みんなでテレビを見ていた。半田のノートパソコンでYouTubeを見ることもあるけれど、たいがいテレビだった。保健所の殺処分を回避しようとする運動が悲鳴を上げていた。
その施設は送られて来た犬でごった返していた。ぎゅう詰めの檻の中で病気が蔓延していた。血便が床を塗りたくっていた。関係者は疲弊し切っていた。報道のカメラは神のようにじっと目だけを向けていた。
今は別の家族が住んでいる、前の家で飼っていた犬は、一家の崩壊に際して飼い続けられなくなった。父が奈良に老夫婦の里親を見つけたと言って連れて行った。母と姉と私が移り住んだ借家へ、「つつがなく受け渡した」と報告に来た。
小六の時、父の金を盗んだ。クラスメイトに手伝ってもらって使い果たした。手伝ってもらったために露顕して学校で問題になったが盗んでないと言い張った。問い詰める教師は私が目を見つめて話すために「嘘ついとる人間は目を逸らすもんや」と信じた。
財布にはち切れんばかりだったピン札が借金であったと知るのはのちだった。家の電話線は抜かれ、セダンが家の前に停まっていた。学校から帰って来ると「お父さんどこ?」と聞かれた。本当に知らなかった。夜中に執拗に玄関をノックされた。尖ったドライバーを持ってバス停まで姉を迎えに行っていたのもまだ小六だった。爾来私たちきょうだいは電話の音やインターホンや、とりわけノックが今でもこわい。
私の小学六年はまた、弱い者いじめをした時期でもあった。学生時代には養護学校の教師を目指していた母の教育で、灰谷健次郎を読んでいた。そして、なぜかそうなった。
隣のクラスの担任のまだ若造な教師から情熱的に叱られたのなんぞよりも、養護学級の先生のおじさんが叱らず、ただ寂しそうな笑みを浮かべたのが耐えられなかった。この学校で好きだと思う人間はこの人と図工の先生だけだった。
末っ子の私は「ぼくは誰をいじめたらいいの」と母に聞いたらしい。いかにも可哀相だが、そこで殺しておかなければならなかった。
罰は受けた。私自身、もっとひどい目に遭ったこと。おのれがそういう存在であるということ。もっと悪い奴が罰を受けていないということ。来世では虫に生まれるかもしれないこと。時効はないこと。
今からでも投獄してくれれば贖い得るのに自首したとしても逮捕はしてくれないこと。謝罪もできないこと。
鬱病。パニック障害。罰は受けた。しかし主観的の私的な罰だ。勝手に受けたものだ。本当の罰はこれから受けるだろう。
母が諸々の返済を終え、他市のマンションに引っ越して、友人たちとは疎遠になった。
そのマンションで、私と母は同じ朝に、飼い切れなかった犬の夢を見た。私は、ひたすらなでている夢。母は、玄関に訪ねて来た彼女が焼けて子犬になる夢。その夢を見た頃、生きていれば十六才くらいだった。この朝私と母は、そうか、あの子死んだんやと言い合ったが、真相はわからぬ。父が見つけた奈良の里親とやらに私たちは会っていなかった。
今テレビに映っている犬たちはいつまでも貰い手が出なかった。私の犬は、生きていれば今では二十二、三才くらいか。いずれにせよ、もう確実にいないだろう。
あの時真実では父がどこに連れて行ったにせよ、私は死んだら彼女に会いたい。許してくれるのだろう。再会を痛ましいほど嬉しがるんだろう。ちぎれんばかりに尻尾を振るんだろう。犬はそうだ。世界中で犬だけだ。犬が人間の最大の罪だ。
いつかテレビで、かつて飼った犬たちのお墓を作っていて、自分もそこに眠るつもりだと言っている人がいた。ここで私の多動児の名残は即座に、あの世で飼い犬たちに八つ裂きにされるその人を想像するが、誓ってそんなことは考えるのもイヤなのだ。保育所時分、虫封じをされても治らなんだ自傷癖だ。思考はうるさ過ぎる。時にはとても耐え切れぬ。
今、保健所から送られて来る犬たちの、たくさんの痛ましい吠え声を聞いていてあまりに寒い。みんな黙って見つめていた。
