幽霊部員に足はない。つまり幽霊部員は部費を払わない。
「なんだよ、あいつら!」と志希ちゃん部長様、いや「元部長様」はキレ散らかしていた。当然一年生は部長になれない。
この宇宙で俺たちは岩手県立銀河崎高校に入学したばかりの一年生だった。どれだけ宇宙を渡り歩き、虚乳に突っこみ、虚尻に落ち、宇宙よりでかいディルドのネオまりん砲を引っこ抜いた記憶があろうと、校則上、一年生は部長になれない。校則というのは宇宙より硬い。いや、前に宇宙はわりと簡単に壊れたので、たぶん校則のほうが硬いんだろう。
「おかしいだろ! わたしは部長様だぞ! しかも前の宇宙じゃ全国高校生理科研究発表会に出る予定だったんだぞ! なのに部費が五千円? 五千円でなにを研究しろっていうんだよ。メダカの餌か? メダカにでもペン立て作らせる気か?」
化学実験室で志希ちゃん元部長様は机を叩いた。叩かれた実験机の上ではビーカーが情けなく震え、カバが隠していた麻雀牌の東が床へ転がった。
「おいカバ。お前、入学して一週間で実験室に麻雀牌持ちこんだのかよ」
「違う。これは御守りだ」
「どこの神社が東を授けるんだよ」と俺はカバへ冷静にツッコむ。
カバはしょげた様子で東を拾うと胸ポケットに戻した。ハツは実験用椅子に座り、すでに眠そうな顔をしていた。青田は窓際で分厚い文庫本を読んでいたが、タイトルが『存在と足場』だった。なんだその退屈そうな本。しかも青田の首元には、すでに蕁麻疹が出ていた。おそらく序文に数学用語が出たのだろう。
俺は白衣に袖を通しながら、志希ちゃん元部長様に言った。
「仕方ないですよ。実働部員が一年生しかいないんですから。正式な部として認められてるだけでもありがたいです」
「認められてないから五千円なんだよ! 同好会扱いだぞ。わたしの偉大なる研究室が、手芸部の余った毛糸より安い扱いを受けてるなんて!」
「化学部じゃなくて、いまは化学同好会です」
「言うな! その名前を言うと口が腐る!」
志希ちゃん元部長様は、机に置かれた部活動予算配分表を睨みつけた。
おそらく先生たちがエクセル方眼紙に記入して印刷しただろう紙には、各部活動の部員数と部費が無慈悲に並んでいる。野球部、三十二名、二十万円。吹奏楽部、四十六名、三十万円。軽音部、八名、十万円。オカルト研究会、二名、三千円。そして化学同好会、五名、五千円。
「おい、なんで軽音部が十万円なんだよ。吉原のギターの弦代か? あいつ、どうせ火を吹く練習で燃やすだけだろ」
「まりんちゃんが顧問だからですよ。先生が音楽室のアップライトピアノを燃やしたお詫びに、学校が逆に軽音部へ予算をつけたらしいです」
「逆だろ。罰として予算を減らせよ」
「声がでかくて火を出す危険人物は金で黙らせるしかないでしょ」
俺が欠伸をしようとしたそのとき、実験室の引き戸が、すうっと開いた。
俺は引き戸を見た。しかし、そこに誰もいなかった。
いや、正確には誰かいた。白いワイシャツの上半身だけが、空中にふわふわ浮いていた。腰から下がない。足がない。革靴もない。靴下もない。床に影も落ちていない。
幽霊だった。
「失礼しまーす」
幽霊は妙に軽い声を出した。
「化学部ってここで合ってます? 僕、三年の足立です。いちおう名簿上の部長ということで」
いくら前の宇宙でわけのわからないことを見てきた俺でも、さすがに幽霊ははじめてだった。
俺が唖然としていると、志希ちゃん元部長様の丸眼鏡が、蛍光灯の光を受けてギラリと光った。
「おい」
「はい?」
「足立なのに足がないじゃねえか!」
そこをツッコむのかよ。
「幽霊なんで」
「ふざけんな!」
志希ちゃん元部長様は叫ぶと立ち上がる。椅子は床に倒れてコロコロ転がると、足立先輩の下半身があるべき場所をすり抜け、引き戸の向こうの廊下の壁にぶつかった。
「幽霊に足はない。つまり幽霊部員は部費を払わない。お前が部長なら、お前が部費を払え!」
「いや、幽霊なんで財布もないです」
「財布もない!?」
「ポケットも空です」
「口座は!?」
「死んだときに凍結されました」
「生々しいな!」
足立先輩は申し訳なさそうに笑った。腰から下がないせいで、申し訳なさも半分ぐらいに見えた。
「謝罪してよ!」
「土下座しようにも足がなくて正座できません!」
