1
山吹の葩卉が悠々と零る余韻は、清冽な水の充溢せし余地へ、一片の花弁の余波を齎すが如く、日没に伴い散ずる貴し和魂は、春月の杳然たる微光に包まれ聚む。
山吹は川縁から梢を放擲し、水面を弄う程に枝垂れ、舞落つ花弁は玉川の水を顫動させ、汀に嵩む水紋は幾重にも干渉し、茫洋たる月明を返照す。風韻漂う山吹の葩卉は清淑に、夜陰を映ず水面の翳に揺り、朧気な月の輪郭と交錯す。
月翳の面は春の煙霞に濛々と、茫漠たる月光に掌を翳し、頻々と把持に励む程、澄明な水面に揺蕩う水月の如く、霞む指端に徹す月輪は悉く暈る。眼睛を眇め月輪に手を翳し、視界を掩う霞みは俄に晴れ、朧気な輪郭を捉ふ錯覚を抱き、眼睛を瞠り対の眸子を矯む須臾、手掌に収む実象は擦抜く。
擡ぐ腕に暗澹たる倦怠を覚え、徐ら脱力する躯体を殊に、其の徒労に帰す所作が、生の憐憫と心労を齎す。放擲した掌は柔く緩み、腕弛く曖昧な感覚を附す。双眸を伏し微睡に和すが如く、現世は俄に寂静へ到り、実象が心象の水面へ融し、綯交じる幽玄な感覚に溺す。
2
霞の余燼が燻る陽春、木卉が柔く膨らみて、灘らかに反る爛漫な木蓮が、万朶な梢の端部に溢る。酣春の時節に開く花卉は、生への心労と苦衷を諷示し、腕弛るくも葩卉を擡げ、撓る茎は颯々たる春風に靡き、呱々の声を上ぐが如き馥郁は、須臾にして惜春に耽る縁を熾す。
仏前供花を淵源と定む、生花発祥を担う頂法寺へ赴き、山門を潜り境内へ歩武を進む。本堂に聳つ枝垂れ柳を過ぎ、古池の汀に突出せし蓮葉が、殊に美麗な風貌を誇示し、未生の蓮の瑞々しい芳香を蔵む。
古池の蓮葉は窈窕を纏い、静淵を保つ水面を楚々に彩る。無髄の茎を直立させ、清爽な光明に照る葉姿は、静動の均衡を巧む寂静を顕す。泥中に根張り汚濁を忌み、高雅な蕾を罅ず身性は、清新な超俗の有様と、煩悩を滅す仏性を象徴す。葉柄を滑り落つ雫に伴い、遍く執着を拭いて快哉を抱き、慧眼の寓意に倣う花托は、啻に摯実な真如を観ず。開花と結実を兼ぬ白蓮は、徒労に帰す生存を実直に果す。
懶く腕を擡げ、池水を瑣末に弄う途次、虚映を撫づる指端が影を掻き、漸次盈る躯体の揺曳に耽る。
六角堂に植る柳は微風に靡き、其の傍らを打過ぐ途次、枝垂る梢が髪を擦過し、花房の嵩みを纔に感ず。
頂法寺の屋外花展は殷盛を極め、往来する衆人は絢爛な花姿に邂逅し、陶然たる面様を呈す。古典流派が綾なす作品は、往時の思想と格式を貴び、自我を滅す醇乎たる精神の具現が、歩武を断ち凝望する来場者の眼睛に、古格の風柄を纏う挿花を嵌込む。花卉は昭然たる色彩を放ち、道すがら卉木の揺る躍動は、明媚と死生の過渡を顕す。
清淑な花姿を呈す挿花の、其の臈長けた薫香は、花器に即す活物たる花卉の、闊達な生気を飽和し、芽吹き嫋やぐ嫩葉へ添い、枝物の躍如が余地に華やぐ様は、典雅な趣を蔵む。
3
粛々と櫛比する挿花を、俄に一瞥せんと顧眄の末、桐を軸心に据ふ生花に対す。花器に挿す桐の役枝は葩卉に撓み、春陽に磨かれし樹皮は悉く、艶冶な尊容を湛う。花冠の尖端は泡沫の罅ずが如く、宛ら薄紅が滲む口唇を彷彿とす。
零落し地に伏す花片は、小腰を屈め掬上ぐ指先を、須臾にして擦抜く。花弁を弄う寸刻を懐包し、所懐を探り自身を顧慮する途次、宛ら空疎な花器を眺むが如く、滔々と盈つる淵水が、時折り波紋を広ぐ只中、一抹の瑣末な余韻を宿す。水面に映る飄々たる克己は、余波の汀に掻消え、掬上ぐ所作を図る度、殊に水底へ溺没し、寂を擽る牴牾しさを抱く。
「そちら、桐の生花です」
法衣を纏う和尚が佇立し、灘らかな袈裟が光沢を佩び、柔い眦の小皺が穏健な品行を醸す。
「春の芽生え、夏の繁茂、秋の彩り、冬の枯枝。これらは自然の中で絶えず循環し、輪廻しています」
和尚の枯淡な嗄声が沁み、雲霞の如く打寄る言葉が、蹣跚たる体躯を弄す。水面へと廓大する筒の花器に、形色に則り扮飾を施す卉木は、恰も格式を欽慕するが如し。
「花を挿けたご経験は?」
「華道を、少しばかり」
沈黙す和尚は幾度か頷き、挿花を凝し澄明な眼睛を窄む。天日を浴し寧静に瞬く和尚の眼瞼は、山岳を盛装する山桜を偲び、其の散逸を彷彿とさせ、仄紅く色付く芽吹きに供し、法悦を湛ふ面貌を呈す。
「華道は花草木の命脈が織りなす美しさの根源を表現します。そこには自然の中へ精神を没する和の思想が寄り添う。和とはつまり、花草木が水を吸い上げ、陽光に照らされて和やかな風を纏うとき、全ての因縁が和合されるという意味合いです。四季折々に咲く花や豊かな緑は、因縁により生起され、連鎖的に状態を変化させ続ける。地と光と水とが干渉し合う事で、花はしかるべき時に咲き、木や草はあるべき場所に根を下ろす。美しく神秘的な自然の景観は、万物の調和により成立している。華道は一瓶の中に自然の摂理を取り入れ、調和を経て森羅万象を表すものです」
塵埃を拭う和尚は花姿の装いを揃え、蓮葉は自重に撓み弧線を描き、下垂した葉に隠顕する蕾の張りは、質朴な様相を佩び淡々と、花留めに据付く花材が振顫する挙動は、嫋々と戦ぐ可憐さを呈し、撓りを佩び先窄む茎の形姿へ、婉美に翩翻する花序が一菊、春節の馥郁を醸す。
「こちらは蓮の花材を用いた立花です。どうですか、花は美しいでしょう」
「はい。とても」
「花と自然は一つです。人と自然もまた、一つになれます」
啻に瞠る眼前の情景は、澎湃へ到る清冽な水の如く、虚妄の実体を纏い視界を暈し、漸次奄々たる気息の刻目へ惑す。
「せっかくですから、向こうの華室で挿けてみませんか。あなたの作品を拝見したいのです」
「今は、何も持ち合わせていないので」
「花材と道具は用意してあります。さあ、こちらへ」
華室へ向け徐に歩武を進め、和尚の先導に従し敷居を跨ぐ。華室は浮世の塵芥を薙ぎ、彌漫する陽光は朧々と靄る。京畳に座す和尚は居直り、和室に奉る花器に対峙し、矯眇め克明に嘱目す。
「花は人の精神です。花には人の心が映り込む」
「そうですね。花を生ける瞬間に心身を統一し、植物の内側に没して行く。花に触れた感覚から真理を観て、自然の摂理に従う美を表現する。単に花を美しく飾るのではなくて、植物を通じて人の心と自然との調和を表現するもの。そうしてようやく、美しいと感じるのでしょう。花を通して自分自身と向き合い、自己と自然を一体化させながら挿けてゆきたいと思います」
水揚げを経た堅香子を摘み、花鋏を把し茎を剪裁し、淵然たる清閑の只中、杯軸の罅ず響みが滲む。瀟洒な花鋏の玲瓏は、剪除されし虚花に紛いて、其の須臾に散逸し、馨り佩び枯落する茎先は、冴々と印象へ膠着す。余地に鏘然と鋳込む実花は、縹渺たる虚体の質を兼ね、確乎たる実体を撥無し、恰も滔々と流る清水の如し。
清かな余地に身を放擲し、徐ら深甚なる呼吸の反覆は、和順な馨りを躯体に附し、心底から総身に盈つ。寸陰の駘蕩を反芻し、以て花留へ花材を挿し、宛ら佳人が古池に小腰を屈め、水潯に揺る影を綯交ずが如く、汀に咲く花姿を表す。
花器に据ふ三株は、泰然たる姿態を呈し、天円の気象を表す。天火の恩寵を賜る花株は、嫋やぐ花被片を翻し、入相に窄む一株は、花蕊を些細に顫い、春雨の名残り匂やかな株は、静けし寛厚に蕾を閉づ。堅香子を調和せし蒲は、筋立つ肥厚な葉に包まれ、亭々たる尖端に嵩高い花穂を掲ぐ。
「こんなもので、どうでしょうか。水の気を主に挿けました」
所作に疲弊の翳る和尚は、一畳隔て粛然と端座し、挿花へ鄭重に一揖す。挿花へ躙りて貌を吟味し、其の鷹揚たる体動の一毫、茎を撫摩り撓めを生み、居住まう花序を纔に暈す。
「自由花ですね。美しく挿けてあります。堅香子の花が水を吸うようです」
和む堅香子の放逸は、醜怪な我執を粧いて、其の不調和の揺曳が、花材の端部へ刻々と顕る。俄に瓦解し紆曲を経て、甚だ衰微する此の身の、空漠たる心魄は我欲に濁る。内観の反復に励む蕾の如く、執拗なる蔽塞を苛み、畢竟茫漠の只中、虚飾に帰し浮浪に陥る。
「私の花は、崩れかけているように思えます」
「いやいや、とても立派な花ですよ。己がじし咲いてる」
「いえ。虚構であるはずの花の実体ばかりを追いかけて、触れた瞬間に溶けてしまうことにも気付かずに、ただ自分の思うがままに挿けていました」
「興味深いことをおっしゃりますね。私には、とても美しくみえますが」
徐に立つ和尚は華室を退き、体動に伴い擦合う裾が、衣摺れの涼感を扶く。
霏々の嚆矢を兆す垂葉は、森閑な堅香子の主張を殊に、孤絶した挿花に蔵む我意、拍動に伴い甚だ逓増す。醜化を齎す浅薄な我意、花姿に顕る奔放さ、其等を忌み辟易とし、剪伐した端物を弄ぶ。
悉皆自由花の思想は、花矩や格式の否定に在り、粗略な趣向は凡庸に、鄙陋な自我の主張へ陥り、醜怪な自己の投影物へ変ず。花材へ対する須臾、一身を抛棄して尚、出生の明媚を一瓶に映じ、而して芸道を為す顛末が、華道の貴き真髄と観ず。表層美を纏う自由花は、型を尊重する理念を崩し、形骸化を辿りて凋落す。
