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第三部 延長

休憩の国(第3話)

無花果回

四〇七号室には、誰のものでもないノートがあった。ノートは、書かれた日からずっと、誰かに読まれる日を、しずかに待っていた。千尋がそれを開いた夜、待っていたのは、ノートのほうではなかったのかもしれない。

タグ: #休憩の国 #小説 #第三部 #純文学

小説

12,456文字

一月の終わり、町に大雪が降った。

この町でこれだけの雪が積もるのは、と律子は朝のバックヤードで言った。十年ぶり、いや、もっとかもしれない。
律子はそう言いながら、湯呑みのふちを親指でなぞった。先代の遺した、欠けた湯呑みだった。

千尋は窓の外を見た。
パライソの駐車場は、輪郭がなくなっていた。
車止めも、衝立も、白いひと続きの斜面になっていた。
国道沿いの欅は、枝の又のところに雪をのせて、それぞれ別の重さで撓んでいた。
向かいの二十四時間ドラッグストアの看板も、上の三分の一が雪に埋もれていた。
ネオンの「ライソ」は、雪のうすい膜のせいで、いつもより少し白っぽく光っていた。

雪のなかでも、ホテルは開いていた。
雪のなかでも、人は来た。
雪のなかで来る人のほうが、来ない人よりも、たぶん来なくてはいけない理由を持っていた。

千尋がそのことに気づいたのは、二月の最初の水曜日に、水2が雪の駐車場を歩いてくるのを、フロントのすりガラスごしに見た朝のことだった。
雪は、水2のコートの肩に、まんべんなく積もっていた。
水2はそれを払わないまま、いつも通り、フロントを一度叩いた。
千尋は鍵を渡した。
彼が二〇五号室へ消えていったあと、フロントの内側のカウンターに、雪が一片だけ落ちて、ゆっくり水になっていった。

水になったあとも、跡は残った。
それを千尋は、しばらく見ていた。

 

 

律子が千尋に「閉めるよ」と言ったのは、その水2の朝から数えて、ちょうど三日後だった。

律子は事務机のうえで、一通の封筒を開いていた。
差出人は、町の不動産会社だった。
律子はその書類を、千尋のほうへ向け直しもせずに、ただ、机のうえに置いた。

「土地、売れたって」

千尋はその封筒を見た。
ホテル・パライソが建っている土地は、もともと先代の親族の所有だった、と律子はいつだったか言っていた。土地は人のものだから、いつかは離れる、ということを、その口ぶりは含んでいた。

「いつまでですか」

「三月いっぱい。四月の頭から、解体に入る」

「あと二か月」

「ちょっと足りない、二か月。延長だけはできるって。一週間か、十日くらい」

律子は言葉を切った。
「延長」と言うとき、律子の口が、ふっと、にがいかたちをした。

「ホテルのほうで、延長してもらってる場合じゃないよね」と律子は笑った。「お客さんに延長させてばっかりだったのに」

千尋は笑えなかった。
笑えなかったけれど、笑わなかったわけでもなかった。
なにかが、頬のあたりを、ふっと持ち上げそうになって、持ち上がらなかった。

「お客さんには」と千尋は言った。「いつ言うんですか」

「言わないよ」

「言わない」

「来たら、いつもどおりに鍵を渡す。出ていく日まで、いつもどおりに渡す。ある日、ふつうに来たら、ふつうに、もう開いてない。それでいい」

千尋はうなずかなかった。
うなずく、ということが、その朝にはひどく難しいことのように思えた。

「告知ぐらい、出さなくていいんですか」

「閉店のお知らせって、どこに貼るのよ」

律子は事務机のうえに置いてある、ピンクの紙のタオルを指でつまんだ。タオルには、ホテルの名前と、料金表が印刷されていた。

「うちの名前を、町のなかに大きく出したくない人ばっかり来てる。店が閉まりますって看板出したら、自分が来てたことを、どこかに貼り出されたみたいな気がする人がいる。そういう人を、最後の最後で恥ずかしくさせるのが、私は嫌なの」

