金玉をわたしは指で突っついた。ウレタン製の金玉は指にじんわりとめりこむ。なかに収まっている小さく硬い玉の、こりっとした感触。わたしはつい嗜虐心にとらわれ、玉を指の腹でぎゅっと押しつぶした。――イオンのフードコートのテーブルに載せた、たぬきのおもちゃはその股間に細長いハート状の大きな金玉を堂々とぶらさげていた、全長十五センチのおもちゃはその半分が金玉だった。たぬきの顔はそば屋さんの置物のように、野生動物としての特徴を一切排除され、かわいくデフォルメされていて、わたしと隣にいる楓をつぶらで間抜けな目で凝視していた。
指を金玉から離す。
「今度は揉んでみる?」と楓は言った。
楓のやや低い声が心地よかった。楓はたぬきを持ち上げ、わたしの左手の手のひらに乗せた。金玉は重く、大きい。わたしはもう一度、人差し指で金玉をつっついた。ぷにっとへこむ。たぬきの顔は変わるはずのないのに、慈悲を願うかのように見えた。ああ、もっとたぬきをいじめたい。わたしは広げていた左手をぐしゃあと握り、金玉を潰した。握りつぶされたたぬきの金玉をにぎにぎする。硬い小さい球が手の骨にあたり、こりこりとしたかすかな痛みを覚えていると、机に置いた呼び出しベルが勢いよく震えだした。注文したマックのポテトが揚がったらしい。
* * *
高校を卒業するまで、ずっと仙台に住んでいた。
仙台駅から仙石線で一〇分程度、田舎なのに電車が一時間に六本もある駅が高校の最寄りだった(東京だと一〇分に一本来るのが少ない部類なのを上京後に知ってびっくりした記憶がある)。数年前まで制服が学ランの男子校だった、昭和の遺物のようなその中高一貫校はわたしが高校へ入学する年度に共学化され、同時に私服校になった。明治時代に、島崎藤村が仙台にやってきて教鞭をとったという、百年以上の歴史のある伝統校で、わたしたちの入学式の様子は当然、宮城県内のニュースで繰り返し報道された。
わたしたち共学一期生の女子たちは、何かを変えてやろうと意気込んでいたし、それなりに失敗した。女子として差別されて見られたくなかったくせに女子として扱われたかった。わたしはその最たる例で、高一の秋の弁論大会でフェミニズムを熱く論じながら、その一ヶ月後には文化祭のメイド喫茶でご主人様とお嬢様に給仕して、メイド服に身を包み、オムライスにケチャップをかけて萌え萌えキュンなんて声をかけていた。
迷走をしていた。じゃあ、なぜ迷走したのか。そのきっかけははっきり覚えている――中学高校の全校生徒千人以上を収容する巨大な礼拝堂。キリスト教系のこの学校は毎朝礼拝があり、入学式から数日経過したその日は礼拝後に、成績優秀者の表彰式があった。わたしはどうやら入試で高得点だったらしく、表彰を受けに、正面の、真っ青なステンドグラスと重苦しい説教台があるステージへ登壇した。先生に名前を呼ばれわたしが振り向くと、礼拝堂の、何十列もある長椅子に千人以上の生徒が座り、全員がこのステージを見ていた。
わたしに向けられた、千人の顔、二千の目。その二千の目に、羨望と嫉妬が混じっているのに気づいたと同時にわたしは戦慄した。この目を、高校を卒業する三年間、ずっと向けられることを。そして、わたしが教師の娘として、この二千の目に見られているのを。
父親はこの中高一貫校のバレー部の顧問だった。父親がわたしのクラスの担任も授業も受け持つことはなかったが、他の教師もわたしにやたら関心を持つのを知っていた。政経を教える担任の渡辺先生はバレー部の副顧問で、この学校がまだ男子校だった時代にバレー部でキャプテンをしていた。そのときから部活の顧問はわたしの父親で、アラサーの渡辺先生はよく廊下でわたしの父親に頭を下げ、父親はタメ口で、渡辺先生が高校時代のころの、聞いていて恥ずかしくなるようなエピソードを、いちいち掘り返してゲラゲラと笑っている。
その光景を見て、わたしはあらためて思い知った。この学校の先生の娘――わたしが仙台で生きていくなら、文字どおり死ぬまで貼りつけられるレッテル。他人の噂話にしか興味がない人間たちが、他人を生まれで値踏みして、虐げ、潰す、この街で生まれた人間が、レッテルに縛られず、まともな人生を送るには、街を出ていく以外に方法はなかった。不良になってグレるのがいちばんてっとり早い方法なのだろうが(十数年前に中学の生徒会長をしていた人なんて、高校進学後に突然中退して暴力団の組員になったと渡辺先生が話していた。おそらくわたしとおなじ悩みを抱えていたのだろう)、わたしにはそんな勇気がなかった。
「先生の娘のくせに」、「期待の学級委員様」、「ウザい」、「金持ってるんでしょ」、「偽善者」、「コネ入学?」。わたしはこれ以上悪いレッテルを貼られないように、青春を謳歌していながらも少し残念なところのある高校生という、キャラを必死に演じていた。わたしが反吐が出るほど嫌いな『人間失格』で大庭葉蔵が演じていた、道化そのものだった。
