「では、こちらがハザードです。こちらがエアコン。こちらがシートヒーター。こちらが国連脱退レバーです」
納車の日、自動車ディーラーの営業マンは、屋根つきの納車スペースで満面の笑みを浮かべながら言った。
五月の終わりだった。ショールームのガラス張りの壁の向こうでは、国道沿いを軽自動車とミニバンが流れていて、向かいの紳士服店ののぼりが、ばたばた揺れていた。展示車のボンネットは照明をぬるっと反射し、商談テーブルには使い捨ての小さい紙コップと、誰も読まない自動車保険のパンフレットが並んでいる。
「ちょっと待ってください。いま、何て言いました?」
「シートヒーターです」
「その次に言った言葉ですよ」
「国連脱退レバーです」と、まるでドリンクホルダーの説明でもするように営業マンは言った。
運転席のインパネ、ハザードランプの三角ボタンとエアコンの風量ダイヤルのあいだに、白い棒状のレバーが生えていた。先端には赤いボタン。レバーの根元には金縁のプレートがつけられていて、そのプレートには、実にまじめな明朝体の赤文字でこう刻まれていた。
走行中に操作しないでください
国連脱退レバー
「これ、何ですか」
「国連脱退レバーです。ご存じないのですか?」
「知らないから聞いているんです」
「最近テレビCMでバンバン流れているのに……」
「テレビCMで流れていていい装備じゃないでしょう」
「ご存じないならお教えしますね。こちらを引きますと、日本国が国際連合を脱退します。レバーを戻しますと、再加入します」
営業マンはにこにこしていた。こいつはたぶん研修で「お客様が国連脱退レバーに驚かれた場合」というロールプレイを百回くらいやらされている。目が死んでいた。
「最近の車は、すべて標準装備です」
「いらないです」
「外せません」
「外せない国連脱退機能って何なんですか」
「安全装備と同じ扱いです」
「どのへんが安全なんですか」
「国民主権の可視化により、政治的閉塞感を低減します」
「営業トークに内閣府の資料を混ぜないでください」
「でも、こんなの危ないでしょう」
「ですので、走行中に操作しないでくださいと書いてあります」
「停車中ならいいのかよ」
「停車中でしたら、法的には。あとはお気持ち次第です」
俺は試しにレバーを握ってみた。
握りやすかった。腹が立つほど握りやすかった。手のひらに吸いつくようだった。親指を赤いボタンに置く位置まで、自然に決まる。力を入れれば、カチリと小気味よく動きそうだった。指の関節、手首の角度、肘の開き、肩の力の抜け方、そのすべてが「どうぞ、国際秩序を一回お試しください」と囁いている。
人間工学の敗北だと思った。いや、逆かもしれない。人間工学が勝ちすぎた結果、俺が負けている。
「絶対に引かないでくださいね」
営業マンがダチョウ俱楽部のような言い方をしてくる。
「じゃあ、つけるなよ」
「でも、引ける自由がないと民主主義ではありませんので」
俺はその日から、国連脱退レバーつきの車に乗ることになった。
最初の一週間、俺はレバーを意識しないようにしていた。
通勤。買い物。実家への帰省。コンビニ。ドラッグストア。コインランドリー。ガソリンスタンド。駐車券の出るスーパー。どこへ行くにも、国連脱退レバーはそこにあった。信号待ちでもふと目に入る。マックのドライブスルーで、ポテトのサイズを聞かれているときにも、視界の端にある。コンビニの駐車場で、隣に停まった型落ちアルファードのバックドアに貼られた「赤ちゃんが乗っています」というステッカーを見ながら、車内で冷えたおにぎりを食っているときにもある。会社の駐車場で、朝からすでに疲れた顔をした同僚たちと駐車するときにもある。
ある、というのは強い。人間はそこにあるものをいつか触る。触れる場所にあるものを、触らないで生きることは難しい。たとえば、机の上のボールペン。たとえば、スーパーの試食。たとえば、押してはいけない非常ボタン。たとえば、会社の共有フォルダにある「絶対に消すな」という名前のエクセル。
俺は自分をまともな人間だと思っていた。少なくとも、国連脱退レバーを引くような人間ではないと思っていた。
母親が「腰が痛い」と言ってきたので、会社へ通勤するついでに、病院へ送っていくことにした。助手席に座ると母は国連脱退レバーを指さして言った。
「あんた、この赤いの何?」
「触らないで」
「なによ」
「日本が国連を脱退する」
「あら」と母は感心したように言った。
「最近の車は便利ねえ」
「便利じゃない」
「昔はこんなのなかったわよ」
「あったら困るんだよ」
母はレバーをじっと見てから言った。
「これ、お父さんが生きてたら絶対引いてたわね。阪神が負けた日とか」
「あー、親父ならやりそう」
父は生前、車に乗ると人格が変わる人間だった。定年後は町内会の役員を引き受け、年末には神社のしめ縄を作り、近所の子どもにはやたら優しいのに、ハンドルを握ると「おい、そこの軽、トロいからさっさと消えろ」とか言い出すタイプの男だった。人間の本性はハンドルで出る。だからハンドルの近くに主権を置いてはいけない。
母の言葉は俺の心に残った。
人間は、意外とくだらない理由で国連を脱退したくなるのではないか。たとえば、前の車がノロノロ走っているとき。たとえば、スーパーで半額シールを貼る店員の前に、妙に圧の強い老人が陣取っているとき。たとえば、会社で上司に「この資料、いい感じにしといて」と雑な指示を言われたとき。いい感じとは何か。いい感じとは、国連に加盟している状態で達成できる概念なのか? いい感じにできなければ、国連を脱退すべきなのかもしれないのに?