律子は、紙のタオルをまた机に戻した。

「黙って閉めるのが、いちばん丁寧」

千尋は、しばらくそのタオルを見ていた。
お客さんを覚えないために、ノートを読まない。
お客さんを恥ずかしくさせないために、閉めることも告げない。
律子のしている仕事は、すべて、ある一定の方向に向かっていた。
その方向を、千尋は、まだうまく言葉にできなかった。

 

 

水2は、雪が解けはじめたころから、来る曜日を増やした。

水曜だけだったのが、月曜と水曜になった。
次の週には、月曜と水曜と金曜になった。
時間も、二時間からときどき三時間になった。
律子は、シフト表の右上の「水2」の文字に、横線を一本足して、「月水金2」と書き直し、また線を引いて「月水金2~3」と書いた。
書きながら、律子は何も言わなかった。
書き終えたあと、ボールペンをポケットに戻して、湯呑みを口に運んだ。

ある月曜日、二〇五号室を掃除していた千尋は、ベッドサイドの引き出しを開けた。
ハンカチが、いつもより、深いところに置かれていた。
いままでは、引き出しの手前に、少しはみ出させて置かれていた。
その日は、いちばん奥まで、ぴたりと押しこまれていた。
奥まで押しこまれたハンカチは、誰かに見つけてほしいハンカチではなかった。
誰にも見つけてほしくないけれど、置いていかなければならないハンカチ、だった。

千尋はそれを律子のところへ持っていった。
律子は、いつもどおり、何も言わずに事務机の引き出しに入れた。
入れる動作だけが、いつもより、ほんの少しだけゆっくりだった。

「奥さん、もう、たためないんじゃないですか」と千尋は聞いた。

律子は、しばらく答えなかった。

「たためない人にもね、たためないなりに、たためる時間と、たためない時間がある。たぶん今は、たたんでもらえない時間が、増えてる」

「それでも、忘れに来るんですね」

「忘れに来るっていうか、たたみに来てる」

「たたみに来てる」

「家でたたんでもらえなくなったら、誰かがたたまなきゃ、ハンカチは丸まったままなのよ」

律子はそう言って、引き出しを閉めた。

 

 

妻は、もう、ハンカチをたためなくなった。
手が、思ったところに行かない。
行こうとした手が、途中で止まる。
止まった手を、私は、上から包む。
包んだあとで、ハンカチを私がたたむ。
たたんでいるところを、妻は、笑って見ている。
笑っている顔のなかに、もう、痛みは、あまり残っていない。
時間も、あまり残っていない。
残っていない時間のなかで、ハンカチをたたむ役は、私になった。
私がたたむと、折り目が、妻のたたみ方より、すこし、うすい。
うすい折り目のついたハンカチを、ここに持ってくる。
ここに置いていく。
次に来たときに、誰かが、机の引き出しに戻してくれている。
戻してくれている、ということが、私にとっては、家のかわりになっている。
家のかわりが、もうひとつある、ということが、私を、もうすこしだけ、家にいさせてくれる。

 

 

ミオは、二月のあいだに、二回しか来なかった。

二回とも、ひとりだった。
二回とも、四〇五号室を指名した。
一度目のチェックアウトのあと、千尋が部屋に入ると、机のうえにスマートフォンが置きっぱなしだった。
画面が割れていた。
割れたまま使い続けた、というよりは、割ろうとして割った、という割れ方だった。
千尋はそれを律子のところへ持っていった。
律子はそれを引き出しに入れて、左耳のピアスたちのとなりに置いた。
翌週の朝、千尋がバックヤードに行くと、そのスマートフォンは、引き出しからなくなっていた。

「取りに来た?」

「来たよ。私が出てた朝に。寝起きのまんまの顔で」

「寝起きのまんまの顔」

「ここにそういう顔で来る子は、たいてい、もう自分の家じゃ寝てない」

律子はそう言って、引き出しを閉めた。

二度目のときは、ミオはピアスを片方も忘れなかった。
じゅうたんに靴の跡もつかなかった。
ベッドのシーツに、ひとり分の沈みだけがあった。
仰向けで両手をまっすぐ下ろしたまま、長いあいだ動かなかった人の沈みだった。
水2のシーツの沈みと、よく似ていた。
千尋はそれを、しばらく上から見ていた。