そんな、終わりの見えない地獄に絶望していたころ、高一のクリスマス礼拝の合唱の練習があった。放課後、礼拝堂には、生徒たちが集められていた。学校ではクリスマス礼拝のときは、合唱隊がヘンデルの『ハレルヤ』を歌うのが恒例だった。クリスマス礼拝ではステージ以外の照明は全部落とされるので本番同様、練習もステージ以外は暗闇に染められている。合唱隊は学級委員と、音楽部と、先生から「ご指名」を受けた生徒で編成されていた、わたしは学級委員で参加。音楽部も参加。けど、合唱隊のほとんどは、ご指名を受けた、十一月の中間テストの点数が低い生徒だった。その一群に楓はいた。
楓はわたしと同じぐらいの、一六〇センチぐらいの身長で、さらさらのセミロングの髪を指でくるくるといじってつまらなそうな表情をしていた。わたしたち合唱隊はステージに立ち、手元の楽譜を開いて歌っていた。たまたま隣に楓がいた。そういえば、同じクラスなのに一度も話したことはなかったと思った。楓はこそこそ隠れて、カーディガンのポケットから文庫本を取りだし、楽譜の間に隠して読んでいたが、教師の誰一人として気づかない。わたしは楓が何を読んでいるか気になって、文庫本に目をやった。夢野久作の『少女地獄』だった。練習後、気になって声をかけた。これが楓との出会いだった。
楓も小説が好きだった。図書室に一緒に行きはじめるようになり、楓は中国古典の封神演義だったり乱歩のパノラマ島綺譚だったりを借りていた。二人で小説の話をすると、とまらなくなった。
楓は、わたしと出会ったことで性格が明るくなったし、わたしも、楓と出会ったことで変わっていった。楓はシオランの『カイエ』を図書室に入れたいと話した。当然、楓の趣味だった。楓はシオランの「三十になるまで、私が考えていたことはただ一つ、老人どもを皆殺しにすることだった。五十を越した今は、若者どもを皆殺しにすることしか念頭にない」なんて名言が好きで、わたしが「じゃあわたしのことを殺したいの?」と聞くと決まって楓は急になぜか壁ドンして「面白いやつだ。殺すのは最後にしてやる」と、ふざけながら返した。
――わたしは楓と一緒に、図書室と図書委員へ「この街の偉人の羽生結弦がシオランを愛読しているから本を入れてほしい」とかけあった。『カイエ』が図書室の一番目立つテーブルに置かれたのは、この学校で見る二度目の桜が散ったころだった。
いつのまにか知り合ってから半年が経った。夏休み前、テスト終わりに、ふたりで学校の立つ田んぼのど真ん中の、農道に毛の生えたような道を歩き、山月記ごっこをしていた。李徴役の楓は勝手に物語を変えて袁傪の部下を食い殺し、袁傪役のわたしは「李徴子! 気でも狂ったのか!」と李徴に慈悲をこい、「己は獣だ。袁傪、食ってやる!」なんて楓は言って、なんちゃって制服のワイシャツをはだけさせていた。
――この日のことはよく覚えている。「たぬきの」と出会ったその日だったからだ。田んぼに壁のように立つ、国道四号のバイパスの土手。その下にあるトンネルをくぐると、住宅街に出る。住宅街にはイオンが建っていた。だが、いまだに不思議なのだが、あの日の次の日からなぜかそのイオンはヨークタウンなんていう、アメリカ独立戦争の激戦地とおなじ名前のショッピングセンターに変わっていて、わたしが大学でこの話をすると、仙台出身の友だちから本気で心配される。記憶がおかしなことになっているのかもしれない。まあいい。高校生なんてどうせみんな頭がイカれているのだ。
テストの終わりは学校が早く終わり、学校近辺のゲームセンターやマックで生徒が遊ぶため、教師が見回りに来るはずなのだが、なぜかの周囲には教師がいなかった。
「誰もいなさそうだし行こっか」
楓が誘う。わたしはすぐ了解した。
イオンの自動ドアをくぐるとフードコートとガチャガチャコーナーがあった。フードコートのマックにはパートのおばちゃんの店員がハキハキと動いて、揚げたポテトをかきまわしながら塩を振っている。
わたしはマックの横のガチャガチャコーナーへ行く。誰がデザインしたのか分からない四足歩行のサメとか、六本足のレッサーパンダとか、かわいさとグロテスクがぎゅっと詰まったその並びに、「たんたんたぬきの」があった。――デフォルメされたたぬきのおもちゃは下半身に巨大な金玉がついている。ガチャガチャの筐体には、金玉に手を添えられた「たぬきの」の写真が差し込まれていた。たぬきのの間抜けな目がわたしを見ている。――目があった瞬間、わたしは買おうと決意した。
筐体の前に行く。値段は一個三〇〇円だった。
「三〇〇円もするの。高すぎ」とわたしは文句を言い、財布の中身を気にしながら、百円玉三枚を投入する。レバーをひねるとごとり、という音を立ててカプセルは落ちてきた。
「早く来てよー」
フードコートのプラスチックの椅子から楓が声をかける。わたしは急いで楓のもとへ行く
「なにそれ?」
楓がカプセルを指差す。
「たぬきの金玉」