やがて欧米に比べて遅れている慈善精神というような吠え声だった。我々の沈黙がそれだ。しかしこれは遅れているのか。舶来の饒舌が合わないだけではないのか。じゃあ何が合うのか。無常。かむながら言挙げせぬこと。ただ不浄なる黄泉を思い、死をただ歎き、ただ悲しむこと。寡黙。
現に今テレビを見ている若い我々も、何か口ごもらしめられるものがある。あんがい誰でも、外ではあれやこれやと言う人も、家ではこんなものではないのか。善し悪しはわからぬが好悪はハッキリしている。あんまりしゃべるな。然り、もっと黙って欲しい。助けずに歎いて欲しい。いやそう言葉にすればまた激しく違うけれども。私の時はほっといてくれと願う。そういうかたちで激しく助けて欲しい。いざその段に臨んだ未来の私が前言撤回していたら、もうその他人をどうこうして欲しいと願う権利はないけれども。
あふれ返る犬たちの解決を悪魔にゆだねざるを得なくなる時を先延ばしし続けるのが天下の義務だ。我々は穴蔵の中で、善意や救済に究極の慈愛が合致する時を待つ。平和的に人口が激減する時を待つ。私の寿命が間に合わなければ悲しいし、その時よりもあとに生まれて来たかった。
解決が悪魔にゆだねられた場合は言うまでもなく食料化だ。スウィフトにダブリンかエディンバラかの(本も捨てて来たからこんな簡単な確認ももうできぬ。)生まれ過ぎる貧民の子を食料にする考察があった。むろん駄法螺だ。神々のためのユーモアのようなことだ。こういったたぐいのブラックユーモアが純粋な本音になる時が来るであろうか。来ればぜひとも参加して、力の限り敗北し、炎に包まれて「やったよママ、世界一だ!」と叫びながら爆発したい。しかしこの圧倒的な最期、『白熱』(1949)のジェームズ・キャグニーのような絶対的なママを私はまだ持たぬ。
摘出せられた母が臓器を執刀の医学生から見せられ、長々と説明を受けた三十分後に喫茶店でオムライスを食べていた私の心は死んでいる。多めに飲んでいた薬に昏睡させられながら心はどこかで悲鳴を上げていたろうか。私の中の少年は子ども時代の墓の中から両手を突き出してぶるぶる震わせていたろうか。
しかし私はオムライスを食べた。行動の予定を決めねば外出できず、決められていたものへ機械的に従った結果だとしても。そして母親の子宮と卵巣の死骸を見ながら何の懐かしさも覚えなんだことは解剖学の誤謬を明らめていた。
(まだ犬の吠え声は続いている。)
スウィフトの晩年発狂と駄法螺との関係はあろうか。あるなら私の魂はそこにどっぷり浴している。口にすべきでないことを言い過ぎたし、これからも言うに違いないので。一緒にテレビを見ている連中はどうか。穴蔵の変人どもは。
(言語中枢が痙攣しているばかりだ。好きにさせるのが最も早い脱出法だ。)穴蔵の変人どもと言ったか。ここな二人の女流作家は、書き溜めたものの膨大さに祟られて、実る前に腐り、咲く前にしぼみ、もはや新作が書けなくなっていた。
じつに十余年に及ぶ挑戦歴で、二人合わせて応募数は百作を超えた。長編・中編・短編の割合で言えば3・4・3くらいだそうな。ショートショートや童話などの掌編を入れれば百五十を超える。それでもやめる踏ん切りがつかぬのは、なまじ二次予選、三次予選、そして二度までも最終選考に残ったことが呪いになった。しかも一度目がごく初期であったことが奥部まで刺さった。予選突破は全体の一割に満たなかったが、それで充分呪われ得た。
応募してから結果がわかるまで何ヶ月もかかるために、常に何か応募している状態で、落選したとしても、常に次の結果待ちだったということが呪いになった。そうこうするうちに常識の範囲を外れていたが、ここまでやる人間は少なかろうことと、ここまでやって駄目なら駄目だろうことを身にこたえて弁えながらやり続ける悟達感のようなものが、逆怨みも焦りも抜け落ちたものが、何かに化けやしないかという期待がないでもなかった。
