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第四部 退室

休憩の国(第4話)

無花果回

ある日、ホテルは閉まる。閉まったホテルから、人は、それぞれの場所へ、退室していく。それぞれの場所、というのは、家のことではないかもしれない。家でも職場でもない、もうひとつの、誰にも見られない、二時間の場所。そういう場所が、町のなかに、いくつ、隠れているのだろう。

タグ: #休憩の国 #小説 #第四部 #純文学

小説

11,433文字

三月の半ば、町に春の雨が降った。

雨は、雪を残らず洗い流していった。
駐車場のアスファルトの黒さが、しばらくぶりに、千尋の目のなかに戻ってきた。
黒さの上に、雨水がうすく層になり、衝立の影と、すりガラスの影と、ネオンの「ライソ」の青みがかった光とが、それぞれ別の深さで沈んでいた。
千尋は、その層の深さを、雨の止んだあと、しばらく見ていた。

パライソの最後の半月は、雨と、雨上がりの光のなかで始まった。

 

 

律子は、解体の予定日が近づくにつれて、湯呑みを温める時間が長くなっていた。

以前は朝にいちど湯を注ぎ、昼までに二、三度温め直していた。
いまは、温め直す回数が、午前中だけで五回、六回になった。
六回になると、湯呑みの欠けたふちは、もう一日じゅう湿っているのとほとんど変わらなかった。
律子はその欠けを、親指の腹で、繰り返しなぞっていた。
なぞるたびに、湯呑みは、すこしだけ、律子の手に馴染んだ。
馴染んでいくのを、律子はとめなかった。

千尋は、その手の動きを、たまに見ていた。
見ながら、自分が、そろそろ、なにかを覚えはじめている、と気づいた。
覚える、という言葉を、千尋はパライソに来てから、ずっと避けてきていた。
律子が「覚えるのと忘れるのと、どっちが商売としてまっとうかといったら、忘れるほう」だと言っていたから。
けれど、その朝、千尋は、自分が、律子の手のなかの湯呑みのかたちを、覚えはじめている、と気づいた。
覚えはじめている、ということは、これから先、それを、どこかで、思い出す日が来る、ということだった。

 

 

水2は、三月の最初の週まで、ふつうに来ていた。

月曜と、水曜と、金曜。火曜と、木曜にも。
時間は、ほとんどの日が、二時間だった。
ハンカチは、引き出しの手前に、軽く折り目のついたかたちで、置かれるようになっていた。
折り目の数は、四つ折りのときよりも、ひとつかふたつ、少なかった。
たたみ方は、まだ、ぎこちなかった。
ぎこちないけれど、自分の手の動きで折られたハンカチだった。

千尋はそれを、いつものように律子のところへ持っていった。
律子は、いつものように、何も言わずに事務机の引き出しに入れた。
次の朝、彼が来たときには、ハンカチは、もとの引き出しに、何も言われずに戻されていた。
その作法は、彼が来なくなるまでの最後の朝まで、変わらなかった。

彼が来なくなったのは、三月の第二週の、水曜日の朝だった。

律子はその朝、いつもどおり、フロントのうしろに座っていた。
十一時半になった。
水2は、来なかった。
十一時四十分になった。
来なかった。
十二時になった。
来なかった。
律子は、なにも言わずに、シフト表の右上の「月水金2~3、火木2」の文字に、ボールペンで、まっすぐな線を一本、引いた。
線の引き方が、ほかの取り消し線よりも、ほんの少しだけ、ゆっくりだった。

「奥さん、いったの」と千尋は聞いた。

「いったね」と律子は言った。「たぶん、今朝早くか、夜中」

「どうして、わかるんですか」

「来てない、っていうのが、答え」

律子は、ボールペンをポケットに戻した。

「来てたら、奥さんは、まだ生きてる。来なければ、もう、家でいるしかない時間が、はじまってる」

千尋は、その日、二〇五号室に入って、ベッドのまわりを片づけなおした。
ハンカチの引き出しを開けた。
なにも、入っていなかった。
なにも入っていない引き出しのなかは、いつもより、すこし広く見えた。
千尋はその広さを、しばらく見ていた。
見ながら、その広さが、これから先、誰によっても埋められない種類の広さだ、と気づいた。

