると君が私を見てくれる。扉を開けて君と目が合う。君が私を見上げる。それが嬉しいと思う。ああ、ようやく私のものにできたんだ。誰にも見えないところで私がいないと生きていけないようになってくれたら良いって思ってたんだ。君は私がいないと死ぬしかないんだ。生きていくこともできないんだ。私が長期旅行に行ったら不衛生な環境で飢えて死んじゃうんだ。ようやく、ようやく君は私の手中におさまった。ああ良かった私はこれでようやく安心できる。やっと眠ることができる。ずっと不安で眠れなかった。数時間おきに目が覚めた。夢を見るのが怖くて眠りたいと思えなかった。最悪な夢を見たらどうしようと思った。頭が痛くて、気持ち悪くて、トイレに行って嘔吐した。ご飯を食べるとお腹が痛くなる。母が作ってくれたお弁当はこっそり捨てた。ごめんなさい。晩御飯もゆっくり食べて、家族の皆が食べ終わってもまだ食べてるから、隙を見てこっそりビニール袋に入れて、次の日の朝にコンビニのゴミ箱に捨てた。それでも少ししか食べてない分も吐いて。吐いてばかりで。胃液しかでなくても吐いて。そんな日々からやっと解放される。これが私の安心だったんだね。幸せだったんだね。最初からこうすれば良かった。そうすれば私は傷つかなくて済んだ。眠れるし、ご飯だって食べられるんだ。これからは安心だ。私の顔色が悪いと親にも友達にも心配かけちゃうし、私だけの問題じゃない。だから元気にしておかないといけない。どうやったら元気になれるかちゃんと考えてみたんだ。それで、気付いた。
私だけの君にすれば良い。
大事なものは見せびらかしちゃいけなかった。大事なものは大事に大事に隠しておかなければいけなかった。奪われるかもしれない。壊されるかもしれない。悪意なく、善意に舗装されたままに、私の手の届かないところに持って行かれてしまうかもしれない。だから、隠しておけば良いんだ。ずっとずっと。誰の目にも届かない所に。私しか見えないところに。私しか知らないところに。しまってしまおう。そうしよう。
なんでこんな簡単なことに気付かなかったんだろう。
最高に幸せじゃん!!! もう大丈夫!!
※
どこからやり直せば良いんだっけ。
君と話す前から、君の存在は認識していた。君は目立っていたから。どちらかというと悪い意味で。君は教室の中で浮いている存在で、いじめられているわけではないけど、浮いていて、いわゆる友達がいない子だった。皆が群れる時にいつも一人でぽつんといる。実験や実習の「二人組作って~」では先生と組まされるか、奇数のグループのジャンケンに負けた子と組まされていた。そのくせ、教室のゴミを出しに行くときに、校舎裏で掃除をサボって一人で煙草を吸っているのをよく見かけたりして、一人なのに不良なんだ、とか思ったりしてた。学校以外にはつるむ相手もいるのかもしれなかった。不良ってどこで煙草買ってるんだろう。君はあまり若く見えない顔立ちだから私服だと買えるのかもしれないな、とか考えていた。
あの日、いつものように教室のゴミを捨てに行こうとすると、ないことに気付いた。掃除時間の最後、いつも私がゴミを捨てに行っていた。誰かに頼まれたわけではないが、皆は部活もあるし、私は部活をしていない。成績が悪いので部活をする資格がない、と親に言われているので、していない。ならば、せめて皆のためにゴミを捨てるくらいはするべきだろう。そう思ってやっていたし、周囲もそれが当然であるかのように受け入れていた。最初こそ感謝していたが、続けているうちに何も言われなくなった。慣れってそういうものだ。それ対して私は文句を言うつもりもない。
きっとこの日は偶然誰かが気を利かせてくれたのかもしれない、そう思って帰ったものの、次の日もその次の日も、ゴミはなくなっていた。ゴミをまとめて、クラスの友達と話しながら掃除道具を片付けている間になくなっている。さすがに同じ奴の仕業だろう。私は掃除道具を片付ける前に「ゴミ捨ててくる」と友達に宣言して、廊下に出してあるゴミ袋へいつもより早く手を伸ばした。
そこにはパンパンになったゴミ袋をしばっている君がいた。
「なんで」
