後輩の家

レオパレスキャッスル小田原抹香町(第4話)

眞山大知

小説

9,618文字

小田原の生んだ私小説作家・川崎長太郎に挑んでみたシリーズ4弾目。今回も柚樹くんの彼氏・清晃の話です

レオパレスのエアコンは三時間毎に自動で止まる。昼に冷房を入れたのだが、柚樹とセックスをしていた最中に停止してしまったので事後の部屋はひたすらぬるく、湿った空気がこもり、ふたりの裸体は、ぽつりぽつりと汗が滲んで濡れていた――まだ四月なのに気温は二十七度、明日は予報どおりなら真夏日になる。そんな、夏が狂い咲いたような暑い春の土曜だった。

清晃は柚樹のぷにぷにとした腰にキスをすると万年床から立ち上がった。夕方から職場の飲み会があるので準備をしなければならない。同じ職場の後輩が、生産応援に行っていた高崎工場から四月一日付けで戻ってきたので、慰労会をするのだ。

風呂嫌いで、しかも現場系の仕事をしているのに体だけはなかなか汗臭くならないという体質なので週に二度しかシャワーを浴びないのだが、今日は珍しく、念入りに体を洗おうと思った。部屋の隅に置いた、プラスチックのチェストから、ごわごわしたタオルと、小田原駅前のドンキで買った、カルバン・クラインの気取った柄のボクサーブリーフを取り出して部屋を出る。廊下は玄関まで一直線に続くがたった三メートルほどと短く、その途中に、申し訳程度に流し台が据えつけられている。コンロは電気式のものが一口のみで、当然、そこで料理したことはなく、まな板を置くスペースには、清晃と柚樹が飲んだ、モンスターだったりストゼロだったりの、毒々しい色の缶が積まれていた。

資源ごみの日は月曜だったなと思いながら、流し台の手前を左に曲がる。真正面にはところどころ斑状に汚れたハイアールの洗濯機があり、蓋の上には、工場で使った作業着と、柚樹のフリルブラウスが乗っている。といっても、柚樹の服は洗濯の仕方がわからないので、結局、この洗濯機で洗うのは清晃の服だけだった。

タオルとパンツを床に投げ、洗濯機の右手、ユニットバスのふにゃふにゃとした扉を開ける。ユニットバスは青みがかったクリーム色で、鏡の脇の棚には、柚樹の使う女性用シャンプーだったりトリートメントだったりが並んでいたが、いちいち金を払ってまでそれらを買う気になれないので清晃は勝手に拝借して使っている。

足を空の浴槽へ入れて立つ。蛇口をひねる。シャワーヘッドから、熱い湯が勢い良く。ユニットバスが蒸気に満たされ、筋肉質の肉体が鏡に写っていたが、すぐに曇って見えなくなった。柚樹に聞かれないようにため息をついた。――キスマークをつけたことと、柚樹へ一方的な嫉妬心をむけたことを悔いて。

 

 

サイドリボンつきの薄手のパーカーと、幅の広いデニムパンツに着替えたあと、本棚に置いている業務用の角のペットボトルを開けて、清晃は飲み会の前だというのにウイスキーを少々飲んだ。体が熱くなり、そのまま、使い古したクロックスをつっかけると、煙草を吸いに玄関を出た。むかし付き合った沼津のデリヘル嬢の影響で、ショートピースしか吸わず、清晃がピースの小さく青い箱を開けたら、バージニア葉の濃くて芳醇な匂いが薫ってきた。慣れた手つきで一本取り出して口に咥え、ライターで火をつける。濃厚な煙が肺を満たした。幸福が訪れた。残りの人生を消化試合として考えていて、酒と煙草とセックスだけが幸せをもたらしてくれると清晃は固く信じていた。

貧相な細い手すりに寄りかかる。燻らせたピースの煙の向こうに見えるのは、いたって普通の、地方都市ならどこにでもありそうな住宅街だったが、その街のところどころに、虫が食んだ跡のように、トタン屋根の黒ずんだ平屋が点在していた。――抹香町。赤線の成れの果てだった。かつてここは小田原随一の盛り場で、四十軒ほどの「宿」や病院、梅毒の薬を打ちに女たちが並んだ保健所、投げ込み寺があったのだが、いまはその栄華は見る影もなく、ただ、打ち捨てられたそれらの廃墟が、一軒家だったり、アパートだったりの、平凡な生活の営みの隙間に、うす黙って居座っている。