二〇五号室の天井のシミを、千尋は、ベッドのうえから、仰向けで、見上げてみた。
シミは、海の地図に似ていた。
彼は、この地図を、何時間も、見つめてきたのだろう、と千尋は思った。
目を閉じても、たぶん、見えていただろう、と思った。
千尋は、その地図のうえを、自分の目で、ゆっくりと辿った。
辿っていくうちに、地図のどこかに、彼の妻の家が、たしかにあるような気がした。
あるような気がしたけれど、見えなかった。
見えないことが、ほんとうの場所のしるしだった。

 

 

水2は、その後、もう来なかった。

来なかった、という事実だけが、二〇五号室を、しずかに使い終えた。
千尋は、その部屋を、最後の日まで、いつもどおりに掃除した。
誰も泊まらない夜にも、シーツを一度はがして、新しいシーツを敷きなおした。
敷きなおしたシーツの上に、誰の沈みもない夜が、何度かあった。
誰の沈みもない夜のシーツは、朝になると、ほんのすこしだけ、くたびれていた。
部屋そのものが、寝返りを打ったあとのような、くたびれ方だった。

 

 

ミオは、三月の半ばに、来た。あとから振り返れば、彼女が来たのは、その夜が最後だった。

ミオは、二〇八号室を指名した。
四〇五号室は、もう、選ばなかった。
チェックインのときに、ミオは、フロントのすりガラスを、軽く一度、叩いた。
叩く、という作法を、ミオは、いつのまにか、覚えていた。
覚える、と言うほどはっきりした覚えかたではなくて、見ているうちに、自然に、手が動くようになった、というほうが近い、覚えかただった。

千尋は鍵を渡した。
ミオは「ありがとう」と小さく言った。
ありがとう、と、ミオの口がはじめて千尋に向けて発音した夜だった。
千尋は、それに、なにも返さなかった。
返さなかったのは、なにを返していいかわからなかったからではなく、返さないほうが、ミオの「ありがとう」が、長くもつ、と思ったからだった。

翌朝、二〇八号室に入ると、ベッドのシーツに、ひとり分の沈みがあった。
沈みは、仰向けではなく、横向きに、すこしだけ膝を曲げた人の沈みだった。
水2のときの沈みとも、一度目のミオの沈みとも、ちがう沈みだった。
子どものころ、おなかが少し冷えた朝の、自分の布団の沈みに、似ていた。
千尋はそれをしばらく見て、それから、シーツを、いつもより、すこしゆっくり剥がした。

机のうえに、ピアスがひとつ、置かれていた。
左耳のピアスではなかった。
右耳のピアスだった。
千尋はそれを引き出しに入れに、バックヤードへ持っていった。
律子は、それを見て、ふっと笑った。

「右、はじめて」

「はじめて、ですね」

「次のときには、ペアで持って帰る、ってことかもね」

「来るんでしょうか、また」
「さあ。来るとしたら、ぎりぎりかもね」
律子はそう言って、その右耳のピアスを、引き出しの、左耳のピアスたちのとなりに置いた。
左と右が、ようやく、ひとつの引き出しのなかで、隣り合わせになった。
隣り合わせになったあと、その引き出しは、また、閉じられた。
ミオは、その後、来なかった。
ぎりぎりにも、来なかった。
来なかったことを、千尋が事実として知ったのは、三月の最後の日のことだった。

 

 

わたしは、左耳のピアスを、もう落とさない。
落とさない、と決めたのは、決めたわけじゃなくて、落とすのを忘れていたら、いつのまにか、落とさなくなっていた、というだけのこと。
それでも、なにか、ひとつだけ、ここに残したかった。
残すなら、左じゃないほうにした。
左ばっかり残してきたから、最後は、右にした。
右は、これまで一度も、落としたことがない側だった。
落としたことのない側を、はじめて、ここに置いていく。
はじめて、ということは、たぶん、最後、ということだった。
最後を、はじめて、と呼んでもいい場所が、ここだったらしい。

 

 

山科は、三月の二十日ごろに、最後に三〇四号室に来た。

千尋は、シフト表のうえで、その夜の予約を見ていた。
律子は、山科の予約を、いつもどおり「市役所」とだけ書いていた。
時間は、二時間。
延長は、書かれていなかった。

