バチン、と大きな音がして君がびくんと飛び上がる。血は出なかった。残った透明なカプセルを取り除いてやると、金属が安達くんの耳を貫通しているのが見えた。心臓がばくばくと高鳴る。うらやましいなぁ。
「君が頼んだんだよ」
うるんだ瞳で私を見る安達くんに言う。私が言わせたのだけど。頭が熱い。胸の奥から何かがせり上がってくる。うん。何だろう。そうだな。どう説明したら良いのだろう。ああ、そうだな、瞳孔かっぴろげてアドレナリン垂れ流しで君のことずっと見ておきたいなぁ! 興奮するってこういうことを言うのだろうか。元々私がしたがったのだけど。ピアスを他人に開けるのが違法行為なのは知っている。それに私はピアッサーを使うのはこれが初めてだ。失敗して変なところに穴を開けてしまうかもしれない、とも思ったが、それはそれで良い気もした。君のどこに穴を開けたって良いんだ。君に穴を開けたのは私だけど、君に貫通しているのはファーストピアスであって私ではない。だから私はファーストピアスがうらやましいと思う。
私が安達くんに穴を開けることが重要だった。
君はいつものかわいい横顔で耳についたピアスを鏡で確認している。私に開けられたピアスを。鳥肌が立つ。良い意味で、だ。
いつからこうだったんだろうと思う。人生に影を落とす大きなトラウマなんて私は持ち合わせていない。虐待されたことも、いじめられたことも、犯罪に巻き込まれたこともない。両親も揃っており、大病も大怪我もすることなく、至って健全な人生を送って来た。私の人生には傷らしい傷がない。もちろん傷ついたことはある。しかし、そんなものは誰の人生にもあるのだろう。大多数と同じように生まれてきて、大多数と同じように育ってきた。なのにどうして私はこんなにも歪な人間なんだろう。歪な人間というのは複雑な生い立ちがある、と相場が決まっている。いや、そうでないパターンもあるか。生まれながらのサイコパスみたいな話も聞いたことがある。子供の頃から残虐で誰かの命に手を下してしまったとか。私は中途半端な存在だ。重大な犯罪を起こすほどの異常者でもないし、大人しく社会に迎合して生きることもできない。
最初に気付いたのは、ホラー映画を見た時だった。シリアルキラーに追われる女が泣きながら命乞いをしているシーンを見て「かわいい」と思った。子犬や子猫を見て思う「かわいい」とは違う「かわいい」だった。もっと腹の底から湧き上がる情念じみた「かわいい」。私はかわいいとかわいそうの区別が付かないのかと思ったが、子供が母親と引き離されて車を追いかけ続けるシーンではかわいそうで泣くことができたので、かわいそうはかわいそうで、ちゃんと認識ができているのだ。かわいいの引き出しが人よりも少しだけ多いマイノリティーが私。
空き教室に呼び出したらのこのことやってきた。ここの大学生でもないくせに。安達くんは高卒で働いているので、年齢的には大学生だけど、大学生ではない。何されるか分からないのによく来るよね。いや、分かってるのか、とりあえず悪いことをされるのは。これって同意ですか。男女逆だったらもう訴えられてるのかな。
「かわいいね、安達くん」
安達くんは照れくさそうに笑ってその言葉を受け入れる。受け入れられている。これは腹の底から湧き上がる情念じみた「かわいい」だ。
紀元前と紀元後って、イエス・キリストが存在してるかどうかの違いらしい。じゃあ、私の紀元前と紀元後は君と出会う前か後かになる。君がいるかいないかで私の人生はまるで違った。
安達くんと出会ったのは高校生の頃だ。私が二年生の時、安達くんは一年生。安達くんは華奢だし、殴ったら簡単に折れそうに見える。弱そうな見た目をしている。だからだろうか、よくパシらされていたし、暴力を振るわれていた。売店の食べ物や自販機のジュースを大量に抱えて走っていたり、人気のない踊り場で蹴られたり殴られているのを見た。有名人だった。高校生にもなってみっともないとは思ったけれど、誰も止めはしなかった。悪い意味での「噂のあの子」。それが安達くんだった。なんであんなにいじめられるんだろう、と思っていた。友達とも「またやってる」とか「見ちゃ駄目」とか言い合って、皆、臭い物に蓋をするみたいにあの子を見ないように、認識しないようにしていた。