 

 

わたしは、写真を撮るのを、やめた。
撮らないから、見るものがなくなった。
見るものがないと、わたしも、ちゃんといるかどうか、わからなくなった。
わからないから、ここに来た。
ここでは、ちゃんといなくてもよかった。
いなくてもいいことが、こんなに楽だとは、知らなかった。
仰向けになって、天井を見た。
天井は、わたしを撮らなかった。
わたしも、自分を撮らなかった。
撮らないあいだ、わたしは、すこしだけ、わたしになった。
わたしになった、というのは、わたしのかたちを思い出した、ということだ。
思い出したあとで、また、忘れるかもしれない。
忘れるたびに、ここに来ればいい。
ここに来れば、忘れたわたしを、置いていける。
置いていけば、また、すこしだけ、軽くなる。

 

 

山科の三〇四号室の灰皿には、その冬、新しい吸い殻が増えなくなっていた。

山科は来ていた。来ていたが、煙草を吸わなくなっていた。
灰皿には、最後に山科が来たときの、二、三本の吸い殻が、ずっと同じ姿勢で残ったままだった。
千尋は、その吸い殻をいつ片づけるべきか、わからなくなった。
片づけてしまうと、山科の兄が、もう一度、家族のなかから消えていくような気がした。
律子に聞いた。
律子は、しばらく考えてから、こう言った。

「片づけないでいい。あの灰皿のぶんだけは、お客さんのものだと思ってて」

「お客さんのもの」

「うちで提供してる灰皿だけど、あの灰皿は、もうちょっとあの人のもの」

千尋は、その日から、三〇四号室の灰皿だけは、吸い殻を残したまま、灰皿の縁だけを拭くようになった。
縁だけを拭くと、底のほうに、フィルターのうすい黄色がいつまでも残った。
そのフィルターの色は、千尋の父が生前、台所のテーブルのうえに置いていた、煙草の箱のかたわらの灰皿の色と、同じだった。

千尋は、その夜、清掃のあと、エプロンのポケットに手を入れた。
ポケットの底に、丸めたティッシュがあった。
そのティッシュを取り出して、まっすぐに広げた。
広げたティッシュには、何も書かれていなかった。
何も書かれていないティッシュを、千尋は、しばらく見つめていた。
見つめながら、自分の父のことを、いつぶりに、こんな風に思い出したのか、と思った。
いつぶりかを数えはじめて、すぐに、数えられないことに気づいた。
数えられないことが、悪いことのようには、もう、思えなかった。

 

 

弟は、私を許していない。
許していない、ということを、弟はもう、わざわざ言わなくなった。
言わなくなった、ということが、いちばん深い、許していない、だった。
兄の遺品は、私が、ぜんぶ捨てた。
捨てるとき、弟と一緒に捨てた。
弟は、捨てる前に、兄のシャツを、二枚だけ、こっそり持ち出していた。
それを私は知っていた。
知っていたけれど、何も言わなかった。
何も言わなかったことを、私は今も、毎日、思い出している。
兄のシャツを、私はこの部屋で着ている。
着ているあいだ、私は、弟になる。
弟が二枚持ち出した、その持ち出しの内側に、私は、いる。
弟は私を許さない。
許さない弟の場所に、私は、ここで、いる。
もうすぐ、ここがなくなる、ということを、私は、まだ知らない。
知らないままで、私は、ここで弟をやっている。
弟をやっているあいだだけ、私は、兄に、ほんとうに会えている気がする。

 

 

灯は、雪が積もった日にも、裏口に来ていた。

雪のうえに、彼女のスニーカーの跡が、ゴミ置き場のそばまで一本道になっていた。
その日、千尋は灯のとなりに、コンビニで買った熱いお茶のペットボトルを、何も言わずに置いた。
灯は、それを少しだけ手で温めて、飲まなかった。
飲まないまま、ペットボトルが冷めるまで、もっていた。