その抹香町を、やや傾きかけた、橙色の陽の光が舐めるように照らしていた。陽は、小田原の市街地にせり出している、箱根の角張った山へ沈もうとしていた。もうすぐ飲み会の時間だった。いますぐ出発しても、遅刻してしまうだろう。

携帯灰皿に吸い殻を入れ、玄関を開け、スニーカーに履き替える。

「じゃあ、行ってくるから」と言うと、ユニットバスのほうからくぐもった声で「いってらっしゃい」と柚樹が返事した。七時から「仕事」があり、化粧をしていた。

清晃は廊下を出るとレオパレスのきしむ階段を降りた。そのまま抹香町の路地に入り、いくつかの「宿」の廃墟を通り過ぎ、うねうねとした道を曲がると山王川の川べりに出る。葉桜が多くなった桜並木で、その下を、荒っぽい運転のタクシーだったりバンだったりが走っている。

その緑色の多い桜並木を歩き、十分ほどすると、いきなり、工場群が目の前に出現する。花王、富士フイルム、清晃の勤め先のクシキ製パンの工場などが並び、その間を、東海道新幹線と在来線の高架が横断していて、コンクリートの高架の下を、アマゾンのフルフィルメントセンターに作業員を運ぶ大型バスが、勢いよくくぐりぬけていった。その高架のたもとが、飲み会の会場の焼肉屋だった。入社してから数え切れないほど来ていた。

建付けの悪いアルミの戸を引いて店に入ると焼けた肉の香ばしい匂いが鼻をくすぐる。なかは十畳ほどの細長い座敷で、鉄板の着いた座卓が四つ置かれていて、手前側の座卓には、短い茶髪の、おそらく十八歳か十九歳だろう、まだあどけなさの残る顔の男たちが、スマホでゲームをしながら肉を焼いていた。店主の娘さんが忙しなく動き、コカ・コーラの瓶を座卓へ置いていった。

座敷の奥から「遅えぞ、杉山!」と声がかかった。目線を向けると、一番奥の座卓から上司の阿部係長が座っていた。清晃のいる、菓子パン部成形課第一係の係長で、清晃の二歳年上である。その阿部係長の両脇には、後輩の清水睦月と加藤紗奈が、鏡月をグラスに注ぎながらケラケラ笑っていた。――係長以外は女性だけだった。

「あれ、係長。男は僕達だけです?」

清晃が聞くと係長は半ば呆れた口調で「ノリが悪いんだよね。時代なのかな」と答えた。

「杉山さん、遅いですよ」と睦月が言う。清晃は、睦月のことがあまり好きでない。出世欲が強くて、社内資格も積極的に取得しているが、どうも、自分の発言に責任を取るという意志が微塵もなく、他人の言った言葉をそのまま繰り返し、前後で発言の内容が矛盾しても平然としていられる。

「またどこかで飲んできたんですか」と紗奈が煽るような口調で聞いてきた。

「家で飲んできたんだ」

「相変わらずアル中だな、お前」と係長が割って入る。

「これでも控えているんです」

「へー」と、紗奈がなぜか醒めた口調で言うと同時に、カルビが運ばれてきた。睦月が真っ先に皿を取って、トングでカルビを鉄板に敷く。

 

 