カプセルを開く。――全長十五センチのたぬきのおもちゃ。顔はかわいくデフォルメされていて、わたしと楓をまんまるな目で凝視していた。だが、たぬきの体の半分は、金玉だった。細長いハートの形をしたそれとたぬきの顔のコントラスト。
「うわ、すっご」
楓が息を呑んだ。隣の席で、おそらく仕事をさぼっていただろう、サラリーマンが、スマホを握ったまま、「たぬきの」に視線をちらちらと送っている。
金玉をわたしは指で突っついた。ウレタン製の金玉は指にじんわりとめりこむ。なかに収まっている小さく硬い玉の感触。面白い。わたしは玉を、指の腹でぎゅっと押しつぶした。たぬきのの顔が、変化するはずのないのに、苦しみに悶えるように見えた。
「これ、めっちゃハマるんだけど」
わたしが指を金玉から離す。
「今度は揉んでみる?」
楓のやや低い声が心地よかった。楓はたぬきのをわたしの左手の手のひらに乗せた。金玉はずっしりと重い。わたしは右手の人差し指で金玉をつっついた。ぷにっとへこむ。たぬきの顔は、変わるはずのないのに、慈悲を願うかのように見えた。その表情にぞくぞくした。わたしは広げていた左手をぐしゃあと握り、金玉を潰した。握り潰した金玉の硬い小さい球が手の骨に当たっていると、机に置いた呼び出しベルが勢いよく震えだした。注文したマックのポテトが揚がったらしい。楓が立ち上がって、ポテトを取りに行く間、わたしは金玉を握り潰していた。
すぐにポテトを持って楓が戻ってきた。さっそく二人でつまむ。普段よりも塩みのきいたように思えるポテトだった。ポテトを食べている間、楓は妙にそわそわしながら、髪をくるくると指でいじっていた。
「どうしたの」
わたしが聞くと、楓は、わたしと最初に会ったころのように、たどたどしく返事した。
「その、さ、これから、どっしよっか? わたし、家に帰っても、今日誰もいないんだよね」
楓は視線を落としていて、顔を真っ赤にさせていた。
――わたしの父親はテスト終わりから合宿の準備で帰れなくなる。父親にとって学校と部活が人生の第一優先事項で、家族は二の次だった。お母さんは実家へ帰ったきり戻ってこなくなった。
わたしは勇気を振り絞って言った。
「ね、わたしの家に来ない?」
実質一人暮らしみたいなものなのに、わたしは臆病だから、楓を家に誘うまで半年もかかった。
すっかり夜になった。
東北本線で仙台駅から東京側へひと駅、街を文字どおり削って流れる広瀬川を越した先、長町駅の東にわたしの住むマンションがある。わたしが生まれたころ、リーマンショックの前あたりまでは長町駅の東側は貨物ヤードを潰した原野で、この十数年で再開発が進み、いまではタワマンが立ち並ぶ高級な街になった。
わたしはマンションの窓から見下ろす。夜のあすと長町。仙台市立病院、テレビ局、イケアの立ち並ぶ大通りには、レクサスやベンツのディーラーもあり、ベンツのエンブレムの丸い看板が月のように光り、そして、その通りの向こう側、大年寺山の頂上には三本のテレビ塔と本物の月が、淡くぼんやりと輝いていた。
友達を家に呼ぶのなんて初めてだ。こんなところに住んでいるだなんて、心を許してないひとに知られたら、妬まれるに決まっている。わたしはカーテンを閉めると、ベッドに座っていた楓といっしょに、先生たちの陰口を叩きはじめた。
とにかくこの学校にはろくな教師がいない。昔は暴力も当たり前にあって、渡辺先生はよくわたしの父親に殴られた話をする。渡辺先生も渡辺先生で、男子の目の前でよく「俺がお前らぐらいのころ、クラスメイトのおしりの穴が脱走してだな、そこの校門でおしりの穴が太陽とヤッちゃったんだ」なんておかしなことを喋るらしい。当然、渡辺先生は独身だ。わたしは、渡辺先生が頭を叩かれすぎて頭がおかしくなったのだろうと可哀想に思っていたが、殴る側だった年配の教師も、時折男子だけにこの話をする。楓から、先生の同級生の眞山とかいう作家がそのことを小説に書いているからと破滅派なんてwebサイトを教えてもらったが、その作家の代表作は国会議事堂を妊娠させるなんて頭のおかしい小説で、楓には申し訳ないけどわたしはすぐサイトを閉じてしまった。
他にも二人で他愛もない話をしているうちに夜が更けていった。時折聞こえていた車の走行音もなぜかぴたっと止んで、何も聞こえなくなった。窓の外の光景も、どこかぼんやりとしたものになった。楓といるこの空間が、世界と断絶したようだった。そのわたしたちだけの世界にはたぬきのもいた。わたしたちは手を握りあい、その手と手の間にたぬきのの金玉を挟んでいた。女子の間に挟まる男は万死に値するけど、たぬきのなら許してやってもいいかなと思ったし、いや、わたしと楓は率直に言って、たぬきののせいで頭がどこかおかしくなっていたと思う。――わたしは楓と唇を重ねた。
あの夜、わたしは寂しくなかった。この家に、ひとりでなく過ごす夜は久しぶりだったから、わたしは楓と一緒にベッドに寝る。体と体が触れる。どこを触ったとか、どれだけとか、そういうことを思い出せないほど、たくさん触った。おそらく、お互いの体で触れていないところなんてないだろう。――人の体温が、こんなにも心地よいなんて、初めて知った。