どうも謝罪というものは、土下座できる足腰があって初めて成立するらしい。
「そもそも、どうして幽霊が名簿上の部長なんですか」
俺が聞くと、足立先輩は空中で少し回転した。どうやら照れているらしい。
「去年まで化学部に籍があったんです。部長でした。けど受験勉強が忙しくて一度も来なかったんですけど」
「完全な幽霊部員じゃないですか」
「はい。そしたら本当に幽霊になりまして」
「なにがあったんですか」
「部費を払わずに卒業しようとしたら、財務担当の副部長に追いかけられて、階段で転びました」
「部費の取り立てで死んだのかよ」
「死因は足を滑らせたことです」
「足が原因で死んだやつが足を失って幽霊部員になって、しかも足立って名前なの、設定盛りすぎだろ」
青田が本を閉じて言った。
「これはまずいよ」
「なにがだよ」
「足立先輩が存在しているのに足がない。名前には足があるのに身体には足がない。これは記号と実体の乖離だ。ソシュール的にも危険だし、たぶん宇宙論的にも危険だ」
「お前、理系用語だけじゃなくて文系用語でも蕁麻疹出るのかよ」
「出るよ。難しい言葉は全部かゆい」
青田は真っ赤っかになった首をポリポリ掻いた。
志希ちゃん元部長様は、腕を組んでしばらく考えこんでいたが、やがて顔を上げた。
眼鏡の奥で、明らかにろくでもない発想が光っていた。嫌な予感がした。
「つまり、足立に足を生やせばいいんだな」
「いや、どうしてそうなるんですか」
「足があれば幽霊部員ではなくなる。幽霊部員ではなくなれば部費を払う。部費を払えば化学同好会は化学部へ復権する。完璧な三段論法だ」
「一段目からおかしいですよ」
「うるせえ! わたしは今日から足生え薬を作る!」
その瞬間、俺は嫌な予感がした。
かつて、志希ちゃん元部長様はアカオタテガモの雄性ホルモンを研究し、最終的に精子の海をつくって銀河崎盆地を水没、いやザーメン没させた。あの人は「生やす」という動詞と相性が悪い。なにかを生やそうとすると、だいたい宇宙が壊れる。せめて豆苗ぐらいにしてほしい。豆苗なら何度生えても味噌汁に入れるだけで済む。
「部長様、やめましょう。まだ入学して一週間ですよ」
「だからこそだ。まだ何も失っていない今なら、すべてを取り戻せる」
「前回それっぽいことをまりんちゃんが言って、全宇宙を抹殺しようとしましたよ」
「あのバイオレンス物理教師と一緒にするな。わたしは宇宙を消したいんじゃない。部費がほしいだけだ」
欲望が小さいようで、実際はかなり危険だった。
その日の放課後、化学同好会の新研究テーマは、満場一致ではなく志希ちゃん元部長様の怒号により決定した。
「新しい研究テーマは『幽霊部員の下肢再生を目的としたアホロートル四肢再生因子誘導体の合成、および部活動予算制度への応用』!」
真面目そうに言うと真面目そうに聞こえるから困る。
*
アホロートル、つまりウーパールーパーは手足や尾を再生することで知られている。イモリも再生能力が高い。プラナリアに至っては切っても切っても増える。もしプラナリアが部員だったら、部費を払うどころか、切るたびに部費請求先が増えて学校会計が破綻するだろう。
「再生医療の基本は、細胞が『俺は何になるべきか』を思い出すことだ」
志希ちゃん元部長様は黒板に、やたらうまいウーパールーパーの絵を描きながら言った。変なTシャツを着ているくせに、こういうところだけ妙に器用なのが腹立つ。
「失われた足を再生するには、細胞に足の設計図を読み出させる必要がある。だが幽霊には細胞がない」
「詰んでるじゃないですか」
「そこで発想を変える。身体ではなく、名前に足がある」
「足立先輩だから?」
「そうだ。名前に含まれる『足』を実体化させる。これを言語発生学的再生医療と呼ぶ」
「呼ばないですよ」
「いまわたしが呼んだ」
志希ちゃん元部長様は、黒板に大きく「足」と書いた。すると、チョークの粉がぼろぼろと落ち、床に白い足跡のような模様を作った。
足立先輩は、空中で拍手しようとしていた。だが下半身だけでなく手も薄いので、音が鳴らなかった。幽霊って不便だなと思った。
「で、なにを合成するんですか」
俺が聞くと、志希ちゃん元部長様は試験管立てを指さした。