自由花や前衛生花の種々雑多は、近代化に伴い自我を飾り、往時の型を頻々と拒絶し、不羈なる術に託けては、我執に塗る頽廃を顕す。
咲き匂ふ花は地気を宿し、真如に則り円熟へ到る。花枝の禁忌を花鋏で剪り、花矩に嵌め格式を備え、地気の濁りを皆悉滅し、清廉な格花たる含蓄に富む。花房を撓垂る花材の萎凋、水気を蔵む葉の闊達、枝房を擡ぐ靱やかな弧線、出生の世々や落花落葉を経て、枯木枯葉への変転に欣快を覚ゆ。
質朴な精神を軸心に、花材の貌や華美な花器に偏らず、花の概念を踰ゆる存在を成す。花木の雅致を弁え、清冽な水と葩卉に専心し、人為の抽象化を経て、死生を遷る幽玄を観じ、出生へ準拠する道程が、瀟灑な華道の妙と感ず。原初の縁を紡ぎて、縷々たる自然の移ろう只中、常盤の花姿を冀求せり。
4
家元道場を立退き、六角堂へ踵を返す途次、一品の挿花が蕭索と佇立し、流派と華道師範の銘が添う。竹で拵ふ二重切りの花器に、遠山霞の挿花が威儀を正し、春の暁天に盈つ霞の如く、浮揚する雲煙が山稜に棚引き、遠景が紗幕に暈る現を、一瓶に謄写するが如し。
二重切の上口に草花が佇み、下口は近景を映す樹木が躍如し、上口の花を踰え天頂へ伸ぶ。都忘れは霞に暈る遠山を表し、山岳に咲揃う楚々たる葩卉を、麓より瞻仰する心緒を附す。秘する霞花の風情は、眇たる葉を花材に用い、花序の風貌や葉身の輪郭、其等の花姿を曖昧模糊に、遼遠へ朧気な情景を綾なす。
下口に挿ける山査子は、撓む枝元から靱やかに、上口の都忘れを凌ぎて、寛闊な梢を天に擡げ、浩蕩たる形姿で遠景を映ゆ。瀟灑に僻す花序と枝先に、靉靆く風情と格花の趣を感ず。
頂法寺を去り帰路に就く途次、脈絡を欠く漫然たる意識は、蓊欝を湛ふ杉木立へ誘引され、雨催いの枯淡な気に憂身を窶し、遠山霞の挿花を眼底に再現す。櫛比する杉の主幹は明瞭に、模糊たる近景は漸次溢れ、感覚の飽和を察す。
虚飾を撥無する花草の姿は、類いない出生美を表徴し、花矩を人為の矯正の妙と定め、意匠を凝らし抽象化を経る。摂理に則る命題を担い、実体の裡面に隠顕する翳を観じ、間断なき清廉さを極め、徐ら掬上ぐ手掌から、淋漓と零るが如き存在を、卒爾として花矩に嵌め輪郭附く。
格花に疎隔を附す現代花は、花材を把す其の一端でのみ、古典華道と稀疎な聯関を保ち、確然たる所在無く放浪す。
俄に頬辺を濡つ雨粒へ、朦朧たる意識を寸時に聚み、能限り感覚の欣榮を裁截り、杉の樹梢は雨に枝垂る。
濡降る雨は蕭然を宿し、蝟集する木立は濛々と、深緑の紊乱は雅趣に富む。鬱然の只中綺羅を飾る姫沙羅は、紅潮を呈す躯幹を張り、其の一房に絆す沈静と、郭大した梢の躍動を示す。姫沙羅の謹厳な立姿は、雨霧に醂され、些々たる華やぎを顕す。
仄赤い素肌の如き樹皮を、粋然たる雨水が這う光景は、甚だ煢然とした情調を湛う。躯幹を瀝る水の繊麗と、雨垂れの打擲せし玉響に耽り、垂水に潤う姫沙羅へ掌を重ぬ。樹皮を弄う指端に天雫が澱み、手背を踰え横溢へ到る様、一縷の水脈は律動を刻み、宛ら樹木の鼓動の如く、此の身の拍動と符節を合す。
滂沱の雨に息衝く樹木は、水揚げを経た活物たりて、夢寐に溺すれば本性が冴え、我執を抛棄し死物の状相を呈す。四季寒暖の変化に伴い、多様な粉飾を纏いて、葩卉が栄え梢の茂葉が色めく時節、卉木は己を滅し調和に励む。玉響の睡を揺蕩う卉木は、体動の意を発起せず、緘口に徹し死物を為す。其の花材を手折りて挿花へ繕い、瓊葩は破蕾し息衝きて、死活の境に醒むるが如く、殊に泰然と構ふ。
虚実を兼ぬ花姿は気韻を孕み、綉葉と人心の誼を結ぶ。草木へ歎美の念を抱き、樹皮を摩り節榑立つ姫沙羅を撫づ。
纔に綻ぶ樹皮の罅割れに、木根で吸上ぐ水が滂沱し、蜿蜒たる脈として手掌を濡つ。躯幹を伝う水尾の余沢を、弄うる指端に一菊掬い、面に翳し口唇を濡らし、樹々を潤す清廉を拝す。
「その姫沙羅、お気に召しましたか」
熟達の嗄声に誘われ顧み、其処に佇立せし老嫗は、和やかな風貌を湛いて、柔く皺んだ眦を細む。
「少しばかり。気に入りました」
「木に触れるのがお上手ですねえ」
「華道をやっていますので」
「なるほど、それで。どうりで繊細なわけだ」
「この木を見ていると、水の流れを感じます」
「そうですか。私の手造りですが、姫沙羅を水盤にしたものがあります。よければ差し上げますよ」
「いいのでしょうか」
「どうぞ。今どき水盤を使ってくれる人なんて、ほとんどいないの。あなたが使ってちょうだい」
嫣然と綻ぶ老嫗の掌中へ、朴訥に収む姫沙羅の水盤は、光沢を佩び緻密な肌目を湛え、懐包する水気が滲むが如く、澹泊な風韻に盈つ。
駘蕩たる雨の杉林を退き、華室へ籠り褪せた畳に端座し、静心に忽然と紋様を散らすは、月輪の余光彌漫せし玉川なり。玉川の山吹に抱く郷愁を、明心へ揮毫するが如く、姫沙羅の水盤を採択し、剪除を経た花材に扮飾を施す。
水盤の斜向かいに地維の白石を敷き、水筋を曳く汀と定む。山嶺の風格を宿し、峻険に聳つ天石と、起伏を疎む中庸な人石を据え、ニ石の間に漲る水を川上とし、川下に伏す平盤な地石へ水脈を紡ぐ。
川筋が隔つ奥妙、粛然と峙す天石の裾へ、重畳する人石が廂間に構え、前面に静る地石の対比は、佳景を綾なす連峰と、錦紗の如き木立を偲ぶ。天日を蒙り躯を擡ぐ天石に、静穏な翳へ韜晦する地石は、中位で安寧を齎す人石に和され、動静の両気を蔵む。
杳々たる玉川を心象に泛かべ、宛ら往時を偲ぶが如く、夜凪に顫動する山吹を、而今の水盤に謄写せんと、横臥に伏す山吹を把す。柔く華奢な枝に弧状の矯めを生み、漂う春霖の芳烈な馨りを嗜み、砂礫を詰む蛇籠へ花材を挿す。
立姿の麗し山吹を主株へ定め、枝元を天石の翳に潜むが如く挿け、躍然たる山吹の風体は清々しく、中程に及び歪む枝は溌剌と、枝梢へ向いて窄む一房の、枝節に咲き零る黄熟の葩卉は、澹々たる水潯へ散ずが如く、殊に闡明な華やぎを纏う。人石の裡面に躯を傾ぐ横姿は、水盤の縁を踰え躍動し、川筋へ翻す枝梢の影を、清閑な水面に映じて捉え、地維へは細流に靡く株を、水盤の外方まで曠然と伸長す。木末を擡ぐ山吹の、自然を慕い出生を貴び、天然の万朶を採りて、玉川の淵静を水盤に映す。
水瓶を用い石巌の狭しへ灌ぎ、川下へと彭湃し清冽に流れ、水盤と花材を滔々と浸す様、凛乎たる風韻を頻々と醸し、微睡む死物の葩卉は徐ら息衝き、彼我の境に醒みて華やぎ、瑞々しい活物へ卒爾に転ず。絢爛な花姿へ向かふ須臾、体躯に漲る水は奔流し、迸る求心は雲霞の如く、熾烈に胸懐を収斂させ、山吹を眺む眸子を仄かに潤わす。
挿花は玉川を縮景し、其の情趣に富む花姿は、師範の遠山霞と符節を合す。流麗なる遠山霞の印象が、畢竟回瀾を既倒に反し、清水花灯路の挿花を冀ふ。
5
雨余の地に耀う春光、颯々たる葉擦れに柔く融し、薄らぐ葉面に春興を湛う。路端に広ぐ白梅の梢は、雨垂れの余韻が錦糸の如く瀝り、根株の傍ら葩卉を擡ぐ菫を濡らす。其の疆域を紡ぐ流跡は轍の如く、地気の濁りを押拉ぎ、銘々の葩卉は精彩を放つ。
霞む眸子で虚空を眺む須臾、眼睛の只中一株の葩卉が浮揚し、其の模糊たる徒花に縋りて、手掌を擡ぐ把捉の末、弄う葩卉は幻影と化し、宛ら泡沫の如く罅ぜ、悉皆指端を擦抜け、朧々たる無窮へ散ず。
整調の醇美なる草木、典麗な古都の町並みは、人為と自然の調を基盤に、清水寺へ聯関せし幾多の道筋、宛ら樹木の根張りの如く息衝く。天地万物を映ず縮景は、花器に挿す花姿の如く可憐に、汚濁を忌む京の趣を表す。碁盤の目状の路地を辿り、清水坂の参道に沿い歩武を進む。
清水坂を漫歩き西門を瞻仰し、荘厳な門下を綽々と瞥見する途次、水底の反照を徹すが如く、奥部に聳つ寺院の寂を殊にす。
楼門を潜りて参道を辿り、青葉椛の梢靠る三重塔を後目に、翳に潜むる随求堂は稜線を暈し、撓垂る欅の枝葉が際立つ。手水鉢に上騰する彫刻の、涔々たる水の余波を観じ、ニ天王の彫像鎮む轟門を潜り、杉丸太の回廊が本堂へ掛渡す。
回廊を過ぐ光景は曠然と、周縁は情調を醸す高木が囲繞し、霊域たる徳性が涵養す。寄棟造りの桧皮葺は四方へ傾ぎ、東に囂々と飛沫を上げ、泡沫を齎す音羽の滝、西に展延する清水坂の大道、南に落窪む京都盆地は、清麗な澪の如く奥妙に、北に屹つ音羽の丘陵が、殊に優美な弧線を描く。寝殿造の建立は頽廃の一途を現し、細密な裂傷が年輪を刻む。古調の趣を呈す木造りの勾欄は、水気を散じ灰白へ変貌し、雅趣に富む四地相応の景観が、音羽山の巍然たる自然に和す。
枝節を擡ぐ枇杷が翼廊を掩蔽し、渾然と化す本堂の一端は、樹冠の只中へ融和し、葉脈に沿い波打つ葉が、疎放な葉面を靡かす。軒先に垂る枝房の、処々方々に綻ぶ樒の葩卉は、緻密な花序で勾欄を弄い、清水の舞台は錦雲渓の岨へ迫り、音羽の稜線と外廓を綯交ず。