受賞するには倍率が何百倍から何千倍で、二人の挑戦の手数では五十歳までやったと勘定しても十数回生まれ変わらなければ受賞できない計算だった。かくも絶望的な文学賞応募一本槍というやり方で、百を超えた応募というのも正確には百作を意味しはせず、以前に落ちた作品を推敲し直して再挑戦というのも多いけれど、ああこのテーマ、このアイデア、このトリック、この描写、この構成、この結末、この台詞、このしぐさ、このキャラクターは既にあの作品に書いたからなと、まだ発表もしていない過去作に邪魔されて、時に経たれるうちに話題作なんかで未発表の自作の骨子が先を越されると暗殺されたようなものであった。
ここまで応募している者に限ってはシード権が欲しかった。数百数千という有象無象の下読み作業が免除せられ、二次予選から始めてくれたのならもう少し行けたに違いなかった。救済してくれ得る神さま仏さまと頼む編集者の方々に、拾ってください拾ってくださいと泣き喚いているうちにとっくに成犬、もはや書けなくなりつつあるからには老犬だ。
紙と鉛筆さえあればできる、金のかからぬ挑戦かと思いきや、大量の応募に要したインク代、コピー用紙代、切手代、それから如何ともしがたく代替わりしたノートパソコン代、コピー機代などは総じて二十万円余に及ぶ。どういう人が読み、どういう理由で落選したのかもわからず、そもそも原稿がちゃんと届いたのかどうかもわからず、先方は何百何千作と送られて来るものを読むのだし、ほかに仕事もあるのだし、忙しいから仕様がないが、同時にそれはこちらが感情を持たない「数」だという意味にほかならず、既に四回予選落ちしたものが別のところで最終選考まで生き延びる、それが別のところでまた落ちる。
スクールを併設している賞にも何度か応募し、送った作品は落選したけれど入学案内が来て、お金がないので断ったけれども送った作品は教材になり得ると記載されていたことなども、のちにデビューできた時、自分の作品で盗作と言われはすまいかと悶え苦しむ。
――だいたい以上のことをある夜、悪く酔った川野さんから聞いた。そこまでできる人間が何で無職かと思えば、それに答えるように、文学をやるということは、健康な人でも神経衰弱になるようなもので、じっさいどんどん何かが悪化し、やりながら外出困難が回復するという望みは完全に絶たれたとのこと。聞きながら私はアレルギー性結膜炎が出ていて眼球が殺伐とし、目薬のプールで目を開けたまま泳ぎたかった。脳を一度外して冷水でじゃぶじゃぶ丸洗いしたかった。
(犬は吠え続けている。)
私もずいぶん救済を求めた。「心更に起こらずとも仏前にありて数珠を取り経を取らば怠るうちにも善業自ら修せられ散乱の心ながらも縄床に座せば覚えずして禅定成るべし」。そういう心で以て読み、考え、読み、考え、外部へ向かってナースコールを押しまくった。けれども現実へ逃避する現代に医師はとうとう見当たらなかった。
聖賢の言葉を持ち出すことは聖賢から離れることだ――こういう自省が護符だ。急がずば濡れざらましを旅人の後より晴るる野地の村雨、速やかならんと欲すればすなわち達せず――これらの護符で赦免されつつ即座の実用を蒐集する。
なまさかしらを求める。なまさかしらを。そっちのほうが使えるから。「ただ長年倦まずおこたらずして励みつとむるぞ肝要にして学びやうはいかやうにてもよかるべく云々……才不才は生まれつきなるされどたいていは不才なる人といへどもおこたらずつとめだにすればそれだけの功はあるものなり」。いいところだけ蒐集する。要約や盗用の愚を明らめるような部位はとりわけ上等だ。つとめはげむるは不死の道なり。「いとまのなき人も思いの外いとま多き人より功をなすものなり」こういう部位も極めて上等であり、「薬の作用だけ知ってどのような患者にどう処方すべきか知らぬのに医者を自負する人」であるとか、「あらゆる効果的な台詞を書けるというだけで全体の構成も紡がれぬのに悲劇作家と自負する人」などの諷刺は自虐という浄化作用を含んですこぶる価値が高い。