「冷めましたね」と灯は最後に言った。

「冷めたね」

「こうして冷めたほうが、もらいやすいかもしれない」

「もらいやすい」

「熱いままだと、すぐ飲まなきゃ悪いみたいで」

灯はそう言って、冷めたお茶を、ゆっくりと飲んだ。

飲み終わると、ペットボトルのキャップを丁寧に閉めて、空のペットボトルを、はじめてゴミ置き場のかごに入れた。
千尋は、それを横目で見ていた。
灯は、そのことに気づかれたくないかのように、自分で「あ」と小さく言って、すぐに「いいか」と続けた。
いいか、と灯は言った。
いい、と決めるのではなく、いいか、と疑問の形で言った。
その「か」の語尾が、雪のうえで、すこしだけ反り返った。

千尋は、灯のスニーカーの跡が、もう一本、別の方向に向かう日を、ぼんやり想像した。
その日が、近いのか、遠いのか、千尋にはわからなかった。
わからないことが、悪いこととは思えなかった。
ただ、その日まで、自分はここで掃除をしていたい、と千尋は思った。
ここがある日まで、自分はここで掃除をしていたい。
その「ここがある日まで」のあいまいさが、千尋の胸のすこし下のあたりで、長く、ふくらんだ。

 

 

その晩、清掃が早く終わった日に、千尋はバックヤードで律子と二人になった。

律子は、湯呑みの欠けを親指でなぞっていた。

「律子さん」と千尋は言った。「四〇七のノート、読んでもいいですか」

律子は、欠けから親指を離した。

「読みたくなったの」

「読みたくなりました」

律子は、湯呑みを置いた。
置いたあとで、もう一度、湯呑みを見た。
それから、千尋を見た。

「マスターキー、わたしてあるよね」

「はい」

「鍵は閉めなくていい。閉まってないから」

「閉まってない」

「先代が亡くなってから、閉めてない。あの部屋だけは」

千尋は、その意味を問い返さなかった。
問い返さないことが、四〇七にとっての作法のような気がした。

「ノートは、ベッドサイドの引き出しの、いちばん下」と律子は言った。「鉛筆もいっしょに入ってる。鉛筆は、芯が折れたら、新しいのに替える。お客さんは、字を書くために来てるんじゃないから、書きやすければいいわけじゃない。書きにくいぐらいで、ちょうどいい」

「鉛筆」

「ボールペンだと、間違えても消せない。あの部屋では、間違えていい」

千尋は、そのまま立ちあがった。

「いってきます」と言った。

「いってらっしゃい」と律子は言った。

いってきます、と、いってらっしゃいの間に、ふだんよりも、すこし長い、間合いがあった。

 

 

四階の廊下は、深夜の電球がひとつ切れていて、いつもより薄暗かった。

千尋は、四〇七号室のドアの前に立った。
ノブには、いつかの夜に自分の手のひらの熱を残した、その記憶があった。
今夜は、ノブをまわした。
まわすと、ノブはあっけないほど軽くまわった。
律子の言ったとおり、鍵は閉まっていなかった。

ドアを開けると、空気は乾いていた。
ほかの部屋のような湿気がなかった。
長く誰も呼吸していない部屋の空気だった。
それでも、闇のなかには、ほのかな墨のような匂いがあった。
鉛筆の匂いだった。

千尋は照明をつけた。
部屋は、ほかの部屋とほとんど同じ造りだった。
ベッド。机。鏡。冷蔵庫。バスルームのドア。
壁紙のうすいピンクは、ほかの部屋より、すこし褪せていた。
褪せていたけれど、汚れていなかった。
律子が定期的に手を入れていることが、わかった。

ベッドのうえには、布団が、誰もが使っていない畳まれ方で、整っていた。
そのうえに、小さく丸い、頭の沈みのあとが、ひとつだけあった。
誰の沈みかは、わからなかった。
わからない沈みのうえを、千尋は、なるべく見ないようにして、ベッドサイドの引き出しの前へ歩いた。