心緒の靄は嫋やぐ葉擦れに伴い、鬱屈した気色は春塵へ蒸散し、薄絹を剝るが如く馴染みて、本堂へ誘引されし体躯は、戸口を摩り古木の感覚を嗜む。
本堂外陣の気韻は冴々と、域外と相反す気流の漂動は、宛ら鬱然たる森林へ立入る須臾、水鏡に反映する揺動、或は月輪の寂光を纏いて、甚だ昭然たる裾野の如く、其の静謐は揺曳す。颯清な馨りに自然を偲び、絢爛たる天蓋が粉飾を附し、台座に聳つ菩薩像の天趣は、聯綿と溢流する徳性を顕す。前机に据わる蓮の造花は、陸離たる虚飾を纏い、枯死を撥無し無窮へ咲きて、尚も端麗な花序の一端、微光を佩び佶屈な花姿を和ぐ。
菩薩像は木訥を湛え、意匠を凝す眉目秀麗な面に、万事を看破せし慧眼を伏し、端正な面貌は微笑を泛かぶ。
礼堂に佇み本尊へ対峙し、菩薩の虚な眼睛を仔細に眺み、寧静に帰す精神に仏性を観じ、心中を浸す水面へ菩薩が映ず。重量を増す眼瞼の下垂に従し、瞑目を経て黙想に耽る。清気を蔵む心緒は凄然を保ち、毅然たる姿態を呈す杜若の如く、躯体は至大な倦怠に塗る。具象は卒爾として形状を崩し、幾重にも水紋を廓げ、心象へと散ずる只中、赫々たる天日が躯体を包む。安寧を齎す艶美な温みが、深部の体温と符節を合し、懶き疲弊が諧調す。
我執に耗する精神は、純然たる融和を撥し、我意が合一を堰止め疎隔を起し、糢糊たる狭間で苦悶を重ね、紛乱を以て虚脱が募り、事象の懸河を斥し徒爾に帰す。体躯に纏う倦怠が存し、空疎な胸懐が殊に顕れ、煩瑣な所在を把すが如く、此の身の原拠を冀ふ。
春雨の刺衝が嫩葉の馨りを醸し、清水の舞台に立ちて眺む古池は、波紋に靡く古都の虚象を蕩揺す。腕弛く撓垂る梢を瞥見し、廻縁を降り放生池へ漫歩し、咫尺の間へと躯体を寄り臥す。水面に百日紅の翳を広げ、樹皮は瘤の隆起を殊に、躯幹は中程に捻転を描き、葉叢瑞々しく勁烈に傾ぐ。蟠屈を呈す躯幹に伸ぶ梢は、放生池を掩蔽するが如く、先窄む枝房は自重で垂る。幾多の枝先に瀝る春雨が、微温を孕みて杳々と、馥郁たる馨りを散じ、頬を伝い輪郭を濡らす寸毫、指端を面輪へ翳し、頬辺を這う水の痕跡を辿る。
面輪へ翳す手掌は虚脱し、体躯の重圧が一挙に凭れ、稜々たる倦怠の只中、緩慢に霞む情景を眺む。掬上ぐ掌上に掻消ゆ現象は、淋漓たる清冽な水の如く、縷々として過行く。
仁王門で樹冠を張る梅の古木は、薄紅に咲き溢る枝房の釁隙に、茫乎たる暮色を盈たし、入相に綻ぶ菫の如き色彩を湛う。仁王門を去り清水坂を下る途次、都に華やぐ花灯路の杳然たる灯が、蹣跚と彷徨う身を懇篤に誘い、柔く抱擁する慈愛の念を感ず。
清水寺の拝観を為し産寧坂を下り、二年坂を経て一年坂を辿りて、京洛の散策路へ歩武を進む。京の歴史を偲ぶ街並み、古雅に富む散策路は、露地行灯と挿花の綾なす豊饒に盈ち、桑楡に綻ぶ葩卉の華を悉に顕す。雨浸る石畳は行燈の堵列に照り、杳然と婀娜めく鏡面を呈し、石垣の釁隙に蔓延る苔は濡れ耀い、竹垣には枝垂れ桜が凭る。櫛比する屋根瓦へ伏す梢は、枝節を湾曲させ無垢に撓み、枝房は雨垂れの如く楚々と窄む。産寧坂を下る往来に乗じ、日輪の余光に縋り漫歩く。
八坂通りの狭隘へ到り、煢然たる巡覧を経て、法観寺八坂の塔を眺む。五重の楼閣は堆く荘厳に建ち、層塔の基礎は地に静し、壮健な塔身は時節を調和し、笠は天日の恩寵を賜り聯綿と、請花は八葉の蓮華の如く、頂端に峙つ宝珠は天を撞く。心柱に広ぐ宝形屋根は、宛ら杉木立の樹幹を覚え、心象で摺合わせ思索に耽り、蹌踉たる徒を拾い二年坂へ赴く。
二年坂を打過ぎ一年坂へ到り、ねねの道へ繋ぐ花灯路が開け、北山杉と京銘竹で拵う行灯が、逕路の傍へに堵列し、清水焼の花器は淡光を纏い、街路の御影石が華やぐ。
高台寺の庫裡の衝立に、墨痕淋漓に夢と揮毫され、近傍に取澄む逸品の挿花は、其の衝立の端へ依拠し、精誠を尽くし枝葉を擡ぐ。半途の蕾を蔵む躑躅の小枝に、光沢を佩ぶ嫩葉が幾多も芽み、蕾の紅潮が清新の葉を染め、葉身の輪郭に朱を刷く。綿の如き利休梅の蕾は、夜陰へ白妙の弧線を描き、咲き罅ず程に膨張し、撓る枝房に寛大な慈悲を湛う。
行灯の薄明かりに照る徒花、石畳の堅牢を和す低木の梢、枯渇の質感を保つ土壁の罅裂が、逍遥に耽る眼睛の端へ、浮揚しては散失す。
円山公園に格花が列し、花台に据ふ松の挿花は、蒼古とした気韻を佩ぶ。撓折を呈す真の役枝は、針葉の微細な葉身を擡げ、枝節から頒つ房が余地を和く。真に沿いて伸ぶ福の役枝は、枝先を纔に逸らし、枝葉の虚な梢が余白に粛す。翳へ縮す請は弦月の如く、樹皮は粗雑な松毛苔が掩いて、枝元から裾を広ぐ流枝は恭しく、繽紛たる樹肌の瘤が、重量を附す控枝の矯めは、瀝る清水を賜る。
陰に撓み陽へ造化を為し、其の籟々を孕む深緑と、灰苔の枯枝が綯交じり、玉響死生の去来を和合し、徒労の円環は縹渺と薄る。萌芽を経て顕る瑕疵は、人為に依りて容貌を矯め、古格に従す立花の麗姿を拘る。我流の奔放たる伎倆を疎み、花人は意思を諌め己を滅す。気疎い我執は消散され、純然たる風光を顕し、縮景に則り自然を遷すは、啻に様式の掟に偏重せず、生に臨む道者の実直と、孜々たる精神を象徴す。
「どうです。お気に召しましたか」
和装を纏う淑女の琳琅たる聲、澹月を偲ぶ松を吹弾するが如く、典麗な琴の調べを諷喩せり。春宵に冴ゆ抜襟の頸は、殊に快然として清白に、胸元で重畳せし襟は帯揚げへ滑り、鷹揚な袂は所作に伴い翻る。
「私が挿けた松の立花です。こんな地味な作品に目を付ける人、中々いませんよ」
「高く立つ真を前置きが調和して、空間を和合する九本の役枝が、とても美しい正風体です」
「花を挿けた経験があるのですね。以前は師範をしていましたので、分かりますよ」
「はい。自由花を主に扱っていたのですが、どうしても、自分の花に納得できません」
「なるほど。それで作品を眺めていると」
「他の作品を鑑賞する事で、本来の花が表すべきものを知りたいのです」
「素晴らしい心掛けですね。華道の真髄は芸道ですから、自らの求める道を定める手立てでもあります。様式美を重んじる型の先に、真理を観て、自然と人との精神の和合が、一瓶の中に描き出されるのです」
「私が惹かれていたのは、型の美しさだったようです。そこからさらに、花の背後にある存在へ触れて、その中に没入していたい。一塊の存在から、再び形を成して花器に挿けられた花は、寄る辺の無い心の居場所や、自身の出生が定まるかのような、そのような気がします」
静黙に徹す師範は挿花の傍ら、常盤の松の往時を懐うが如く、莞爾たる微笑を湛う。
「遠山霞の挿花を、頂法寺の花展にある作品を拝見しました。それから師範の作品に引き寄せられるように、ここまで辿ってきました」
「それはどうも。よくぞここまで」
「生花について学びたいのです。私に花を教えていただけませんか」
「もう師範ではないのですよ。教えると言えども、たいした事は出来ません」
「それでも、お願いしたいのです」
「分かりました。何かのご縁でしょう。宜しければうちへいらして下さい」
小夜更け方踵を返し、颯々と歩む師範の衽は、徒を拾う脚を弄い衣擦れを齎す。円山公園を流る幽玄の川、清宵を仄めく青竹の灯籠が、殷賑と汀に畝りて、其の緩流は揺動する蛍火の如く、徐ら霞みゆく微光を映ず。
6
「さあどうぞ、座って。今日はゆっくりして下さい」
座敷に漂う馥郁たる芳香と、軋む木柱が鼓動の如き情味を佩び、褪する紙面に綴られし行書体は、禁忌二十三箇条の墨痕を操觚し、風致に富む和室に楚々と滲む。
「すでにご存じでしょうけれど、華道には禁忌があります。自然の摂理に反することや、流れを滞らせ、花に濁りを与えるような挿け方がこれにあたります。花材を清らかに美しく挿けるためには、自らも花や草木と一つになり、自然の理を戒めるのです」
「花と一つにですか」
「そうです。花材に触れれば即無雑。あらゆる雑念は洗い流され、心の中には花が映るのです」
師範の握す胡蝶蘭の一株は、春宵の涼気と掌の微温、其の只中遷る寒暖は符節を合し、蕾が嫋やかに解る和順を感ず。天円地方の花矩に嵌る挿花は、卉然たる有為の葩卉を統べ、諸種の調和を経て無為へ帰す。挿花を支う戒飭を弁え、陰陽虚実の条理に敵う姿へ定め、精進に励む華道の真意を観ず。
徐ら躯体を擡ぐ師範は、胡蝶蘭を花台に伏せ、和装の着崩れを慇懃に整え、和室を去る寸刻に颯然を齎す。胡蝶蘭は匂やかに仄めき、蘭麝の薫りを鏤め、豊潤な嫩葉の翳に漂ふ。潔白な座敷に横臥し身を委ね、春愁を懐き畳の肌触りを嗜み、心静かに眼瞼を伏す。
7
「それでは、稽古を始めましょうか。まずは全てをよく観ていなさい」
花台へ華道具を鄭重に並べ、道具の接す一毫の璆鏘が、寧謐な和室へ徹す。