君は目を丸くした。こんな顔するんだ。君って。いつも気難しい顔をしてばかりだったから、驚いた。気難しい、というか、ただ君はいつも無表情なだけだった、と今となっては思う。君は感情を出すのが苦手だったから。ちょっと強面だし。だから無表情なだけで気難しく見えるし、怖がられてしまう。ちっとも怖い子じゃないのに。
「なんでって」
良いことをしてるのに、君はバツが悪そうな顔をした。こんな表情するんだ、が二連発。意外と表情豊かなんだ、と思った。直接会話したことはおろか、誰かと会話しているのすらほとんど見たことがなかったから当然と言えば当然かもしれない。話せばすぐに分かることだった。
「いつも鈴木さんしかゴミ捨てしてないから」
「よく知ってるね」
名前も覚えているとは。とはいえ、もうこのクラスになって三か月も経つわけで、話さない相手でも同じクラスならさすがにもう知っているか。私だって名字だけなら全員わかる。
「見えるから」
煙草を吸う時に、とは言わなかったけれど、そうだろうなと思った。私が君を見ている時、君もまた私を見ていた。目なんて合ったことあったっけ。でも、直視しなくたって、風景は見ることはできる。君の視界に私は入っていた。そもそも私だって、君を直視なんてしていなかった。だって一人で煙草吸ってる不良なんて怖いし。積極的に関わりたい人種ではなかった。なかった、という過去形。
「じゃあ、一緒に捨てに行く?」
何の「じゃあ」なんだ、と思ったけれど、私は提案をした。私はこの時、もう既に君に興味がわいていた。
「良いけど」
けど、なんだ。私たちは階段を下りていく。私がゴミ袋を持つことは拒否された。いつもしているから、だそうだ。ここ数日いつもしているのは君だろうに。そう思ったけれど、そう言えるほどの仲ではなかった。隣に立って気付いたけれど、君は煙草臭くない。むしろ良い匂いがする。君は、甘くて、雨の日の金木犀みたいな、芳香剤とは少し違う、淡い優しい匂いがした。
「良い匂いするね」
「え、あ」
しまった。唐突だったかもしれない。距離って難しい。こんなことを言うくらいなら、いつもゴミ捨ててくれてありがとう、とかもっとまともなことを言うべきだった。強面の君が動揺する。焦った顔。少し顔が耳たぶが赤くなっている。緊張した時に耳に出るんだ、君は。こんな顔するんだ、の連続。気持ち悪いことを言ってしまっただろうか。
「匂いには気を遣ってるから。煙草臭いのは駄目だと思うし。汗臭いのだって嫌だし。いつもお気に入りの消臭スプレーみたいなの、付けてて。香水とまではいかないけど、ドラッグストアでは売ってない、みたいな。匂いってやっぱり大事だと思うし、お気に入りの匂いとか探してよくLOFTのテスターとか嗅いでたりして」
おろおろしながらも君は早口で言った。人は好きな物の話をするとき大抵饒舌になる。君も例には漏れなかった。匂いにはこだわりがある君らしい振る舞いだった。この時の君は、少しだけ笑顔だった。この時の笑顔をもっと網膜に焼き付けていれば良かった。このぎこちない笑顔はもう見られない。この時に、君はただの風景から、手の届く知人へと変わった。ほら、アニメーションを作る時に人物と背景を重ね合わせて作る時みたいな感じで。別紙の背景にいたのに、同じ紙の上にいる人物になった。
「あ、喋りすぎた」
「全然」
間髪入れずに私は答えた。
「もっと聞きたい」
もっと仲良くなりたい、と思った。思ってしまった。始まった。人間関係として始まった。始まってしまった。
始まってしまったということは、いずれ終わるということである。だから、終わりたくないのなら、何も始めなければ良い。君がずっと手の届かない人で、君が私の背景で、私が君の背景で、同じ紙の上になんかいかなければ。
思えば、私はこの時、もう君から目を離せなくなっていた。どうしたって考えてしまうのは、この時からだった。この時から私の視界は変わってしまって、私の世界も変わってしまって、君がゴミを捨てるのにただ付いて行って隣で話す人になってみたり、お菓子を買う時に君の分も買ってしまったり、何かしようとなれば君も呼ぼうと言い出したり、急に友達との会話に君を巻き込んだり、君の手を引っ張って、いや、ずっとずっと直接君の手には触れなかったし、今に至るまで一度も触れたことはないのだけど、自分の世界に引き込んでしまった。私が引き込んだんた。私が君の世界を変えてしまった。君の優しさとか、緊張して耳が赤くなるのがかわいいところとか、匂いにこだりがあるところとか、皆に自慢したくなっちゃった。見せびらかしたくなっちゃった。君は私と違って本当はもともとコミュ力だってあるし、ただ人と関わらないようにしてただけで、きっかけさえあれば全然人の輪が広がる人だった。私がきっかけになってしまっただけだった。