いちばん下の引き出しを開けた。
律子の言ったとおりだった。
うすい、B6ほどのノートが一冊、表紙のすこし反り返った状態で入っていた。
鉛筆が、削りたての、まだ短くない一本と、もう半分まで使われた一本と、芯の折れた一本が、輪ゴムで束ねられて、いっしょに入っていた。
ノートには、表紙にも、背にも、何も書かれていなかった。
書かれていない表紙が、長く部屋のなかで、ひとり待っていた。

千尋は、ノートを取り出した。
ベッドの端に座った。
座ったベッドは、思ったよりも、すこし沈んだ。
その沈みのなかに、自分の体重を預けた。
預けながら、ノートを開いた。

 

 

最初のページは、白かった。
二ページ目から、文字があった。

筆跡は、毎ページ、ちがった。

ある人は、几帳面な楷書で書いていた。
ある人は、流れるような行書で書いていた。
ある人は、子どものような大きな字で書いていた。
ある人は、最後の行になるにつれて文字が小さくなって、消えていくように書いていた。

名前を書いている人は、ひとりもいなかった。
日付を書いている人も、ほとんどいなかった。
書かれていたのは、文だった。
ほとんどが短い文だった。
長い文を書いた人もいた。長い文を書いた人も、最後は短い文で終わっていた。

千尋は、最初のほうのページから、ゆっくり読んでいった。

あるページ。

今夜は、誰にも見られていない夜だった。
誰にも見られていない夜が、こんなに、ありがたいとは思わなかった。

あるページ。

子どもが、小学校に上がる。
その日の朝、私はもう、家にいないかもしれない。
いないかもしれない私が、いまここで、こうして書いている。
書いていることが、すこしだけ、私を、家にいさせてくれている。

あるページ。

夫を、まだ、好きでいたい。
好きでいたいから、ここに来た。
ここで一晩、好きじゃない夫から、離れる。
離れたあとで、もう一度、好きな夫の顔を、思い出す。
思い出してから、家に帰る。

あるページ。

父が死んだ日、私はちょうど、寝てしまった。
病院から電話が来たのに、出なかった。
出ていたら、間に合ったかどうかは、わからない。
わからないけれど、間に合わなかった、ということだけが、私のなかに、残った。
その残ったものを、ここで、いったん、寝かせている。

千尋は、そのページのところで、息を浅くした。
浅くしてから、ページをめくった。
めくったあと、もう一度、戻った。
戻ってから、また、めくった。

いくつかのページを過ぎた。
いくつかの、知らない人の声を、千尋は受けとった。
受けとった、と感じることに、罪のような感覚はなかった。
ただ、受けとった、というだけだった。
書いた人たちは、誰かに受けとられるためでなく、ただ書くために、書いていた。
書くだけで、半分は、もう手放されていた。
手放されたものを、千尋は、横で拾っているようなものだった。
拾ったあとで、またそっと、同じ場所に戻していくつもりだった。

ノートの真ん中あたりに、その文字はあった。

千尋は、すぐには気づかなかった。
他のページと同じように、ふつうに読みはじめた。
読みはじめてから、文字のかたちが、目の慣れている、なつかしいかたちであることに気づいた。
気づいた瞬間、ページを支えている指のさきが、わずかに冷たくなった。

その筆跡は、千尋の父のものだった。

父は、字を書くとき、横棒をすこし右上がりに引く癖があった。
はね、をすこし長めに残す癖があった。
「し」の字を、ふつうの人より少し縦長に書く癖があった。
千尋が小学生のころ、家庭連絡簿に書かれていた父の字を、千尋は何度も見ていた。
見ていた、ということを、千尋は、ふだんは思い出さなかった。
思い出さないままに、目の奥に残っていた癖が、ノートのうえで、ふいに、整列した。