山科は、いつもより、ほんのすこしだけ、早い時間に来た。
まだ町が、夕日の最後のあかりのなかに残っているうちに、駐車場に車を入れた。
車から降りた山科は、職員バッジを、車のなかで外していた。
胸には、糊のきいたシャツの白だけがあった。

二時間ちょうどで、山科は出ていった。
千尋がチェックアウト後に三〇四号室に入ると、クローゼットは、空になっていた。
ハンガーが二本、壁側に寄せられて、何もかかっていないまま、しずかに揺れていた。
千尋は、ベッドのうえを見た。
ベッドのうえに、たたまれた服が、二着、置かれていた。
くたびれたデニムのジャケット。
えりぐりのよれた、灰色のスウェットシャツ。
ふだんはハンガーにかけられていた服が、その夜は、四つ折りに近いかたちで、たたまれていた。
たたみ方は、男の手のたたみ方だった。
角がきれいに揃っていなくて、左右の肩のあたりに、すこしずつ、ゆがみがあった。
そのゆがみが、たたんでいるあいだの、本人の息のかたちに見えた。

たたまれた服のうえに、紙片が一枚、置かれていた。
無地のメモ用紙だった。
書かれていたのは、一行だけだった。

すみません、これ、捨てておいてください。

千尋は、メモを、しばらく見ていた。
すみません、という、ほどよく丁寧な平仮名の連なりを、しばらく見ていた。
見ながら、すみません、という言葉が、誰に向けられているのかを、考えた。
律子に向けられているのでも、千尋に向けられているのでもなさそうだった。
たぶん、自分自身、もしくは、自分の弟、もしくは、もういない兄、のいずれかに向けられていた。
いずれかに、ではなく、三人すべてに、向けられていたのかもしれなかった。

千尋は、その服を、両手で抱えてバックヤードへ持っていった。
律子は、メモを読んで、しばらく黙っていた。

「捨てるか」

「捨てるんですか」

「うちはもう、捨てられないものを、預かってあげる場所じゃ、なくなる」

律子は、そう言って、ハンガーの根元に置かれていた山科の煙草の箱を、ラックから取った。
煙草の箱と、たたまれたシャツとデニムを、まとめて、可燃ごみの袋に入れた。
ふつうの可燃ごみの袋だった。
袋の口を、律子は、ゆっくりと結んだ。

「これでよかったんでしょうか」と千尋は聞いた。

「よかった、っていうことに、しなきゃね」

「しなきゃ」

「うちが閉まったあとで、他のだれかが、これを開けて見つけたら、もうそれは、別の話になっちゃうから」

律子は、その袋を、その日のうちに、ゴミ置き場に出した。
ゴミ置き場の、ピンクの壁の手前に、白い半透明の袋がひとつ、ぽつんと置かれた。
ふだんなら、灯が、その近くで、スマホを見ている時間だった。
その夜、ゴミ置き場のそばに、灯はいなかった。

 

 

弟と、五年ぶりに、電話で話した。
兄の話は、しなかった。
しないことが、たぶん、これからのいちばんの正しい、しないだった。
弟は、結婚すると言った。
結婚式には、私を呼ばないと言った。
呼ばない、と言うとき、弟の声は、私を恨んでいる声ではなかった。
ただ、整理している声だった。
整理されたなかに、私の場所はない。
ない場所を、私はもう、つくりにいかない。
兄のシャツを、私は、たたんで、置いた。
たたんだ手は、兄の手でも、弟の手でもなくて、私の手だった。
私の手で、はじめて、私は、兄を、たたんだ。
たたんだあとで、置いていく。
置いていったあとで、家に帰る。
家には、誰もいない。
誰もいない家で、私は、はじめて、ひとりで、眠ろうと思う。

 

 

灯は、三月のあいだ、一度も裏口に来なかった。

千尋は、夕方の入り時間に、ゴミ置き場のそばを、わざと、すこし長く通るようになっていた。
長く通ったところで、誰もいない。
誰もいないことを確かめるたびに、千尋は、なにか、自分のなかの、整理されていなかった一角が、しずかに片づいていくのを感じた。
灯が来ない、ということは、灯が、ここに来なくてもよくなった、ということだった。
来なくてもよくなったことを、千尋は、寂しい、と呼びたくなかった。
寂しい、と呼んだら、灯の選んだことを、千尋が、勝手に薄める気がした。
薄めずにそのまま見ていたかった。