――酒が進む。清晃はもうハイボールを八杯も飲んだ。

「また社長が訳のわからないことを言い出した」

係長は愚痴っぽくなってもう何杯飲んだかわからない。宮城県の出身で、酒に強い体質の係長といえども、さすがに飲み過ぎだろうと清晃は半ばヒヤヒヤしていた。

社員が何人か集まると、自然と社長の陰口をしだすのが、ここ最近のクシキ製パンの風潮である。去年の夏に就任した社長は創業者の息子であるが、イントラネットのトップメッセージにワクチンの陰謀論を取りあげ、YouTubeの動画を引用し、「真実は新聞にもテレビにもない。ネットの中にある」だなんて、YouTubeがアニメや映画の違法アップロードサイトでしかなかった時代を知っている清晃からすれば噴飯ものの主張をしていて、新社長が就任してから九ヶ月で、「DSディープステートが日本に攻めてくる」だなんて妄言を吐き、工場の生産ラインを二度も止めた。社長に諫言する幹部社員もいたそうだが、左遷だったり転籍だったりをさせられてしまった。離職者が相次ぎ、二十代の若手、特に男は資格を取るとすぐ転職してしまうので、受講制限をかけざるをえない事態になっている。係長だって、さすがに愚かじゃないし、若手の男が職場の飲み会に来ないのはそれが原因だと気づいているのだろうが、管理職が会社を信用しないだなんて部下には言えないのかもしれない。

自分がもし、根拠なき全能感に溢れていた二十代前半だったら、間違いなく転職を考えていただろう。むかしのように共同体だった昭和の職場ならまだしも、会社がいざというときに助けてくれない冷たさが骨の髄まで染み込んでいるので、もう信用しない。他の会社も、程度は違えども、基本的にそうだろう。かといって、清晃は独立しようという気にはなれなかった。――仕事で人生の幸福を得るなんて! 酒と煙草とセックス。これはどんな信仰よりも人間を救ってくれると清晃は思っていた。

「なんであんな人の下で働かないといけないんですかね。若手が可愛そうですよ」

清晃が言う。

「先輩、熱く語りますね」

紗奈がやたら冴えた目線をして言った。

「おお、急にどうした」

「もっと、先輩って、クールな人だと思っていましたけど、実はひょっとすると熱い人なんですか?」

「ん、どういうこと」

睦月は「え、熱いってなに?」と言いながら、追加で頼んだキムチと白飯が届いたのでせっせと配っていた。

「やっぱり肉が足りねえわ。おい、杉山、ホルモン頼むけどなにか食べたいのあるか?」

係長が聞いてきた。いつも誰かの発言に付和雷同する睦月は黙っていて、正座を崩して、足を、やたら青くて臭う畳に投げ出していた。清晃を見つめる紗奈の目は、やたら大きかった。鉄板の熱と、ちゃんぽんして飲んだアルコールの悪い酔いが、清晃を現実から解離させた。ふうっと、眼の前の景色の解像度が下がった。あ、これは記憶を無くしてしまうなと思った次の瞬間、意識は虚無へと溶けていった。

 

 

*     *     *

 

 

清晃はひとよりも嫉妬心の強い性格だと自覚していた。では、なぜ、そのくせ柚樹が体を売って稼ぐことを許しているかといえば、それは清晃が自分の嫉妬心を曝露するのを男の恥だと考えるほどの強がりだからである。これは市議会議長をしていた祖父と全く同じ気質だった。

沼津市の中心を流れる、狩野川のほとり、重苦しい外観の寺と教会と屋敷が立ち並ぶ町に生まれた。祖父はもともと自動車部品の鋳造品をつくる製造所を経営して、寺の檀家総代や、町内会長もしていたが、天命を知る五十歳のとき、今まで隠していたという野心が燃え市議会選挙に出馬し、当選。その翌年に清晃は初孫として生まれた。

だが祖父母は清晃の誕生をそこまで喜ばなかった。二人は長女である母は溺愛したが、営業部長の推薦で婿に入れた父が、人が変わったように怠けてろくに働かなくなり、父が製造所を辞めて、小さな会社を立ち上げては潰していくのを繰り返すうち、祖父は見切りをつけ、「ろくでなしの血の混じった清晃を真人間に育てる」という方針のもと、清晃に、奇妙な方法で愛情を注いだ。

祖父母の子育てで特徴的だったのは、孫の清晃に誠実さでも、勇敢さでもなく、ただ単に動物的な強さを求めてくる点だった。たとえば、幼稚園の運動会で転倒したとき、祖父は「恥さらし」だと言って、帰宅後、腹をすかせた清晃の夕食は抜きになった。いま思えば、足の引っ張りあいでしかない政治の世界を生き抜くのには、素直だとか正直という人間の美点には一円の価値もなく、ただ単に、歯向かう人間に、肉体的にも精神的にも暴力をためらいなく振るえるよう、祖父は、自分の学びを、清晃に叩きこんでいたのだろう。だが、その教育は清晃の性格を捻じ曲げるには充分なものだった。清晃は、あの運動会のあとから、自分の意思をはっきりと表現することは本質的には損なのだと諦めていた。だから、小説なんて回りくどい方法でしか、自分を表現したことがない。