「語るべき人々を呼ぶ声も持たず、黙すべき人々に口をつぐむすべも持たない書物、誤用されたり謂われなき批判を受けたりすることから身を守るすべを持たぬ文字としての叡智」――これらをいずれは解放してやらねばなるまいが、それはまだ今ではない。解放できるほど捕まえてもいない。それまではいくらでも盗みに入る。どうすれば魂が最も善くなるかという目的はあんがい素直に持っている。それが厄介だ。下手な鉄砲でも撃ち続け、よし全生涯通じて何を射ずとも御の字だ。誤りなく研究する気は毛頭ない。激しく影響を受け、あちこちの太陽に向かってそのつど伸びて行くばかりだ。学問それ自体の喜びはない。立身出世の手段でもない。ひっきょう私は何かの無責任な風潮に染みた傀儡に騙されたのだ。騙されるほうが悪いということは騙される前から知っている。誰のご心配にも及ばない。
嗚呼しんどい! えらい! かなん! やれん! わんわんきゃんきゃん鳴いている。うちに巣食うた連中がわずらわしい。私が集めたわけだけれども今となっては彼らのせいで私のせいだ。
今ここに、独りでコッソリ成仏してやろうかしら。見ていろ。よろしいか。悟らんと行ずる者はあらん限り迷う。いいかね。準備体操からだ。「詠歌ノ第一義ハ心ヲシヅメテ妄念ヲヤムルニアリ。マヅ妄念ヲシリゾケテ後ニ案ゼントスレバ、イツマデモソノ妄念ハヤム事ナキ也。妄念ヤマザレバ歌ハ出来ヌ也。心散乱シテ妄念キソヒオコリタル中ニ、マヅコレヲシヅムル事ヲバサシヲキテ、ソノヨマムト思フ歌ノ題ナドニ心ヲツケ、思ヒ案ズレバヲノヅカラコレヘ心ガトヾマリテ、次第ニ妄想妄念ハシリゾキユキテ、心シヅマリ、ヨク案ジラルヽモノ也。マヅ心ヲスマシテ後案ゼントスルハナラヌ事也。情詞ニツキテ少シノテガヽリ出来ナバ、ソレニツキテ案ジユケバヲノヅカラ心ハ定マルモノトシルベシ」。よろしいか。
在俗僧に、師を持たず独り悟りを得る辟支仏にならんとし、濫読併読でも読んだは読んだ、憑依せられた、それで殺してしまったのだとしても、それならなおさら供養せねばならぬ。
前後の文脈や背景となる事情等もそっちのけの、大分量忘れているごった煮の、忘れぬようメモしたがゆえに忘れた闇鍋の、それ自体で精神病の病巣となり得るような無脈絡の羅列でも、もとより夭折の宿命が裏切られた余生と割り切り、しかし太刀を取る以上はともかくも敵を斬るものなりと思うて取るべし、いかなる構えも敵を斬らんためなり、なまさかしらに踏み外せば悪道に堕つるといえども断じて行えば鬼神も之を避く、いざ尋常に勝負々々。
すなわち正しくアートマン(我)を知りブラフマン(梵)を知り、すなわち二つが同一であること、すべてがブラフマンであることを知れば解脱し、すなわち輪廻から解放される。神々もそれは防がれぬ。アートマンの獲得は本性上おのずから既に得られている。輪廻は無明に基づいて起こる。無明とは俗知による誤謬や経験に基づく錯覚(縄を蛇と見まがう等)をさす。輪廻は無明から来るのであって実在しない。アートマンは常に解脱している。アートマンは世間の苦に汚されることはない。惑乱した視覚によって人は「私は惑乱している」と考える。舟に乗っている人には岸の木が動いて見えるように、輪廻している人は輪廻しないアートマンが輪廻しているように見える。明智をいかに表現しようが無明の内部で回転する。
十人の少年が川を渡る。渡り終えた数を数えると、数えている主体が自分を数えないため一人足りない。その時一人の少年が「君が十人目だ」と言う。(『ドン・キホーテ』に自分の乗っているロバを数え忘れたロバ追いの小噺があるが、信仰と滑稽とどちらが人類を救済し得るか、信ずるべきか嗤うべきか!……)鞘から抜いた刀が光るように、無明から自由になった者は自ら輝く。
この世界の一切は誤って想定されたものである。解脱は知識のみによって到達する。解脱を求める者は行為や努力を捨てねばならぬ。アートマンを知った者がさらに何か義務を為さんとすることは、向こう岸に渡り終えた者がさらに向こう岸へ渡ろうとするようなものである。アートマンを知った者にはあの世も死も恐怖ではなく、神々をさえ憐れむべき存在である。真理は否定されようがされまいが関係がない。ほかのものを見ず、聞かず、認識しないところ、それが豊満である。そこにおいては善悪もなく、盗っ人も盗っ人ではない。