電気を消したあとも、たぬきのの金玉は、蛍光塗料が塗られていたので暗闇でかすかに光っていた。そのままふたりで一緒のベッドに眠った。楓の心臓の音がわたしの胸に伝わる。まだ二人で金玉を握っていた。ぷにぷにという触感。わたしは、いつでも楓を思い出せるようにこの金玉をずっと握っていようと思った。
* * *
宇宙の広大な深淵に直径十万キロの光り輝く球体が突然現れるとそれはくるくると回転したちまち宇宙の虚空を切り裂くように、縦に伸びて円状に開いた。その円の奥は絶対の虚空で、そのなかから黒い棺のような超巨大物体の大集団が顔を出した。棺は優に千を超える。大きさはまちまちで、いちばん巨大な棺は宇宙母艦。全長五十万キロほどで、連邦軍第七星海艦隊でいちばん大きい。その周りに、砂粒のように小さく光る棺は駆逐宇宙艦だったり補給艦だったり――すなわちこの集団は宇宙艦隊である。
いま、銀河ケイ素生命体合衆星連邦軍の第七星海艦隊が空間転移を終えたのだった。宇宙艦隊は黙々と宇宙の暗黒を進んでいた。第五次ケイ素炭素大戦が勃発してもう一年が経つ。戦争で傷ついた、全銀河の住民は、たとえケイ素生命体だろうが、ケイ素生命体の憎き宿敵の炭素生命体であろうが、銀河全域の文明に大災害をもたらし、自分たちに戦争を起こさせたそれを絶対に許さなかった。戦争を終わらせるためにもあれを破壊しなければならぬ。
母艦はターフェル681銀河の第三渦状腕へ来ていた。薄暗く小さい恒星ばかりが光り輝いていた。母艦の司令官室では、星海軍の連合艦隊司令官の中将が、ケイ素生命体らしく氷柱のように生えた硬い髭をさすりながら、恒星と、眼前に横たわる、銀色の平原を眺めていた。平原――母艦の表面には電子基板のように複雑なパターンが張り巡らされている。この構造は電磁攻撃を避けるのには必須だった。
艦隊司令官および星海軍に課せられた使命、それは銀河を破壊しつくした恒星殲滅の原因を抹殺すること。
「先遣隊、応答せよ」
司令官の言葉とともに司令官室にホログラムが浮かび上がる。先遣隊を率いる中佐だった。まだ若く、ケイ素の髭すら生えていない。司令官は中佐があまり好きではなかった。貴族ですらない若造が中佐につくことなど、文明が崩壊しかけたこの戦争がなければ断じてありえなかったし、しかも、六代前の先祖が炭素生物だなんて! 古きよき血統主義を信じる司令官は、中佐が忌々しかった。
「こちら先遣隊。あの忌々しき目標はこの第三渦状腕の端に隠れています」
「目標の座標は掴めたか」
「掴めましたが、忌々しき目標は多重宇宙の隙間に隠れています。現在我々がいる宇宙には存在しません」
中佐のホログラムの背後に映像が映し出される。
「こちらが目標物の潜伏していた場所の映像です。第三渦状腕の端部にあるこの惑星は、炭素生命体が文明を有していて、現地生命体は惑星を地球と称しています。目標物は現地生命体がセンダイと呼称する街に隠れていました。ちなみにここの生命体どもは我々の銀河をM81と呼んでいるようです」
センダイは夜だった。川の縁、山の頂に三本の巨大な四角錐状の、金属製の塔が建っていて光り輝いている。司令官は軍立大学にいたころ、通信技術の授業で「ケイ素生命体文明が跳躍的文明進化を果たす直前期に金属製の塔を通信用に使っていた」と習っていた。つまり、この惑星が着実に文明を進化させれば、惑星間文明を築く。銀河文明を築く。他銀河や他世界線を占領しようとする。我々の敵になるのは確実だ。目標物がいてもうなくても、この惑星は抹消する必要がある。――中佐とともに。
「あんな小さいものが隙間に隠れられるわけがない。どこか別の座標へ移動しているはずだ」
司令官は執務机に座った。太古の昔にこの宇宙を深淵から支配していた獣どもは、我々ケイ素生命体や炭素生命体が文明を発展させると、この宇宙の上次元構造体へ逃げこんでいったが、ときどき、思い出したかのようにこの宇宙に戻って、災いをもたらす。今回、第五次大戦をもたらした目標物は、三次元構造では小石のように小さいが、四次元構造上ではおぞましいほど巨大で、銀河系の恒星の三割をいとも簡単に破壊した。
「あの化け物にできないことはないです。司令官、念には念を押しましょう。現在、近隣の世界線へ自動偵察機を派遣し、捜索をかけているところです」
ホログラムの中佐は生意気そうな口調で返した。
「わかった。そうだ、せっかくだし、我が艦隊の誇る主砲を打ってやろう。中佐、この文明はまだ貧弱だが、順調に進歩すればそのうち我々の敵になりうる」
「司令官、そうしたら古い自動偵察機でも置いておきましょう。惑星抹消の様子を記録に残しておくのも悪くないかと」
「そうだな。ああ、中佐、悪いな、急な連絡が入ったからこちらからの通信を非表示にする」