――その日は金曜で、しかも月末だった。俺は残業の帰りにコンビニの駐車場で弁当を食っていた。もうすこしで日付が変わりそうな、そんなタイミングだった。
会社では、上司が午後七時五十分に「ちょっと確認なんだけど」と言いだして、結果として俺は二時間近く、誰も読まない品質改善資料の体裁を整えていた。表紙のフォントをメイリオにするのかMS明朝にするのかで、部長と課長が十五分も議論した。どうでもいい。フォントで品質が改善するなら日本の製造業はもうとっくに火星でも開拓している。
コンビニで唐揚げ弁当を買った。容器越しに見える唐揚げはやたら小さかった。それに、容器だけがでかかった。底上げがすごかった。米に箸を入れたら、すぐ容器にぶつかった。白米の下には、白米のふりをした白いプラスチックの山脈が広がっていた。唐揚げはほとんどが衣で肉はない。しかも一個は衣だけだった。肉の気配がない。唐揚げの亡霊だった。
その瞬間、俺の中で何かが切れた。
「これが資本主義か! ふざけんな!」
意味のわからない独り言を言いながら、俺は国連脱退レバーを見た。
白い棒。赤いボタン。金縁のプレート。走行中に操作しないでください。
俺は停車している。法的には、お気持ち次第だった。
握った。気持ちよかった。
思いっきり引いた。
カコンとした音が鳴る。
たちまちナビが「国連を脱退しました」と明るい声で言った。
センターディスプレイが点灯すると、青い地球のアイコンが出た。
UNITED NATIONS WITHDRAWAL COMPLETED
再加入ルートを検索しています。しばらくお待ちください。
「え、嘘だろ、違う。違うんだ。俺は、唐揚げに怒っただけなんだ」
俺はナビに言った。ナビは黙っていた。カーナビは人間の言い訳を聞かないのだろう。
すぐにスマホでニュースアプリを開くと、いきなり速報が流れた。
【速報】日本、国連脱退 政府「詳細を確認中」
次の瞬間、会社のグループチャットがメッセージの洪水と化した。
「マジ?」
「誰が引いた?」
「休み明けの朝礼どうなる?」
「国連抜けたので明日の会議リスケですか?」
「国連関係なく出社です」
国連関係なく出社かよと思った。絶望した。
総理大臣の会見はそれから十五分後だった。眠そうだった。ネクタイの結び目が変なところにあった。会見場の記者席が画面に映ると、記者たちも眠そうに頭をこっくんこっくん下げて、カメラマンは三脚に寄りかかり、官房長官はうっすら口を開けていた。
「えー、本日、二十二時四十七分、国民の皆様のどなたかによる主権の直接行使により、我が国は国際連合を脱退いたしました」
記者が手を挙げた。
「総理、どなたが引いたのですか」
「個人情報であります」
「政府として責任は」
「主権者である国民の民意であり、政府としては国連脱退への手続きを進めてまいります」
「再加入の見通しは」
「現在、ナビがルート検索中であります」
別の記者が叫んだ。
「ナビとは何ですか!」
「カーナビであります」
会見場がざわついた。
「外務省ではなく、カーナビが再加入ルートを検索しているのですか」
「外交ルートと道路ルートを統合した新しい行政サービスであります」
「総理、それは誰が決めたんですか」
「自動車メーカーでございます」
俺は急いで車を走らせ、家に帰った。
すぐに部屋に入ると、布団にくるまり震えていた。俺のせいだ。完全に俺のせいだ。俺が唐揚げの小ささに腹を立てたせいで、日本が国連を脱退した。
考えれば考えるほど、意味がわからなかった。俺は政治活動をしたことがない。署名運動もない。せいぜい町内会の清掃を一回サボったぐらいだ。そんな俺が、唐揚げ弁当を片手に、国際秩序を出たり入ったりできてしまう。世界は、俺が思っていたよりもずっと壊れやすかった。いや、世界が壊れやすいのではない。世界を触れるようにしたやつが悪い。
しかし、不思議なことに、世間の反応は俺が想像していたものとは違った。
翌朝、家のリビングにいく。見栄っ張りだった親父が生前買った60型のテレビは緊急特番を流していて、コメンテーターが「今回の脱退は、ある意味で国民の生の声が出たとも言えますね」と意味があるようで実際には何の意味もないことを言っていた。
