「帰れ! お前にカメラ持つ資格なんてねぇだろ!」
髭面で白いものが混じった頭髪もボサボサの中年男性がレンズに右手のひらを押し当て、映像が大きくブレた後に一軒家の門らしき鉄柵とアスファルトを転落する様子を一瞬間映して、暗転したまま映像は途切れた。こんなんじゃ使えないな。思ったことをそのまま呟き、マウスをクリックして映像ファイルを削除した。まだ一軒目だ。コピー用紙に印字してリストアップした名前と住所と連絡先の一つを赤ペンで消しこみながら声にならない声で呟いた。ゾンビ1。彼は白髪のウィッグを被り、目の周りを黒くペイントしていたが、それはパンダのようにしか見えなかった。
――それじゃまるでパンダじゃないか! メイク、ちょっと彼の頬をこけさせて。
彼が現場入りした時にそういう指示を出したと記憶している。東京、JR渋谷駅ハチ公前の改札を出ると、右手に交番があって、狭い喫煙所に喫煙者が群がっている。恐らく世界一有名なスクランブル交差点の白い横断歩道の先にそびえるビルのデジタルビジョンに映る旬な俳優やアイドル……あの時は韓国の女性ダンスボーカルグループだった。信号待ちする制服姿の女子高生がスマホを掲げて動画を撮っていた。もうすでにスマホで映画も制作できる時代になった。それでも彼女たちが近い将来、映画監督を目指すとはとても思えなかった。
東横線に乗って自由が丘駅で各駅停車から特急に乗り換えて二子玉川駅で降りる。車両を下りると陽光を受けて輝く川面と、川沿いに植えられた桜の木々の合間に水量の随分と少ない川が細々と流れる。両脇にはまだらな草むらと小石の底面が広がっていて、川原の上で野球に興じる小さな人影が見えた。構内から長いエレベーターを下り、改札を出るとモールの遊歩道が広がる。歩きながら見上げると格子状になった鉄枠に仕切られたガラスの天井の上に青い空が広がっていた。右手にロータリーで通りに続くバス乗り場が現れ、蔦屋家電が入ったビル前にあるバス停からバスに乗って移動する。リュックサックから名簿を取り出して、スマホで最寄りのバス停を確認する。ゾンビ2。彼女は長い黒髪をぼさぼさにして、カラコンで白濁した虹彩を見せて血塗りで口が裂けたようなメイクをしていた。メイクに関しては文句のつけようはなかったが、驚くほど身体が硬い上に運動神経もないらしく、走り迫る動きを変更して地面を這うものにした。思いのほかその演技がハマっていたので、ズームで映してしまって、あとで撮り直した。あの時モニターの映像を思い出しながら停車ボタンを押した。バスは赤い煉瓦の埋め込まれた歩道を沿う縁石ぎりぎりにタイヤを近づけて停車した。閑静な高級住宅街。人影はなく、怪鳥のような鳴き声が響く先に視線を向けると黄緑色のオウムのような大きな鳥がバサバサと飛んでいた。白いモルタル壁に囲われた邸宅の呼び出しボタンを押す。
「昨日ご連絡した魯目露です」
スピーカーの奥でしばらく沈黙があり、どうぞ、お入りください。と女性のくぐもった声がした後、ジーっというノイズ音とガシャという音が鳴った。自動ロックらしい重厚で黒い鉄扉が仰々しい音を立てながらゆっくりと開いた。白いタイル地の道が一〇メートル先の打ちっぱなしコンクリート造の家屋まで続いていた。歩いている途中で白い扉が開いて、中から大きな黒毛のラブラドールがウワンと吠えながら駆け寄ってきた。
「こら! やめなさい」
女性の声にも構わず、ラブラドールはみぞおちに頭を打ちつけるようにして飛びついてきた。
「すみません、ラブ! 離れなさい!」
ラブラドールの赤い革製の首輪を掴んで、女性はラブを彼女のスキムジーンズに白いモカシンを履いた足元に座らせた。ハッハッハッとラブは舌を垂らして前脚をそろえていた。可愛いですね。と言ってラブの艶やかな毛に覆われた頭の上を撫でた。訪問客の膝の上に飛びかかろうと前脚を上げたラブを再び女性は制した。リュックからハンディカメラを取り出して、電話でもお話したのですが撮影させてもらってもいいですか? とラブを指差しながら聞いた。
「ああ。すみません。いいですよ」
女性は白いジャケットの前ボタンを外して、しゃがんでからラブの背中や腹を撫でまわした。ラブは、はち切れんほどに尻尾を振りながら、仰向けになって四肢を折り曲げた。茶色い瞳は愛らしくて黒く塗れた鼻頭の下、開いた口から長い舌をぶら下げている。ハッハッハッと息を漏らしつつリラックスするラブのアップからゾンビ2の母親へとカメラを引きながら後ずさった。ラブは何才なんですか?