「アホロートル由来再生シグナルを模したペプチドに、言語野を刺激する芳香族化合物を結合させる。そこへさらに、古文書から抽出した足跡概念を添加する」
「古文書から足跡概念ってなんですか」
「オカルト研の研究論文にそんなことが書いてあった」
「菊池かよ」
実験室の隅を見ると、菊池が平然と座って月刊ムーを読んでいた。こいつはどの宇宙でも菊池だった。一度千人に増えた記憶があるせいか、一人でいてもなんとなく多い。
「この学校の下駄箱には昔から、存在しない生徒の上履きが出てくる怪異がある」
菊池は月刊ムーから顔を上げずに言った。
「その上履きの内側に残った足跡を削って粉にした。足跡とは、その人間がこの宇宙に接地した証拠だ。つまり足とは存在証明なんだよ」
「急にまともなこと言うな。怖いだろ」
「ちなみにその粉、ちょっと舐めたらすごく嫌な味がした」
菊池は胸ポケットから小瓶を取りだした。たしかに粉が入っている。
「なんで舐めるんだよ」
青田が露骨に嫌な顔をした。
「どんな味だよ、菊ちゃん」
「強いて言うならワックスと埃と、誰かの青春が腐った味」
「最悪だよ」
志希ちゃん元部長様は、菊池から小瓶を受け取った。中には灰色の粉が入っていた。見なければよかった。
実験が始まった。
オイルバスで試薬を温める。メスシリンダーで溶媒を量る。その溶媒に粉を溶かす。青田は「量る」という単語を聞いた瞬間に蕁麻疹を悪化させたので、廊下に追い出された。ハツは眠そうな顔で撹拌子を見つめていた。カバは「足りない牌がある」と言いながら、実験台の下で麻雀牌を数えていた。
「おいカバ。いま足りないのは部費だ。牌じゃない」と俺はカバを小突く。
「牌が足りないと麻雀ができない。麻雀ができなければ青春もない。だから俺は牌をさがす」
「いいこと言った風にするな」
日が沈みそうになった頃、ビーカーの中の液体は、妙な色になっていた。黒でも白でもない。影の裏側みたいな色だった。
そこに志希ちゃん元部長様はどこからか持ってきた粉を入れてかきまわす。色はたちまち虹色になったかと思うと、またもとの色に戻った。
「できた。名づけて、虚足発生試薬」
「名前がもうダメです」
「虚乳、虚根、虚尻と来たんだ。次は虚足だろ」
「シリーズ化すんな」
足立先輩は期待に満ちた顔で浮かんでいた。
「これで僕にも足が?」
「ああ。足が生えたら、ちゃんと部費を払えよ」
「財布も生えますか?」
「そこまでは知らん」
「じゃあどうやって払えば」
「労働で払え!」
志希ちゃん元部長様はスポイトで虚足発生試薬を吸い上げると、足立先輩の下半身があるべき空間に一滴落とした。
ぽたり。
音がした。
幽霊の身体に液体が落ちたはずなのに、なぜか床から音がした。足立先輩の下に、黒いしみが広がった。しみは丸くなり、少しずつ深くなった。水たまりではない。穴だった。穴の中は真っ暗で、その奥に、細い道が無数に見えた。
あぜ道。廊下。階段。校庭の白線。イオンの通路。最寄りの新幹線の駅のプラットフォーム。知らない都会の歩道橋。雪の積もった山道。砂浜。戦場。月面。まだ誰も歩いたことのない惑星の赤い地面。そして、数多の銀河団と、数え切れないほどの恒星。
足立先輩の下に、足ではなく、すべての道が開いた。
「あ」とつぶやいてしまった。これ、またやらかしたな。
黒い穴から、足が出てきた。
一本ではない。二本でもない。無数の足だった。革靴、スニーカー、上履き、長靴、サンダル、裸足、義足、鳥の足、犬の足、虫の脚、ロボットの脚、なぜかちゃぶ台の脚まで出てきた。それらが床を蹴り、一斉に実験室へなだれこんできた。
「うわああああ! 足が! 足が多い!」
ハツが叫んだ。
「成功だ!」
志希ちゃん元部長様は目を輝かせた。
「どこがですか!」
「足が生えた!」
「足立先輩にじゃなくて世界中の足が生えてます!」
足たちは実験室を走り回りはじめた。椅子を蹴る。机を蹴る。ビーカーを蹴る。カバの尻を蹴る。
「なんで俺だけ!?」
「お前が東を隠したからだろ!」
「足と麻雀関係ないだろ!」
足立先輩は、自分の下に開いた黒い穴を見下ろして、感動したように言った。
「これが……僕の足……?」
「違います。どう見ても災害ですよ!」