ところが、閉鎖の予定日が近づいた、ある夕方、灯は、唐突に来た。

いつもの裏口ではなく、表のフロントから来た。
セーラー服ではなく、卒業式のあとの私服のような、薄いベージュのワンピースを着ていた。
髪は、すこし切られていた。
千尋がフロントの内側にいたとき、灯はすりガラスを、ほんのかるく、一度叩いた。

「あ」と灯は言った。「すいません」

「いえ」と千尋は言った。

「お仕事中、すいません」

「もう、終わるとこ、です」

灯は、すりガラスごしに、千尋の影を見ていた。
灯の側からは、千尋は、輪郭だけの影だった。
千尋の側からは、灯の輪郭は、すこし、はっきりとしていた。
はっきりした輪郭は、これまでのゴミ置き場のそばの灯と、すこし、ちがう輪郭だった。
すこしだけ、自分の輪郭の内側に、自分が、入っていた。

「ここ、もうすぐ、閉まるって、聞きました」

「聞きましたか」

「たまたま。コンビニの店員さんが、話してて」

「そうですか」

「あの、これ」

灯は、すりガラスの下の受け渡し口に、なにかをそっと差し入れた。
千尋が内側から取った。
ラップにくるまれた、温かいおにぎりだった。
まだ、湯気が、うすくのぼっていた。

「いただきもの、なんですけど。ひとつ、多くて」

灯は、そう言った。
灯の口が、最後の「て」のところで、すこし、止まった。
止まったあと、灯は、笑ったような顔をした。
笑ったかどうかは、すりガラスごしには、はっきりしなかった。
はっきりしないのが、灯の笑い方だった。

「ありがとう」と千尋は言った。

「いえ」

「あったかいうちに、いただきます」

「はい」

灯は、すりガラスから、すうっと離れていった。
離れていく影が、はじめて、ゴミ置き場のほうではなく、駐車場の出口のほうへ、まっすぐに伸びた。
まっすぐに伸びた影を、千尋は、フロントの内側から、しばらく見ていた。
見えなくなったあとも、千尋は、すりガラスのほうを、しばらく見ていた。

千尋は、その夜、おにぎりを食べた。
あたたかかった。
ラップを開いたとき、ご飯のなかに、ふつうの梅干しが、ひとつ、入っていた。
ふつうの梅干しは、ふつうの味だった。
ふつうの味が、いつもの夜よりも、ほんの少しだけ、しょっぱく感じた。
しょっぱさは、誰かに分けるためのしょっぱさでもなく、自分のためのしょっぱさでもなかった。
受けとった、ということの、しょっぱさだった。

千尋は、ラップを、丁寧にたたんで、ポケットに入れた。
灯のしぐさを、そのまま、なぞっていた。
なぞったことに気づいたあと、千尋は、ポケットのうえから、ラップのかたちを、ゆっくり押した。
うすい、なにかの紙のかたちが、布越しに、伝わった。

 

 

三月の最後の日が、来た。

その日、空は、雨でも晴れでもなかった。
雨になりそびれた曇りで、町ぜんたいが、すこしくすんで見えた。
駐車場には、午前中、二台、車が入った。
午後、もう一台、入った。
夕方になって、客は、来なくなった。
夜の十時を回ったところで、律子は、フロントの蛍光灯を、半分だけ消した。

「ここまで、にする」と律子は言った。

「ここまで」

「これ以上来る人は、たぶん、もう、いない」

千尋は、フロントから、外を見た。
すりガラスのむこうに、駐車場の濡れたアスファルトが、半分だけの光に照らされていた。
車止めの黄色いペンキが、欠けたところから、雨水を吸って、すこし黒ずんでいた。

「最後の掃除、いってきます」と千尋は言った。

「いってらっしゃい」と律子は言った。

いってきます、と、いってらっしゃいの間が、いつもよりも、わずかに、短かった。
短かった、ということが、今夜にとっては、ふさわしい間だった。

 

 

千尋は、まず一階から、順番に、フロントをのぞいて回った。

二〇一号室。誰も使っていない。
二〇三号室。誰も使っていない。
二〇五号室。誰も使っていない。
二〇八号室。誰も使っていない。
三〇一号室。誰も使っていない。
三〇二号室。誰も使っていない。
三〇四号室。誰も使っていない。
四〇五号室。誰も使っていない。
五〇三号室。誰も使っていない。