「華道で用いる道具ですが、花鋏と花器、花留があります。花鋏で花材を整え、花留に刺して固定し、花器に挿けるのです。生け花は自然の摂理を表現するものです。花器以外の道具は花材に紛れ込ませ、覆い隠す事が原則となります」
把する華道具の感触は闡明に、澹泊な鉄と陶器の質朴を掌中に収む。
「生け花は花材を美しく見せるだけでなく、空間や器などに彩りを与える事にもなります。生け花は一方向から観賞されるのが基本となりますので、作品は鑑賞者の方に向ける事を意識しましょう。花挿の寸法としては、花器の下から体の先端までを三分にし、下から一分を花器に、残り二分を花の領域とします。実際に挿けるとき、花の境界を少し超え、半空高い位置にまで花を挿けます。ゆとりを持たせて挿けることで、天に視線を集めることができるのです」
而して種々の花材を丹念に揃え、花器の正鵠を指し主軸を定む。
「華道では中心線を基に陰陽に分かれています。右側に収集され求心している葉は陰、左側で拡散して遠心する葉は陽を表現します。さらには、下に垂れた枝は陰、上に伸びる茎は陽です。花は基本的に、陽に向けて伸びてゆきます。陰陽とは日陰と日向などの相反する性質をもつ二種の気質の事です。日が陽ならば月が陰、昼が陽ならば夜が陰であり、両極なる二つの調和により、万物の現象に変化が生じるという思想です。花が蕾を結べば陰、花弁を開けば陽、そして解れかけの姿は和合を表現します。葉が程よく左右上下に分かれ、花蕾の調和が織り成す佇まいの中に、和の風情が顕現されます」
斯くて節榑立つ枝物を攫み、根元を浸し花鋏で剪る。水切りを経た花材は滔々と、溌剌たる動勢に帰し、枝房は丹青の妙を湛へ、希薄な葉脈の端を判然とす。
師範は山茱萸の枝物を花留に定め、無雑な質感を呈す花器に据え、寂静を孕みて謹厳に坐す。
「華道の作法では、役枝と呼ばれる花材を定める所から始めます。古来より、万物の基礎である天、地、人の考え方に従い、真、副、体と呼ばれる三つの役枝で構成します。まずは作品の要となる真から」
穹窿に弛む山茱萸が真を担い、上段の枝先は緩く流れ、弧線に張る一枝が赫々と耀い、水潯に傾ぐ柔靭な枝元は、水涯へ姿態を臨摸し頒つ。黄熟の花序の膨らみに紛い、優美に靡く花弁は瀟灑に、万朶の先鋭が気韻を纏う。山茱萸の微かな芳香を嗜み、枝節の眇々たる瘤を弄い、花材を刷く指端は枝房の端々へ、撫摩る須臾剝る枯淡な樹皮の、繽紛たる散逸へ興じ、皆悉此の体躯は崩落し、枯死の思索に耽る。
「数少なしは、心深し。生花は僅かな花材を用いて、花草木が根を張り、生きる姿を表現する様式です。華道では花矩と向かい合う中で、型という枠を通じ、雑念を捨て心を花に集中し、乱れる事なく定まる状態を目指します。生花には古来からの様式があり、その型に則り無心で技を磨くことが、稽古の第一段階となりますが、技術の習得に限らず、同時に精神の修行も行います。型への没入を通して自己を滅し、無我を極めるところに、花と自分の存在のありようを求めるのです」
然り而して謹厚に、手掌を伏す師範の所作は、清淑に揃ふ指端へ聯関し、砥草の茎の如き端麗を呈す。
花材の一縷に自然を観じ、剪裁の巧と涵養を恵み、花卉の吸水を経て花器へ据え、挿花たる花姿を成す須臾、萬の事象は俄に花へ転ず。花台や花器を端緒とし、敷板も即花を成し、茎を支う花留と花材を溌す水、花鋏さへ花の一端と化し、花人の居様は殊に華やぎ、畢竟精神をも花へと遷る。
「立花が花草木の調和に美を見出す事に対して、生花は花草木の発芽から枯死まで、命の理りと出生に注目します。出生とは植物固有の特徴、言い換えれば個性で、草木が生命の枝葉を一心に広げる姿こそ、出生の美というものです。加えて、花が落ち葉は萎れ、枝が朽ち果てる過程もまた美であります。そしてまた新たに出生し、循環するのです。生花は一瓶の中に尊厳ある草木の生命と、輪廻が表れます。数少ない枝で、草木の息遣いを感じながら生けるのです」
挿花に顕る明媚な摂理と、草木の息衝く生気の只中、瞑目を経て煩瑣な縁を掩い、汀に蕩くが如く身を委ぬ。存在の常盤へ聯関し、己は散佚を経て逍遥せり。
「稽古はここまでにしましょう。納屋にある道具を運び出したいの。手伝ってもらえるかしら」
居様を崩す師範は身を擡げ、窈窕たる馥郁を袂へ附し、寛い健脚で華室を退く。泛かぶ山茱萸の余香を辿り、清廉な後姿を追随す。
塵埃舞う茅葺の納屋へ、頻々と隠顕せし師範は、種々の荷物を類聚す。
麻縄で絆されし道具を共把し、躯体へ靠る嵩に屡々蹌踉めき、鄙びし納屋を抜け華室へ移す。 「重いでしょう。気をつけて」
鎖し籠む声音が耳朶を弄い、華道具の毀傷を疎みて鄭重に、躯体を律し一瞥する須臾、花袋を背に杉山を下る女人と遭逢す。女人は此方を瞻仰し、其の瞬刻視線が邂逅せり。荷物を抱ふ師範は其の場に佇み、恰幅に嵩む花袋を佩帯せし女人を眺む。
「若菜さんあのひと、よく似てる。若菜さんと瓜二つじゃない」
女人の精妙な御髪は、宛ら花風に戦ぐ絹の如く、繊麗な肩部を毛先で擽り、背面に燦然と耀う晨旦が、襟髪の光沢を菫に調ず。袖は薄紅を佩び蕭然と、皓々たる裾野に芽む菖蒲の如く、翻る躯体は長葉の繊細を呈す。気息を秘匿し恭謙に歩み、背に締括る襷の結瘤が、靱やかに立す花被片を表し、斯くて女人の羽織る衣裳は、宛ら裑に垂る花弁の如く、質実な調和を綾なす。
「本当に似てる。ふしぎな事もあるのね、若菜さん」
「横顔と後ろ姿だけではなんとも」
「雰囲気ですよ、若菜さんの独特なのとよく似てる」
「あまり似ているようには」
「若菜さんとは少し違うけど、同じ種類の気があるの」
師範は丹花の口唇に指端を添え、漸次打過ぐ女人を視す。纔に顫動する女人の髪に、赤らむ頬は無垢な芳紀を象徴し、面影の断片を絆しては罅ず反芻の間、頑是無い懐中へ誘ふ。
小腰を屈め此方を覗く師範の、物柔き掌が眼前へ迫り、髪に附した塵埃を拭う。平滑な手掌の温みが残存し、牴牾しく擽るが如き余情を引く。
「最近、花屋で一人雇ったときいたけれど、その人かしら」
「あまり似てないと思います」
「どこが似てるかは上手く言えないけれど。あの人と似ていたら、そんなに嫌かしら」
「よく分かりません」
屡叩く寸刻垣間見る明暗、卒爾に浮揚せし女人の妍きは、心労を掩ふ壮健を湛え、濡れ佩びた花蕊の如き睫毛の下、漂ふ翳が涅色の眸子に沈む。
華室に舞戻りて座す師範は、結紐を解き華道具を整え、掌握されし秀抜な水盤は、活気を佩び実へ変じ、手元を離る須臾虚へ環回す。眼睛に敬幕の念を呈し、薄紅の口唇に洩る言葉は、滔々たる清冽な余地へ滲む。
「華道における重要な事の一つとして、花材の季節感があります。四季折々と移り変わる豊かな自然の中で、季節と花材を美しく調和させるのです。季節感と取り合わせの二つの考え方は、花材の組み合わせによる調和と、作品全体を和合させる為に必要となります。花材の選び方に規則はありません。自身の感覚と全体的な調和、それから色彩を考慮して下さい。後は草木が生きるままに」
師範は懐から布巾を抜き、蕨手の花鋏を被覆し、刃を撫摩るが如く拭ふ。刃に附す灰汁が白布へ移り、木綿の繊維が淡く緑に滲む。
「今の内容も含めて、花材の調達をして下さい。道を下ってすぐの通りに、くれはという老舗の花屋さんがあるので、そのおかみさんに頼んで。長い付き合いだから好みも把握しているし、きっと良くしてくれるはず」
「分かりました。くれはで花材を買ってきます」
「お気をつけて」
華室の軸心に居様を正す師範は、捲上ぐ袖へ覗く腕を擡げ、山茱萸の流線を撫づ。
古雅の趣に富む軒瓦に、年輪を刻む看板を設え、要諦に金字の揮毫が在る。軒下で斉放する諸種の梅と、枝先の蕾を顫う木蓮の根元に、謙譲の美徳を表す芍薬が、壮健な花茎を孜々と立し、常盤木が一切を包む按排で配す。花木の小逕を辿り店先へ到り、澹泊な木戸を幾分か摺動す。
「いらっしゃい。珍しいお客さん」
「こんにちは。師範の下で学んでいる者です」 「ええ、話は聞いているよ。どうぞ奥へ」
女将は慣熟の所作で一揖し、花々が蝟集する店奥へ接伴す。
「半開の蓮の花が欲しいです」
「蓮の花ね。色は?」
「白い色の蓮で、開花している株と蕾、それと半開のものを。蓮の葉もいくつかお願いします」
「師範に似て細かい注文するねえ。でもちゃんと用意してある。時期の少し前に入荷されたから、もうすぐ芽吹く瞬間が楽しめるね。高さも必要だろうから、上に伸びる茎もの。それから、左右の広がりもね。垂れたものも使うでしょう。荒い表面としなるような曲線もある。茎先についてる葉は大きいのから小さいのまでね。他には何かひつようかしら」
「砥草を少し」
「はいよ。茎先は切る?」
「お任せします」
花材の圧潰を疎み庇保する女将は、敏捷な動作で花袋へ挿す。其の一隅で水揚げを為し、毀傷した葩卉の一片や、老朽を経た葉を翦る女人が、勘定台に寄りて花材の残骸を纏む。