書かれていたのは、こうだった。

仕事のあと、家に帰る前に、ここに寄る。
家に帰ると、すぐに眠ってしまう。
眠ったまま朝になる。
朝になると、もう、仕事に行かなければならない。
ここに寄ると、眠らないでいられる時間が、二時間だけ、ある。
眠らないでいられる二時間のあいだに、私は、自分が今日、どこにいたかを、思い出す。
思い出してから、家に帰る。
家には、妻と、娘が、寝ている。
寝ている娘の横を通って、私は、私の布団に入る。
入ったら、また、すぐ眠る。
眠るあいだ、私は、今日、どこにいたかを、もう忘れている。
ここに寄らないと、私は、自分が誰かわからないまま、眠ってしまう。
誰かわからないまま眠るのは、きっと、よくないことだ。
よくないことを、私は、家ではなく、ここで、ひとつだけ、引き受けている。

千尋は、そのページを、長く見ていた。

ページの右上に、ごく小さく、鉛筆で、ある日付が書かれていた。
ほかのページにはないものだった。
ふだん日付を書かない人が、その日にだけ書いた日付だった。

千尋は、その日付を見た。
その日付は、千尋が中学一年生の、秋の日付だった。
父が、まだ生きていたころの日付だった。
父が、まだ生きていて、家に帰れば、娘が寝ていた、ころの日付だった。

千尋は、ノートを閉じた。
閉じてから、もう一度、開いた。
開いて、また、閉じた。
その繰り返しのあいだに、千尋の頬を、ほんの一筋、つたうものがあった。
つたうもののかたちは、まくらの汗のかたちには、似ていなかった。
もっと不規則で、輪郭のにじむ、ものだった。
千尋は、それを手の甲で、丁寧に拭った。
拭ったあとで、自分が、いつぶりに、こうして拭ったのか、と思った。
いつぶりかは、思い出さなくてよかった。
思い出さなくてよいことが、ひとつだけ、増えた、ということだった。

 

 

千尋は、ノートを引き出しに戻した。
戻しながら、ノートのほかの部分も、ぱらぱらと指で送った。
父の字は、その一ページだけだった。
ほかのページに、父の字はなかった。
一度きりだった。

一度きりだったから、千尋は、父がここに何度通っていたかは、わからなかった。
父が、何度も通っていて、書いたのが一度だけなのか、通ったのも書いたのも一度きりだったのか、わからなかった。
わからないことが、千尋にはむしろ、ありがたかった。
わからない父を、わかるようにしないでおく、ということが、その夜の千尋には、できることのすべてだった。

ベッドの端から立ち上がった。
立ち上がるとき、布団の頭の沈みに、自分の腰のあたりがすこし触れた。
触れた感じは、誰の沈みにも似ていなかった。
ただ、誰かの沈みだった、ということだけが、わかった。

部屋の照明を消した。
消したあとも、闇のなかに、鉛筆の匂いが、わずかに残った。
その匂いを、千尋は息で吸って、息で吐いた。
吸って、吐いたあとで、ドアを閉めた。

ドアの前に立って、ノブから手を離した。
手のひらの熱は、もう、ノブに残らないほど、千尋の体は冷えていた。
冷えていたけれど、寒くは感じなかった。

 

 

翌朝、千尋は律子に、父のことを話した。

話す、というほどのことではなかった。
ノートに、父の字があった、とだけ言った。

律子は、湯呑みを口に運ぶ手をとめなかった。
とめないまま、ぬるくなったお茶を一口飲んだ。

「お父さん、来てたよ」

律子は、知っていた。

「いつ気づいたんですか」

「あんたが入って来た最初の日。名乗られて、あ、と思った」

「あ、と」

「字とね、横顔と。お父さん、横顔のとき、あごのあたりに、すこし力が入る人だったでしょ」

千尋は、それを言われて、はじめて、父の横顔を、ふっと思い出した。
あごのあたり、というところまでは、思い出していなかった。
律子のほうが、千尋より、父の横顔を覚えていた。