誰も使っていない、ということを、ひと部屋ずつ、ドアを開けて、確かめた。
確かめながら、千尋は、これまでに、その部屋を、誰がどう使ってきたかを、ひとつずつ、思い出した。
思い出すつもりはなかった。
思い出しは、手のうごきの裏側で、勝手に、起こっていた。

二〇五号室では、水2が仰向けで眠ろうとしていた。
四〇五号室では、ミオが鏡の前で立ちなおしていた。
三〇四号室では、山科がもういない兄のシャツを着ていた。
三〇一号室では、二十年あまり前の父が、二時間、眠らないでいた。
三〇二号室では、一番最初の、湿気のなかの誰かが、なにかを書きそうになって、書かなかった。
五〇三号室では、ある女が、別れた夫だった人と、海の写真を見ていた。
二〇一号室では、ある人が、シャワーを二回浴びていた。
二〇八号室では、ミオが、ふつうに、横向きで眠った。

部屋は、人を、覚えていた。
覚えていることを、口にはしなかった。
部屋は、もとから、口を持っていなかった。
口を持たないものに、千尋は、はじめて、すこしだけ、ありがとうを言った。
声に出さなかった。
声に出さなかったことが、部屋に対する、千尋の作法だった。

 

 

最後に、千尋は、四〇七号室の前に立った。

ノブをまわすと、いつも通り、軽くまわった。
ドアを開けて、照明をつけた。
部屋の空気は、ほかのどの部屋とも、すこし、ちがっていた。
ほかの部屋の空気は、人がいないと、しんと冷えた。
四〇七の空気は、人がいなくても、どこか、人の体温に近い、ぬるさを保っていた。
たぶん、ノートが、ここに、人の声を、長く溜めてきたからだった。

千尋は、ベッドサイドの引き出しを開けた。
ノートと、鉛筆を、取り出した。
鉛筆は、千尋が前に来たときよりも、すこしだけ、短くなっていた。
誰かが、削って、書いて、また置いていったのだった。
誰かが、というのは、もう、特定できる人ではなかった。
特定できないことが、このノートにとっての作法だった。

千尋は、ベッドの端に座った。
ノートを開いた。
父の字のページは、開かないでおいた。
代わりに、ノートの、まだ書かれていない、まっさらなページを、開いた。
まっさらなページは、ノートの、最後から、四枚めだった。

鉛筆を持った。
持ったあとで、しばらく、書きはじめなかった。
書く前の時間が、書きはじめてからの時間と、同じくらい、長かった。

書こうとした言葉は、いくつかあった。

「お父さん、あの夜、家に帰ってくれて、ありがとう」と書こうとした。
書きそうになって、書かなかった。
書いたら、嘘になりそうだった。
ありがとう、は、まだ、千尋のなかで、言いきれない言葉だった。

「お父さんを、許す」と書こうとした。
書きそうになって、書かなかった。
許す、は、千尋のなかで、まだ、なにを許すのか、はっきりしていない言葉だった。

「私は、ここで、はじめて、自分を、すこしだけ、休ませた」と書こうとした。
書きかけて、鉛筆をとめた。
とめたあとで、その文を、もうすこし、削ろうと思った。

千尋は、結局、こう書いた。

わたしも、ここに、いた。

書き終えたあと、その十二文字を、長く見た。
見ながら、自分が、書きたかったのは、たぶん、これで、ぜんぶだった、と気づいた。
ぜんぶ、というのは、書ききった、という意味ではなかった。
ぜんぶ、というのは、これだけが、書ける、という意味だった。

ページの右上に、日付を書こうかと思って、書かなかった。
ノートの最初のほうのページの、父が日付を書いていた、あの一ページ。
あれは、父が、どうしても、その日を、ここに残しておきたかったからだろう、と千尋は思った。
千尋には、その日を残しておきたい、という気持ちは、なかった。
千尋にとっての日付は、書かれていない、ということが、書かれていることだった。

ノートを閉じた。
鉛筆を、削れる短さで、引き出しに戻した。
鉛筆と、ノートが、また、誰かを待つかたちで、引き出しのなかに収まった。

 

 