「もう一〇才。来月で一一才になります。あの子が亡くなってから、すぐに家に迎えました。当時は、とても空白を埋め合わせるには荷が重いかと逡巡する気力もありませんでしたから……でも、事故から一〇年経ってラブを飼っていて本当に良かったと思っています」
ゾンビ2母から隣でお座りの姿勢になったラブへとカメラを向けた。艶やかな黒い毛の下で隆起する太ももあたりの筋肉と、後ろからくるっと伸びたさらさらの毛で覆われた尻尾のアンバランスさが微笑ましくも悲しく映った。ゾンビ2の素顔はとてもあどけなく、屈託のない笑顔だった。遺影の置かれた仏壇の前で手を合わせた。振り返って、ゾンビ2母の顔を見て彼女は母親に似ていたのだと思った。あの事故がなければ、いや映画撮影をやっていなければ、ゾンビ2母は祖母になっていたかもしれない……カメラを持つ手が震えて、慌てて左手でカメラを抑えた。
「ひとつだけ、聞いていいですか? なんでゾンビ映画だったんですか?」
彼女は静かにそう言ったが、その目の奥には穏やかならざるものが映っているように見えた。
JR川崎駅の改札を出て人混みの流れに乗ってエスカレーターを下りると駅前広場の前を横断する大通りの先に歓楽街が見える。ゾンビ3の住所はタイ料理店だった。怪しげな飲み屋街の多くはまだシャッターを下ろしていた。一番奥にある店舗、木製の扉に付いた金属の取っ手を握って引いた。
「イラッシャイーマセー」
浅黒い肌の若い男は白い歯を見せて笑いかけた。ゾンビ3はアルバイトをしながら地下アイドルをしていると言っていた。彼女もインターナショナルな感覚でメイクは完璧だった、というか特殊メイクかと思うくらいに凝っていた。肌が剥けて右側の頬骨が見えているような陰影のついたもので、二度見してしまった。ひとまず薄暗い店内を見回し、テーブル席に座ってタイカレーを注文した。
「あの、チラワンさんのことで……」
「チラワン……はオネエサンです」
男は一瞬かたまって、引きつった笑顔を見せた。魯目露は事情を話したが、彼が理解しているようには見えなかった。男がキッチンへと消えて中で話し声が聞こえた。
「チラワンの母です。娘は一〇年前に事故で死にました」
ゾンビ3の母は茶色いTシャツの上に白いエプロン姿で、大皿に盛ったタイカレーを運んできた。ゾンビ3の大きく潤んだ瞳と分厚い唇は彼女譲りだったのだろう。魯目露はもう一度、同じ説明をした。リュックからカメラを取り出して、彼女を撮っていいか? と尋ねた。
シーン13カット4、テイク2、本番よーい……カチンコが鳴らされる。カメラは暑い雲が覆う灰色の空の下で四人のアジア系女性が腕をくるくる回している映像を流すビジョンが設置されたビルを遠目に撮りつつ徐々に下へとアングルを変えて、青になった歩行者信号を映して横断歩道の向かいからぞろぞろと歩きだす群衆に寄っていく。金髪のツインテールで金属バットを持つ顔面白塗りの女と腕を組む、オレンジ色のスーツで道化師の化粧を施した緑髪の男、赤色の帽子に赤いオーバーオールを着た口髭の男(その黄緑色バージョンもいた)、青い猫型ロボット、黒マント、ガスマスク、魔女、仮装した人々は浮足立っているように見えた。その後方、渋谷センター通りのアーチ辺りにカメラが寄ると、ぼろぼろのトレンチコートに右片足の下半分くらいがすり切れたスラックスから白い裸足をのぞかせたゾンビのような男が左手を斜め上に右手を頬の隣に持ち上げてよろよろと歩いていた。カメラがパンして、地下街入り口辺りを映すと地面を這う黒髪の女が顔を上げた。女は口が裂けて白濁した瞳をまっすぐに向けて呻いていた。
――カット!
