ホテルの暗い部屋に入るなり、シシバミは男の喉笛にかぶりついて息の根を止めた。カーペットに血だまりを広げないように唇で受け止めながら、力なく倒れようとする重たい体を自分の腰に抱き寄せる。抱擁にも似た二人の格好は、まるで官能的なアルゼンチンタンゴを踊っているかのようだった。血液はいくら飲んでも追いつかないほどこぼれてきて、ついには唇のはしからあふれ出す。温めてスパイスで風味を加えたワインのようなその味は、シシバミを狂わせ、ますます食欲を駆り立てた。
バスルームにひきずりこまれ、あれよあれよという間にシシバミの餌食になったその男は、ナイモンでさくっと引っかけただけで本名すらわからない。年齢は三十代前半といったところ。ジム通いをしているのか、肉は筋肉質で固かった。シシバミが歯を突き立てると力強く押し返し、噛みしめるたびにうま味の詰まった汁気がにじみ出た。
セックスの相手としてはこの男のように鍛えているほうが魅力的なのだろうが、本当はもう少し脂身のあるほうが柔らかくて食べやすい。歯ごたえがあって噛めば噛むほど味わいが増す赤身肉と、舌の上で脂が勝手にほどけていく霜降り肉の違いだといったら理解してもらえるだろうか。肉がつきすぎると臭いがきつくなる男もいるから、ほどほどの限度内である必要はあるのだけれど。
一方、男の容貌のよしあしはシシバミにとってまったく問題ではなかった。桃の皮のような柔らかい表面をかじりとってしまえば、あとは誰でも赤身と黄色っぽい脂身、ぶよぶよした食感をもつ諸々の臓器とクリスピーな骨の塊にすぎない。胃や腸をすすると男が前に食べたものの味のなごりを感じられるから、消化途中のむせ返るような便さえも一心不乱に口に運んだ。ものの二、三時間もあれば、あますところなくシシバミの腹のなかに収まってしまう。
アプリで探せば、この男のようにワンナイトめあてでマッチングを成立させるゲイはごまんといる。ほとんどが独身者だから、姿を消しても即日家族が騒ぎ出すなんてことはまれだ。シシバミにしてみれば、あとくされなく捕食できる獲物だった。どんな前世の因果で人肉食に生まれついたかは知らないが、そう生まれついてしまったからには食べて生きていかないといけない。獲物への同情やためらいは、飢えに直結した死活問題にだってなりうるのだ。
満腹になったシシバミは、シャワーで血を洗い流したあと、満月のあかりで青白く光るしわ一つないベッドの上に腰かけて二本立てつづけにタバコを吸った。ただのぬけがらになった男の服や靴は、紙袋に詰めてもち帰ったうえで処分する。二本の吸いがらだけは部屋の灰皿に残しておくのがきまりだ。
シシバミを人に含めるかどうかは別として、人が二人いた痕跡を部屋に残すのはシシバミにとって儀式のようなものだった。供養と呼べるほどのことではないが、どんな人間だって最後に存在していた場所を示す目じるしがあってしかるべきだ。シシバミはそう考えていた。たとえそれが、演奏を終えた楽団が残す余韻のようにすぐに消えてしまう目じるしだったとしても、誰かがそこにいたささやかな証をとどめておきたかった。シシバミがため息のように吐き出した煙の影は、音もなく揺れながら天井の暗闇に消えていった。
シシバミが最初に人間を食べたのは、高校一年生のときだった。満月が近づくたびに襲いかかる、するどく理不尽な飢えは以前からはじまっていたが、それまではほかの人間と同じ食べ物を食べてなんとかもちこたえていた。当時はそれが月の満ち欠けと相関しているらしいことや、人間の肉を求める飢餓であること、そもそもそれが飢えの感覚であることすらわかっていなかった。だから不条理な苦痛というかたちをとってその飢えがやってくるたびに、シシバミはただただ怖くてしょうがなかった。一夜の嵐に一年間の収穫を奪われる農夫と同じく、なすすべもなくじっと身を伏せて耐えるほかなかった。