「だから、あんたを、入れた」

「入れた」

「こういう仕事は、人を選ぶの。私は、来た人をぜんぶ採るわけじゃない。あんたは、来てくれてよかった」

律子は、湯呑みを置いた。

「お父さんね、ひとりで来てたよ」

「ひとりで」

「ずっと、ひとりで。三〇一号室。二時間。二か月に一度ぐらいの間隔で。何年か続いた」

千尋は、三〇一号室、と心のなかで繰り返した。
三〇一号室は、いつも誰かが使っていて、特別な部屋ではなかった。
特別ではない部屋を、父は、選んでいた。
特別ではない部屋で、二時間、眠らなかった。
眠らないで、ノートに、一度だけ、書いた。
書いたあとは、また、特別ではない部屋に戻って、二時間後に、家に帰った。
帰った家で、娘が寝ていた。
寝ている娘の横を、足音を立てずに通った。
通った先の布団で、また、眠った。
眠ったあと、朝になって、仕事に行った。
その繰り返しの、たぶん、何十回かのうちの一回だけ、父はノートに字を残した。

「最後にお父さん、来たのは、亡くなる、半年くらい前だったかな」と律子は言った。

「亡くなる前に、一度だけ来たんですか」

「半年前のあとは、来なかった。半年あいだが空いて、年明けの新聞で、お悔やみが出てて、そのとき私、ああ、と思った」

律子は、湯呑みのふちの欠けに、また親指を当てた。

「来なくなった人を、待たないこと。それが、こっち側の作法。私は、お父さんを、待たなかった。新聞を見るまで、待たなかった。新聞を見たあとも、ながく、悲しまなかった」

「悲しまなかったんですか」

「悲しんでも、お父さんは、もう、ここに来ないからね」

律子はそう言って、ぬるいお茶を飲み干した。

「今は、すこし、悲しんでもいい」

「今は、と」

「あんたが来てくれたから。お父さんが、ぜんぶ、わかんないままに、消えていったわけじゃない、ってことになったから」

千尋は、うなずかなかった。
うなずく代わりに、目を閉じた。
目を閉じた裏側で、父の横顔の、あごのあたりが、すこしだけ、力を入れた。

 

 

その日から、千尋は、ホテルが閉まるまでの日々を、すこしずつ、長く感じはじめた。

時計の針はふつうに動いていた。
日めくりも、ふつうに減っていった。
けれど、日々のひとつひとつのあいだに、千尋は、これまでになかった、すこしの「ひだ」を感じるようになった。
ひだは、時間が引き伸ばされる感覚だった。
引き伸ばされた時間のなかで、千尋は、ホテル・パライソというこの場所が、少しずつ、自分の体のほうへ移動してきているのを感じた。

水2は、雪が完全に溶けたころ、月水金から、火木にも来るようになった。
来るたびに、ハンカチの折り目は、すこしずつ、うすくなっていた。
ある朝、奥に押しこまれていたハンカチは、もう、たたまれていなかった。
四つ折りの折り目は残っていたが、四つ折りの形からは、外れていた。
たぶん、彼自身が、自分でたたむ練習をはじめていた。

ミオは、ある夜、はじめて、ふつうのチェックインをした。
ふつうの、というのは、誰かと一緒に来た、という意味ではなかった。
ひとりで来て、ふつうに、寝るために来た、という意味だった。
四〇五号室を、ミオは指名しなかった。
律子が割り当てたのは、二〇八号室だった。
二〇八号室は、鏡が部屋の真正面にはなかった。
ミオはそのことに、なにも言わなかった。

山科は、ある夜、三〇四号室を出るときに、はじめて、煙草の箱を、灰皿の横に置いていった。
箱は空ではなかった。
まだ三、四本、入っていた。
千尋は、それを律子のところへ持っていった。

「これは、忘れ物ですか」

「これは、卒業」と律子は言った。

「卒業」

「兄のかわりに吸ってた銘柄を、置いていった、ってこと」

「もう、吸わない、ってことですか」

「吸うか、吸わないかは、わからない。けど、ここに置いていく、ってことは、ここに、もう兄を呼ばないってこと」

律子は、その箱を、引き出しではなく、ラックの、兄のシャツがかかっていたハンガーの根元のところに、すべりこませるように置いた。
ラックの服たちは、ミオの充電器や、ピアスたちと同じように、しずかに掛かっていた。