司令官は、テーブルのスイッチを作動し、ホログラムディスプレイを点灯させる。数回画面にタッチすると司令官はふうっと息を吐いてから、叫んだ。
「全艦隊に告ぐ。先遣隊にわが連邦への反逆行為が認められた。わが艦隊へ大規模攻撃を加えようとしている。緊急事態につき、わたしの名の下に法の執行を停止し、先遣隊の抹消を命令する。砲術司令、主砲を準備せよ!」
画面が主砲室に切り替わる。主砲――局所的真空崩壊発生砲の主イオンエンジンが高速で回転し、始動する。司令官は主砲を見ながら、故郷の酒――炭素ごときには絶対に飲めないほど高温だった――をグラスに注いだ。
真空崩壊――この宇宙は準安定状態、つまり偽の真空状態であり、相転移すればもっと低いエネルギー状態、真の真空となる。その相転移の際に、真の真空の「泡」が発生。ほぼ光速に近い速度で宇宙を伝播する「泡」は宇宙の物理法則を規定するエネルギー状態を根本から変化させるため、泡の通過した場所では、ありとあらゆる物理構造が――つまり恒星や銀河が、それらを支配する物理法則ごと容易く破壊される。
かつて場の量子論が未発展だった時代は、真空崩壊を起こせば全宇宙が相転移を起こし壊滅すると言われていた。しかし、局所的に真空崩壊を起こした場合、その周囲の偽の真空には影響を及ぼさないことが判明した。その局所的な真空崩壊を起こさせるのがこの母艦に搭載された、ケイ素生命体文明の最高傑作・局所的真空崩壊発生砲である。
「では、我々はここで離脱します。我々が母艦に帰還したあとに、主砲を作動していただければ。ここからは自動偵察機の映像に切り替えます」
中佐が敬礼する。中佐のホログラムが消えると、映像が切り替わった。
塔たちの間に揺れ動く円が見えた。中佐たちの船だ。円はぶるぶる震えると、ひとつからみっつに分裂し、みっつの円がつくる三角形はぐるぐると空中で回転する。高速転移状態に遷移するようだ。映像が後進する。自動偵察機はぐんぐんスピードをあげていた。その映像の下、おそらく炭素生命体が移動機械専用の道として使っているだろう、構造物の脇に建物があった。赤い看板を白く強烈な照明で照らしていた。――軍の基地近くの、田舎にしかないショッピングモールに似てるいな、と司令官はふと思った。
中佐の船たちは七色に光り、刹那、ケイ素の鼓膜ですらつんざくほどの大音量をあげると天上へ飛び去っていった。円たちはさらに急激に回転する。大宇宙の彼方へ消え去ろうと、超高速転移の準備をしている。
「残念だったな。もう少し無能でいてくれたら退役まで生きられたものを」
司令官は酒から口を離すと、ディスプレイをタッチした。
「主砲、発射!」
刹那、画面が真っ赤に染まるとヴヴヴヴという音を立てて消えた。司令官室の照明もたちまち消えた。船が小刻みに揺れる。主砲の発射直後は艦隊の周囲の量子場が乱れる。砲弾は一般的なケイ素生命体の指先ほどの大きさだが、もし発射に不手際があって炸裂すれば、宇宙艦隊はたちまち真の真空に囚われて宇宙の藻屑となる。
司令官は息を飲んだ。酒を飲んだのは、主砲発射後の緊張を和らげるためだった。
しばらくして、ふたたび照明と画面が点灯。スピーカー越しに砲術司令が「司令官、発射成功です」と報告した。
司令官は安堵した。司令官はディスプレイを数回叩くとマイクへ向かって言った。
「全艦に告ぐ。局所的真空崩壊発生砲の発射は成功した。さあ、反逆者の末路を皆で見ようではないか!」
司令官のディスプレイの右半分はすでに惑星――地球を映していた。先遣隊に尾行させていた自動偵察機からの映像だ。地球とその衛星の間には、中佐の船がいる。中佐の船が赤色に点灯したその時、真球状の衛星が大きくその形状を歪めた。――砲弾が着弾したのだ。衛星はおおよそこの宇宙の自然ではありえない幾何学的形状に変形したのち、虫が食むように、黒い漆黒が、泡のように膨らんだ。衛星を食む。ディスプレイの左半分、目標物のいたセンダイの夜空に浮かぶ衛星も黒く泡に食われていった。
「司令官! 応答せよ、応答せよ! 局所的真空崩壊を確認!」
中佐から緊急通信が入ったが司令官は無視した。
泡はやがて地球に伝播した。センダイの街も黒い泡に食われた。街中からおぞましい音がした。現地生命体の絶望、叫び、恐怖。そしてセンダイの自動偵察機からの映像は途切れた。
ディスプレイの右半分、尾行させた自動偵察機が移動する。最新型の偵察機なので超光速移動状態に瞬時に移行し、地球のある恒星系の中心、黄色く薄暗い恒星のそばにいた。司令官は再び酒をグラスに注いで飲んだ。黒い泡は恒星系を蝕んだ。地球が食われた。衛星も食われた。近隣の、岩石状の惑星も食われた。なにか音楽をかけようと、司令官はプライベートの音楽再生デバイスを操作して曲を選んでいた。その間に、恒星も黒い泡に食われて消えた。司令官が再生ボタンを押そうとした瞬間、恒星系から光が消失し、真っ暗闇になった。
あっけなかったなと司令官は思い、再生ボタンを押そうとした指を離すと、執務机のディスプレイを押し、スピーカーを起動させた。