さらに悪いことに祖父は、母を溺愛した。母は、自分は愛されるべき存在であると思いこみ、ほかの人を愛せなかったのだろう、清晃は、母からの愛というものを、感じ取れなかった。

清晃は、祖父の議長就任祝賀会での写真を本棚の最上段に飾っていた。会場の、沼津駅のすぐそば、バブル期に建てられたハイセンスなシティホテルの、金色と紅色が映える大宴会場はやたら華々しいけれど、貼りつけたような笑顔をした参加者たちの誰もが、目を笑わせていなかった。写真に映る、まだあどけない、祖父の膝に抱かれた、まだ小学生二年生だった清晃も例外でなかった。祖父は清晃から手を離していて、隣に座る、母親の肩を丁寧に抱いていた。清晃は写真に映るふたりの顔を、真っ二つに裂いていた。

結局母は父と離婚した。再婚した継父は、清晃の実父と真逆の性格で、祖父からも可愛がられた。祖父の製作所で技術部の主任をしていたのだが、ボクシングを偏愛し、脱サラした退職金で興行を始めた。ほぼ一年中、継父は全国を興行しに巡っていたので清晃は滅多に継父に会ったことがないし、顔もろくに覚えていない。

自分を見てくれない、家族ばかりだった。清晃の精神は荒んでいった。そればかりか、学校にも味方がいなかった。小六のとき、夏休みの自由研究として沼津市の行政の仕組みをまとめた壁新聞を書いて、出来が素晴らしく、校内で表彰されるが、ある日の放課後、帰宅中に突然、同級生に囲まれ、「お爺さんが先生に圧力をかけて表彰されたんだろ」と罵られた。なにも言い返せなかった。たとえ同級生に反論したところで「じゃあやってない証拠を出せ」と、悪魔の証明を出されることをすぐに予見したのである。この種の嫌がらせというのは、清晃は、小学校の左翼崩れの教師からたびたび受けていたので、大人から受ける分にはだいぶ慣れていたが、まさか同級生からその種の嫌がらせを受けるとは思わなかった。自分は同年代からも、歓迎されていない。その発見は清晃に家出を決意させるには充分な衝撃であり、その日の夜、塾の帰りに、清晃は、誕生日に買ってもらったマウンテンバイクを飛ばし、国道一号線を西へ走ったが、沼津市と富士市の境界線のあたり、東田子の浦駅の前で、捜索しに来た警察に保護された。

中学校は教師の人間性が劣悪な学校だった。当時、ホリエモンと橋下徹が社会に撒き散らした自己責任論と、昭和から続いた根性論、管理教育の鉄拳制裁の風潮が学校にある、地獄の様相を呈していた。暴力を振るわれたくなく、清晃は逆に教師への反抗心で勉強をしだし、結果を出すと、教師たちはなにも注意しなくなった。結果を出さなければ、殴られる。結果を出せば、殴られない。わかりやすい指標だった。静岡県の東部でいちばんの進学校に入れたのは、この反骨心が原動力になってくれたが、高校入学とともに、燃え尽きた。進学校だから教師からの暴力はなかったが、毎日、家に帰ってはニコニコ動画を見るだけの、日々が続いた。東方Projectにハマり、同人小説を書くようになったのも、この頃である。

家に帰りたくもなかった。沼津は風俗業が盛んで、女たちは、素性のわからない男にも比較的優しかった。帰りたくない家より、女の家を転々とするほうが、心が落ち着いた。家族は、清晃を形ばかり心配しているだけで、次の日には、ケロリと忘れたように、仕事に戻る。こんな、自分をないがしろにする家は出ていってやると、進学校では珍しく、高卒で就職したのは正解だと自負している。たとえ、辛い労働をしなければいけないとしても、自分を愛してくれない土地から離れられたのだから。

 

 

