51.9:ディレクターズカット

小林TKG

小説

5,500文字

中国行きのスロウ・ボートがkindleで出てるー!

キングフォード・スミス空港。通称シドニー国際空港を出てシャトルバス。乗り合いバスに乗り込む。運よく乗り場についた直後にバスが来たのだ。乗り込む時、中上が行先であるホテルの名を運転手に伝えていた。それを聞いた運転手は何も言わず小さく一度うなずいただけだった。反応が薄いが大丈夫か。不安な表情をしていたんだろう。中上が私を見て、大丈夫大丈夫、何処もこういう感じだよ。と言った。中上は通路側の座席に座った私の事を乗り越えて窓際に座った。窓の外、影になった庇の向こう、オーストラリアは晴れていた。中上は座るとすぐに携帯を出して何かのチェックを始めた。パープルピンクのマニュキュアをした指で。私は中上越しに窓の外を眺めながらオーストラリアに来たんだな。そんな事を考えていた。

中上と再会したのは池袋のホルモン屋でだった。私が一人でホルモンを肴にビールを飲んでいると、突然、肩に手が置かれた。パープルピンクの五本指。それが中上だった。

「久しぶり」

彼女とは実に十何年ぶりの再会だった。私が千葉に住んでいた頃に勤めていた会社の同僚だ。現場で機械を動かしていた私と経理的な事をしていた中上。仕事上の直接の関係性は無かったが、辞める時、仲間内で開いてくれた小さな送別会に彼女も来た。その会の最後に何かを貰った記憶がある。何を貰ったのかは覚えていない。

「何してるの」

こちらは確かそんな言葉を述べた思う。私は一人だったが中上は数人と来ていた。それなのに中上は連れに話をしてそのまま私と二人で飲むことになった。私服姿の彼女は新鮮だった。千葉の職場では私も中上も作業着を着用していたし、髪の毛も帽子の中に収めていた。その為だろうか、ジャケットやらロングのプリーツスカート、低めのヒール、首元に垂らしたドッグタグの様なアクセサリーやら両耳のピアスなど、そう言う所に目がいった。長くなった髪の毛を綺麗に後ろで束ねていてアレックスのモニカ・ベルッチみたいだ。最後に会った。送別会の時の彼女はどうだったろう。もう覚えていない。中上が話しかけてくれなかったら私は気がつかなかっただろう。

「席、移動しようよ」

私は一人用の小さなテーブル席にいた。それを彼女が店員に言って二人で小型のボックス席に移った。それから改めてビールで乾杯して、ホルモンを焼いた。もう会う事も無いと思っていた相手と十何年ぶりに再会し、向かいあってホルモンの煙越しに話をした。千葉に居た頃は接点が無かった相手と。話をした記憶がない相手と。

「最近どうしているの」

「特に何もしてないなあ」

昔話とか、地元はどこだったかとか。その後、どうしてそうなったのかは覚えていないが、彼女が今度オーストラリアに行くという話になった。

「何しに、観光」

「まあ、観光かなあ」

中上はその時、口元についたホルモンのタレをナプキンでぬぐっていた。

「オーストラリアにね。世界の中心があるって聞いて」

「世界の中心」

世界の中心と言えば愛を叫ぶだろうが、私は映画も観ていないし、小説も読んでいない。その当時とても流行っていた。だから観てないし読んでいない。僕の知らないところで世界は動くは知り合いに借りて読んだ。確か拒食症の女性が出てくる話だったと思う。

「シドニーにね、グリーンストリートって言うのがあって、そこがとても素敵で、メルヘンチックで、それで世界の中心に近い場所っていう誉をいただいているらしいんだけど」

その話を聞いた瞬間、私は含んでいたビールを噴き出した。

「うあ、なに」

「いや、だって」

シドニーのグリーンストリートと言えば、村上春樹の初期の、初期かどうかははっきりわからないが、短編だ。何かの映画に出ていた俳優の名前を捩ったタイトルの話だったと思う。そして彼女がその話を誰に、どう聞いたのかは知らないが、そこが世界の中心というのは間違いだ。シドニーのグリーンストリート。その最初の方にこう書いてある。

シドニーのグリーンストリートはシドニーでもいちばんしけた通りである。

仕事を辞めて埼玉に引っ越したあと、赤羽駅の東口にあるブックオフで村上春樹のはじめての文学という本を買った。その本の一番最初にくるのがシドニーのグリーンストリート。確かその本のあとがきみたいな所に実際はその名のつく通りは存在しないと書かれていたような覚えがある。しかしその事を中上に告げると、彼女は、