「諸君、われわれは中佐の反逆行為を阻止した。わが艦隊、わが連邦への敵対行為は断じて許さない。これよりわれわれは目標物のいると推測される他世界線に跳躍する。全艦、跳躍準備に入れ」
中佐が送付していたデータによると、目標物は二つの個体の現地生命体とともに他世界線に跳躍した。移動があまりにすばやかったため、世界線の距離として一番近い場所へ潜んでいる可能性が高い。だが、この巨大星海艦隊は他世界線へ跳躍するには莫大なエネルギーが必要だ――司令官は自分の破壊した恒星系へ進路をとろうと考えた。真空崩壊によって生まれたエネルギーを回収できれば、どれだけこの星海艦隊が世界線を跳躍してもおつりがくる。
* * *
わたしはすっかり悪い子になった。楓と、たぬきののせいで。学校にいるときは常にわたしは楓と一緒にいて、二人でたぬきのの金玉を揉んでいた。勉強そっちのけでいろんなところへ遊びに行った。どうせ、この世が終わるんだ。たぬきのと会ったころから、仙台の上空にはUFOが出現ようになって、オカルト系YouTuberや月刊ムーがしきりに「世界滅亡の予兆だ!」と騒ぐようになり、世界中からオカルトマニアが仙台に集結し、世界で六番目の巨像の仙台大観音に登ってUFOを見物する。わたしと楓も、学校をサボって(仙台の方言だと学校をサボることを「山学校」って言う。むかしは学校を抜け出して山で遊んでいたからっていうけど、街なかのゲーセンだったりパチンコ屋で遊んでも山学校と呼ぶ)、大観音の胎内を貫くエレベーターに乗り、最上階の、狭い展望窓から仙台の街を見下ろした。仙台平野はやや西に日が傾いていた。その平野を蛇行する広瀬川と、川の作る河岸段丘にしがみつくように広がる市街地と、愛宕山だったり大年寺山だったり、青葉山だったりの大自然。その大自然の頂に立つ巨大なテレビ塔。
そのテレビ塔の間に、三機の円状のUFOがぴたっと静止していた。UFOは時折、ヴヴヴッ、ヴヴって声を放って、光を七色に光らせている。
「世界が終わるね」とわたしは窓辺に手をかけながら言った。
「滅んでしまっていいんじゃない? すべてがキレイになって、汚れたものがなくなって、まっさらで美しい世界に戻るよ」
遠い目でUFOを眺める楓はわたしの手を握った。
悪い子になったわたしに学校は価値を感じないらしく、三年生になったわたしが学級委員に手を挙げず、成績がだんだん下がり、次第に教師から邪険に扱われるようになった。同級生から「化けの皮が剥がれたんだ」なんて陰口を叩かれていたし、渡辺先生にそのことを言ってもしっかり対応するだなんて通り一遍の返事をしてなにも対策してくれず、そして案の定父親はバレー部の活動が忙しく、わたしにかまってくれなかった。いまならわかるが、親から過干渉される子より、親がないがしろにする子のほうがよっぽどつらい。ただ、進学先はうるさく指定してきた。「女の子が一人暮らしすると危ないから県内にしてくれ」。ふざけんなと思った。いまでも実質一人暮らしだ。
いつのまにか楓と過ごしたあの夜から一年と少しが経った。
仙台の七夕は八月だ。だが、仙台七夕より、仙台市民は前夜祭の花火大会のほうが楽しみにしている。そもそも受験生が七夕なんて行くもんじゃない。七夕の吹き流しに触ったら受験に落ちるなんてジンクスがある。
七時半、日はとっくに傾いていた。八時の大会開始までもうすぐだった。街の中心を東西に貫く、片側四車線の広瀬通りは歩行者天国になっていて、通りをは浴衣を着た人混みで埋め尽くされて、通りの脇にはたこ焼きだったり焼きそばだったりの出店が、まばゆい照明に照らされて立ち並んでいたが、商魂がたくましく、UFO焼きだったり、宇宙人のお面だったり、UFOにあやかった店がやたら多かった。
わたしも楓も当然浴衣を着ていた。わたしと楓の手の間にはもちろん、たぬきのを握っている。たぬきのの金玉はいつもどおりこりこりしていた。
東北一番の歓楽街・国分町との交差点を過ぎ、晩翠通り、ラブホと魚屋の並ぶ立町を超え、広瀬通を西に進む。西公園の向こうは、広瀬川にかかる仲の瀬橋で、ここから見る花火がいちばんうつくしい。
仲の瀬橋も歩行者天国になっていた。車道のアスファルトは人混みだらけで、ところどころに、ブルーシートが引かれていて、平成のヤンキーの生き残りのような見た目の人たちが陣取っていた。
「なにか座るものを持ってくればよかったね」
「地べたに座るわけにもいかないしね」
楓は困った顔をして、とにかくわたしたちは欄干にもたれかかることにした。肘をついた。欄干から、鉄錆の匂いがした。二人で空を見る。花火を見るにはあまり適していない、満月だった。それとおなじぐらい、大年寺山に浮かぶUFOは輝いていた。
「不気味だね。今日はUFOが全く震えていないし、声も出さない」
楓は不安げに言うと、わたしの手を――つまりたぬきのの金玉を揉んだ。わたしも揉んだ。