「ああ。こちら、最近うちの店で働くことになった子です」
女人は悠然たる所作で面輪を上げ、和順な面に莞然と微笑を湛う。
「陽菜といいます」
頭巾を剥ぎ表敬する陽菜は、然有らぬ御髪が頬に靡き、其の毛流は松籟が耳辺を掠むが如し。
「身寄りがなくてねえ。うちで面倒見てるんです。これから師範とも関わる事になるでしょうから、よろしく伝えて」
「はい。伝えておきます」
花袋に溢る花材を抱え、店の門口を出て顧む須臾、謹厳に佇む女将の身熟に一揖す。掌中に滾る花を共把し、萌動途次の花樹が頬を弄い、葩卉の芳気が甚だ躯体を透徹し、柳糸嫋々として駘蕩たる帰途に就く。
路地を辿り山道へ到る途上、身を翻転させ附近を俯仰し、歩調を速め追蹤する陽菜に遭逢す。咫尺の間乱髪を手櫛で梳き、和紙の装しを纏う二株の花材を献ず。
「ひと目見た時から、あなたに花を贈りたいと、そう思いました」
二株は綯交ず花軸へ即し、扶助の末聯立する花姿は、漂浪する花序の規定に励み、花茎を寄せ安寧に華やぐ。先窄む新緑の脈は薄らぎ、幾分か低い茎丈が擡ぐ葩卉は、仄紅い花弁に綾模様を呈す菖蒲なり。素朴に添い雅趣に富む杜若は、扁平な葉身を天へ伸展し、下垂する花被片に斑紋を刻み、質実で克明な様相を呈す。菖蒲の葉は婉麗な花序の輪郭に沿い、莞爾たる微笑に綻ぶ口元を、指端で掩う風情を纏いて、綽然たる杜若の葉は清閑を領す。宛ら居様を矯め端座するが如く、花卉の出生を顕す実性と、枯死の虚性を聯立させ、麗春の時季へ符節を合す。
「どうも。ありがとうございます」
「あの、お名前を伺っても」
「若菜です」
「若菜さん。またいらして下さいね。お待ちしております」
陽菜は華奢な身躯を恭しく正し、謹厚な行儀で細々と一揖す。青葉の柳枝が縒る艶陽に、花風が懶く下垂する房を揺り、綯われた梢は紊乱を経て解け、葩卉は綻びて殷賑を極む。浩渺な京の景趣を眺む途次、青柳と枝垂れ桜を扱き、渾然たる玉の如く、都は錦の婉美を殊に顕す。
「もどりました」
「おかえりなさい。おかみさん、いい人だったでしょう」
「はい、とても。さっき見かけた方、最近くれはで働きはじめたようです。名前は陽菜さん。おかみさんがよろしく伝えて欲しいと」
「まあ、やっぱり。こちらこそよろしく言っておいて」
「また会えたときに伝えておきます」
花材と賜物を花台へ置き、漸次躯体を巡る倦怠が懶さを示す。
「その菖蒲と杜若は」
「陽菜さんにいただきました」
「そう。二種で並んでいるところ、あまり見たことないけれど、やっぱり似たもの同士ね」
哀調を佩ぶ静穏な声音と、肩部に凭る師範の手掌に、柔肌を包む快暖を感取し、其の余温は春陽を彷彿とさせ、朧気に躯体の軸心へ徹す。
「それでは若菜さん、今調達した花材を生けてみましょうか」
花鋏を把し刃の塵埃を払い、燻る卉木の瑞々しい馨りと、掬上ぐ花材の弧線を吟味し、撓垂る花序を水面に映す。水影と実像が嵩む須臾、茎先を浸し斜交いに翦り、花茎の罅ず琳琅たる響みは、水面に顫動を附し余韻を引く。花材は截口から悠々と吸水し、婀娜めく花弁が葉を扼し、活物の躍動と生の仮象を復調す。死生の遷りを肌身で嗜み、確乎たる実体は虚に伏し、現象の流動を一端を担う。
広口の花器に花留を据え、茎丈の長い蓮葉を攫み、茎を矯め温柔な曲線を附し、主株の余地へ大葉を傾ぐ。葩卉を擡ぐ白蓮を天に、滅裂を冀う蕾は大葉より低位へ、半開の中葉は左方へ大胆に遍し、開葉に浸り逡巡する葉姿は、須らく従す生存への倦怠を佩び、小葉は水面を蔽う浮葉の如く、尚も撥無する巻葉が隠顕す。
荘重に佇む花々は頃来を、胚珠に懐す種子は向後を担い、膨潤を護持する蕾は往時を偲ぶ。三世は一瓶へ斉しく顕れ、茎の堅牢と清廉な葩卉に、珠玉の感歎を抱き、慮外な法悦へ耽溺し、忘我の末に往古来今を観ず。
「すばらしいわ。美しくて清らか」
師範の指端は蓮葉の葉脈に沿い、表面に附す水滴を摩る。
「若菜さんの精神や内面が、全てあらわれている気がします。私には、この光景をうまく言い表せる言葉が見つからない。ここにあると同時に、どこにも存在しないような、余地を漂っているみたいに、掴めないの」
「きっと私自身が、そうなのでしょう」
白露の如き師範の頸部は、所作の端々で甚だ顕に、淡い筋脈が耿々たる光輝を放つ。涼所に咲く勿忘草の如き風貌に、悠揚たる微笑を湛う和煦は、主我を純化し深奥を照らす。
「五月満月祭の日に花展が開かれるのですが、この作品も花展にだしてみましょうか」
「こんな物でも、いいのでしょうか」
「かまいません。花展にだせる水準を超えているという事ですよ。もう少し喜んでもいいのに」
「いただいた菖蒲も、挿けてもいいのでしょうか」
「若菜さんが挿けるのなら、いいでしょう」
賜物の菖蒲を蓮葉の傍らへ添え、朴訥な風情を醸す葉の翳で、眩い光明に眼瞼を伏すが如く、殊勝な花株を委ぬ。蓮葉の裡は暗澹たる沈黙を貫き、慈雨を齎す靉靆を偲ぶ。
8
円窓の掛花は蔦と枝葉を垂り、万朶の枝節は稜々と屈曲を湛え、淋漓たる墨痕を呈す掛軸を、悉皆囲繞するが如く瀰漫す。
門口に華やぐ水仙の挿花は、頻々と往来する衆人を歓待し、重厚な葉身は平坦ながら、流線を辿る葉端は窄み、幾重にも織込む葉の間に埋もる。撓垂る花茎が吊る未開の蕾は、淡黄の花弁を纏い悄々と粛す。
一瓶に類聚せし幾多の卉木は、寥廓たる花展を華々しく彩り、往来する衆人の環視を浴び、殊に端麗な花姿を呈す。芳気を鏤む葩卉の群生を過ぎ、扮飾纏いし花々の展示へ赴く。
「今日は美しい花たちのお披露目会ね」
婀娜やかな和装を纏う師範は、結上ぐ髪へ屡次に靡く後毛を払い、楚々たる挿花を順に視し、花材の纏繞と縒りを丹念に解す。
「若菜さん、ここには様々な流派の作品が展示されているから、気が済むまで見学していらっしゃい。色々と学びになるはずよ」
袂を靡かせ顧眄し、然して鞅掌する師範は、他派の華道家や客人の歓待へ赴く。
筒袖に染む石竹の残香を払い、着頽る襟を纔に抜く末、清やかな花展へ歩武を進む。後手に結上ぐ髪が背部に擦れ、疎らに打靡く錦糸の、玉響の繊細を覚ゆ。整然たる花展を漫歩し、粲然と耀う挿花を眺め、出生の趣向への相違を見出づ。
樹梢を散ず牡丹桜の小枝と、花弁を支う花托の狭隘へ、疎らに萌す緑が隠顕し、其の褐色の細枝の下、二株の菫が躙りて葩卉を擡ぐ。
薄らぐ藤花の聯関は、恰も群蝶の犇めきの如く、優美に垂る蝶形花は情趣に富み、纔な枝垂れは清雅に湾曲す。葉化した紫陽花の花弁は青々と、皺む葉面を錯綜させ、花茎を擡ぐ花金鳳花は、淅瀝たる黄緑の花序を掲ぐ。
真に撓む枝房の節々に、桃の葩卉が斉放し、湧き出づ泡沫が罅ずが如く、福に撓る役枝は漲る程に散じ、体に粛す役枝は嵩む蕾を凝る。
四方へ花序を掲ぐ百合水仙は、開花を経て枯死へ遷る四季を表し、房の釁隙に花菖蒲の葉先を現す。項垂る未開の笹百合は、咲きて枯死を齎す徒労と、出生の蔚然たる倦怠を表す。
具象を経た乾坤に対す須臾、智覚の飽和が平衡を揺り、昂る鼓動に即す煩慮が、尚も殊更拍車を掛け、求心の末聚む心水は徹す。
「若菜さん、こんにちは」
「ああ、陽菜さん。来ていたんですね」
「ちょうど今来たところです。おかみさんが花展があるから見てきなさいって、早めに切り上げてくれたので、帰りがけに寄ってみました」
陽菜の声音は鐘形の花序を揺らすが如く、芳紀の清澄なる音調を呈し、堅牢な蕾を解す残響を附す。
「でも若菜さんに会えるとは、夢にも思いませんでした」
「はい、本当に、夢かもしれません。いま、他の流派の作品から着想を得ていたところです」
「作品の鑑賞中にすみません、お邪魔してしまいましたね」
「いえ、色々と考えて、塞ぎ込んでしまいそうだったので。話しかけて頂いて助かりました」
「よかったです。若菜さんを見ていると、自然と惹き寄せられてしまうので。ここには若菜さんの作品も展示されていますか」
「はい、一つだけ。大した物ではありませんが」
「ぜひ見せて下さい」
煩雑な往来を縫い華展の奥へ帯同し、閑散たる展示の一隅、恭謹な蓮の格花へ嚮導す。
「これは生花と呼ばれるもので、花や草木の出生について表現する様式です。右側に添えてある菖蒲は、陽菜さんに頂いたものをいけてみました」
陽菜の眸は汀の揺蕩の如く潤い、嫋々たる千筋の流涕を頬に残す。袖口に面隠す眦は紅涙を絞り、擡ぐ腕が弛む寛闊な所作に、菖蒲の如き趣を呈す。
「どう、でしょうか」
「私のような人も、生きていて良いのだと、そう思わせてくれる何かが、きっとこの作品にはあります。若菜さん。どうか、華道を続けてください」
