その日も、いつものように正午の頃に、戸口が叩かれた。向こうから、しっかりとした男の声がした。
「おばあさん、こんにちは」
「お入りください。モンタゼリーさん」
カーキ色の制服を着た若くはつらつとしたモンタゼリーが、年季の入った扉を開けて入ってきた。そして食料品をいつものように机の上に置いた。老婆のヒジャブの奥底から、枯れた声がした。
「ありがとう。チャイを作っていたの。飲んでいって」
「いつも大変でしょう。気を使わなくていいんですよ」
モンタゼリーの言葉にも関わらず、老婆はゆっくりとした足取りで、小さなキッチンの方からポットを取り出してきた。モンタゼリーは厚意に甘えつつ、部屋を見回した。指導者ホメイニ師の写真が部屋の目立つ正面に飾られている。そしてその下に、黒縁の写真立てがあり、微笑む若い男の顔写真が三人並んでいた。モンタゼリーは静かに、まずホメイニの写真を壁から外し、埃を取り除いて戻した。
「一杯だけで失礼しますよ。他にも行かないと。それにお金もかかるでしょう」
「気にしないでいいんですよ。若い人が来てくれるだけでうれしい。ああ……本当にあなたみたいな人がもっといれば」
「いますよ、たくさんね」
モンタゼリーは続けて、男の顔写真を外し、埃を同じく取り除いた。老婆は息を大きく吐いてうつむいた。
「私の息子たちも……」
老婆の言葉に、モンタゼリーは視線を合わせず、ただ写真の角度を揃えて壁に戻すのだった。
「気に病まないで。おばあさんの立派な息子さんたちは、イランの……礎になったんです」
「……そうね」
老婆の答えに、モンタゼリーは静かに目を瞑り、そして目礼してチャイに口を付けた。しばらく、天気や近所の猫の世間話をした後、モンタゼリーは席を立った。しかし、ふと窓の外の小さな庭を見ると、すぐにその方に歩み寄っていった。
「ああ、気にしないで。もういじれるものでもないし」
「いいよ、おばあさん。せめて綺麗にしておくよ」
そうしてモンタゼリーは雑草を抜く奉仕を始めるのだった。
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「市民の皆さん、礼拝に行きましょう……」
モンタゼリーは、スピーカーを備え付けた古びた自動車に乗りながら、街中を見回っていた。ドアの側面には、ライフルをもって突き上げるような腕の黄色のマークが輝いていた。そして車が横断歩道に行き当たると、男児たちがよちよちと鴨の群れの様に、教師の後ろをついて歩いている。教師は車の中のモンタゼリーに気づき、帽子を取って挨拶した。
「やあ」
「こんにちは。子どもたちは元気ですか」
「そりゃあもう。あなたみたいな人を見習うように教えてるんだよ。あなたほどみんなに貢献して、素晴らしい信仰を持っている人はいないよ」
太った教師の満面の笑みの向こうで、男児たちがニコニコとしながら渋滞していた。
「モンタゼリーさんだ! バスィージだ!」
「先生、モンタゼリーさんも来る?」
「いや、モンタゼリーさんはお仕事中だからね。さあ公園までもう少しだ。さようなら」
モンタゼリーは子どもたちの笑顔に答えるようにクラクションを軽く鳴らして去った。一人の男の子が遅れて行くのを見届け、何ブロックか走った後モンタゼリーは口の中で祝福を唱えつつ少しうつむいた。
「素晴らしい人は、みんな、殉教に喜んで向かい……死んでしまった……私が後を継がなければ」
口の中でもごもごと先人たちを称え、そして一瞬、頭の中に今はない前線の光景が浮かんだ。多くの者が、ホメイニ師の写真を胸に下げながら、西の暗闇へ、悲壮感などなく勇ましく進んで行くのだった。そうして、今の我々がある。ふと頭をあげると、街路の隅に、ヒジャブを浅く被っている女がいた。
「しっかり被りなさい! それがあなたを守るのだから!」
モンタゼリーの声に驚くように、女はヒジャブを深くして足早に去っていった。