わたしは別の理由で不安だった。いまの成績なら、この街から逃げ出すことはできないだろう。古臭い考えの大人たちがまだ多い。高速バスを使えば一時間足らずで行ける、山形大学だったり福島大学だったりに進学して、キャンパスの近くに一人暮らししようとしても、わたしの父親と同じように「女の子が一人暮らしすると危ないから」なんてくっだらない文句を言ってきて、進学を諦めさせられることが多い。家出ルートなら、この仲の瀬橋のすぐ向こう側にある東北大学へ進学して、就活で無双して全国転勤のある有名企業へ就職するという道もあるのだが、わたしの頭でいまから勉強しても三年ぐらい浪人する必要があるだろうし、だったら現役か一浪で受かる県外の大学に進学するほうがいい。
わたし一人だったら、父親のことを無視する勇気があるのだろうが、楓のことは放っておけない。楓の親は、国分町の北側の官庁街、国の出先機関で公務員として働いている。その親も、わたしと似たようなタイプだった。
自分も納得できる形で、楓と一緒にこの街にいることはできないだろうか。もしくは、楓を連れて、この、都会の面をしたド田舎から脱出することはできないだろうか。
とにかく、わたしは不安だった。
すると突然、周囲から悲鳴が上がった。「なんだあれは」「空が裂けるぞ」。わたしは空を見た。満月のそばに、巨大な円が浮かび上がると、それは縦に伸び、やがて、ぱっくりと割れた。その割れ目はどす黒く、その漆黒の空間から、巨大な構造物が姿を表した。人々が喚きながら逃げようと動きだした。橋をパトロールしていた県警の警察官が、怒号のように大きな声で「落ち着いてください、落ち着いてください!」と叫ぶ。
「あ、ああ」
わたしの喉からやっと出てきた声はあまりにも情けなかった。
「ねえ、なに、あれ?」
楓が指をさす先、川の向こう側の空がヴヴヴヴと震えた。
「UFOが、動き出した?」
UFOは、くるくると回りだし、七色に光るその姿を赤一色にさせ、やがて残像が見えるほど高速になると、一気に、大音量を響かせながら、天に飛び立っていった。
「逃げよう」
楓は「どこに?」と聞く。もしあれが、この街を襲うのなら、中心部に戻るのはいけない。山に逃げよう。どうしよう。そうだ。
「青葉山!」
わたしは握っていた楓の手をひっぱって走った。仲の瀬橋を渡り、仙台二高(わたしが高校受験で落ちたところだ。苦い思い出が蘇るから、ここを通るのは久しぶりだった)の前を通る。高校の校庭の隣、宮城県美術館の角を左に曲がって、東北大学川内キャンパスが面する道を走っていくが、目の前には花火大会の観客たちが逃げ惑っていて、どれだけ走っても先になかなか進めない。
早く逃げなきゃ。
「もう歩けない!」
楓が泣きそうな声で言ったその瞬間、手に握ったたぬきのの金玉が突然、急に震えだした。そして瞬時に目の前が一瞬暗くなると、なぜかわたしたちは青葉山の、青葉城址の入口にいた。伊達政宗公が築いた青葉城本丸の跡は、戦没者を祀る宮城県護国神社の境内になっていて、入口には白くずんぐりとした石の鳥居と、なだらかな階段が、ライトアップされていた。
「え、なんで……?」
わたしが驚いていると、楓は「たぶんたぬきのが助けてくれたんだよ!」と言って、逆に私の手を引っ張ると、神社の階段を登っていった。
階段を駆け上る。景色が一気に開け、狭い平地に出る。本丸大広場跡の、規則正しく並べられた礎石の列。日清戦争の戦没者を慰霊する昭忠碑の不気味な石塔と、地べたに置かれた、いまにも羽ばたこうとする鵄のブロンズ像。
わたしと楓はそれらを通り過ぎ、平地の縁、広瀬川に向かって落ちる崖の手前までやってきた。
急峻で木々も生い茂らない崖からは、仙台の夜が一望できる。仙台の夜景は、四百年前にこの街が造られたときの町割りに従い電気の燈が格子状に整列していて、その格子を、城の主であり、仙台の創造者・伊達政宗公の凛とした騎馬像が見下ろしている。そして、政宗公の眼前、仙台上空を巨大構造物――まえに駅前のヨドバシに楓と地雷系の服をわざと着てデートしたとき、おもちゃ売り場で見かけた三体の自然選択号とか、スターウォーズのデス・スターのフィギュアでしか見たことのないような――が我が物顔で占領していた。
ああ、やっと世界が終わってくれたんだと思った。
月よりも十倍も大きなそれは、中央にある、砲台のような何かを光らせて、砲管の内部の、複雑な機械構造を高速で回転させ始めた。
「世界の終わりね」
楓は、諦めたように言った。
これが世界の終わりなら、最後は二人で幸せな思い出を作りたかった。
「ねえ、この世の終わりに、キスでもする?」
わたしがそう言った瞬間、広瀬川から火の玉が打ち上がる花火が打ち上げられた。わたしは楓の唇を強引に奪った。楓は一瞬驚いていたが、わたしに抱きついて、唇を押し返してくる。
キスをする間、花火の音だけが聞こえた。