別の専門家は「国際協調と国民の怒りとの関係を、われわれはもっと真剣に考えるべきです」ともっともらしいことを言う。
政治学者がそれにかぶせるように「これは民主主義のUI問題です。国家がアプリ化されたとき、怒りはスワイプされ、外交はタップされ、主権は誤操作される」と哲学的なことを言うと、どこかの吉本芸人が「でも国連脱退レバー、ちょっと引いてみたくないですか?」とだるそうな口調でつぶやき、出演者がみな笑った。俺は笑えなかった。
飯を食べ、国連脱退レバーが引かれた車に乗り、いつもどおり会社に行く。
始業前の朝礼で、部長はいつもどおりののんきな口調で言った。
「えー、昨日、我が国が国連を脱退した件ですが、会社としては国際情勢の変化によるビジネスへの影響を精査していきます。この部としては引き続き、日々の業務にはげみ、品質向上と法令遵守を徹底してください。なお、駐車場に停めている社用車の国連脱退レバーには触らないように」
みんなが一斉に俺を見た。
「なんで俺を見るんですか」
隣にいた同期の高橋が小声で言った。
「お前、昨日コンビニにいた?」
「いたけど」
「唐揚げ弁当食ってた?」
「食ってたけど」
「やっぱりお前か。すげえな、お前が国連を脱退したのか」
「俺じゃない」
「違うね。高校の友達がコンビニにたまたまいたんだけど、唐揚げ弁当を食べてキレ散らかしたヤツがすんげー勢いでレバーを引いてたってLINEしてきた」
昼休み、俺の車のまわりに人だかりができていた。
みんな実際に行使された国連脱退レバーを見たがった。製造部の若手、品質保証の怖い係長、総務の女性、なぜか隣の会社の人間までいた。
「これが実物か」
「思ったより握りやすそう」
「引いていい?」
「だめに決まってるだろ」
「でももう脱退してるんでしょ?」
「戻したら再加入するんだよ」
「じゃあ戻せよ」
俺ははっとした。そうだ。戻せばいい。どうして思いつかなかったのか。
俺は運転席に座り、レバーを握った。レバーを押し戻した。カコンと鳴ると「国連に再加入しました」とナビが言った。
【速報】日本、国連再加入 政府「安堵している」
歓声が上がった。
急いでスマホでYouTubeを確認する。総理大臣が会見を開いた。今度はちゃんとスーツを着ていたが、顔が死んでいた。
「えー、本日十二時二十三分、国民の皆様のどなたかによる主権の直接行使により、我が国は国際連合に再加入いたしました」
記者が聞いた。
「総理、今回の一連の脱退と再加入をどう受け止めていますか」
「昼休みにやるのはやめていただきたい」
そのときだった。高橋が、俺の車の助手席から身を乗り出した。
「なあ、これ、ガチャガチャしたらどうなるんだ?」
「やめろ」
「一回だけ」
「やめろ」
「いいじゃん、ちょっとだけだから」
高橋は笑いながら、レバーを引いた。
カコン。
「国連を脱退しました」
戻した。カコン。
「国連に再加入しました」
引いた。カコン。
「国連を脱退しました」
戻した。カコン。
「国連に再加入しました」
高橋の腕の動きと連動するように、スマホが狂ったように鳴った。
【速報】日本、国連脱退
【速報】日本、国連再加入
【速報】日本、国連脱退
【速報】日本、国連再加入
【速報】国連事務総長、会見を中断
【速報】総理、移動中の車内で嘔吐
【速報】国連総会、日本の席を折りたたみ椅子に変更
いよいよ世界がざわつきだした。ニュースはニューヨークの国連本部を映し出した。国連総会の会場では、日本代表の席にスタッフが歩み寄ると「ただいま入退室が激しいため、お荷物での場所取りはご遠慮ください」という札が置かれた。
カメラが切り替わり、安全保障理事会で議長が言った。
「日本は現在、加盟していますか?」
事務局員が答えた。
「確認します。……脱退しました。……いま加盟しています。あ、抜けました」
各国代表は頭を抱えた。アメリカ代表が言った。
「この国、Wi-Fiか?」
「出たり入ったりするならせめてエレガントにやってほしい」とフランス代表が言った。