社会人一年目の年はほとんどが夜の記憶だ。休みの日は、同人小説を書いて投稿したり、女のところに遊びに行ったりしたが、それらの記憶はどこか曖昧だった。

入社直前に起きた震災で、宮城県の工場の稼働が停止し、その分のパンの生産をしなければいけないので、早朝の星の瞬く時間に借り上げ住宅のレオパレスを出発し、工場で毎日十一時間の労働をこなし(現場系の仕事で毎日残業が三時間というのは下手すれば死に直結する)、夜は、星の瞬く時間に帰宅していた。通勤と退勤で違うのは空の月の位置と車の往来ぐらいだった。

まだ就職するまえ、沼津のデリヘル嬢の家でロシアの文豪の本を読ませてもらったことがある。高校時代は演劇部だったというデリヘル嬢はピースを吸いながら、ボロボロの文庫本を丁寧に差し出してきた。清晃が開くと、ある一文が淡いピンクの蛍光ペンで塗られていた。――もし人間の価値がその仕事で決まるならば、馬はどんな人間よりも価値があるはずだ。馬はよく働くし、第一、文句も言わない。

その一文の馬という言葉を生産設備に変えれば、現代でも通じることだと、清晃は社会人生活一年目にして身にしみて感じていた。人間そのものには価値がない。社会のヒエラルキーのどの位置にいようが、人間は社会を回すための歯車であり、歯車という部品である以上は、必ず替えがきく。清晃は、このあたりから子どもを絶対につくらないと決めた。子どもが大きくなったとしても、株主と会社を肥やすために働かされ、使い捨てられてしまう。子どもの不幸をなくす一番の方法は、子どもをつくらないことだ。

就職してからデリヘル嬢のところへは二週に一度程度のペースで行ったが、進学校の生徒という肩書が外れたからか、日に日に態度が冷たくなり、小田原で二回目の桜を見るころにはすでに別れていた。浮気されたのだった。二十歳になり、酒を嗜むようになった清晃は、飲んで忘れることにした。えぐるように痛む心を鎮めるには酒は最適だった。

ちょうどそのあたりから、同人小説で次第に読者がつき、作家仲間と、東方のオンリーイベントに参加し、長机半分ほどのスペースのブースへ座って同人誌を頒布したり、十六夜咲夜だったり紅美鈴のコスプレを着て、会場のなかを出歩いたりした。打ち上げは秋葉原のHUBで飲んで、一リットルのメスシリンダーに入った酒を一気飲みした。

作家になりたいと思った。清晃は初めて、なにかのために頑張りたいと思った。同人小説を一旦休んで、ライトノベルの新人賞へ作品を投稿することにした。当時はKindleやnote、Fantiaなどもなく、素人の一次創作の小説に金を払ってまで読むという文化自体がなかったので、書いた小説を世間に出すには、出版社の、倍率数百倍の公募を勝ち抜くしかなかった。

厳しい世界だった。公募にはことごとく落ちた。五年挑み続けたが駄目だった。同人小説の人気も落ちた。二十五歳のとき、オンリーイベント・博麗神社例大祭の開催直前に、どうにかして販売促進をしようと、売り子をTwitterで募集した。そのころはコスプレ女装男子――その名のとおり、女装してキャラのコスプレをする男子がちらほら出てきて、艦これに人が流れていったとはいえ、東方のコスプレ女装男子が圧倒的に多く、小説の売り子を募集するとメッセージがすぐ送られてきた。送り主は柚樹だった。

柚樹は平塚の車体工場に勤めていたが、正社員から無理やり「かわいがられ」、初めてオフ会をしたときにサイゼリヤでご飯をおごったが、柚樹はずっと目が死んでいて、寮を訪れると、柚樹は部屋のなかで、オーバードーズを繰り返していた。後で聞いたところ、柚樹は自分を救ってくれる優しいパパが欲しかったという。こんな状態で売り子なんてできるのかと心配になっていたが、イベント当日、古明地こいしのコスプレをしながら、一生懸命同人誌を売る柚樹の姿を見て、清晃は放っておけなくなった。

イベントの一ヶ月後、柚樹の二十歳の誕生日に、清晃は車を飛ばした。車体工場の寮へ着くと、柚樹を連れて、そのまま、小田原に夜逃げさせた。

 

 