唇を離す。刹那、手に握ったたぬきのの金玉が、かっと熱くなった。そしてそのデフォルメされた顔に似つかわしくない、原始的な雄叫びをあげると、わたしと楓の手から上空へ一気に飛び出し、虹色の極太の閃光を放ちながら巨大構造物めがけて飛び去っていった。そして、空に浮かぶ巨大構造物の周囲に、大きな、ひだ状の膜が現れると、構造物をまるごと包みこんでいった。
* * *
銀河ケイ素生命体合衆星連邦軍の第七星海艦隊は、真空崩壊によって得られたエネルギーを使用し、世界線転移を終えた。
司令室の巨大な展望窓から司令官は地球を眺めていた。あの忌々しき、古代宇宙の支配者を早く抹殺しなければいけない。時間軸が多少ずれてしまったが、艦隊が到着してすぐ、中佐が派遣した自動偵察機からデータを回収する。自動偵察機の代替知能計算機が報告するところによると、目標物――忌々しき、古代宇宙の支配者は、現地の文明を構成する炭素生命体の腕――ここの生命体は腕がたった二本しかないらしい――の間、どうやら、炭素生命体が幼年期のころに遊ぶ玩具のなか、しかもなぜか別の炭素生命体の生殖器を模した箇所に潜んでいたらしい。
司令官はまた酒を飲みながら、執務室のディスプレイをタッチする。
「全艦隊に告ぐ。我々はあの忌々しき、古代宇宙の支配者を抹殺しなければならない。これまでの技術では太刀打ちできなかったが、この局所的真空崩壊発生砲があれば、ヤツの抹殺は可能である。さあ、勝利して、わがケイ素文明に栄光を持ち帰ろうではないか! 砲術司令、主砲を準備せよ!」
映像が主砲室に変わる。局所的真空崩壊発生砲の主イオンエンジンが高速で回転を始め、白い閃光を放ちはじめた。
「さあ、さっさと消えてしまえ」
司令官がつぶやいたその瞬間、司令官室に緊急警報がけたたましく鳴り響き、すぐ甲板の航星長から呼び出しのベルが鳴る。司令官は応答のボタンを押した。
航星長は、恐怖に満ちた声で喋りだした。
「司令官、報告いたします。あの忌々しき目標物は、センダイから我々の艦隊に飛び立つと同時に、四次元形態を拡張させて、われわれの周囲を完全に囲いました!」
「航星長、四次元形態がそんな速さで拡張できるわけがないだろ」
「いいえ、ヤツは、われわれの常識の範疇を超えています! ああ、もう駄目だ。ヤツが来てしまった……」
航星長との通信が途絶えた。司令官は再び窓を眺めた。地球が見えていたところには、禍々しい、ひだのようなものが覆っていた。いや、覆っていたのは地球でない。この艦隊だった。まあ、いい。局所的真空崩壊発生砲を放てば簡単に突破できるだろう。
司令官は命令した。
「砲術司令、主砲を発射せよ!」
司令官室の照明が消えた。船が小刻みに揺れだす。艦隊の周囲の量子場が乱れる。だが、いままで主砲発射に失敗したことはない。大丈夫だ。司令官は自分に言い聞かせていた。
だがしかし、いつまで経っても船の揺れは収まらず、逆に大きくなっていった。
「まさか……!」
司令官は青ざめた。再び航星長から呼び出しのベルが鳴った。司令官は震える手で、応答ボタンを押す。
「司令官、この艦隊は、あのひだに包まれ、外界から完全に遮断されています。力学的にも、電磁的にも、われわれは宇宙とは、切り離されてしまいました」
「つまり、われわれの砲弾は、ここで炸裂してしまうということだな」
「司令官、おそらくそうかと」
「そうか」
司令官は通信を切った。いくら莫大なエネルギーを保有していても、物理的に隔絶された空間からの他世界線跳躍は不可能だった。また酒を飲もうとしたが、どうせすぐに、この船は真空崩壊によって、抹消されるのだから必要がないと思った。司令官が酒を棚に戻そうとすると、腕が急に黒ずんで泡のように弾けた。
* * *
巨大構造物を包んだひだ――おそらくあれはたぬきのの玉袋なのかもしれない――は、その後一晩空中に浮かびつづけた。わたしと楓は青葉山からずっとその空を眺めながら、ふたりで励ましあった。
そして、朝日が、街の東側、太平洋から昇りはじめた。そのとき、空中のひだは一気にすぼまって、姿を小さくさせると、ぶるぶる震えて、また虹色の閃光を放って、はるか空の彼方へ消え去っていった。
わたしは楓の肩を抱いた。
「助かったね」
「でも、たぬきのは消えちゃった」
楓は寂しそうに言った。だが、たぬきのはしっかりとお土産を残してくれたのかもしれない。わたしの頭脳は急に明晰になり、テストでいい点数を取れるようになり、さすがに地元に残すは惜しいと、父親はわたしの上京を許可してくれた。それに、楓にも運が巡ってきた。楓は趣味で書いていた小説が新人賞を獲って、担当編集もつき、出版社の近くに住みたいと高校卒業後、わたしの東京のアパートに居候することになった。
ふたりで過ごすかけがえのない日常。たぬきのはいないが、わたしたちのアパートの部屋には、高校の卒業式の日にヨークタウンのガチャガチャコーナーで引いた、大きな金玉のついたたぬきのを置いている。
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