「グリーンストリートはあるんだよ。ホントに。あと、そこから車でちょっと行った所に、音楽の聞こえる海岸があるって聞いて」

音楽の海岸。今度は村上龍。この本も以前、どこかで買って読んだ。内容はよく覚えていないが、でも、あれはオーストラリアの話だっただろうか。欧州、南仏とか何処かにそういう海岸があるという話ではなかっただろうか。

「その二つを見に行きたいんだ」

中上はそこまで言ってからビールを飲み、ホルモンを食べ、喉を鳴らして嚥下して、テラテラと光る唇を拭い、それから、

「ねえ、一緒に行かない」

そう言った。唐突に。私に。そう言った。久々に会った人間に向かって。ほとんど面識もない相手に向かって。

バスを降りて無事にハリスストリート沿いのホテルに入る。彼女が予約していた部屋はツインルームだった。ここで一泊して明日グリーンストリートに行く。午後にはレンタカーを借りて音楽が聞こえるという海岸に向かう。そしてまたこのホテルに戻ってきて一泊。全て中上の決めたスケジュールだった。私は彼女に言われた事を、お金をかき集めたり荷物を用意しただけだ。オーストラリアに誘われた池袋での食事の日から三か月が経っていた。その間にパスポートも準備したし、彼女が免許を持っていなかったのでオーストラリアで運転できるように運転免許証の海外申請もした。

私はこの三か月の間ずっと、やっぱり行かないとラインが来るのではないかと思っていた。しかし結局その連絡は来なかった。浜松町で再会した時、彼女は長かった髪を切っていた。

「ご飯食べに行こう」

ホテルの窓から暗くなっていく外を眺めていると、いつの間にか着替えていた中上にそう言われ、またすぐに部屋を出た。オーストラリアと言えばなんだろうか。コアラとかカンガルーとか。森林火災とか。そんな事を考えながら中上についていく。彼女はどんどんと進んでいく。振り向いたり辺りを見回したりもしない。少し歩くとplatformという店があった。そこに入る。テーブルについてギャルソンが来ると中上がLamb Short Ribとビールを注文した。

「ラムって羊だっけ」

「子羊」

とか、時差は日本と何時間位あるの。一時間くらいだね。という会話をしている内にすぐTooheys New Lagerが来た。そしてラムも来た。控えめな柄の大皿に骨の付いた肉。その上には大陸を横断するように青菜が載っている。それを見て私は映画LAMBの事を思い出したり、子供の頃に母親が一度だけ買ってきたラム肉の味を思い出したりした。骨を掴んで齧り付く様にして食べるとやはり豚とも牛とも鶏とも違う。ラム。祖母の家にあった布団の様な匂いが鼻を抜ける。独特の。子供の頃はそれが合わなかった。それ以来のラム。しかし今食べるとそれが。それがたまらない。ビールを飲む。また一口食べる。赤みのある肉汁が滴る。ビールがすすむ。見知らぬ相手を食べている感覚。中上も何も言わず食べていた。ラメの入ったパープルピンクのマニュキュア。その指が骨を掴んで齧りついている。肉汁で唇がテラテラとしている。何杯もビールを飲んだ。フライトの疲れもあったし、海外の疲れもあった。レストランを出る所までの記憶はあるが、その後は無い。目を覚ましたらホテルに居た。隣を見ると中上が居ない。とりあえず起きるとトイレに入った。信じられない量の尿が出た。黄色いのがじょぼじょぼと。携帯を確認すると中上から昼前に戻るとラインが入っていた。私は自分のベッドに座ってセブンのワンシーン、トレイシーがダイナーでウィリアムに相談して泣く所を思い出しながら自らのものをしごいた。何故そうなったのかはわからない。ただ、とにかくしごいた。私の地元ではわらびという山菜を食べる文化がある。その穂先をとるようにしごいた。わらびは穂先をとった方が歯触りが良くなるからだ。中上がいつ帰ってくるのかわからない。でも私はしごいた。

ホテルのロビーに併設されたカフェでコーヒーを飲んでいると中上が帰ってきた。彼女は私の向かいに座るなり、グリーンストリート見てきた。と言った。どうだった。と聞くと、

「うん、まあ、うん」

とはっきりしない。右頬の辺りを搔いている。暫くすると、

「やっぱり謀られたのかなあ」

と言った。謀られた。謀られたんじゃないの。誰から聞いたか知らないけども。シドニーのグリーンストリートにはこういう一説もある。

もし地球のどこかに超特大の尻の穴を作らなきゃならなくなったとしたら、その場所はここ以外にはありえない。

シドニーのグリーンストリートはそういう通りとして書かれている。でも、まあ考えようだ。私は中上に言った。超特大の尻の穴。それはまあ世界の中心と言えばそうなのではないかと。なにせ超特大の尻の穴なのだから。そうそうあるもんじゃない。排出口だ。超特大の。大事だろ。大事だ。