「そうではない、そうではない」という仕方で人はアートマンに到達する。「私はブラフマンを知っている」という誤った考えを捨てた者はアートマンを知る。悪い論理学者にはブラフマンは容易に知られる。真理は言葉の領域にはない。アートマンは認識の対象ではない。言葉によっては到達できない。語句に対する一致と矛盾の理解の反復によって何故に然り得るかの疑問を排除し文章の直観に達する。目覚めるまでは夢が真実であるように、妙智が得られるまでは無明は真理である。アートマンは常に満足している。これら一切は叡智の名称である。
有徳の師により、蜜蜂のように、ウパニシャッドの花々から最上の蜜が集められた。最高の真理は弟子を入念に調べた上でなければ決して教えられるべきではない。この、神々にとっても最上の、この秘密の教えは、資格のない弟子に与えられるべきではない。師による方法以外では正しい知識は得られない……。
――ェえだいたい、以上断片を連ねてみても、門戸を閉ざされるものが夥しいが、それにしてもシャンカラ(ウパデーシャ・サーハスリー)ばっかり出た。どうしてか。それはきっと、記憶がシャンとしやんから。
(ひっきょう私にとってアートマンとは何か芸術をつかさどるヒーローの響きがあるし、我が宗旨においても小さい頃に聞き覚えた法華経からはウグイスの先入観が消えないのである。)
これらは我が信仰にあらず、コレクションなり。
コレクションだとしても保存状態が悪い。やはり常々読んでおかねばならぬのだ。昔日に遠方から自宅の庭へ持ち帰ったお花は遂に枯れた。おのが庭を枯れさせないためには終生遠方を訪れ続けておらねばならぬのだ――だいたいこういうのが護符だ。
終生の読誦・写経おさおさ怠りなく励み勤めねばならぬ、著作を体感するまで、著者を体験するまで。そうなると急にこうだ。
世の中に我が物とては無かりけり
身をさえ土に返すべければ
こうして護符には裏張りを重ねてゆく。軽からぬ罪を感ずれば「怪しみを見て怪しまざる時は怪しみかえりて破る」とめくる。
こんなことを考えながらも生まれながらに所属している宗派の御本尊さまを拝み、唱題しているのはひとえに習慣だ。本当に信ずるなら一唱で足りる御題目を、信ずるからこそ何遍もくり返すことは、また祈念は煩悩なりと観ずるまま祈念し続ける矛盾はひとえに習慣だ。これをやめるほどの科学的な理由はどこにもない。私をして言わしむれば四季がめぐるのを神々の営為と思わぬほうがおかしいし、山の雄々しさを前に神さまと感じぬほうがおかしいのである。
以上しょせん民族性の寡黙には収まり切らぬ饒舌は、平等社会における凡骨の学問は、いつか私を狂わすだろう、この「狂わすだろう」も、昔々テネドス島に施行せられていた、無実の者を告発した者が即座に斬首せられる諸刃の斧に、自ら斬られることだろう。
掃けば散り掃えばまたも塵積もる
人の心も庭の落ち葉も
これで終わりだ。どのようなかたちであれ、最晩年に寡黙へ達してさえいられれば上々だ。沈黙にさえ到達できれば内実の貴賤・深浅はまったく同じことだ。
要するに番組が終わり、悲惨な犬の吠え声がやんだのであった。
明け方に、半田と二人で散歩している。
半田だけが泊まった翌日だった。語り明かすつもりが、少し寝てしまって、明けて来るからもう起きていよう、あとで昼寝すればいいさということになり、清々しい早朝の住宅街を歩いているのだった。
何だかんだ薬がなくても眠れていることは信じがたいばかりだが、このことにはまだ気づいてはならない。体には薬をやめていることを、まだ気づかれていないというていでいるので。
それでも起きるたびに蘇生の気分でなくもない。目を覚まして最初に見る視野に半透明の小さな宇宙飛行士がクローゼットの扉の線の上を走っていたり、天上に明らかなヒビが走っていたりするけれど、毎度のことではない。精神安定剤もあらためて治療ではなくその場しのぎのものであったか。いいやその場しのぎは立派な治療だ。死ぬまで逃げ切られれば最上の根治だ。病魔の肯定にこそ健全さは現ずるのだ。それともやっぱり治療ではないのか。人生立ち往生の許されぬ、激しく働く人々にのみ必要のものか。