部屋を出る前に、千尋は、もう一度、ベッドのうえの、頭の沈みを見た。

沈みは、これまでの誰かの沈みのうえに、なにかが、ほんのうっすら、足されていた。
足されたなにかは、千尋が、ベッドの端に座っていたあいだの、自分の体重だった。
体重は、座っていただけでも、シーツに、すこしは、痕を残していた。
その痕は、すぐには、消えなかった。
時間が経てば、消える種類の痕だった。
時間が経てば消えることが、悪いことのようには、思えなかった。

照明を消した。
ドアを閉めた。
ノブから手を離した。
手のひらの熱は、ノブには残らなかった。
残らなかったことが、千尋にとって、はじめての、四〇七からの、ふつうの去り方だった。

 

 

バックヤードへ戻ると、律子は、湯呑みを、両手で、囲んでいた。

「終わった?」

「終わりました」

「いい仕事だったよ」

「はい」

「最後だから、いい仕事だった、って言うんじゃなくて、ほんとに、いい仕事だった」

千尋は、エプロンを外した。
エプロンを、たたむときに、自分の手のたたみ方が、誰かのたたみ方を、すこし、思い出させるのに気づいた。
たぶん、田辺の、最後のころのハンカチのたたみ方に、似ていた。
似ていることが、悪くは、なかった。

「これ」

律子が、机のうえに、湯呑みを置いた。

「持っていけ」

「先代のですよ」

「もう、私の、でもなくなる。あんたも、先代を知らない。知らない人の湯呑みを、知らないまま、使うのが、ちょうどいい」

「使うんですか」

「使えとは言わない。捨てるか、どこかに置いとくか、毎朝使うか、それは、あんたが決める。決めたあとは、もう、私のものでも、先代のものでもない」

千尋は、湯呑みを両手で受けとった。
欠けたふちのあたりが、まだ、ほんのり、ぬるかった。
ぬるさは、律子の、親指の腹の温度だった。
その温度を、千尋は、しばらく、両手で、つつんでいた。

「律子さんは、これから」と千尋は聞いた。

「妹のいる、福井のほうに行く。年寄りばっかりが住んでる町でね、また、なんか、はじめるかも」

「はじめるって」

「年寄りには、年寄りの、休憩する場所がいるから」

律子は、そう言って、すこしだけ笑った。
笑い方は、千尋が、はじめての日に、面接で、彼女から聞いた笑い方と、ほとんど、同じだった。

「あんたは」と律子は聞いた。

「まだ、わかりません」

「わからない、でいいよ」

律子は、湯呑みのなくなった机のうえを、手のひらで、一度、なでた。
なでた手のひらに、なにも残らなかった。
なにも残らない、ということが、その夜の、律子の所作の、結びだった。

 

 

外に出ると、深夜の国道は、いつもの、白い光のなかにあった。

二十四時間ドラッグストアの看板は、いつもどおりに点いていた。
信号機の青も、いつもどおりに変わった。
遠くを走るトラックのテールランプも、いつもどおりに、遠くなった。

ただ、ホテル・パライソのネオンは、消えていた。
「ライソ」が、消えていた。
消えたネオンは、いつも見えていた光が、急に、ぽっかりと、抜けたあとの、空白になっていた。
空白は、町の、ほかのどの暗さとも、ちがう暗さだった。

千尋は、湯呑みを、紙袋に入れて、抱えていた。
紙袋のなかで、湯呑みは、ほとんど、揺れなかった。
揺れない湯呑みを、千尋は、しばらく、抱えたまま、駐車場のはしに、立っていた。

国道を、トラックが一台、ゆっくり、通り過ぎた。
通り過ぎたあと、町は、また、しずかになった。
しずかな町の上に、消えたネオンの、空白の暗さだけが、すこし長く、残った。

千尋は、その暗さに、軽く、頭を下げた。
下げたつもりはなかった。
下げたあとで、下げていた、と気づいた。

歩きはじめた。
歩きはじめたあとも、すこし、振り返りそうになった。
振り返らなかった。
振り返らないことが、退室、ということだった。

 

 

四月の最初の週、千尋は、海沿いの、古いビジネスホテルに、一晩だけ、泊まった。

町から、電車で二時間、各駅停車で揺られた。
降りた駅は、海まで、歩いて十分だった。
ビジネスホテルは、駅と海のあいだの、商店街のなかにあった。
商店街は、もう、半分が、シャッターを下ろしていた。
シャッターのうえに、ネオンサインの「P」だけが残っているような、もうずっと使われていない、つぶれた喫茶店の看板があった。
千尋は、その看板を、ふっと、見上げた。
見上げたあとで、自分が、どんな看板でも、すこし、見上げる癖がついた、と気づいた。