どこからやり直せば良いんだっけ。
起こってしまったことはもう起こらなかったことにはできない。どう足掻いたって、ここからどう動くかしかないのだ。人生にリセットボタンはない。時計の針は戻らない。進んでいくだけ。いくら待ってほしくたって容赦ない。私がもがき苦しもうが、諦めて寝っ転がっていようが、勝手に時間は進んでいく。
私は馬鹿だから我慢できなくなってしまう。君を皆に紹介せずになんかいられないし、君のことを友達に話さずにはいられないし、君を他の人との会話で巻き込まずにはいられない。そうなったらもう止められない。君は私の手から離れて行ってしまう。いや、私の手の中に君がおさまっていたことなんて一度もないんだけど。私が勝手にそう思っていただけで。君がハムスターとか、小動物なら良かった。そしたらこの両手の中にずっと隠しておけるのに。
最初からやり直せれば良かった。
やり直せるのなら、私はあの日、ゴミ袋を持った君を見つけない。これがすべての始まりだった。私はゴミ袋を持って行ってくれている親切な人が誰かなんて確認せず、ずっと知らんぷりで、ゴミを出してくれる知らない誰かに甘え続けていれば良かった。そのうちに君だって飽きて、また私がゴミを捨てるように戻っただろう。見つけなければ良かった。君と一言もかわすことなく、学校生活を終えて、ただ名前だけ知っている相手のままでいれば良かった。
君は順調に友達を増やして、全然一人でいることなんてなくなって、私のお陰で、私のせいで、なんか人生がにぎやかになったとか言ってて、私がいないと友達も作れないくせに、私抜きでも遊ぶようになって、私からどんどん離れていって、私がいない輪の中で笑ってたりとかして。私が一番仲良かったのに。緊張して私にしか笑顔を見せられなかったくせに。私がいない集まりは不安がっていたくせに。私には本当に感謝してるんだよね? 言ってたよね? 私の妄想じゃない。嘘じゃない。言ってたよ。君。私の思い込みじゃない。
君は友達を作って、恋人を作って、私に連絡もとらないで、いなくなった。
文字通り、いなくなった。
君は学校をやめた。家庭の事情らしい。私には一言もなかった。
事情を知っている人もいるらしい。でも聞きたくなかった。君以外の人からなんて事情を聞いたって意味がなかった。
ずっとわかってただろうに。私抜きで遊ぶようになった時も、君に恋人できた時も、君がいなくなるその瞬間だって、私が君のことをどう思っているかくらい。まるわかりだろうに。私ほどわかりやすい奴なんていないでしょ。どれだけ愚かなんだよ。私が? 君が? いや、君が愚かなんだ。言われてないからわかりません、なんて通らないよ。私が君の誕生日をどれほど盛大に祝ったか忘れたなんて言わせない。君は意外と女々しいから、ふられてめそめそしてる時には、何時間も電話に付き合ったよね。君の家庭環境があんまり良くないことも知ってるよ。煙草だって親がきっかけで中学生の頃から吸ってたんだよね。私はどこかに出かけたら君にだけは絶対にお土産を買ってたよね。私だって君に何でも話した。嬉しかったことも、ちょっと笑えた出来事とか、おもしろいニュースとか、町で見かけた変な人とか、家庭の悩みも、友達の愚痴も、何度も思い出す過去の嫌な思い出も。でも、私が君のことをどう思っているかだけは言わなかった。君には言えなかった。君のことが大事だから。私、君のこと大事にしてたよね。後悔したくなかったから、私は私のできる精一杯をした。私は、私が、私、私私私。私はずっと私を押し付けるだけだった。だってそうするしかなかった。君が私をどう思ってるかなんて知りたくなかった。知るのが怖かった。だから私はあと一歩をずっと残していた。あと一歩、君に歩み寄らないようにしていた。触れたら消えてしまう気がして。触れたら壊してしまう気がして。