医者にみせたところでどうしようもない種類の苦痛であることだけは、はっきり理解していた。この苦痛は穢れと呼ぶべきたぐいのものだ。シシバミは、そう直感していた。自分の体のなかに巣くっているのは忌まわしい穢れであり、その穢れはもうすぐ自分を内側から丸のみにしてしまうにちがいない。そのときこそ、彼が彼でなくなってしまう瞬間だった。
シシバミが飢えと教室の窮屈さで息が詰まりそうになったとき、一緒に授業をサボって外に連れ出してくれたのが夏陽だった。夏陽とシシバミは中学校のときからの悪友だった。バックパッカーになって地球の裏側まで旅するのが十代の目標だと夏陽はよくシシバミに話したが、それにむけて貯金をしたり、英語を勉強したりといった努力をしている様子はまったくなかった。地理の授業はいつも机につっぷして寝ていたから、たぶん地球の裏側がどんなところなのかさえわかっていなかっただろう。
シシバミに悪徳を教えるのは、いつも夏陽の役割だった。きつい赤のマールボロの味をシシバミにおぼえさせたのも彼だった。
「一口でいいから吸ってみろって。気分がスーッてするから」
校舎の非常階段に腰かけて、夏陽はシシバミに吸いさしのマールボロを差し出した。ぬるい午後の風に運ばれた煙がシシバミの目にしみた。夏陽は唇の横にえくぼを浮かべ、意地悪な笑顔をみせた。ケーキを彩る色つきの粉砂糖のように赤いニキビが顔全体にまぶされていたが、もともと中性的な整った顔立ちである。悪意のある表情さえも、まぶしく輝いてみえた。
人間のタバコがシシバミの体にどのくらいの効果があるのかは知らない。だが、夏陽から渡されたタバコをくわえているだけで、シシバミは全身を暴れまわる飢えが少しだけ遠のいていく気がした。セミの執拗な鳴き声も、太陽に灼かれたコンクリートの非常階段から尻に伝わる熱も、今この瞬間だけに意識を集中させてくれた。口のなかにたまった煙を吸いこむと、刺すような痛みが喉や肺の奥に広がった。涙が出るほどの痛みは、シシバミをさいなむ別の苦痛を忘れさせてくれる恩寵だった。
「おい、一人で全部吸う気か?」と言って、夏陽はふっと笑った。シシバミの指からタバコを受けとると、彼はそれを自分の唇に運んだ。不慣れな剃刀で荒れた口もとにえくぼが浅く浮かんで、はにかむように消えていった。
二人が思いがけず性的な一線を越えることになったのは、たぶん愛によるものではなかったのだろう。シシバミが忌まわしい飢えをもてあまして途方に暮れていたように、夏陽も体のなかで暴れ狂う十代の性欲をどう扱っていいかわからなかったのかもしれない。あるとき、放課後のトイレで連れションをした直後、いきなり夏陽がシシバミを個室にひっぱりこんで鍵をかけた。
「え、何?」
「あのさ、朝からずっとこんな感じなんだけど、どうしたらいい?」
夏陽が片手でベルトのバックルを外してズボンと下着をひっぱり下ろすと、彼の股間があらわになった。女のように白くすべすべした下腹部の肌に、やわらかな陰毛が翳りを与えている。しかし、そのたおやかな草原の景色を切り裂くように、赤黒く勃起したペニスが不格好に突き出して頭を天にむけていた。
「そんなの、みせんなって!」と、シシバミは顔をそむけて言った。「自分で処理すりゃいいだろ」
「したよ! 朝に二回、昼休みにも二回! だけど、ずっとギンギンだし、一人じゃもう限界だよ。なんなんだ、これ? おれの体の一部なのに全然おれの思うようになんねえし、こんな状態になるとほかのことは何ひとつ考えれない。自分が自分じゃなくなったみたいだ」
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