その場しのぎと根治――その場しのぎのあいだに心臓発作が避けられればそれは奇跡の心臓移植だ――ここの真相は私で数十年、その私の数十人で投与と不投与、濃度の按排等で比較せねばわからず、別の方法でわかる頃には私はどのみち解決しているだろう。
ある公園のベンチに座ってタバコを吸っていた。なかなか茂みに隠された、社会から死角な、いいところだった。
「納税者でもないのに、税金で作られた公園におってな」
と半田が自暴自棄だった。
「我々はノイロ税の納税者や」と私。「あんまり納めとう人の少ない税やし貴重やで」
「笑えん。それはな、ほんまのノイロ税の納税者への冒涜や。俺らはパチモンや」
「パチモンか」
「少なくとも俺はな」やや沈黙してから、「――何で俺らみたいな不適合者がぬくぬく生かされとんやろな。ェえ? 優しい時代やで。罰当たって地獄落ちるわ」
「落ちるか」
「落ちる。もうめちゃくちゃ落ちる。だってごっついズルやないか」
「まあズルやな」
「そやで。ほんまに冗談やないぞ。こんなんおかしいやろ。こっちも言いたいこと山ほどあるけど、言えるかいや。ァあ? 誰の博愛のエゴイズムの尻拭いや。俺の中の申しわけなさがこんな罰当たりなこと言うんやけども……こんな奴に選挙権なんかあったらあかんやろ。もう世界が老後なんやったらええで? でもまだちゃうやろ。これからもガキは生まれて来るんやから」
半田はそこでとつぜん燃料切れのように沈静したけれど、気が済んだわけでも言い尽くしたわけでもないらしかった。けれども燃料は切れているので、続きを考えるふうでもなく、ただただ沈んでいた。
私は咳払いして、
「昔のな、明治時代かそこらの寄席でな、噺家が艶笑噺をやらんよう、警察の監視がついとってんけどな、ある警官がサーベルをわざとがちゃがちゃ鳴らしながら席を外した。やってもええぞと。それに客たちは『いやァ粋だね。苦労人ですよ』って、言うたんやって」
「――……どっから持って来んねん、そうゆうの。ほんで今何の関係があんねん」
「すんまへん」
私は苦労とは何ぞやということについて論じ合いたかったのだけれども、二人して論客がおらなんだ。
立ち上がって、昔は灰皿があったベンチの裏を見れば、撤去されている空白に、一匹の蟻がいた。起伏に富んだ公園内の高地と低地を分かつ境になっている、腰丈くらいな高さの石垣の壁がコの字型にくぼんでいる。ジャッキー・チェンがやっていたのを思い出し思い出し、足だけで以て蹴上がれば、半田が見ていて、
「いつまでできんねん、そういうの」
けれども急激な運動に期外収縮がにぎやかだった。返す返す筋力ばかり残って役に立たない半廃人であった。目のまわりが黒くなっていたそうで、「大丈夫か」と言われた。
「大丈夫々々々。あァ――せやけどこれでも十九ハタチの頃は、十九ハタチの国から来たんか言うくらい若かったんやで」
「何言うとんねん」
しかしここへ立てば昔日の思い出が胸中に一席。中一の頃だったか友人たちとここに座っていたら、小三くらいであろうか一匹のガキが歩いて来て、なぜかしこたま殴って来た。チビだけれども思いっきりのグーはかなり痛い。さすがに耐え兼ねて友人の一人がガキの腕をつかみ、ええ加減にせえと言うと、ガキは向こうにいた犬の散歩のおじさんのところへ走って行って、こちらを指さし、
「あのお兄ちゃんたちに叩かれた」
と言ったのであった。
幸いおじさんはぜんぶ見ていたから、苦笑いするだけで取り合わずに行ってしまった。ガキがそのあとどんな顔で去ったか覚えていないけれども、今頃健全な社会人なのだろうと思えば、半田ではないが国民投票はステキだなという思い出であった。
左様に非納税者をして憂国の蜜を飲ましむる三昧境にたゆたっていたらふと向こうの道を誰か走っている。よく見るとある友人のおっちゃんだった。学生時代にはかなりのところまで行ったスポーツマンだったことは聞いていたけれど、まだ現役のサラリーマンが六十を前にしてこんな早朝から走っているかと思えば、摂生や勤勉というものも、こう目の当たりにするとなかなかにデカダンであった。