私は「噂のあの子」を横目で追わずにはいられなかった。あの子は命乞いなんてしないから私の好みではないのだけど、ただ殴られてうずくまって吐き気をこらえている姿をかわいいと思っていた。頑張り屋さんでかわいい、と思っていた。頑張って我慢してえらいね。ずっと。かわいい子だな、と。今までの嗜虐心に満ちた「かわいい」とは似て非なるものだった。彼はかわいい。そしてそう思っているのは私だけであってほしい。誰もあの子のかわいさに気付かなくて良い。ずっと見ていた。あの子が殴られている時も殴られていない時も。欠伸をかみ殺しながら歩いている姿も、靴跡がついた背中で席についている姿も、知っていた。見ていたかった。見て痛かった。痛かったから、あの子のお陰で私はひょっとしたらまともな感覚を獲得できたのかとすら思った。悲惨なものを憐れむ感覚を。
「可哀相だね」
廊下で殴られているあの子を見て、友人が言った。
「そうだね」
そう思えているのだろうか。私は。まだ疑問は残っていた。
「助けてあげる? 止めた方が良いんじゃない?」
私たちは、柔らかい部分を踏みつけられているあの子をうっすらと横目で見ている。でも、私は知っている。彼にはこんなの慣れっこだ。いつものことだ。いつも見ないようにしている友人からすればやりすぎだと思うのだろう。ちょっと見てしまったからって図々しい奴だ。
「助けてやるなんておこがましいよ」
人を助けるなんて無責任なことはしたくなかった。しない、とかじゃなくてしたくない。だって責任とれないし。もし自殺しようとしている人を見ても私は止めないと思う。助けて終わりではない。その後も人生は続く。私も、助けられた人も。助けられた後の人生に責任をとれないくせに軽々しく介入しようとするだなんておこがましい。「助ける」なんて独りよがりで反吐が出る。野良猫に餌をやるだけで飼わない人間と同じだ。自己満足だ。私は命乞いが好きだが、それを助けたいとは思わない。自然は自然のままで良い。巣から落ちた雛は親鳥に気付かれなければ飢えて死ぬか、他の動物に食べられるしかしかない。拾って飼ってやるなんて独善的な行為はしたくない。したくないと思っていた。あの時までは。
「何見てるの」
放課後、渡り廊下の掲示物の前で立ち尽くすあの子を見て、私は声をかけた。なんであの時声をかけたのだろう。ただの気まぐれだろうか。覚えていない。それくらいくだらない気まぐれだった。ただ、世界から私たち二人だけが隔離されたみたいに、周囲に誰もいなかった。声や音は聞こえるが、まるで別世界のものみたいに思えた。
彼はちらりと私を見て、また掲示物の方へ視線を戻した。無視されたのだろうか。いじめられっ子のくせに生意気だな。私はあの子の隣に並んで、真似をして掲示物を見てみた。三百六十六日の誕生花、とかそんなのだった気がする。これを見て何をしているのだろう。横目であの子の横顔を伺う。意外と整っている、と思った。誕生花の内容は頭に入っていなかった。かわいい君が隣にいるのだから当然だ。
「画鋲、いっぱいあるなって思いまして」
一分は経っていたように思う。彼は私の上履きの色を一瞥して、ゆっくりと答えた。学年色で分かれているので私が何年生なのかを確認したのだろう。緑、二年生だ、と。
掲示物が貼られているボードの隅に、集合体恐怖症ならぞっとしそうな量の画鋲が所狭しと刺されていた。掲示物を回収した後に残した画鋲をまとめたものだ。回収する入れ物がない時、先生も生徒もよくとりあえず隅に刺していくのでそれがどんどん貯まってこんな量になっている。二十、いや、三十ほどはあるだろうか。
「こんなにたくさんあるなら、一つくらいなくなっても誰も気づかないんじゃないかと思いました」
自殺か殺人を示唆する暗喩だろうか、とも思ったけれど何も言わなかった。どうせ私の考えが物騒なだけだ。
じっと君は見ている。三百六十六日の誕生花ではなく画鋲を。凝視している。注視している。私はそんな彼をじっと見た。良く見たらなんか濡れている。水でもかけられたのか、何かをされて洗い落とした後なのかは分からない。何となく全体的にしっとりしていた。今日も地獄を耐えきってえらい。お疲れ様、と思った。でも言わない。ただそう思って見つめているだけ。吹奏楽部のトランペットの音が遠くで聞こえた。
私は画鋲を一つ、抜き取った。
彼の視線が私に移る。こうして真正面が見られると緊張してしまう。
「口、開けて」
私がそう言うと、あの子は何のためらいもなく口を開けた。反応は早かった。
私が何をしようとしているかなんてすぐに分かるのに。分かり切っているのに。分かり切っているからこそ。