灯は、二月の終わりから、裏口に来なくなった。
来ていない、という日が、まず一日、あった。
次に、二日、あった。
千尋は、来なくなったことを、最初は心配した。
心配したあとで、こう思った。
灯は、来ない、ということを、選んだのかもしれない、と。

来る、ことだけが、ここにくる、ということではなかった。
来ない、ということもまた、ここにくる、ということだった。
ここに来ない、という形で、灯は、ここに、いた。

千尋は、その夕方、コンビニで、おにぎりを一つ、ふだんより多く買った。
多く買ったおにぎりを、千尋は、自分で食べた。
自分で食べたおにぎりは、すこし、しょっぱかった。
しょっぱさは、だれかに分けるためのしょっぱさではなく、自分のためのしょっぱさだった。

 

 

三月になった。

町の街路樹に、まだ芽は出ていなかった。
欅の枝の又のところには、もう、雪はなかった。
雪があったところには、雪が乾いた、白っぽい筋だけが残っていた。
その筋も、雨が一度降れば、消える筋だった。

ホテル・パライソの「ライソ」のネオンは、雪が解けたあとも、いつもどおりに点いていた。
点いていたけれど、千尋は、その光のなかに、これまでとは違う、すこしの黄色みを感じはじめていた。
黄色みは、ネオン管の寿命が、近づいていることを、ひかえめに告げる色だった。

水2は、来週も来る。
ミオも、来る、かもしれない。
山科は、もう三〇四号室で、煙草を吸わない。
灯は、来ない、という形で、来ている。

千尋は、毎日、ホテルの清掃をつづけた。
四〇七号室にも、いまは、ふつうに入るようになっていた。
ふつうに入って、ふつうに掃除をして、ノートには手をふれずに、引き出しを閉めて、出てきた。
ノートは、もう、千尋の読むためのノートではなくなっていた。
千尋にとっては、もう一度開かないことが、開きつづけることになる、種類のノートだった。

ある夜、清掃が終わって、千尋は四〇七のドアを閉めるとき、ドアにむけて、ほんの少し、頭を下げた。
下げたつもりはなかった。
下げたあとで、下げていた、と気づいた。

階段を降りながら、千尋は思った。
お父さん。
声には出さなかった。
声にしないままで、その五音は、千尋の口のなかで、すこし湿った。

湿った五音を、千尋は、そのまま呑みこんだ。
呑みこんだあとも、口のなかには、湿りが、しばらく残った。

 

 

その晩、千尋は外に出た。
国道は、夜の白い光のなかにあった。
二十四時間ドラッグストアの看板。
信号機の青。
遠くを走るトラックのテールランプ。
パライソのネオンの、すこし黄色みのかかった「ライソ」。

歩く影が、アスファルトのうえに伸びた。
ひとり分の影だった。
働きはじめた日も、晩秋の夜も、おなじ、ひとり分だった。
ただ、その影のなかに、もう、ひとり分以上の、なにかが、あった。
その「なにか」を、千尋は、これからの一か月のあいだに、すこしずつ、見つけていくのかもしれなかった。
見つけていくあいだに、ホテルは閉まる。
閉まったあと、千尋には、自分のために休憩する場所が、まだない。
まだないけれど、ない、ということを知っているということが、ある、ということに、もうすこしで、なりかかっていた。

国道を、トラックが一台、ゆっくり、通り過ぎた。
通り過ぎたあと、町は、また、しずかになった。
しずかになった町のなかで、千尋は、あと、もう一回、二回、三回と、フロントを叩く客の音を、想像した。
二度叩く客がいた。
二度叩く、ということは、延長、ということだった。
いまのこの一か月は、ホテル・パライソが、自分自身に向けて、二度叩いている、その音のなかにあった。

二度叩く音が、しずかな町のうえを、わずかにふるわせていた。

© 2026 無花果回 ( 2026年4月26日公開

作品集『休憩の国』最新話 (全3話)

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