イギリス代表は「あの国はむかし、国際連盟も脱退したがもっと堂々と退場したぞ」と嫌味を言った。
再びカメラが切り替わる。
国連事務総長は顔に冷や汗を垂らしながら、声明を発表した。
「日本国民の皆様におかれましては、レバー操作の前に深呼吸をお願いします」
その日の夜から、日本中で国連脱退レバーブームが起きた。
SNSでは「#今日の脱退」がトレンド入りした。
「上司がムカついたので脱退」
「猫がゲロ吐いたので再加入」
「ラーメン屋が臨時休業だったので脱退」
「推しが結婚したので無期限脱退」
「歯医者が痛くなかったので再加入」
「阪神が勝ったので加盟継続」
「阪神が負けたので脱退」
「阪神が試合してないので検討」
テレビでは、国連脱退レバーを安全に楽しむ方法が特集された。
「まず、周囲の安全を確認しましょう」
「走行中の脱退は大変危険です」
「脱退後は、必ずミラーで後方の国際情勢を確認してください」
「お子様の手の届かないところに主権を保管しましょう」
ロードサイドのイエローハットでは、棚を埋め尽くさんばかりの国連脱退レバーカバーが売られだした。ふわふわの猫耳つき。カーボン調。木目調。ゲーミングLEDつき。握ると七色に光り、「主権覚醒」と表示されるタイプもあった。オートバックスのチラシには、若い夫婦と子どもが笑顔でミニバンに乗っている写真があり、その横に「ファミリーで選ぶ、日本の外交」と書いてあった。
ヤンキーのあいだでは、レバーを半クラッチみたいに微妙な位置で止める「半脱退」が流行した。
半脱退状態の日本は、国連にいるのかいないのか曖昧だった。ニュース番組で、アナウンサーは半笑いで「国連事務局は日本代表の席に、半透明のアクリル板を置いた」と伝えた。そこに日本代表がいるような、いないような感じにした。
外務省はついに公式アプリを出した。UNレバー・ステータス。現在の日本の加盟状態がリアルタイムでわかる。通知も来る。
18:03 日本が国連を脱退しました。
18:04 日本が国連に再加入しました。
18:04 日本が国連を脱退しました。
18:05 日本が国連に再加入しました。
18:05 総理が過労で病院へ救急搬送されました。
俺は罪悪感に押しつぶされていた。全部、俺が最初に引いたせいだった。唐揚げが小さかったせいでもあるが、最終的に引いたのは俺だった。俺は車に乗るたび、レバーを見ないようにした。しかし、レバーは見ないで済む場所にない。そこにあるのだ。ハザードとエアコンのあいだ。危険と快適のあいだ。緊急と日常のあいだ。世界秩序とロードサイドのあいだ。
ある夜、俺は会社帰りに渋滞にはまっていた。前の車のリアウィンドウにステッカーが貼ってあった。赤ちゃんが主権者です。
怖かった。赤ちゃんに主権を持たせるなとは言わない。しかし、赤ちゃんが国連脱退レバーを握れるのはまずい。
そのとき、前の車が突然ハザードを点けた。そして、車体が小さく震えた。
スマホが震えた。こっそり画面を見る。日本は国連を脱退した。
赤ちゃんだ。赤ちゃんが引いた。俺は叫んだ。
「赤ちゃんに外交をさせるな!」
だが、次の瞬間、日本は国連に再加入した。
たぶん親が戻した。続いてまた赤ちゃんが再び引いた。親が戻した。赤ちゃん。親。赤ちゃん。親。赤ちゃん。親。
国際秩序がチャイルドシートで攻防していた。その夜、外務省は「国内の乳幼児の皆様におかれましては、国連脱退レバーをおもちゃにしないでください」と声明を発表した。
数日後、Xのタイムラインを見て吹き出しそうになった。保育園で、保育士さんたちが「主権者のおててはおひざ」という歌を子供たちに教えていたのだ。
そして政府は対策を発表した。国連脱退レバーにチャイルドロックを搭載する。ただし、チャイルドロックの解除にはマイナンバーカードが必要だった。そして日本人は、だいたいマイナンバーカードを車内のどこかに落としていた。いまだに「番号で管理されたくない」と断固として拒否する人もいるのに。
国民は怒った。
「主権をロックするな」
「脱退の自由を守れ」