袖に秘隠す陽菜の手掌は、所作に伴い滑す輪郭を佩び、真情を流路するが如く、此方を握す其の体動は柔し、涼やかに靡く袖口の擦過は、質朴な音調を呈す。此の身に陽菜の肌膚が附し、掌中の温みが軸心に浸む程、水涯の安穏へ誘引され、殊に鋭敏を増す膚合に、渺茫たる晦瞑を手弄る。
「華道は、続けるつもりです。陽菜さんの望むような人になれるか、分かりませんが」
「若菜さん、今から鞍馬寺まで行きましょう。今日は五月満月祭の日ですから」
嬉戯の如き陽菜に追従し、花盛りの花展会場を立退く。
9
発駅から叡山電鉄の展望列車に乗り、葉叢を透く明々たる春陽に、燦爛と耀う窓辺の席に座す。停車場の斜向かいに斎放せし桃は、嫩葉を兼ぬ枝節に、薄らぐ惜春の葩卉を掲げ、葉桜に縺れ撚糸の如く聯立す。緩慢に発す展望列車の揺動は、嫩葉の駘蕩たる顫動に伴い、康寧を孕み微睡を誘う。
「五月満月祭はお釈迦さんのための祭典なんですよ」
「そんな祭典に、私はふさわしいのでしょうか」
「わかりません。祭りに参加する予定もなかったのですが、若菜さんの花を見ていたら、連れて行かなければならない気がして、勢いで飛び出してしまいました」
「祭典のことも、鞍馬や貴船についても、あまり知らないのですが」
「私が案内します。若菜さんなら、きっと鞍馬の火を鎮められます」
「そんな、大それたことは」
「誰の心にもかならず灯る、小さく燃え続ける火です。私がそばで見守りますから」
貴船口に到り鬱然たる卉木が彌漫し、鞍馬山の稜線は灘らかな重畳を呈す。万朶の梢が天日を散じ、皓日に眩む陸離の揺曳は、伏した眼瞼に熱りの余韻を残す。
「もうすぐもみじの並木が見えますよ」
椛並木を打過ぐ列車は仄暗く、照明の灯る車窓は鏡面の趣を呈し、景象を覗く身躯を映ず。沿線の青葉椛の隧道が流れ、車窓に映る万斛の樹梢が、蹣跚たる即身に符節を合す。青葉椛の葉縁は方々へ頒ち、深く切れ込む葉は窄みて、靡く葉身は瀟灑な緑に和む。
「青葉もみじですね」
「窓一面みどりになりました」
「ほんとうに」
「若菜さんと一緒に見るもみじは青々としていて、一際鮮やかにうつります」
「陽菜さんの近くに居て、心が洗われたからでしょうか」
陽菜の面輪を彩る緑の只中、楚々たる頬の紅潮が色付く。靉靆たる椛木立は躯体の反射を暈し、外景の青葉椛へ埋もる錯覚を抱く。素肌へ鏤む皓々たる温みと、気疎き倦怠の纏繞が散じ、相剋を経て無窮へ到りて、徒世を彷徨う心華は挿花に現る。
鞍馬駅に垂る短冊は飄々と靡き、駅舎に色添う八重の五月梅、鋸歯状の葉を郁々と、花弁に端隠る黄熟の蕊に、淡く燻る灯火を覚ゆ。
展望列車を降り鞍馬駅から参道へ赴き、鞍馬寺仁王門が山麓の葉叢に滲み、聳立せし鞍馬の杉木立の雲集は、一様に樹冠を天へと掲げ、颯々と戦ぐ檜の枝葉は倦みを散じ、銀杏の葉は扇面の如く翻る。鞍馬の澎湃は滾々と流れ、山肌に沿う水脈を辿りて溢る。
門前に茶尞が所在し、古木の扁額に雍州路の揮毫あり。鬱乎たる青葉椛の緑陰に紛い、葉叢の掩蔽が民芸の趣を表し、閑静な山麓へ融すが如く、郷土色の質朴を呈す。歩調を緩め茶尞を眺む陽菜の面に、陸離たる光彩が反照し、耀う端麗な輪郭を殊にす。
「ここでお昼にしませんか」
「精進料理ですね」
群青色の麻暖簾を潜り、和装を纏う店番が礼遇を尽し、其の眸子を恭謙に据へ、鄭重な一揖に伴いて、一把の髪が銀杏の如く末広ぐ。
和の妙味溢る間へ歩武を進め、座に直りて品書きの吟味の末、三種の精進膳から花精進膳を注文す。枯淡の趣を纏う民芸食器に、麦ご飯、和え物、汁物、山菜とろろ汁、胡麻豆腐、山菜白和え、蒟蒻の刺身、香物、生麩の佃煮が添い、仏教の戒に拠す精進料理は、殺生と煩悩の生起を忌み、精進の意を策励す。地気の濁りを払拭し、清冽を銜む山菜が活気を齎す。
口唇を弄う汁物は躯体の芯を浸し、粗朴を綾なす深甚な出汁、若葉を円む蕨に薇、馨り立つ占地や榎茸、梅花の型に飾切られし人参、弾力を有す蒟蒻が綯交じり、麦ご飯の純朴な風味が調和を図る。春の日和に稔る山菜は、時季に則り旬を纏め、淡味な風合いを表す。
炭火で焙じた茶殻を、鞍馬井戸に漲る観音水で濾し、清麗に拵う番茶を呑下す。躯体に迸る心水の濁を払い、奥妙な虚脱へ溺す主我を、心静かに内観す。
茶尞を退きて仁王門を一瞥し、参道の石畳を踏み歩武を進め、門の境域を踰ゆる須臾、其の卒爾に眩む双眸は、平衡を欠きて蹣跚と、蹌踉たる歩武で陽菜の懐へ凭る。鼓動の齟齬が波濤の如く打寄せ、澎湃たる頭顱の疼きが、主我へ執する思索を削ぐ。躯体の端々は枯木の如く、悉皆頽りて剥落へ励む途次、畢竟盤石な骨身に澱み、心水は胸懐を圧す末、昂る情動を壅蔽す。
「体調がすぐれないのなら、帰りましょう」
「大丈夫です。呼吸を整えれば、すぐにでも、なおりますから」
杉の片陰で暫し休息を取り、漫歩に耽る途上参道へ歩武を進む。
10
鞍馬の自然崇拝は翠巒を呈し、薄靄が稜線を暈し聳立す。蕭々たる卉木は陰乍ら出生し、時節の到来を経て葩卉を擡げ、天象の狼藉を覚り枯死を宜う。春草は往来の雑踏に拉かれ、尚も細茎を掲げ飄然と靡く。
蕩然と盈つ鞍馬の暖気を、滔々と流る貴船水が涼しめ、蜒蜒たる参道に列する朱灯籠は、翠緑が綾取る御岳に華やぐ。葉腋に零る梅は朱を刷き、枝節の瘤に木苔が生す。白妙の総苞を解す花水木の、苞片を縁取る窪は仄赤く、宛ら頬紅を塗すが如く、隣る梅の色調が滲む。
水盤舎の還浄水で身を清め、葉越に鏤む疎らな明滅が、伏した眼瞼に皎々と耀い、一毫の柔な温みを感ず。石階段を踏み歩武を進め、蜒々と重畳せし九十九折参道へ到る。路傍の樹が木末を広げ、嫋々と靡く枝葉を擦る傍ら、悄々たる汀を張る放生池に、懈く尾鰭を振る緋鯉が遊泳す。水涯へ寄る陽菜は小腰を屈め、緋鯉は俄に躯体を翻し、池に揺る波紋が影を暈す。
「満月の夜に行う五月満月祭の日は、花や草木を芽吹かせて、草丈を伸ばすような生の力が満ちるようですね」
「満月の夜に限っては、花は日が落ちてからも光合成を続けます」
「なんだか、幻想的ですね」
「幻想の様に感じます。寂しさばかりが募る気がして」
奥妙に澄む陽菜の眼睛は潤い、葉間に漉す陽光を映ず。
本殿金堂へ綿々と続く、九十九折り参道を上進し、途次に堵列する朱灯籠の聯立が、水源に御身を浸す龍神の如く、逶迱の弧を描き昇騰す。古鞍稲荷大明神と荼枳尼天を祀る、古鞍稲荷社の蹊径を踰え、年輪を刻む樹々へ浸む瀑声が、徒を拾う須臾鼓膜を聾す。稠密の杉木立の横溢に、石造の鳥居と割拝殿が投影し、霊樹の躯幹に絆す注連縄は、樹頂を掲ぐ御神木に扮飾を施す。杉木立の釁隙を縫う蹊径に、霧雨の如き囀りが耳朶を弄う。
「由岐神社まで登ってきましたね」
「陽菜さん、大杉さんが見守っていますよ」
「樹齢約八百年の老木ですね。鞍馬の火祭のときには、鞍馬の里は燃え盛るかがり火で山一面が赤く染まります」
「こんな場所に火を持ち込んで大丈夫なのでしょうか」
「きっと大丈夫です。近くに龍神様がおりますから」
由岐神社を過ぎ顕著な勾配が表れ、天日を浴す玉杉大黒天と、木陰に隠る玉杉恵比寿尊、彼此を掬ぶ双福橋が、歴々と鏤む陸離の陽光を纏い、円弧を描く橋桁と朱の橋柱が耀う。斑竹の手摺りを弄い、節榑立つ瘤を摩りて歩武を進め、灌木綯交ず紛々たる叢林を瞥見す。
中門を潜り石垣に蔓延る苔は、石段を尠少に縁取る。躯体を揺る陽菜は蹣跚と、朱を刷く頬を殊に華やがせ、素肌に纏ふ春の夕靄は、鞍馬の半天に仄赤く裾を広ぐ。本殿前の展望所へ寄る陽菜は、勾欄に凭れ気息を揃え、儼然と聳つ鞍馬を眺む。
「今日はここから、満月を眺めましょう」
「そうですね。祭りが終わったら、もう一度ここへ」
「若菜さん。私は若菜さんに出会えただけで、意味があったと思えます」
「そうでしょうか。どうしても、自分が分からないのです。私にとっては、全てのことが徒労と倦怠なんです。草花の出生も同じように、無益な循環に思えて」
「それでも、若菜さんは花を、愛しているでしょう」
「私には、よく分かりません。自ら手を伸ばして、自分の内側に触れてみるのですが、どれほど掴んでも、それらは立ち所に崩れ落ちて、すり抜けてしまうのです」
「私がどうしようも無く、若菜さんに惹かれてしまう理由が、少し分かった気がします」
入相に盈つ余光が天を赧らめ、浩々たる宵が澹然と掩い、明暗の狭隘に棚引く雲霞は、太陰と太陽の気を和合し、赫々たる余燼を燻らす。 「さあ。もう少しで時間ですから、本堂へ向かいましょう」
揺曳する残曛が山間に耀い、桑楡の景を仰ぐ陽菜の面は、入相に照る赧顔を呈す。
本堂の前庭に蓮花型の灯明が咲溢れ、絢爛な灯花を吟選した末、掌中に蓮を包し胸懐へ掬上ぐ。
「若菜さん、これは心のともし灯と言って、各人の精神の象徴です。この花に火を灯したとき、若菜さんの心が表れるはずです」
「そうだと、いいのですが」
「私は若菜さんの挿花をみた時、溢れ出る何かを感じたのです。生花は生を表現すると言っていましたが、私には、生と死の両立に見えました」