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事務所の窓の外で煙が上がっていた。それは火事ではなく、中庭で集積されていた禁書の類を燃やしている煙だった。モンタゼリーはそれを一瞥し、やや時間に遅れてしまったことを不安に思いつつ廊下の奥の扉の前に立った。
「ただいま戻りました」
部屋に入ると、何人かの男たちが並んでいて、そして机の向こうに、中央から派遣されている法学者が座っていた。
「君がモンタゼリーか。ハシェミだ」
「はい。あの、どうもすみません……」
モンタゼリーはやや恐れながら、ハシェミの顔を見ると、薄黒い衣装とターバンの間に、鋭い眼光と髭が黒々と鈍く光っている。そこへ上司が、ハシェミに声を掛けた。
「彼は立派です。地域の栄えある革命戦争遺家族のために日々尽くしています。地区の誇りです」
「そうかね。素晴らしいことだ。よく覚えておこう」
ハシェミは表情を崩すことなく、それまでの続きの様に、手元のファイルに鋭い目を落とした。モンタゼリーは上司にわずかに頭を下げながら、ハシェミの振る舞いを見ていた。
「異端の者は」
「厳重に巡回を続けておりますが、今のところは……」
「今のところは、な」
ハシェミの答えに、誰もが顔をこわばらせた。だがハシェミはファイルを閉じ、一同を見回した。
「今日は良いだろう。革命の熱、そして信仰は決して冷まさせてはならない。バスィージは鍛冶屋のように熱を持って街を鍛え続けたまえ」
「はい」
ハシェミが部屋を出ていくと、一同は深く息をついた。上司はハシェミが座っていた椅子に座り直し、ファイルを整えた。
「今日は良かったが、中々厳しい方だからな……みんなも一層気を引き締めろ。また来るぞ。通達などは絶対に読み込んでおけ」
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ある日のパトロールの帰り道、モンタゼリーは老人が腰を曲げて地面を掃いている所に挨拶した。
「おじいさん。いつもご苦労様」
「ああ、こちらこそいつもありがとう」
「何か困ったことがあったらぜひ伝えてください」
老人の会釈の横を過ぎてしばらく歩くと、公園の林の中から、子どもらの騒がしい声がした。声を辿って林の中を覗き込むと、何人かの男児たちが、一人の男の子を取り囲んで殴りつけていた。
「やい……お前不信心だろ……親父も言ってるぞ……」
「おい、何をしている! やめなさい!」
男児たちは驚いて散り散りになって逃げていき、泣きじゃくっている男の子が一人残された。
「君、大丈夫か? 誰にされた?」
「……」
「バスィージだよ、安心して。どうしたんだ」
依然涙を流す男の子を、モンタゼリーは軽く起こした。
「家まで連れて行ってあげるよ。お家はどこ?」
そこまで言って、男の子は初めて地面に立ち、言葉を発した。
「大丈夫……一人で行けるから」
「でも君、いじめられてただろう。卑怯なことは良くないことだ。ホメイニ師も言っているだろう」
「いいんです、僕が悪いから」
うつむいた男の子に、モンタゼリーは頭を振り、肩に手を置いた。
「大勢で虐めるような者の方が悪いよ……ほら、そこでアイスクリームを買ってあげよう。少し話をしないか」
モンタゼリーは売店で買ったアイスクリームを二つ持ち、男の子とベンチに座った。
「バニラとチョコレートだよ。どちらがいい?」
「チョコレート。……あの、モンタゼリー……さんですよね。この間先生と話してた」
「ああ、そうだよ。君の名前は?」
「……アフマド」
わずかに微笑んだアフマドの様子を見ると、大きなケガなどはないのは安心だったが、かすかに聞こえた、罵りの声がモンタゼリーの耳に残っていた。
「新しいイランで、いじめなんてことはあってはいけないんだよ。アフマド、何があったか話してみてくれないか」