だって始まったら終わってしまうから。終わりたくなかった。終わらせたくなかった。
でも、とっくに始まってたんだ。
※
君を小さなゲージに入れてペットボトルから水を溜める。今朝自販機で買ったいろはす。すっかりぬるくなっている。まだ三分の一も飲んでいない。君がじたばたもがく。君は泳げない。キューキュー鳴く。キューキュー? 君って何だっけ。両手で包み込める君。これで安心できるんです。これなら安心できる。
掴もうとすると噛まれた。痛い。人差し指の指先から真っ赤な血がにじむ。血が水槽の中で絵の具みたいに広がった。嫌わないでよ。拒絶しないでよ。拒否しないでよ。置いてかないで。
片脚をつまんで引き上げる。このまま手足とかもいだらどうなるかな。弱いものいじめしかできない私は卑怯だ。知っている。ひどい人です。君は私を優しいと言っていった。どこが優しいと思う? お菓子くれるから? それだけ? 話に付き合ってくれるところ? 優しいってなんですか。私は君に優しいだけだったんだよ。全部下心だったよ。だって最初から好きだった。私って全然優しくないよ。わかってない。君はちっともわかってなかった。
片脚をつまんだまま私は君を放り投げた。べちゃ、と音がした。濡れてるので音が重い。濁った鳴き声がする。ギーとかヂーとか。うるせぇな。かわいげがない。生命の危機を感じてるんだからかわいくできないよね。そりゃあそうか。私も命の危険を感じたらきっと、もうかわいくいられない。私がかわいかった時っていつだろう。そんな時あったっけ。喚く君を踏みつける。ぶに、と嫌な感触がする。でもまだ完全につぶれていない。私はもう一度足をあげて勢いをつけて体重をかけて君を踏み潰す。五十キロに潰される約五十グラム。踵に嫌な感触が伝わる。この靴下はもう使いたくない。嫌な感触がしみついたから。捨てなければいけない。君の代わりはまだまだいる。ゲージにだっているし、また買いに行けば良いし。命を一つずつ削っていく。私のために死んでください。次の君は一本ずつ四肢をもごう。私が買ったんだから私のものだよね。私が飼ってるんだから私のものだよね。自由にして良いんです。命を。
私はこんなにもひどい人間だ。残虐で、罰せられるべき人間だ。誰が見ても明らかに悪い。私が君を溺れさせて片脚を掴ん踏み潰しているところをネットにあげたら炎上するだろう。皆がこぞって石を投げつけて、死ねとか、消えろとか、同じ目に遭えとか言うだろう。社会的に制裁されて、クズだカスだと身近な人間からすら罵られるだろう。いっそ、拡散してしまおうか。次やる時は撮影しよう。スマホを立てるスタンドを用意しなければ。
君はどう思うかな。ひどいって思う? 仕方ないって思う? 怒ってくれる? 悲しんでくれる? それとも興味ない? 私の姿や名前をネットで見つけたって、気付かないかな。答え合わせはいつかできるかな。もうずっとできないままかな。命が終わる瞬間まで君に会えなくて君は過去になって辛い思い出になってこんなこともあったねなんて苦々しく思い出すくらいの古傷になってどんどん遠くなって見えなくなって笑った顔も思い出せなくなってどんな声をしてたかも分からなくなってコーラを好きだったこととか禁煙する前に吸ってた煙草の銘柄とか実はハムスターとかモルモットとかリスとか小型の齧歯類が意外と好きなところとか君はこしあんよりつぶあん派だとかそんなちょっとしたことも思い出せなくなって君のことを考えない時間の方がどんどん増えてああこんなこともあったなぁっていくらしがみついたって過去になってしまう。君が好きな物って今も好きな物なのかな。好き「だった」なのかな。それも答え合わせできない。できないまま過去になる。だってそうしないと生きていけないから。私はこれからも生きていかないといけないから。この苦しみは一時的なもので、いつか、いつかいつか、いつかいつかいつかいつか終わる。人間って上手いことできてるんです。生きないといけないから。遠い。遠いんだよ。いつかまた君に会えるかな。また私なんかに会ってくれるかな。クズの私が、君に会いたいって言ったらどう思う? この世界のどこかにいる君は、どう思う?