「そういうのじゃないんだけど」

中上はそう言うと、また右頬をの辺りをパープルピンクのマニュキュアのついた爪で掻いた。少し置いてから、再び、そういうんじゃねえんだよな。と繰り返した。そう言った彼女の顔が、何故だかスケアクロウのアニーにダブった。ライオンを拒絶したアニー。子供を死んだ事にしたアニー。

レンタカーを借りて音楽の海岸に向かう。途中、パンケーキ・オン・ザ・ロックスに寄ってコーヒーをテイクアウトし、オペラハウスを横目に見ながらハーバーブリッジを走ってノース・シドニーに渡る。そこからA8を北上した。中上は助手席から外の景色を眺めていたし、私は海外での運転で余裕が無かった。車内ではほとんど話らしい話もしなかった。その日の天候は曇天。しかしその分過ごしやすかった。

モナ・ベールでA8を逸れて一般道に入る。その後も延々と北上を続けた。途中ビーチらしい場所は何度も現れたが、中上は何も言わず前を見ていた。そのうち道が細くなっていき心許なくなった。

「この先だよ。ほら見て」

中上が指さした方を見ると、そこには《PALM BEACH》と書かれた看板が立っていた。THE RETREAT AT PALM BEACH.

「この先に岬があって灯台があるの。そこだよ」

ガバナー・フィリップ・パークの駐車場で車を停め、そこから岬まで砂浜を歩いた。空は相変わらずの曇天、もしかしたら雨が降るかもしれない。左手には海が見え、その海面は穏やかだった。人が全くいない。私と中上の二人だけ。彼女は買ってきたCARLTON : DRYを飲みながら歩いていた。私は見知らぬ海と見知らぬ砂浜を眺めながら。

岬にある灯台は、バレンジョイー・ライトハウスという名らしい。その灯台のある岬の突端と海の間。そこで音楽が聞こえるんだという。

中上は迷わずに岬の突端まで歩いていった。私はそんな彼女の事を後ろからただ眺めていた。ただ、ずっと、そうしていたいと思っていた。石造りのシンプルな形状の灯台があって、灰色の凪いでるような穏やかな海があって、向こう側にu-ring-gai Chaseの浜が見えて、その風景に中上が立っている。他に誰も居ない。ただ、ずっとそこですべてを眺めていたい。そう思っていた。

「トラウトさん秋刀魚―!」

突然、突端に立ったままの中上が叫んだ。大声で。そこには、その場には不釣り合いなほどの大声で。

その後、彼女は戻って来た。私の前にけろっとした顔で歩いてくると、

「帰ろう」

と言った。

車に戻ると風が吹いて雨が降り出した。粒の一つ一つが大きい。酷い大雨、豪雨になった。私は、

「なにか聞こえたの」

中上に聞いた。

「うん。聞こえた」

彼女は助手席で膝を抱えながら言った。何が聞こえたの。

「なんだろう。なんか歌、知らない歌、全然知らない歌。聞いた事ない、歌」

事も無げに彼女は言うのだった。本当に。何でもないみたいに。パープルピンクの指先で右頬を掻きながら。ビールを飲みながら。その唇はテラテラとして。

そんな事があったのに、私はつい最近まですっかり忘れていた。

しかしある時、不意にそういう諸々を思い出した。

ストリーミングサービスで水曜日のカンパネラのランボーを聞いた時、私はこれらの一切合切を事を思い出した。

音楽の海岸からの帰りに見つけたAvalon Baptist Peace Churchに寄ってそこで彼女が祈った事。

その日の夕食をシーフードにした事。バラマンディやスキャンピー、ブルー・マッセルが山ほど入ったブイヤベースにした事。

夜、ホテルに戻ってから二人で一つのベッドに寝た事。

それ以来、彼女に会っていない事。

送別会の時の彼女は黒髪でパンツスタイルだった事。

その時、彼女が最後にくれた物。

池袋のホルモン屋。

長い髪の中上。

齧り付いたラムの味。

オーストラリアの気候。

音楽の海岸。

THE RETREAT AT PALM BEACH.

「空港からあの岬までGoogleで調べたら51.9キロあった」

帰りの飛行機でそう言った彼女。

パープルピンクのマニュキュア。

その指で掻く右頬。

テラテラとした唇。

彼女との別れ、中上が去っていく様を見てゼロ・グラビティのラストを思い出した。

私は思い出した。

ランボーの最後の所を聴いて。

だから思い出したのだろう。

 

2024年5月21日公開

© 2024 小林TKG

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