「俺たちのレバーを返せ」
「国連脱退レバーは日本の文化」
「昔はもっと自由に脱退できた」
昔とは、三週間前のことだった。
会社にはいまどきオフィスにテレビがある。そのテレビは延々と国会中継を流していた。予算委員会で野党は徹底的に追及した。
「総理、国連脱退レバーのチャイルドロックは、国民主権への重大な挑戦ではありませんか?」
総理は答えた。
「しかし、赤ちゃんが引くのであります」
「赤ちゃんも国民です」
「それはそうであります」
「ならば赤ちゃんの主権を尊重すべきではありませんか」
「しかし、赤ちゃんは昨日だけで七十二回脱退しています」
「活発な政治参加です」
議場から拍手が起きた。この国はもうだめだと思った。
そしてついに、最悪の商品が発売された。
スマート国連脱退レバーだ。スマホと連動し、音声操作で国連を脱退できる。
「ヘイ、クルマ。国連を抜けて」
家でテレビを見ていると、そんなCMが流れだした。家族がキャンプ場で笑っている。父親が焚き火の前で言う。
「ヘイ、クルマ。国連を抜けて」
ナビが答える。
「国連を脱退しました」
子どもが拍手する。母親が微笑む。犬が吠える。
そしてそこにドヤるように「家族の時間に、もっと主権を」とテロップが流れる。
俺はテレビを消した。だが遅かった。日本中のスマートスピーカーが誤作動を始めた。
「ヘイ、クルマ。音楽をかけて」
「国連を脱退しました」
「違う、音楽をかけて」
「国連に再加入しました」
「ヘイ、クルマ。味噌汁の作り方」
「国連を脱退しました」
「オッケー、クルマ。明日の天気」
「国連に再加入しました」
「クルマ。タイマー三分」
「安全保障理事会から退出します」
もう誰も制御できなかった。――日本は一日に八万回、国連を出入りした。
国連本部の日本代表の名札は、裏表で「加盟」「脱退」と書かれた回転式になった。
総理大臣は会見で泣いた。
「お願いです。せめて寝ているあいだだけは、国連にいさせてください」
その会見中、誰かが引いた。
記者のスマホが一斉に鳴った。日本は国連を脱退した。
総理はマイクの前で静かにうつむいた。
「もう、好きにしてください」
俺は決意した。この混乱を止める。最初に引いた者として、責任を取る。
責任という言葉は苦手だった。会社では、責任を取ると言って本当に責任を取った人間を見たことがない。たいてい責任は資料のページのどこかに消え、ふわふわとした再発防止策になり、エクセルのチェックリストになり、若手の仕事になる。偉い人間が頭を下げるとき、たいてい頭を下げる角度より、下げたあとどのタイミングで上げるかのほうが重要視される。
しかし、今回は俺だった。俺は唐揚げの底上げで世界秩序を壊した男だった。
夜明け前、俺は車に乗りこんだ。空は薄い灰色で、駐車場には誰もいなかった。近所の家々は、みなシャッターを下ろして眠っていて、遠くの幹線道路だけが、トラックの低い走行音をずっと響かせていた。
郊外の朝は、世界が再起動する前のローディング画面みたいに見える。国連脱退レバーは、いつもの場所にあった。白い棒。赤いボタン。金縁のプレート。
俺は深呼吸した。そしてレバーの横にある小さな取扱説明書を初めて読んだ。納車時に渡された分厚い説明書は、グローブボックスの奥へ、車検証入れと一緒につめこまれていた。
国連脱退レバーのページは六百四十二ページにあった。
そこには、こう書いてあった。
赤ボタンを長押し三秒:国連脱退
さらに長押し十秒:国連改革案提出
さらに長押し三十秒:新世界秩序起動
連打:国連本部にいたずら電話
「多機能すぎるだろ」とツッコミをいれて赤いボタンを十秒押すと、ナビが「国連改革案を提出しますか?」と聞いてきた。
「する」
「では改革案の内容を選択してください」
画面にメニューが出た。
① 常任理事国をじゃんけんで決める
② 拒否権を月額課金制にする
③ 国際連盟を復活させる
④ 国連脱退レバーを全世界標準装備にする
「④は絶対だめだろ」と思い、①から③のどれにしようか悩んだ。俺は①を選んだ。
ナビは「常任理事国じゃんけん制を提案しました」と伝えるとスマホが震える。