黒い穴はさらに広がった。床のリノリウムがめくれ、実験室の下にあるはずのコンクリートが消えた。そこには、どこまでも続く道の束があった。すべての道が絡まりあい、巨大な毛玉のようになっている。その中心に、ぽっかりと足形の空洞があった。
足の形をした虚無。
虚足。
その虚足が、こちらを見ていた。
いや、足に目はない。だが見られているとしか思えなかった。足のない何かが、足を求めて、世界のすべての道から足跡を吸い寄せている。
廊下から悲鳴が聞こえた。
俺たちは実験室を飛び出した。廊下では、上履きだけが走っていた。生徒たちは壁にしがみついていた。足元を見ると、何人かの生徒の足が床から少し浮いている。足跡がない。歩こうとしても、床に接地できないのだ。
「おい、どうなってんだ!」
吉原が向こうから叫ぶ。足はちゃんとある。しかし足が床を蹴っていない。空中を犬かきみたいにバタバタしていてまったく進まない。
「俺、走ってるのに前に進まねえ!」
「お前の人生みたいだな」と志希ちゃん元部長様がせせら笑う。
「今それ言う!?」
吉原の後ろから、羽黒先生がゴスロリ姿で現れた。なぜ学校でゴスロリなのかはもう聞かない。聞くと火炎放射器を向けられるからだ。
「あんたたち、また宇宙に変な穴開けたの?」
「開ける気はなかったんです。けど、こうしなきゃ部費が集まらないんです!」とカバが言った。
「部費なら仕方ないね」
「仕方なくないですよ!」
羽黒先生は床に広がる黒い足跡を見て、眉をひそめた。
「これはまずいわね」
「先生がまともな反応をすると怖いんですけど」
「足はね、物理では意外と大事なの。接地、摩擦、運動量、重心。人間は足で世界に境界条件を与えている。足がなくなると、世界との相互作用が解ける」
「つまり?」
「このままだと、全校生徒が幽霊部員になる」
廊下の向こうで、誰かの身体がすうっと薄くなった。
その生徒は叫んだ。
「やばい! 俺、野球部なのに幽霊部員になる!」
「それは元からいるだろ」
吉原が言った。
「どの部にも一人はいるだろ。名簿にだけいるやつ」
「現実にするな!」
足音は指数関数的に増えた。校舎中から、ばたばた、ぺたぺた、かつかつ、ぎしぎし、どたどたと足音が押し寄せてくる。だが、歩いている人間はいない。足音だけが廊下を走っている。
俺たちは近くの教室に入る。
足音は教室へ飛びこみ、黒板を蹴り、チョークを砕き、先生が置きっぱなしにしていた出席簿を踏みつけた。
出席簿の名前に、黒い足跡が押されていく。
押された名前は、薄くなる。足跡を押されるたびに、その生徒は「在籍」から「幽霊」へ変わっていくのだ。
「まずい! 名簿がやられてる!」
俺が叫んだ。
青田が出席簿を見て震える。
「わかった……。わかったよ。これは脚注だ」
「脚注?」
「本文の下にあるやつ。フットノート。足の注釈。人間がこの宇宙の本文に存在するには、どこかに脚注が必要なんだ。いつ、どこを歩いたか。どの道を通ったか。誰とすれ違ったか。そういう足跡が、その人間の存在を本文に結びつけている」
「お前、急に文学少年みたいなこと言うな」
「僕は新宇宙だと群像新人文学賞の最終候補だからね」
「その設定まだ残ってたのかよ」
「でもいま、虚足が脚注だけを吸っている。足跡が奪われた人間は、本文から切り離される。だから幽霊になる」
「じゃあどうすればいい」
「本文に戻すしかない」
「どうやって」
「知らない」
結局青田は役に立たなかった。
そのとき、廊下の蛍光灯が一斉に消えた。――闇の奥から、金髪の女子高生が歩いてきた。
星川さんだった。
星川さんは、いつものように涼しげな顔で、黒い足跡だらけの廊下を見下ろした。
「あらあら。今度は足なのね」
「星川さん!」
「あなたたち、毎回よく身体のどこかから宇宙を壊すわね」
「俺たちというか、主に志希ちゃんです」
「こら、責任を個人に押しつけるな。研究とは共同作業だ!」
志希ちゃん元部長様が胸を張った。
「共同で怒られろ!」と吉原が泣きそうな顔で怒る。
星川さんはしゃがみこみ、床の黒い足跡に指先で触れた。すると、黒い足跡の中に小さな銀河が見えた。だが虚乳の中の銀河とは違う。星はたしかに光っていたが、星川さんがその姿を拡大する。拡大する。極限まで拡大する。――そこには原子の姿などなく、記号があった。すなわち、ゼロとイチの記号が。