友人たちの父親に三人ほど、とても敵わないワルだったのがいた。この人々は就職も結婚も早く、浅からず修めた無法の道を畳むのも早く、我々が社会の最初の一撃に打ちのめされて本式に戸惑う年頃には既に社会側で黙々と働き、今の私の年頃にはとうに家庭の大黒柱となって久しかった。それが今も、見事にそのまま生活し切っていた。
私の友人たちも、たいがい前世代より小粒であろうか、しかし友人たちと私と、今やもはや別人種であり、思えば子ども時分から私だけ、浮いていたことは浮いていた。
最も浮いていたのはみんな小学生時分から何かしらスポーツクラブへ通っていて、高校あたりでほぼ一斉に降りるまでは選抜だの推薦だのスカウトだのの域に育っていたのに対して私は然にあらなんだ。
鍵っ子にちゃんとしたスポーツはできない。中学で弁当箱に白米とさんまの缶詰だけだった時、かえって羨まれたけれども。じっさいたぶん誰の弁当よりも旨かったけれども。
おむすびだけの時もあった。洗濯が間に合わなくて濡れたままの体操服を教室の後ろに干した。ハンガーを持って行っていた。色移りした薄桃色の体操服でへらへら走り回っていた。全然飽食の国の話だけれども、まあこんな奴にちゃんとしたスポーツはできない。
今走り去ったおっちゃんの息子は、しばしば親父に楯突いては殴られていた。頬骨のあたりにシッカリ痣をこしらえながら、勝てん。と言っていた。かなり運動神経のいい、闘争心の強い友人だったけれども、まあ小中学生では勝てなかろう。それが十八くらいの頃、殴り返しはしないものの突き飛ばしたところがおっちゃんはひっくり返って机の角で後頭部を打ち、翌日頭に包帯をして出勤して行ったそうな。友人はそれが悲しかったと言った。
そのような父子関係はちょっとだけ羨ましかった。流血までする喧嘩をしていながら、後日へらへらと包茎手術をねだるような関係は。
私はこのたびの帰郷と、ここにいる半田以下四名の招集を、確かに、親連中に知られたくない。今ここにハッキリした。しかしもう遅いだろう。
「みんなで死のか」
そう言ってみた。半田にすればじつに唐突のことだったはずが、
「ほんまやなァ……」としみじみ答えた。「そう思てしもたら何も問題なくなるな。もうサッパリきれいなもんやな」
「えらい軽いやんけ」
「軽いからええんや。軽ないとそんなことでけっかいや。軽かろうが重かろうがやったったら同じや」半田は携帯灰皿にきちんきちんと灰を落として、「世間さまには頭上がらんけども、あっちが逆立ちしても真似できんことを、俺らはできるんやからな。まだやってへんだけで。いつやりよるかわからへんのやからな……」
家に帰って、半田は眠気に恵まれてさっさと鼾をかき、私は部屋に独りで、それで、日記でもつけようかしら。平成二十九年、二十九歳。我らの二十九歳は人間で言ったら何歳であろうか。
我々は幸せに暮らしている。春は夜桜の下で舞い踊り、梅雨はゆすらうめの実を食べて暮らし、夏は木陰で蚊に食われ、秋はらっきょうの花の蜜を飲み、冬は雪虫に鞍を乗せて旅に出ました。敬具。
夕方にも半田と散歩した。ある学習塾――つぶれていたのとは別の塾――のバスが通ったが、運転手に覚えがあった。その塾にも半年ばかり通ったのだが、えらく乗客の生徒たちに怒鳴る運転手だった。(私は鼓膜が脆弱で、パチンコ屋などには三分といられぬ。まず不意討ちの「コラッ!」で魂消させてから𠮟るたぐいの姑息な大人たちはどうか地獄で八つ裂きにされろと天に祈っていた。)あれは人間の底辺だ、ああはなりたくないと思っていた。魂消させられた分はあとでちゃんと魂消させ返したけれどもその時の乗客の生徒たちには気の毒なことをした。
しかしそれがまだ運転しておるのかと思うと、あれも到底敵わぬワルであった。
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