君が一人だから苦しくなるんだから、全部が君になれば、苦しくならないと思った。全部君なら良かった。
まだゲージにいる小さな生き物に「君」と名付ける。全然懐いてない。かったばかりだから当たり前だ。私の手の匂いを覚えさせなくては。ゲージから手を入れて私の匂いをつける。君は隅の方で丸くなっている。君もきっとひどい目に遭うね。ごめんね。謝るんならやらなきゃ良いのに。
電気も点けてない部屋は暗い。暗い部屋の中で私はハムスターと戯れている。ハムスターで戯れている。現実が見えてないんじゃない。見ないようにしているだけ。見たら痛いから。「痛み止めって、痛みを誤魔化してその場しのぎしてるだけじゃないんだよ」って君が言っていた。これは本当の君。私の空想じゃないよ。本当に言ってたよ。細かい言い回しは違うかもしれないけど。
「痛みを麻痺させてる間に、回復を進めさせてるんだよ。なんかで読んだだけだけど」
君は笑ってたっけ。ああ、もう分からない。でも、私回復なんてしたくない。だって回復って、君が過去になるってことだから。
カーテンを開けても部屋は明るくならなかった。空は曇天で、外は時間間隔が狂いそうな鈍色に覆われていた。地面は濡れていた。窓を開けてみた。それでも何も変わらなかった。手を伸ばしてみる。もう雨は降っていなかった。ただ暗いだけ、ただどんよりしてるだけ。
雨の日の金木犀の匂いがした。
君の匂いとは違っていた。こっちが本物で。君が偽物で。でも、私はそれを似てると思ったんだ。私にとってはこれが偽物で、君が本物だ。ここには偽物しかない。絨毯で潰れた小動物。意外と血も肉も出てなくて綺麗だった。命を一つ奪った気持ち悪い感覚が足の裏に残っている。こんなひどいことをしたかったわけじゃなかった。まだ病院に連れて行ったら助かるかな、と思ったけれど、絨毯の上のそれはぴくりとも動かなくて、もう完全に死んでいた。二度と動くことはない静物と化していた。私はそれをてのひらにのせた。ぐにゃぐにゃとしていて、私にされるがままだった。全然懐いてなかったのに、私の手のひらの中にすっぽりと納まった。死んだそれはもう逃げることも、噛みつくことも、抵抗することない。もう温かくない。ただの毛と肉の塊だ。だめだ。もうだめじゃん。死んでる。これは。もう戻らないんだな。もう元には戻れないんだな。
吐き気がする。喉の奥で胃液の味がする。まだ今日、水しか飲んでないから、どうせ何も出てこない。何も出せない。何も捧げられない。何もできない。何も差し出せない。罪も償えないし、謝ることも、何かを伝えることもできない。何か言おうとしたってどうせ胃液しか出せない。
私、まだ、全然大丈夫じゃない。
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