ディーダラスによる海岸での回想、思念のようなものが書き連ねられている。かなり詩的で時間系列もばらばらなので、伊藤整が「第二部から読むと良い」と言ったその意味が分かる。『若き芸術家の肖像』との対比がなされることについても、本作がディーダラスではなくブルームの物語であるということを示していると言っていいだろう。わたしは長い詩として読めると感じた。原文ではないし、リズムや韻について翻訳者である丸谷才一、永川玲二、高松雄一の能力に申し分はないと思うが、厳格にそれらを読むには原文に当たる必要があるとは思う。
松岡正剛の「千夜千冊」でジョイスの『ダブリンの人々』について語っている回でとても印象的だったのが、意識の流れについて言及していた箇所である。
ぼくは「意識の流れ」という観点でブンガクを見る見方には、あまり与しない。この用語はウィリアム・ジェイムズが提案したもので、「人間の意識は静的な部分の配列によって成立しているのではなく、動的なイメージや観念が流れるように連なったものでできあがっている」という見方をいうのだが、これはあくまで心理学的な内語的心情の告知を前提にしたものだ。ジョイスがしたことは、そういう心理学効果を図ったものではない。もっと端的なことだった。
むしろジョイスは「想像力とは記憶のことだ」と見切ったのである。いくつもの記憶は脈絡をもたないまま想起され再生されるものだが、そもそも想像力とはそういう断片的な記憶のコンビネーションなのではないか。人々が想像力をかきたてられるのも、そうした記憶の断片的な組み合わせによるせいなのではないか。そう見切ったのだ。
わたしはこの松岡によるジョイスについての評価が、まさにこの章に端的に表れていると思う。ここではディーダラスが目に映る海岸の人々から連想し、それは彼の父と伯父と伯母との会話へと溶け合っていく。ここにはディーダラスが視覚と聴覚から得た情報から記憶が引き出されて彼自身の想像世界へと接続している。
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