「これは虚足。可能なすべての歩行のバイナリデータね」
「え、どういうこと?」
「人間は毎日、無数の道を選ばずに捨てているでしょう。右へ行くか左へ行くか。学校へ行くかサボるか。告白するかしないか。部費を払うか払わないか。そういう選ばれなかった足跡が、宇宙の下に溜まっているの」
「部費を払うか払わないかも宇宙論に入るんですか」
「当然よ。払わなかったせいで死んだ幽霊もいるんだから」
足立先輩が気まずそうに目をそらした。
「虚足は、選ばれなかった足跡の墓場。けれど足立くんに足を生やそうとして、名前の『足』と、幽霊部員の『不在』と、部費の『不足』がつながってしまった。いま虚足は、この学校にあるすべての足を回収して、足りなかった可能性を補完しようとしている」
「つまり?」
「全員の足跡が奪われる。最後には、この学校そのものが『存在しなかった幽霊学校』になるわ」
「嫌すぎる!」
その瞬間、校内放送が鳴った。
『生徒の皆さんに連絡します。ただいま、校内において足元が大変不安定になっています。廊下を走らないでください。また、幽霊部員になった生徒は、速やかに顧問の先生へ申し出てください』
「申し出られるのかよ、幽霊が」
吉原がツッコミを入れる。
『なお、部費未納者は、幽霊化しても支払い義務は消滅しません』
「学校会計、怖すぎるだろ」とハツがつぶやき、放送が切れた直後、廊下の床が大きく波打った。
黒い足跡が合体していく。右足、左足、右足、左足。足跡は連なり、巨大な道になった。その道は廊下を突き破り、階段を飲みこみ、校庭へ伸びていく。
窓の外を見ると、校庭の地面に巨大な足跡が浮かびあがっていた。ひとつの足跡が、校庭の半分ほどもある。土が沈み、白線が歪み、サッカーゴールが足の親指のところでぴょんと跳ねた。
巨大な見えない何かが、銀河崎高校を踏み始めていた。
「あれが虚足の本体?」
俺が聞くと、星川さんは首を振った。
「本体じゃない。あれは一歩目よ」
「一歩目?」
「虚足がこの宇宙に入ってくる。二歩目で学校が消える。三歩目で銀河崎が消える。四歩目で岩手が消える。五歩目で日本。六歩目で地球。七歩目で――」
「もういいです! いつもスケールアップが早い!」
志希ちゃん元部長様は、巨大な足跡を見て、なぜか悔しそうな顔をした。
「くそ。わたしの研究なのに、わたしよりスケールがでかい」
「張りあうな」
羽黒先生がフリルを揺らしながら笑った。
「止める方法は簡単よ」
「先生、絶対簡単じゃないでしょ」
「足を止めればいい」
「それはそうですけど」
「歩いてくるなら、転ばせればいい」
羽黒先生はポケットからライターを取り出した。
「火をつける気ですか」
「足元を燃やせば誰だってこけるでしょ?」
「人じゃないです」
「じゃあもっと燃やせばいい」
この人は本当に火だけで全問題を解決しようとする。
星川さんが静かに言った。
「燃やしても無駄よ。虚足は足跡のバイナリデータ。この宇宙の脚注。足そのものじゃない。必要なのは、足跡を本文へ戻すこと」
「だからどうやって?」
俺が聞くと、星川さんは俺を見た。
嫌な予感がした。
星川さんが俺を見るときは、だいたい俺がどこかに突っこまされるときだ。胸か、尻か、宇宙か、そのどれかだ。今回は足か。
「歩けばいい」
「は?」
「虚足は選ばれなかった足跡なら、誰かがその道を実際に歩いて、選ばれた足跡に変えればいい」
「いや、どこを?」
「虚足の中」
「やっぱり突っこむんじゃねえか!」
青田が泣きそうな顔で俺の袖を掴んだ。
「僕は嫌だよ。前は虚尻で何日も砂漠を歩いたんだ。もう歩きたくない」
「お前、この前まで読唇術で活躍してたろ。唇で活躍できたんなら足でも活躍しろよ!」
「やだよ! もう歩きたくない!」
吉原がギターケースを背負い直した。
「俺も行く」
「お前、珍しく男気あるな」
「いや、先生に虚足を燃やしに行けって言われる方が最悪」
「吉原?」
羽黒先生が笑顔で吉原を見た。
「冗談です先生! 火炎放射も磔も最高です!」と吉原はペコペコ謝る。
志希ちゃん元部長様は、棚から白衣を二枚取り出し、俺と吉原に投げた。