ホテルの部屋は、四階の、海とは反対側の、商店街に面した部屋だった。
窓から海は見えなかった。
見えないかわりに、商店街の、暮れのこりの、すこしだけ橙色の街灯が、見えた。
ベッドはひとつ。
机ひとつ。
冷蔵庫ひとつ。
お湯のポット。
うすいタオル。
ぜんぶが、最低限の、そっけない部屋だった。
そっけなさが、千尋には、ちょうどよかった。

千尋は、紙袋から、湯呑みを取り出した。
机のうえに置いた。
ポットで湯を沸かした。
湯が沸くまでの音を、しばらく聞いた。
音は、家でも、パライソでも、聞いてきた音だったけれど、その夜の音は、はじめて聞く音のように、新しかった。

湯を、湯呑みに注いだ。
お茶のパックは、持ってきていなかった。
ただ、湯呑みのなかに、湯だけが、ゆっくりと満ちた。
千尋は、その湯気を、しばらく、両手で、囲んだ。
手の甲のうしろに、欠けたふちがあった。
その欠けを、親指の腹で、千尋は、ゆっくり、なぞった。
なぞる動作は、律子の動作と、ほとんど、同じになっていた。

お湯は、お茶にしないまま、すこしずつ、ぬるくなった。
ぬるくなったお湯を、千尋は、口に運んだ。
味は、なかった。
味のないお湯が、舌のうえを、ゆっくり通った。
通ったあと、千尋の喉のあたりに、すこしだけ、あたたかいものが残った。
残ったあたたかさは、律子の、親指の温度に、似ていた。

 

 

布団に入った。

仰向けになって、両手を、まっすぐ、下ろしてみた。
水2が、二〇五号室で、何度も、していた姿勢だった。
千尋は、その姿勢のまま、天井を、見上げた。
ビジネスホテルの天井は、白かった。
パライソの、海の地図のようなシミは、ここには、なかった。
なかった、というそのことが、千尋の胸の、すこし下のあたりを、ほんの少しだけ、しめつけた。
しめつけは、長くは続かなかった。
長く続かないことが、千尋を、つらくはしなかった。

目を閉じた。
目を閉じた裏側に、いくつかの、姿勢が、浮かんだ。

水2の、仰向け。
ミオの、横向きに、すこしだけ膝を曲げた、ふつうの、ひとり寝。
山科の、デニムとスウェットを、男の手で、たたんで置いていった、最後の夜。
灯の、ゴミ置き場のそばから、駐車場の出口へ、まっすぐ伸びた、はじめての影。
律子の、湯呑みを、両手で、囲んでいた、横顔。
父の、特別ではない部屋で、二時間、眠らなかった、もう二十年以上前の夜。

ぜんぶが、千尋のなかで、しずかに、並んでいた。
並んだあとで、千尋自身も、その列のいちばん、うしろに、すこしだけ、加わった。
加わったとき、千尋は、はじめて、自分のために、息を、深く、吸った。

深く吸って、深く吐いた。
息は、お腹のあたりまで、しずかに、降りた。
お腹のあたりに、お湯のあたたかさが、まだ、残っていた。

眠りが、ゆっくり、来た。
来た眠りを、千尋は、追わなかった。
追わなかったから、眠りは、千尋のほうに、やってきた。

眠るまえの、最後の、すこしの時間に、千尋は、思った。

わたしも、ここに、いた。

ここ、というのは、その夜の、商店街のうえのビジネスホテルでも、あった。
ここ、というのは、もう取り壊されはじめている、パライソでも、あった。
ここ、というのは、二十年以上前の、父が眠らなかった三〇一号室でも、あった。
ここ、というのは、千尋が、これまで、いた、すべての、部屋でもあった。

ぜんぶの「ここ」のなかで、千尋は、はじめて、自分のために、目を、閉じた。

目を閉じたあとの、しずけさのなかで、千尋は、はじめて、誰のためのものでもない、自分の眠りに、入っていった。

© 2026 無花果回 ( 2026年4月26日公開

作品集『休憩の国』最終話 (全4話)

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