モンタゼリーが静かに問いかけると、アフマドの涙も乾いた円らな瞳がその顔を映した。そしてしばらくして、アイスを舐めながらぽつぽつと語り始めた。
「ぼくの……モナ姉さんが正しい服装をしていないから……」
「……お姉さんがどうであれ君を殴っていいことにはならないよ」
モンタゼリーはかすかに目をそらしたが、アフマドはさらに言葉をつづけた。
「それに僕の親は、優しいけど、コーランについてあまり教えてくれないんです……学校に行ってもついていけないし……」
「……大丈夫だよ。モスクの人に教えてもらうと良い」
モンタゼリーはアフマドを安心させる言葉を探すのに苦労し始めた。
「僕のお父さんは……」
~~~
「さて」
ハシェミが座っている机の前でモンタゼリーと数名の男は姿勢を正した。
「一週間の内偵の結果、モンタゼリーの報告は確度が高いと認めるに至った。猶予はない。私が命令を出す」
ハシェミは流暢な筆致で命令書にサインした。曰く、アフマドから引き出された情報による内偵の結果、アフマドの家はバハイ教徒の秘密の家庭宗教センターであることが判明したため、一家四人及び関係者の拘束を行う。そして大きく立派なカリグラフが文書の下部に記された。「イスラエルとアメリカの手先、あらゆる腐敗の主、背教者に死を」。
「モンタゼリーは善行の上に善行を重ねた。皆も見習いたまえ」
そう言いつつ、ハシェミは上司に文書を交付した。
「他部門とも連携し今晩執行します。全員準備を!」
モンタゼリーは静かに頷いた。そして仲間と共に武器庫に向かい小銃を出し、手入れを行った。
「驚いたよ、背教者が近くにいるとは」
「偉いぞ、モンタゼリー」
同僚たちの声の中で、モンタゼリーは一瞬どころか何度も脳裏にアフマドの顔を思い浮かべた。彼はどうなるのだろうか、と、一度彼は銃の手入れの手を止め、上司に向いた。
「アフマドはどうなるのでしょうか。私はアフマドを……助けるために……」
上司は一旦振り返ったが、目をそらした。
「まあ……子どもだからな……」
モンタゼリーは再び顔を下げ、ただ小銃を持った。モンタゼリーには数時間が一日のようにも感じられたが、夜が来て、一同は黒いバンに乗り、街中の家に向かっていった。
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あの日の重い感触を未だに抱きながら、モンタゼリーは事務棟の廊下で銃を持っていた。ふと、それが通り過ぎるのが見えた。黒いヒジャブを深くかぶった二人の婦人警官に抱えられて、アフマドの姉らしき女が血を廊下に残してひきずられていく。
「背教者の雌豚め。見たか?」
同僚の言葉にモンタゼリーは静かに頷いた。
「処女は処刑できないからな。まあ……」
「今は仕事中だ、話は後に……」
「あ、ああ。だが今晩が山だな」
モンタゼリーはそれを聞き、窓の外に目をやった。絞首台が中庭に組み立てられつつある。そして、小さなテントの下で、ハシェミがそれを眺めていた。絞首台が日差しを浴びて長い影を落とし、そして全てが暗くなる時間が来た。処刑が行われる横で、モンタゼリーはハシェミの横に呼ばれた。号令が轟く中、ハシェミの手の中に光るものがあった。
「イブン……汝は地上に腐敗を蔓延させた罪により……」
「モンタゼリー。君は多大な貢献を行った。善行賞をイスラム革命防衛の功労の名のもとに授ける」
「ありがとう……ございます」
非常に小さな、鈍く光る勲章が、微笑むハシェミの手により胸につけられた。小さいにもかかわらず、異様な重さが腹の辺りにまで及んだ。
「モナ……汝は地上に腐敗を……」
「君のような者がイランをより純粋にし、そして革命を永続させることを願っている」
「はい……」
「アフマド……汝は……」
その声にモンタゼリーは振り返らなかった。
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