「行け。虚足の中で足跡を回収しろ。ついでに部費も回収してこい」
「部費は無理です」
「じゃあ足立の財布だけでも探してこい」
「死んだ人の財布を異界で探せってこと!?」
星川さんは床に広がる黒い足跡の上に立った。胸元から、わずかに宇宙の光が漏れている。だが今回は虚乳を開くわけではなかった。星川さんは自分の足元を指さした。
「虚足に入る入口は足元にある。踏み抜けばいい」
「普通に怖いんだけど」
「大丈夫。帰り道がなくなったら、わたしが探してあげる」
「それ前も聞いた気がするし、前は出られなくなってましたよね」
「細かい男ね。だからモテないのよ」
正論を言われて反論できず、俺は上履きを見た。銀河崎高校指定の白い上履き。安っぽいゴム底。入学式からまだ一週間しか経っていないのに、もう校庭の土で薄汚れている。
この上履きで宇宙を救うのか。
嫌すぎる。
「行くぞ、吉原」
「おう」
「青田、お前はやっぱり置いていく。お前はいざとなったら俺たちの足首を掴め」
「また!?」
「足の話だからな」
「理由になってない!」
俺と吉原は、黒い足跡へ向かって走った。足跡の中心は、底なしの穴のように暗い。だがその闇の中には、無数の道が見える。俺は思い切り踏みこんだ。
床が消えた。
足元にあったはずの学校がなくなり、身体が落ちる。虚足の大宇宙の星々のあいだに落ちる。いや、落ちているのではない。歩いている。俺たちはまっさかさまに落ちながら、なぜか足だけは地面を踏んでいた。上も下もない空間に、道だけがある。右へ曲がる道、左へ曲がる道、引き返す道、途中で途切れる道、誰かの家へ続く道、病院へ続く道、知らない駅へ続く道。無数の道が、空中を麺みたいに絡まりながら伸びている。
その道の上を、足跡だけが歩いていた。
小さな足跡。大きな足跡。泥の足跡。血の足跡。雨の日の足跡。雪の日の足跡。上履きの足跡。裸足の足跡。誰かが入学式の日につけた足跡。誰かが卒業式の日に消した足跡。
俺はそのひとつを踏んだ。
瞬間、知らない記憶が流れこんできた。
朝、母親に怒鳴られながら家を出る。バスを逃す。走る。田んぼの横で息が切れる。学校に着く。教室に入りたくなくて、下駄箱の前で立ち止まる。結局、保健室へ行く。そのまま部活にも入らない。誰にも覚えられない。名簿にだけ名前が残る。
「うわっ」
俺は足を引いた。
「どうした?」
吉原が聞いた。
「幽霊部員の足跡だ。踏むと、その人が歩かなかった人生が入ってくる」
「きついな」
「ああ。想像以上にきつい」
別の足跡を踏んだ。
今度は、部活に入ろうとして実験室の前まで来た一年生の記憶だった。扉の向こうから志希ちゃん元部長様の笑い声と、なにかが爆発する音が聞こえる。怖くなって引き返す。その日から化学部には近づかない。やがて名簿だけが残り、誰も顔を覚えない。
また別の足跡。
軽音部に入りたかったが、羽黒先生が火炎放射器を持っていたので逃げた生徒。
オカルト研に入ったが、菊池が真顔で「月は人工物で、この地球を監視するために宇宙人が置いた観測基地なんだ」と語りだして怖くなった生徒。
野球部に入ったが、ボール拾いだけで三ヶ月経ち、心が透明になった生徒。
足跡のひとつひとつが、存在しなかった青春だった。選ばれなかった放課後だった。
「なあ、吉原」
「なんだよ」
「幽霊部員って、サボってるだけじゃないんだな」
「急に真面目なこと言うなよ。怖いだろ」
「いや、なんかさ、足がなくなるって、世界に踏ん張れなくなることなんだな」
「お前、虚足に入って青田みたいに文学少年になったのか?」
「たぶん足跡を踏みすぎた」
そのとき、道の奥から巨大な音がした。
どん。
一歩目。
虚足が現実を踏んだ音だった。
道の束が大きく揺れた。俺と吉原は転びそうになった。青田の叫び声がどこか遠くから聞こえた。
「早くして! 校舎の半分が脚注になってる!」
脚注になっているってなんだよ。
だが、見上げると本当にそうなっていた。虚足空間の上方に、銀河崎高校が紙面のように浮かんでいる。その本文の下に、小さな文字で脚注が増えていた。
※一 この学校はかつて存在した可能性がある。
※二 化学同好会は部費不足により存在が不安定である。
※三 吉原は顧問の羽黒まりん先生の熱血指導のもと、火炎放射の練習中である。