それから八年も付き合っているが、かといって、この八年で、清晃になにか達成できたことがあるのかと聞かれれば違うと答えるしかない。結局、どれだけ作品を送っても公募の一次選考を通ったのが一本ぐらいで、同人小説も、東方プロジェクトの人気が落ち着くと一気に下火になり、作家仲間たちは、同人活動のことを忘れて、コミュ強の勝ち組は結婚して子どもをつくり、独身貴族は釣りや食べ歩きやガールズバー通いという、テンプレのような趣味に走り、そして、駄目になった仲間は、失踪したり、生活保護を受けだしたり、Xのポストが安倍晋三だったり麻生太郎だったりのショート動画だらけになっていた。

仲間がいなくなった。孤独に耐えられなくなった。清明は、自然と筆を折らざるをえなくなった。だが、本当に、やりたいことを、やらないまま、人生を終えてしまっていいのだろうか? 本当には柚樹のように、また小説を書きたい。

 

 

*     *     *

 

 

目が覚める。清晃の体を激しい痛みが襲った。

見知らぬ部屋だった。モノトーンのソファーから起き上がる。アパートかなにかの一室で、ラベンダーの香りが漂い、木目調の壁には、クマやうさぎの、アンティーク風のぬいぐるみが棚に飾られている一方、モノクロの額縁には、東京卍リベンジャーズの、半裸のキャラのイラストが飾られていて、少女趣味とオタク文化が絶妙なバランスでそこに同居していた。

床はふわふわのラグが敷かれていて、その上のテーブルには、コーンスープの入った、底の浅い器が置かれている。――窓の閉め切ったカーテンの向こうから、雀の鳴く声が聞こえた。急に頭が割れんばかりに痛くなり、清晃は飲みすぎたと後悔した。

「起きました?」

窓際のベッドから紗奈の声がした。紗奈は、大きめのリングがついたスマホをいじっていた。

「ここって⋯⋯」

「わたしの家です」

「もう帰らなきゃ」

「帰るって、家に?」紗奈が訊いた。

「そうだよ。てか、いくら職場の先輩だからって、家に連れこむなよ。うちの会社、悪い男ばっかりだぞ」

「先輩を放っておけなくて。ところで、先輩が寝てたとき、ずっと泣いてましたよ。何の夢を見てたんですか?」

清晃は答えなかった。早くこの家から出たかった。

紗奈は立ち上がると部屋を出ていき、すぐ、麦茶のペットボトルとコップを持ってきて、テーブルに置くと清晃の顔をのぞきこんだ。紗奈は昨日とうってかわって、しっかりと化粧をしていた。

「わたし、先輩のことが好きです」

その言葉は何の前触れもなくて清晃の感情に入りこむ余地はなかった。清晃は頭を振って立ち上がった。ラグの上の座布団を踏んでしまい、足元がすこし滑った。

「そういうの、やめろよ」

「駄目ですか。先輩って、彼女がいないから」

「ああ、いないよ。けど、駄目だ」

柚樹のことはもちろん誰にも言うつもりはない。

「本当はもっと遊びたいんじゃないんですか。前から思っていましたけど、先輩って変に生真面目で、やりたいことを妙に我慢する癖がありますよ」

紗奈は挑発するような目線を向けていたが、だが、かすれた声をしていた。

「……ありがとう」と清晃はつぶやいた。

紗奈はそれ以上なにも言わず、麦茶とコップから手を離した。その後ろ姿がずいぶんと小さく見えた。

清晃は玄関へ歩いていく。玄関の脇には引越し業者の段ボールが散在し、清晃は段ボールを避けながらスニーカーを履き、ドアを開けた。朝の日差しが肌を刺した。そのまま外へ歩き出すと、紗奈の部屋のドアが静かに閉じ、鍵をかける音が、背中越しに響いた。

 

 

清晃がレオパレスに帰ると柚樹は万年床で寝ていた。

清晃は柚樹が愛おしくなり、頭を撫でた。ミニテーブルのうえのノートパソコンをつけると、Wordを開いた。ひさしぶりに小説を書こうと思った。賞なんて取れなくても、書くことで、自分が救われればそれでいいと思った。

2025年5月6日公開

作品集『レオパレスキャッスル小田原抹香町』最新話 (全4話)

© 2025 眞山大知

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