どうしてそんなことができる、と思った。手が震えた。口まで開けさせて何もしない私は意気地なしだ。いや、そういう問題ではない。冷静に考えて画鋲を飲み込ませたら最悪死に至る可能性もある。私はこんなところでこの子を死なせたくはない。っていうか、お口かわいいね、とか。あの子の粘膜を見てしまった!とか。なんかもう頭の中がぐちゃぐちゃになった。吐き気と眩暈と動悸と息切れで心臓と脳みそがビリビリする。でも不快なだけでない。恐怖と高揚と恍惚と動揺と興奮とそのいずれにも当てはまらないし、その全てがないまぜになったような、形容しがたいこの気持ちは何だろう。
ぽとり、と画鋲が落下した。私の手が震えていたからだった。
落下した画鋲を、私は、君は、じっと見つめた。画鋲は針を上に向けて静止した。耳の奥が痛い。部活動の音も、聞こえなかった。中庭の楠の葉ずれの音すら分からなくて、ただすぐ近くで大きな耳鳴りがしていた。顔が火照る。熱が出た時みたいに全身が熱い。腹の奥から喉までの内臓が全部ちりちりする。
薄汚れたリノリウムの上で、まだ新しい画鋲が静かに横たわっている。
がん、と彼は画鋲を踏みつけた。上履きの裏に刺さったであろう画鋲は私の視界から消失した。一年生の学年色は赤だった。あの子の上履きはぼろぼろで、まだ一学期の途中なのに黒ずんで破れそうだった。私の前で今どんな表情をしているのか。見たくてたまらないけれど、怖かった。落胆しているだろうか。失望しているだろうか。でも、このまま立ち去られてしまうのも惜しくて、この千載一遇の機会を失うのが嫌で、目の前のこの子ともっといたくて、私はいてもたってもいられなくなって
「君さ、私と一生一緒にいなよ」
言いながら私は君の手を握った。何言ってるんだろう。本当に何でこんなことを言ったのだろう。めちゃくちゃだ。私はこんなにめちゃくちゃな奴だったのか。自分をコントロールできなくなっていた。握った手は思ったよりも大きくて私の手におさまりきらなかった。硬くて骨ばっていて、ちゃんと男の子の手だった。ああ緊張するな、と普通の女の子みたいなことを思った。普通の女の子らしからぬことをした後なのに。
私は足元から這わせていくように視線を上らせていった。君のスラックス越しの足を、太腿を、湿ったシャツから透ける腰の輪郭を、握られた手を、シャツが貼りついた胸を、剥きだしの首を、その首の右側についているほくろを、視線でなぞって、おしまいに君の顔を見た。目が合った。何の感情もない目だった。何を考えているのか分からない目。その目のまま、君は小さく頷いた。
「一生って、死ぬまでだからね」
ただ首を動かしたのを頷きと思っただけかもしれないので、念押しした。君はまた迷いなくもう少し大きく頷いた。自分で言っておいて驚いた。そもそも何故私はこんなめちゃくちゃなことをいきなり言い出したのだろうか。咄嗟だった。転んだ時に手をつくような、そういう反射みたいな言葉だった。何も考えていなかった。でも、口をついて出たのだ。
じっ、と君は私の顔を見た後、視線を下げて握られた手を見た。私は慌てて手を離した。いつまで握ってるんだ。
離した手は湿っていて、私の汗なのか、あるいは君が湿っているせいなのかは分からなかった。でも、とにかく私は熱かった。風邪を引いた時の熱とは違う。テストで難しい問題を解いた時のような。脳みそが、全細胞がフル稼働しているかのような。でも、それよりもはるかに愉快で愉悦に浸っていた。アドレナリン垂れ流すってこういうことを言うんだろうな。
「名前なんていうの」
噂で知っていたけれど、あえて聞いた。君は有名人だから、君の名前なんてほとんど全校生徒が知っている。ああ、なんか嫌だな、と思った。
「安達」
でも、こうやって本人の口から名前を聞いた人間は何人いるんだろう。クラスにはきっといるだろうし、先生には名乗ることもあるだろう。下の名前も知っているよ、と思ったけどあえて言及はしなかった。こうして君が名乗った相手が私だけなら良いのに。
「安達くんね。私は水無瀬」
安達くん、という五文字を口の中で転がす。飴玉みたいに。その言葉の一音一音が愛らしいと思った。思ってしまった。命乞いをする、殴られて耐えている、その行為がかわいいのではなかった。安達くんがかわいい。
「水無瀬さん」
安達くんが私の名前を呼んだ。その瞬間私は私になった。君に私が認識された。君の喉から私の名前が発声された。私の名前が君の声帯を震わせた。かわいい安達くんの。君の存在がかわいいのだ。男子の中では比較的小柄で華奢な君が途方もなく大きく見えたんだ。かわいいと大きいって共存するんです。
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