「私はただ、流れていたいのです。穏やかに吹き撫でる和風や、冷たく澄んだ岩清水のように」
「若菜さんの心は、貴船水のように清らかだと思います。華の灯明は若菜さんが持っていて下さい」
「分かりました。そうします」
本殿金堂御前の金剛床は、荘厳な敷石が綾取り、六芒星の紋様は二重の内円を包し、軸心は三尊を象る石巌を嵌込む。内円を踰え金剛床の六芒星に干渉し、霊妙な境域へ溺す須臾、躯体を巡る倦怠が散じ、欣快の至りに達す。
石畳の亀裂に葩卉を掲ぐ菫は、春宵へ鈴を張るが如く罅ぜ、項垂る花弁へ沈む光沢が、皓々たる月光に透徹す。造化自然の聯関を享受し、無窮に燻る種子は地より芽吹き、畢竟開花を経て葩卉を擡げ、其の仮象は枯死へ到りて散ず。造化を呈す自然の脈動は、無常に流転する現世と、徒労に帰す死生へ撓垂るが如く、倦怠を纏う花姿を顕す。
山気が膚肌を弄う小夜、本殿金堂に参拝者が列し、金剛床に端座し静観す。蓮花の灯明を傍に携え、端然と居直る参拝者に倣い、参列の掉尾に腰を据ふ。
皓月が花卉の回瀾を既倒に反し、赫奕に耀う月光は暈を佩び、恰も篠突くが如く地へ降り灑ぐ。模糊たる花卉の輪郭は仄光を纏い、仏僧の衣擦れが余韻を引く。地鏡浄業に則り斎場の浄化を経て、魔王尊を讃仰せし仏僧の、其の儼乎たる読経が、玄妙な功徳を夜陰へ施す。
本殿に灯る小火を大燭台へ熾し、装束を纏う巫女が炬火を掲げ、赫々と燃立つ炎に煽る袂が、沙羅双樹の葩卉の如く翻す。巫女が把す尊天御宝前の炬火は、参拝者の灯明へ漸次点火し、杳々たる心華が斎場に横溢す。玉響に揺らぐ灯明が瀰漫し、皺立つ蕾が徐ら罅ずが如く、月華に蓮の葩卉が泛かぶ。
祭儀を為す壇は楚々と、清水を抄ふ銀椀に月影を映し、水月の揺蕩を踰越し月輪を拝す。心華の灯明を掲揚し噤みて、月夜の微光に抱かる躯体と、須臾に純ずる精神を重ね、月華精進の禅定を以て仏性を観ず。
本殿から地下御堂の一路を辿り、参拝者は宝殿へ到る廻廊を進む。歩武に伴う軋みは無明に紛い、悄然たる僅少な余韻を引く。宝殿深部は尊天の彫像が粛し、鞍馬杉の霊木の風情を醸す。慈愛を譬ふ千手観音菩薩、光明を象る毘沙門天王、活力を蔵む護法魔王尊、御三身を一体とし、三像を秘仏として祀る。光背を扮飾し皮の甲冑を纏い、宝棒を天竺牡丹の如く擡げ、松葉の如き手掌を呈し、宝塔を捧ぐ毘沙門天。護法魔王尊の高邁な鼻筋は、峩々たる山伏を模し、花卉の出生に畏敬の念を示す。細腕の合掌は万朶な椿の如ぐ、弧線を描き猨臂を伸ぶ尖端に、腹前で拱く宝鉢を筆頭に、荘重典雅な法輪や錫杖、水瓶など炳乎たる持物を把し、眼瞼に覗く眸子は豁然と、端厳たる様相を呈す千手観音菩薩。真体留の三役綾なす仏の和合が、三才を為し宝殿に聯立す。
宝棒の加持を豊饒に賜い、月光の徹す明水を参拝者で頒つ。凛乎たる涼感が盈ち、頓に洗滌する仏性を感じ、宝殿を退き本殿へ進む。
祭祀を為す本殿は閑散と、参拝者は金剛床に心華の灯明を捧げ、飄々と靡く茫々たる火は、汀の水紋が重畳するが如く顫ふ。
「若菜さんの灯明はここには置かずに、私達は展望所へいきましょう」
「とても洗練された行事でした。澄んだ水の中に沈むようで心地よかったです。陽菜さんにお礼しなくては」
「ええ、ほんとうに清らかでした。私はただ、若菜さんを連れ歩きたかっただけですよ。感謝なんていいんです。これからも華道を続けてもらえるなら、それだけで十分です」
展望所の眺望は宵に紛う山稜を暈し、遼遠に呈す峰々の弧線は、咫尺の間に迫る深潭を擁す。春夜に霞む微光の只中、空木の剥る樹皮は白妙に煌めく。玻璃の鏡の如く泛く明月は、耿々たる日華の余光を反射し、潭水に映る水月に倣ふ。渺茫たる月光を佩び澹々と、朧雲の薄片が月輪を弄い、奥妙な水底から仰ぐが如く、幾重にも波紋を立て彎曲す。
春宵に即す眼界の一端、勾欄を弄う陽菜は葉を払ふ。
「わたしの祈りは、若菜さんに捧げます」
「お釈迦様に祈らないのですか」
「はい。わたしはお釈迦様じゃなくて、若菜さんに祈りたいのです」
手背を摩る陽菜の指端が、灯明を把す手掌を柔く覆う。其の明眸は跳動する睫毛に翳り、鬱悒し面貌に莞然を湛え、杳々たる灯明に照り婉然と佇む。
灯明の底に手掌を添え、眼瞼に灑ぐ月影へ掲揚す。眼睛を瞠りて焦点を暈し、灯明の火と明月の境を眇み、揺蕩せし火が徐ら昇る途次、月輪は閼伽へ溺すが如く、双方は輪郭を透かし渾然とす。琳琅たる月輪の面は、情趣と無常なる哀愁を佩び、徒世の境地を映す円鏡の如く、冴々と巧緻を極む。灯明を擡ぐ腕弛さが纏わり、須臾にして徒労へ帰し、漂泊に陥る躯体に存ず。
「こうしていると、まるで夢のようですね」
「そうですね。今感じていることも、夢や幻のようなものです。掴んだ指の間から、流れ落ちてしまいますから。だからこれも、夢なんです」
「そう言うと思いました。若菜さん、心のともし灯を、どうしましょうか」
「吹き消してしまいましょう」
蓮花の灯明を面に翳し、清冽な気を心華の灯に吹き、眦に温みを齎す幽かな余焔は、火先から燻り霞と化し、春宵へ散じて灰燼に帰す。素月の清輝が盈ち、繊翳が面の輪郭を暈し、宵に紛う躯体を透くが如く、心水に月翳を映ず。纏繞せし倦怠が心水を顫い、幽き水紋が胸懐へ溢れ、体躯の隅々へ迸る途次、聖音を奏すが如き安寧に伏す。
陽菜の嚮導に追従し御階を下り、洗心亭の階上へ歩武を進め、転法輪堂の緻密な格子戸を引く。釁隙に這う幽き月光は、艶麗な光沢を纏いて、掻疵に洩る抹香が、謐然たる堂内へ卒爾に盈つ。
「人目につかないように、明日は朝早くここを出ましょうか」
「そうしましょう」
「若菜さんと、もっと近くで、お話ししたいです」
木壁を背に座す肩口へ、陽菜の爛漫たる躯体が接し、宛ら東風を孕み嫋やぐ柳髪が、春霖瀝る嫩葉の如く、杳然たる葉擦れの弄いを偲ぶ。
「おかみさんがよく言います。私と若菜さんはよく似ているって」
「師範も同じ様なことを言いますよ」
「若菜さん。私はいま幸福です。共に時間をすごして、同じ景色をながめているのですから」
弛く伏す陽菜の眼睛、其の奥妙へ懐抱されるが如く、安穏を眺む此の身の眸子は、逆巻く滂沱を散ぜんと励むが、殷盛は阻まれ朧々と潤む。
「若菜さんには、どんな景色が映っているのですか」
「まるで鏡を見ているようです。心を覗いているようです」
「とても綺麗な心ですね」
「心は巧みな華道家です。私の認識を目の前に挿けるのですから」
「心が華道家であるのなら、この世は空虚な花器のようですね」
「きっとそうです。本来無いものが、あたかも有るように見えているのですから」
「それが夢や幻ということですか」
「思考や言葉が外側に発せられなくても、心の中に根を張り意識を動揺させて、物の姿形が外界に咲き、花盛りになった状態に、美が見えるのです。そして、地から湧き出る欲を沈めて、花器へ移した花の清らかな美しさに、心が囚われてしまいます」
「囚われても、いいのではないでしょうか」
「美しさも所詮は虚構です。言葉と同じように、見せ掛けだけの仮の姿です。真理のようなものは、言葉や美しさでは表現しきれません」
「花でさえ、表現しきれないものがあるのですね」
「それでも私は、花に向き合わねばなりません」
「若菜さんは、幸せではありませんか」
「分かりません。幸いは淡くうすれて、寂しさばかりが濃く色付きます」
「そうなのですね」
「でも私は、もう十分です。陽菜さんのおかげで、今日満たされた気がします」
視界は掠れ濛気に盈ち、朧々と溺す意識の一端、鈴鳴りの如き陽菜の声音が、草臥れし気疎い身に徹し、朱を刷く頬を柔く弄う。
「初めて会った日に渡した杜若、まだ咲いていますか」
「咲いています」
「そうですか、よかった。その杜若もあの時の菖蒲と同じように、一瓶の中に挿けて下さい」
「菖蒲に触れたときに、陽菜さんの姿が想い浮かんで、思わず挿けてみたのですが、あの杜若を眺めていても、なにも思わないのです」
「だからこそ、見てみたいと思います。若菜さんの内にあるもの、表現して下さい」
「私は、あの花材を持ち上げることすらままならないのです。花材の出生を表現したいと思わないのです。心が霞んでしまいます」
「若菜さんの心は透明です。透き通った花弁です」
「いえ、ただの徒花です」
微睡の繊翳に罅ず泡沫は、現を倏忽の間に象るが如く、一株の八重の葩卉が暗澹に聚みて、版画の一毫を覚ゆる途次、風雲の情を醸し飄揺す。
11
本殿金堂の蹊径を辿り、奥の院参道へ歩武を進む途次、万朶の合歓が幾重も嵩む翳、竹筒より瀝る息継ぎ水が滔々と、纔に飛沫を上げ清冽に流れ、苔生す水受け石へ淙々の音を成す。
