あまりに暑すぎる夏はいつまでも終わらずに、空は入道雲で溢れ返って、蝉が延々と鳴き続けていた。鳴くというよりも、なんだか、悲鳴を上げているみたいに聴こえたから、わたしも蝉と一緒になって、悲鳴を上げた。悲鳴のつもりだったのに、こもった咳のような音が出るばかりで、わたしの声はすぐにかき消えた。
校庭の砂地に頭を預けたまま、少しだけ視線を動かすと、すぐ近くに、一羽の鳩が佇んでいるのが見えた。一羽だけでいるのに鳩は堂々としていて、孤高な雰囲気が感じられた。首元の羽根の光沢が鮮やかだった。
鳩は、グローブジャングルが設置されている辺りで、じっとしている。グローブジャングル。鉄パイプで間隔の広い格子を組んで、それを玉みたいに成形した、勢いよく回転するジャングルジム。その後ろにある植栽の茂みが、かすかに揺れている。目を凝らすと、一匹の猫が茂みに潜んでいるのが、かろうじて見えた。
「ネコさん」
確かにそう言ったのだけれど、濁った池の泡立ちのような音がするばかりで、声のようにも、言葉のようにも、聴こえなかった。
茂みからゆっくりと、白黒の毛柄の猫が這い出てきた。猫は呑気な顔つきをしていて、思いがけず、わたしの緊張は和らいだ。猫は尻尾を右に左に揺らしながら、黒目を丸くして、鳩の様子を窺っている。鳩は警戒もせずに佇んでいる。
猫は窺い続けて、鳩は佇み続けて、しばらく時間が過ぎた、と思う。蝉の悲鳴が、何度か、止んだような気がする。何度か、意識が途切れた気がする。
猫は、興味と情熱が失せたのか、振り返って植栽の茂みに潜ると、何処かへ行ってしまった。鳩を見てみると、地面に落ちている種子か何かの粒をついばんで、それから突然に飛び去ってしまった。
傷つけたり、傷つけられたり、そういう酷いことにならなくて良かった。わたしの身体は動かないみたいだから、そういうことになっても、どうにもできなかったと思う。あの鳩と猫が、いつもの日常に引き返せて嬉しい。では、わたしは引き返せるのだろうか。
グローブジャングルという遊具は、高速に回転できる。強烈な速度で回転する搭乗者の目には、周囲の景色が色彩の帯のように映るほどの猛回転。極めて扱いの難しい遊具だと思う。
九歳のわたしにとって、それは難しすぎた。あの回転についていくことができなかった。鉄パイプを握りながら駆け足で加速するうちに、身体が浮き上がって、そして。
回転時のその色彩の帯の中に、見知らぬ人物が現れることがある、と同級生たちのあいだで噂されていた。それは、ぶかぶかに膨れたボディスーツで全身を覆って、アンテナの付いたヘルメットで顔を包み込んだ大人の姿をしていて、ただ物憂げに立ち尽くしているという。
その噂話を聞いたとき、いつかテレビで放送されていた、外国映画の神秘的な場面を思い浮かべた。
その謎の大人と出会って、言葉を交わしたと公言する生徒が、数日後、苦手な給食の献立を美味しく食べられるようになった、と級友に打ち明けたらしい。だから、わたしは、その人物に会って質問をしてみたかった。
「人は変わらないというけれど、もしかして、変われるのですか?」
地面に預けた頭を少しだけ動かすと、ちょうど、校庭の端に生育する大木が見えた。その木の根元に座り込む人影があって、独りで何かをしている様子だった。
「転校生」
もはや、一切の声音は無くて、鈍い溜息のようなものが吐き出ただけだった。
先日、わたしの組にやってきた、あの転校生。陽気な話をしながら物悲しい表情をする、すでに物事の表裏に勘づいているかのような、早熟な感じのする人。転校生の筆箱には、いろいろな動物のシールが貼られていたから、たぶん、生き物を尊ぶ人なのだと思う。
ふと、わたしがこの学校に転入してきたときのことを思い返した。上手に振る舞って、新たな学校生活を良好なものにしようと意気込んでいたけれど、失敗に終わった。わたしは、自分の気持ちを隠し通すことができなかった。
生徒たちが夢中になっていることは、わたしにとって熱心になれないことだった。わたしの好きなものは、生徒たちにとって退屈なものだった。
推薦するほど思い慕う誰かのことや、推薦するほど思い慕うキャラクターのこと。集めている人数や、集めている品数。隙間が無いくらい詰め込まれたものや、隙間が無いくらい切り除かれたもの。それらの大切さが、わたしにはよく解らなかった。
気持ちに嘘がつけない。そのぎこちなさが、歓談の醍醐味を損なわせて、生徒たちの顔色を曇らせて、気の毒な気分にさせた。そして、わたしは淋しくなった。
虚ろな目でなんとなく見ていた遠くの同級生のところから、急に何かが飛んだ。
「ハト氏」
ほんのわずかな鼻息が漏れると同時に、一瞬で散った。
同級生の手元から鳩が飛び立って、ゆらゆらと低空を飛んで、ここへ向かってくる。それを追いかけるように校庭をとことこと走る、小さな影も見えた。どうやら猫らしかった。
遠くの転校生が立ち上がって、呼びかけるように何かを言うと、鳩と猫を目指して、てくてくと歩き出すのが見えた。
飛んできた鳩が、グローブジャングルの頂上に留まった。鳩の首元の羽根が、いっそう輝いて、きらめいていた。
わたしの視界は回り出して、蝉の悲鳴が静かになっていった。意識が遠のいていくのがわかった。もう、限界だった。
激しく回転して、見えるものすべてが色彩の帯になる。鳩の羽根の光沢は発光する帯になって、空の入道雲は白色の帯になった。
その白色の帯に、字幕が現れた。外国の映画みたいに。文字を読むことは好きだった。文字に誘導されて、気持ちが移り変わっていく感覚は愉しかった。字幕を追いかけるうちに、いろいろな気分になれた。わたしが抱えている思いとは異なる、いろいろな気分に。ゴシック体に似た文字が、白色の帯を流れていく。
「気の合う連中や、もちろん独りでも構わない、もし訪れる機会があったら、あんずパイを注文するといい。あれは絶品なんだ。ゆっくり口に運んで、じっくり味わえば、誰もが穏やかな気分になって、いろんなことが笑えてくる。積もる話はいっそう弾むだろう。自分と向き合って、親身に語りかけるのもいい。あんなことも、こんなことも、なんだって笑えてくるんだ」
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