魯目露は叫んだ。
――こちらは渋谷警察です。歩行者は立ち止らずゆっくり歩いてください。
機動隊車両の上でDJポリスが拡声器で呼びかけていた。
「押さないで! 押さないで」
誰かが叫び、人の群れがうなったように見えた。やばいやばいやばいやばいという声や女性の悲鳴が群集の中から聞こえてスローモーションのように人が倒れていった。機動隊車両をうなる人波が揺らしていた。
――止めんな! 撮れ!
モニターの前から立ち上がり、魯目露はスマホを取り出してビデオを起動した。彼を追い抜いて走る警察官たちの背中が映る。泣き叫ぶ女の涙は黒く濁って白塗りの頬の上を流れている。人の足が覆いかぶさる群衆の下でつま先を上にして靴底を見せていた。本物のはずなのに小道具のように見えた。
「ぼくはずっとゾンビに恋してるんです」
魯目露はゾンビ4が群集に飲まれる瞬間を思い出した。ゾンビ4は大学の後輩だった。彼女とは大学のゾンビ映画研究会で知り合った。目力が強く、鼻筋の通ったくっきりとした顔立ちの上、長身で誰もが振り返るような美人だった。彼女は役者を目指していた。お世辞にもイケメンとは言えない魯目露にとっては高嶺の花だった。死んでも彼女は美しかった。右半身は潰れ、彼女のほつれた白いニットに赤い血が滲んでいた。黒いホットパンツから覗く太ももは細くて薄茶色のフェイクレザーのロングブーツの中に納まっている。メイクなのか、本物の血なのか、薄い唇から垂れた血筋はその儚さを物語っていた。魯目露は自分の下半身が熱くなるのを感じた。
――危ないので離れて!
若い警察官が魯目露の肩を掴んだ際に、スマホが地面に落ちてスクリーンにひびが入った。
「……そうですか」
ゾンビ2母は怪訝な表情を浮かべてカメラから目を逸らした。魯目露は動画を止めて、手元に置いたスマホのひび割れたスクリーンを愛し気に撫ぜた。チクりと痛みが走り、魯目露は硝子の破片が刺さった人差し指の腹を見た。ぷっくりと露のように膨らんだ赤い粒にゆっくりと唇を当てる。懐かしい味がした。
曾根崎十三 投稿者 | 2023-03-23 16:07
ロメロ監督の実話が元ネタに……とかかと思いましたが、文字りなんですね。良い文字りです。
悲哀の変態ですね。もっと序盤から変態を匂わせても良かったと思いました。読みとれてないだけかもしれませんが……。
私の変態と被ってしまいましたが、もっと被るかもしれないと危惧していたので意外でした。
諏訪靖彦 投稿者 | 2023-03-24 19:23
ゾンビに恋している主人公が遺族に会いに行ったのは、その変態性からと解釈しました。遺族から面影を感じて興奮するみたいな。シリアルキラーが殺人現場を訪れて当時のことを思い出す的な。
大猫 投稿者 | 2023-03-24 23:22
指の血を舐めて懐かしい味と言うラストシーン、まさかゾンビ4の死に顔にチューでもしたのでしょうか。事故で死者を出してしまったお詫びの弔い旅の話かと思ったのに。
道案内させたら上手いだろうなと思わせる駅や道順の描写、黒ラブの可愛らしさ、本編と関係ないところに心惹かれてしまいました。
疑問点が二つあるので合評会で教えて下さい。まず、映画撮影の場所は渋谷のスクランブル交差点、まさか撮影用に貸し切れるわけないし、将棋倒し事故が起こったのは、ハロウィンの夜にゾンビ映画撮ったと言うことですか?