※四 青田はまた泣いている。
「青田の脚注だけ雑だな」
巨大な虚足が、もう一度動いた。
二歩目が来る。
俺は叫んだ。
「どうすればいいんだ、星川さん!」
虚空に星川さんの声が響いた。
「足跡をひとつに束ねて! 幽霊部員たちが歩かなかった道を、あなたたちが歩いたことにするの!」
「どういうことだよ!」
「つまり、全部の部に入って!」
「はあ!?」
「幽霊部員たちが入らなかった部活の足跡を、あなたたちが代わりに踏むの。そうすれば足跡は本文に戻る」
めちゃくちゃだった。
だが、めちゃくちゃじゃない解決方法が出てきたことなんて、今まで一度もなかった。
俺と吉原は走った。
まず野球部の足跡を踏む。炎天下の校庭。白球。坊主頭。先輩の怒号。五分で嫌になる。
次に吹奏楽部。肺が破裂しそうになる。トロンボーンの唾抜きを見て心が折れる。
美術部。石膏像がこっちを見ている。
茶道部。正座で足が死ぬ。
演劇部。急に「木の役」をやらされる。
写真部。イオンの駐輪場で夕日を撮る。
文芸部。青田が書いた二百枚の純文学を読まされる。これが一番きつかった。
「おい! 俺の小説を足で踏むな!」
どこかから青田の声がした。
「足跡を戻してるんだよ!」
「俺の崇高な文学を足蹴にするな!」
足跡を踏むたびに、幽霊部員たちの記憶が戻っていく。現実の本文に、彼らの名前が書き戻されていく。だが同時に、俺と吉原の身体は重くなっていった。何十人分もの放課後が、足に絡みついている。走れない。歩けない。膝が笑う。足の裏が熱い。
巨大な虚足が、二歩目を踏み下ろそうとしていた。
銀河崎高校の校舎が、脚注欄へ沈みかけている。
そのとき、俺の横を誰かが走り抜けた。
――足立先輩だった。
腰から下がなかったはずの足立先輩に、足があった。いや、正確には、足跡があった。透明な身体の下に、無数の足跡が束になり、仮の足を作っている。
「足立先輩! いつの間に来てたんですか!」
「僕も歩きます!」
「幽霊なのに!?」
「幽霊部員だって、部活に来てもいいじゃないですか!」
足立先輩は走った。幽霊だから速かった。床との摩擦がない。いや、足跡だけで走っているから、摩擦を過去に置き去りにしている。意味はわからないが、とにかく速い。
足立先輩は、虚足空間の中心へ向かった。
そこには、ぽっかりと空いた巨大な足形の穴があった。あらゆる道がそこへ吸いこまれている。選ばれなかった足跡の墓場。誰も踏まなかった一歩。
「先輩、なにする気ですか!」
「部費を払います!」
足立先輩は叫んだ。
「僕はずっと、部長のくせに部費を払わずに逃げた幽霊部員でした。名簿に名前だけ置いて、部室にも来ないで、誰にも覚えられずに卒業しようとした。だから足を滑らせたんです。僕には、この学校に踏ん張る足がなかった」
「いや、たぶん階段が濡れてただけですよ!」
俺は叫んだ。
「いい話にしようとしてるんだから邪魔しないでください!」
足立先輩は、巨大な足形の穴の前に立った。
「だから、払います。僕の未払いの部費を」
足立先輩は胸ポケットを探った。幽霊なのに、なぜかそこから小銭入れが出てきた。
「さっき空っていってたじゃん!」
古びた小銭入れだった。中には、百円玉が五枚入っていた。
「五百円!?」
志希ちゃん元部長様の声が響いた。
「少なっ!」
「幽霊に言うことじゃないですよ!」
足立先輩は百円玉五枚を、虚足の穴へ投げ入れた。
ちゃりん。
音がした。
その小さな音が、虚足空間全体に響いた。
無数の道が止まった。
巨大な虚足の二歩目が、現実に触れる寸前で止まった。
星川さんの声が聞こえた。
「足りた」
「五百円で!?」
「金額じゃないわ。支払う意思よ。部費とは、共同体に足を置くための儀式なの」
「急に社会学っぽく言うな!」
青田がツッコむ。そういや青田は化学部に入り浸っているのに部員じゃないから部費を払ったことがないなと思ったら、虚足の穴から光があふれた。
それは宇宙の光ではなかった。もっとしょぼい光だった。放課後の廊下に差しこむ西日。体育館の床に反射する光。イオンのフードコートの蛍光灯。田んぼ道の夕焼け。部室の埃っぽい窓から入る、どうでもいい日の光。
無数の足跡が、現実へ戻っていく。幽霊部員たちの名前が、本文へ戻っていく。