巍巍たる鞍馬の奥部へ赴き、背比べ石を過ぎ御階が跡切れ、杉木立を縫う木の根道へ到る。杉の根張りは水脈の如く、堅硬な地盤に流跡を附し、蔓延る無骨な根を避り歩く。
山道前方の細逕を過ぎ、魔王殿の御前に峙つ杉を仰ぐ。
「天狗のほえる声は雷に似ているとか。天狗は自惚れの象徴だと思いますか」
「修験道を志す山伏の比喩でしょう。神仏分離の末に廃れてしまったものです」
西門を潜り瀬音の玉散る清流へ到り、貴船川を架橋せし奥の院橋を渡る。退色に瀕する木の床版は、踏締む度轢音を伴いて軋み、振盪を朱の勾欄へ悉に伝う。
鞍馬寺西門と貴船神社本宮の隣接が、水神を祀る神社と鞍馬の炎を調じ、妙々たる両気は悉く和す。貴船川の川床風景に響む濤声は、貴船の濁音無き韻律に同調す。
朱の鳥居は濛々たる水煙を佩び、春日灯籠が華やぐ御階を進みて、青葉椛の絵馬が颯と翻る本宮へ達す。桂の御神木が地盤に根張り、枝葉を天に擡ぐ質実たる情調は、貴船に衍る清気を鏤む。
「ここでは京都の水源を守る神を崇めていて、雨乞いや雨止めの神事があるようです」
「白馬と黒馬の像が象徴的ですね」
深緑に翳る龍船閣の眼前、毅然たる二頭の神馬像が嶷立し、滂沱を冀う黒馬と、止雨を祷る白馬が、太陰太極図の如く旋回す。屈強な蹄で地を蹶然し、天へ躯体を擡げ嘶く黒馬の躍動は、端麗な鼻梁を掲げ鬣を戦がせ、脈絡を欠きて漂ふ白馬の寂に和され、崛起せし樹の間に雲翳が遍く。
貴船神社の水占神籤を把し、滾々と湧く水占齋庭へ浸け、浮水葉の傍ら睡蓮が罅ずが如く、沁むる水が神籤に文字を揮う。
「末吉でした。若菜さんは」
「同じですね」
「今は良くなくても、後に吉になると言うことですから、悪い意味ではありませんよ」
陽菜の掬上ぐ水占神籤は、澄明な気に晒され纔に靡き、滲む御神水が蒸散へ到る須臾、雄渾な筆跡が霞む。
「言葉が消えてしまうのは、とても儚く感じます」
「心の水鏡に映す間にだけ、色や形が浮かび上がるのでしょう」
汲水の器を把す陽菜は、水占齋庭の水面へ小腰を屈め、貴船の神水を汲む清廉な所作は、悠々と濡つ袖に涼感を附す。
「この水を生け花に使うのはどうでしょう」
「貴船の水を吸った花は、なによりも美しく咲きそうですね」
「その水を花瓶にそそいで、あのとき渡した杜若を挿花にして欲しいのです」
貴船神水の器へ一縷の天日が射し、清水は陽を含蓄し糾合す。
本宮を踰え貴船の水源を辿りて、中流に粛す中宮へ行き掛かる。屈強な根より二樹が屹立し、相生する杉の樹冠は渾然と、躯幹は縫合の如く癒着す。二株の狭隘に泛かぶ余地は、際涯を透す鏡面の如く、彼方の嵯峨たる光景を徹し、且つ此方の情景をも映ず。拝殿を圍む玉砂利が擦れ、参道に嵌む三巌の踏石へ響む。
「御祭神は磐長姫命とあります」
「人と自然、そして文化の流れを結ぶことから、縁結びの信仰がありますね」
本殿に粛し苔生す天乃磐船は、宛ら因果の奔流を揺蕩し、弧線を描く船首は自然石へ帰す。本殿瑞垣に結び処を構え、花菖蒲の葉を覚ゆ結び文が、張り詰めた糸に絆さる。
「縁結びは一つの戒めのような気もします」
「花が開いて散ってゆくのは、美しいことです。若菜さんは、花を活かす人だと思います」
「私は花を活かす水のように、なれるのでしょうか」
貴船川の細波に揺る山吹を、殊に凝望する寸刻、心水が躯体を散ずる感覚を抱く。
奥宮まで堵列せし春日灯籠に従し、杉並木の参道へ赴く歩武は、貴船川の瀑布と符節を合し、一菊の意識は罅ぜゆきて、花卉の命脈へと没す。神門を潜り御船形石を一瞥し、綴らる石巌の間の蔓草や、絆されし注連縄の罅隙が、常世の境域を示威す。
「玉依姫命は黄船に揺られて、淀川から鴨川をさかのぼり、源流である貴船川の上流で、祠を建てて水神を奉ったようですね」
「川を逆流して水源に向かったのですね。今の私達のように」
心水の迸る胸懐を把り、仰ぐ連理の杉の巉絶は、軸心を貫く杉の聳立と、陽方へ樹梢を撓む楓の二樹が、挿花の如き調和を綾なし、静粛な境内に和す。玉砂利を踏締め赴きて、死の扮飾を纏う樹皮を弄い、粗肌より漂う馨香を嗜み、撫摩り薄墨の樹皮が剥る様、心水を遠心させるが如く、手掌に滲む水気が樹脈を湿す。
曇天に照る稲妻は光明の如く耀い、宛ら鞍馬天狗の高鳴きか、黒馬の嘶きを覚ゆ雷鳴が冴え、寸陰に余韻を引く鳴動の爾後、沛然たる春驟雨が降り濡つ。
滂沱に濡つ陽菜が一散に駆寄り、袖を引かれ杉楓の樹幹へ凭る。御髪へ手櫛を通す陽菜は、雫の瀝る杉楓の梢を眺む。
「ずぶ濡れですね」
「ええ、ほんとうに。水の中にいるようです」
「私の真似ですか」
「そうですよ。若菜さんにならって、ためしに言ってみました。どうでしょうか」
「雨越しにみる景色は、何故だか透けて見えます」
「やっぱりかないませんね。若菜さん、もう少しこちらに、私の方へ寄りかかって下さい」
雨霞みに揺る陽菜の眸子に、渓流の岩肌へ自生し、疎に咲き零る皐月を窺く。葉間に瀝る雨が睫毛を弄い、眦を撫で輪郭を垂る。
「葉の間から雨がしたたりますから、暫くはこうしていましょう」
「私は濡れてもかまいません。陽菜さんが濡れてしまいますよ」
「いけません。いまは天の濁りが流れ落ちてきているのですから、もうしばらく、清められるまで待ちましょう」
「陽菜さん。何故だか、涙が溢れてしまいそうです」
「どうしたのでしょう。やっぱり、からだの具合が悪いのですか」
「いいえ、とても澄んでいて、心地良いです」
眸子へ浸む雨滴に霞み、蹌踉めきて瞬く明暗に、地を搏つ甘露の雨は、宛ら蓮華の如く罅ず。
「雨脚が弱まりましたね。若菜さんの体が心配なので、はやめに帰りましょう」
濛々たる灰雲は薄れ、雲間に籠る陽光が纔に耀い、水鞠を撥ぬ思ひ川を踰え、雅趣に富むつつみヶ岩を瞥見し、驟雨の余情に浸りて帰路へ赴く。
貴船神社を過ぎ鞍馬へ到る途次、天を掩ふ灰雲は捌け、清澄な大気が現今に遍満す。
「雨、止みましたね」
「陽菜さん。帰りましょう」
歩武を止む陽菜を一瞥する須臾、柔い面貌に莞爾たる微笑を湛う。
12
濡つ衣裳を摺り華室へ赴き、花器の灑掃に執す爾後、賜物の杜若へ対峙す。絹越しに薄く徹する素肌は、裾の潤いが畳表を浸す途次、淡い扮飾を纏う。
花台に杜若を列す須臾、眼瞼の寸陰に漂う出生を、寂静に耽り蕭々と偲ぶ。
種子は恩沢を賜りて芽吹き、地気を凌ぐ宿根を張り、天稟を戒飭し伸長に励む。精進を為す杜若の風情は、禅定の末汚濁を払い、慧眼の如き葩卉で真如を観ず。
貴船の神水を掌中に収め、水脈を返照し花器へ灑ぎ、冽々と流らふ水は豁然と、心水は奔流の如く遠心す。陽を迸り散逸する壬は、水尾を引き躍する活水へ変じ、陰に瀝り聚むる癸は、悠揚たる死水へ転ず。花器に灑ぎしは癸を経て、水面へ寂寞の余地を映ず。
杜若の聡明な若葉は可憐に、水気を纏う一株は清廉な質を呈す。株元を解きて頒つ一葉、淡く叢生せし毛茸を、葉元を柔く把し指端を添え、葉先へ向こふて扱き落とす。葉擦れの玉響は瑞々しく、此の手掌に顕る筋脈は、内部の流水を鳴動たらしむ。
毛茸の払底を経た葉を摘み、葉先の鉤を番に定め、軸心の芽吹き葉を包みて兼併す。天火の恵沢を孕みて、粛然と膨らむ冠葉と、端麗に先窄む長葉を挿け、死水の只中振盪し、陽気を佩び輪郭を靡かす。葉組みに添いて花茎を挟み、穹窿に反る立葉を据ふ。露受葉の滞水は流し葉を瀝り、水面に撥ぬ水切り葉を沿わす。
駘蕩たる春の煙霞の濛々を、楚々たる花卉の瓊姿が払霧し、夢幻に罅ず泡影の余韻を引く。灑ぎし水は壬へ遷移し、嵩む波紋が杜若の水影を揺り、死活の変容甚だ捷し、四季寒暖は一瓶に調ず。
葉身を擡ぐ殊勝な形姿は、葉脈の隆起せし裡を外に、扁平なる表を内に秘し、宛転たる葉先の鉤で余地を捉ふ。肥厚な重しに撓む葉と、潤滑な茎へ寛雅な節を湛え、花弁を弛ませ咲き誇り、軸心へ躙る蕾が柔和に綻ぶ。
赫々たる天火の恩寵を賜り、盈溢の地気を養い伸長し、花鋏の剪定を経て虚実は遷り、清水を湛ふ花器へ挿す須臾、死生の和す境地へ到る。
挿花の静寂に四季寒暖を表し、花矩に嵌む活物へ変じ、深閑なる華道の真諦を観ず。
微睡の只中揺蕩う杜若は、縷々たる命脈を紡ぎて、彼岸へ達す荘厳な葩卉の、開花と萎凋の去来は、調和を保つ呼吸を感ず。葉脈の雫は花材を婀娜めかせ、一瓶に三才の調和を具備し、清雅な挿花を誇りて顕る。打臥す虚象の花材より、花矩に和み実象を遂げ、徒し現世の低回を脱し、無漏に漂ふ空華の如く、静謐な余地へ葩卉を広ぐ。
零れ懸る蕾は柔く解れ、葩卉の水気は炯然と照映え、皓月の如き光沢を佩ぶ。焜燿な明滅に身を窶し、徒爾に帰す心水の洶湧に伴い、眼睛より颯と涕涙す。蹙む葩卉の如く項垂れ、虚脱せし両の手掌で双眸を掩う。眸子に滲る杜若の馥郁は、落花の幻象を浮揚させ、壅塞に臥す視界へ掠る。
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