あと、ゾンビ2の母との会話シーンから、タイ人のゾンビ3の家族の撮影になり、事故の回想が続いた後、ゾンビ2母へと戻るのですが、時系列がよく分かりませんでした。ゾンビ2母に、ゾンビ3家族の動画を見せたということ?
黍ノ由 投稿者 | 2023-03-25 16:39
高嶺の花の彼女だったけど、死体になってようやく手を出せたということでしょうか。
さらっと入れられた「青い猫型ロボット」のフレーズが好きでした。
波野發作 投稿者 | 2023-03-26 23:38
カメ止め系+オブ・ザ・デッド系の王道ツープラトンという読前の印象を完全に裏切る、日本アカデミー賞を狙える淡々としたイカしたロードムービーでした。幻想のゾンビ女子と向き合いながら、遺族に挨拶に行くという特殊M男の話という感じで捉えましたが、どうなんでしょう。
ヨゴロウザ 投稿者 | 2023-03-27 00:29
ここ何作か実験的な書き方を試しておられるようにお見受けしました。最初はどういう設定かよくわかりませんでしたが、読んでいくうちにゾンビ映画の撮影中に事故で出演者に死者を出した監督が当時の出演者のインタビューしているとわかりました。「ぼくはずっとゾンビに恋してるんです」というゾンビ2の母の質問への回答がまた別々の回想に挟まれて置かれているのが効果的です。監督の心情が描かれないのもいいですね。
余談ですがいまちょっとKポヨジャドルにはまってます。NMIXXがこないだ新曲出したばかりですが、来月はIVE、再来月はルセラのカムバがあって熱いです。作中に出てくるのはKARAや少女時代の第二世代だとしたら20年近く前の話なのでしょうね。
退会したユーザー ゲスト | 2023-03-27 00:53
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小林TKG 投稿者 | 2023-03-27 09:42
ゾンビ2母の所に行くかねえしかし!
どういうつもりなんでしょうか。恐ろしい事をしますねえ。この人は。ロメロさんは。気持ちいいのかなあ。そうじゃなきゃ無理だよなあ。行くだけならまだしもカメラを回すかねえ。おかしいなあ!
Juan.B 編集者 | 2023-03-27 19:19
周りから理解されそうもない行動を取る主人公は、腐ってないだけで、すでにもう社会的にゾンビなのかもしれない。ゾンビに惹かれているのではなくゾンビそのものなのだろうか。
Fujiki 投稿者 | 2023-03-27 20:40
合評会開始15分前の走り読みでは話がよくわからず、コメント欄の他の人々による解説を読んで了解した。10年前に撮影しようとして2, 3, 4は事故死ということか。遺族もしんみり話なんか聞いていないで塩でもぶっかけてやればいいのに。
諏訪真 投稿者 | 2023-03-27 20:51
ゾンビを愛する人が撮る作品について思うのが、私としてはゾンビ映画の本質はどこまで行っても恐怖映画でしかなく、幼少期に見た「死霊のはらわた」は当時トラウマになるほど怖かったんですが、ゾンビを愛する人にとってどういう風に見えているのかなと。