――銀河崎高校は脚注欄から浮かびあがり、校舎へ戻った。俺と吉原は、その校舎へ入り、最後の道を踏みしめた。
そこは化学実験室へ続く廊下だった。
立てつけの悪い引き戸。薬品棚。古い実験机。麻雀牌。ビーカー。変なTシャツの志希ちゃん元部長様。泣いている青田。月刊ムーを読む菊池。火をつける隙をうかがう羽黒先生。涼しい顔をした星川さん。
ろくでもない場所だった。
だが、そこは俺たちの帰る場所ではあった。
*
気がつくと、俺たちは化学実験室の床に倒れていた。
全身が痛い。特に足が痛い。これまでの人生で踏んだことのない量の青春を踏んだせいだろう。吉原は隣で仰向けになり、天井を見ていた。
「俺、もう部活入りたくねえ」
「お前、軽音部だろ」
「退部して幽霊部員になる」
「今それ言うと足立先輩に怒られるぞ」
足立先輩は、実験室の中央に立っていた。
立っていた。
ちゃんと足があった。透明で、今にも消えそうだが、膝も、すねも、足首も、上履きもあった。
「足が……」
足立先輩は自分の足を見下ろしていた。
「僕に足がある……」
志希ちゃん元部長様は、すぐさま手を差し出した。
「じゃあ部費払え」
「感動の余韻!」
足立先輩は泣きながら今度はズボンのポケットから五百円を出した。
「また五百円かよ」
「これが全財産です」
「よし。では本日より、足立を正式に化学部名誉幽霊部長とする」
「化学同好会じゃないんですか」
「今から化学部だ。部長が足を取り戻したんだからな」
そのとき、実験室の扉が開いた。
女子が立っていた。腕には分厚いファイルを抱えている。眼鏡の奥の目が、税務署のように冷たかった。
「化学同好会さん。わたしは生徒会の会計です。校内の床、出席簿、部活動名簿、下駄箱、ならびに時空間構造に甚大な損害が出ています。修繕費の一部を部費から差し引きます」
志希ちゃん元部長様の顔が凍った。
「ちなみに、いくら?」
「概算で三億二千万円です」
「足が出るにもほどがあるだろ!」
その瞬間、部活動予算配分表の「化学同好会」の欄から、にょきりと一本の足が生えた。
足は赤かった。赤い足は紙を蹴って、机から飛び降りた。
俺たちは驚きのあまり、何も言葉を発せなかった。
紙から生えた足は、ぺたぺたと歩いて実験室の出口へ向かった。赤字そのものが逃げ出した。
青田が震える声で言った。
「ねえ……これ、まだ終わってなくない?」
「終わってることにしろ」
俺は青田を黙らせるように言った。
星川さんは窓際に立ち、夕暮れの校庭を眺めていた。グラウンドには、巨大な足跡がひとつだけ残っている。二歩目はなかった。一歩目だけ。まるで、この学校がどこか別の宇宙へ歩き出しかけて、やっぱりやめたみたいだった。
「あれ、消えないんですか」
俺が聞くと、星川さんは微笑んだ。
「消さなくていいんじゃない? 一歩くらいなら」
それだけ言うと、星川さんは実験室を出ていった。
廊下には、部活帰りの生徒たちの足音が戻っていた。上履きが床を擦る音。階段を駆け下りる音。誰かが転びかけて笑う声。遠くで羽黒先生が「吉原! 今日は火を吹きながら校歌を弾くぞ!」と叫んでいる。吉原が「嫌です!」と叫び返す。だが、たぶん逃げられない。妙なところでチキンな吉原は、鶏のように貧弱な足しかないからだ。
俺は自分の足元を見た。
安っぽい上履き。汚れたゴム底。何十人分もの幽霊部員の足跡を踏んだせいか、靴底には黒い跡が残っていた。
まあ、いいかと思った。
このろくでもない高校生活を、もう一度やり直す羽目になった。しかも一年生から。虚乳もいる。虚根もいる。虚尻もいる。虚足まで出た。次になにが出るか考えたくもない。
だけど、この化学部と吉原と青田がいれば、どんな化け物が出てきてもなんとかなるだろう。ああ、そうそう、菊池も。
「で、部費五百円増えたし、何買う?」
志希ちゃん元部長様、いや自称部長様が言った。
「まず反省してください」と俺は言った。
「じゃあ麻雀牌?」とカバが言った。
「お前は黙れ」
「で、青田、部費は?」
「俺は化学部じゃなくて文芸部員だよ!」
青田はうんざりした顔で叫んだ。
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