【速報】日本、国連改革案提出 常任理事国をじゃんけん制へ
ニュース番組をスマホに流すと緊急特番が組まれていた。安全保障理事会から生中継されていた。最初に発言したのはアメリカだった。
「じゃんけんなら勝てる」
中国も言った。
「じゃんけんは古来より我が国の文化的影響圏にある」
ロシアは言った。
「グーは強い」
フランスは言った。
「パーは美しい」
イギリスは言った。
「我々はチョキを発明した」
国連は混乱した。だが、混乱は奇妙な方向へ進んだ。拒否権で何も決まらなかった会議が、じゃんけんなら決まるのではないか。少なくとも、退屈な演説よりは早いのではないか。何時間も各国代表が原稿を読みあげ、結論の出ない言い合いをするより、最初はグーで済むなら、人類史は少しだけマシになるのではないか。
とりあえず国連加盟国すべての代表が総会の会場に集まり、半信半疑で輪になった。
「では、世界平和のため、最初はグー」と誰かが言った。
世界が息をのんだ。
「じゃんけん」
その瞬間、日本中で誰かが国連脱退レバーを引いた。
【速報】日本、国連脱退
国連会場から日本代表が消えた。
「あれ?」
各国代表が振り返った。次の瞬間、誰かが戻した。
【速報】日本、国連再加入
日本代表が戻ってきた。
「すみません、いま何を出しました?」
アメリカ代表が怒鳴った。
「お前はまず加盟状態を固定しろ!」
日本代表は深く頭を下げた。
「国民に確認します」
そのとき、俺のナビが勝手に喋った。
「国民の総意を確認するため、全国の国連脱退レバーを同期します」
「待て」
「同期しました」
「国民の皆様。日本は、国連に加盟しますか? 脱退しますか? レバーでお答えください」
そして三秒後、困ったような声でナビは言った。
「日本国の意思は、非常に日本国らしいです」
画面に表示が出た。
結果:半分加盟、半分脱退。国連に在籍しながら脱退しています
備考:お気持ちは確認しました。国民の七割がレバーを半分引いた状態にしていました
国連は、日本に新しい席を用意した。加盟国席とオブザーバー席のあいだ。そこには畳が敷かれ、小さなちゃぶ台が置かれた。そして普通なら国名が書かれる札にはこう記されていた。
JAPAN
Currently affiliated, Currently withdrawn, Under consideration
(加盟中、脱退中、検討中)
日本代表はそこに正座した。じゃんけんの輪の真ん中にいた、国連事務総長は疲れ果てた顔で言った。
「もう、ずっとそこにいてください」
それからも国連脱退レバーは存在しつづけた。
車検の項目に「国連脱退レバーの遊び」が追加された。教習所では、坂道発進、縦列駐車、国際協調の三つが難関とされた。自動車保険には「外交割引」がついた。つまり国連脱退レバーを一年間引かなければ保険料が安くなる。免許更新の講習では、退屈なビデオの最後に警察官が出てきて親父ギャグをかましたあとに「みなさんね、腹が立ったときほど、主権の前に深呼吸」と言ってくる。
俺は結婚しても、同じ車に乗っている。ハザードとエアコンのあいだには、あのレバーがある。ときどき握りたくなる。握りやすい。
本当に握りやすい。だが、俺はもう知っている。人間は、握りやすいものを握っただけで、世界を変えてしまうことがある。
だから俺は今日も、赤信号で停車しながら、レバーを見ないふりをする。
助手席の妻が言う。
「ねえ、ちょっと暑くない?」
「ああ」
「エアコン強くして」
「わかった」
俺は手を伸ばした。少しだけ指が滑った。
カコン。
ナビが「国連を脱退しました」と明るく告げた。
妻が言った。
「やだ、保険料が高くなるじゃん」
俺は「あー、もう嫌だ」とうんざりしながらハンドルを握りしめた。後ろの車がクラクションを鳴らした。信号は青になっていた。
ナビが「再加入ルートを検索しています」と告げ、俺がアクセルを踏むと車はゆっくりと発進した。
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