夕やみがおりてきたとおもえばすぐに夜が来る。しごとのかえりにいつもの店に寄る。カウンターに坐る。マスターがおとおしを出す。三種類のチーズだ。それをつまんでいるとワインが出る。のむ。ほほが熱くなるのをかんじる。きょうの記憶がただよう。ひたいをゆかにつけたあの記憶がただよう。ネクタイがあごにふれたあの感覚がそっとゆれる。なにか厭なことがありましたか。マスターが問う。なにかをうしなった気がしますよ。おれはそうこたえてじぶんでじぶんのことばに虚をつかれる。店内はいつにもましてうすぐらい。音楽もながれていない。じぶんの音楽の趣味をお客さんにおしつけるのは厭だからだといつかマスターが言っていた。げんじつでたえず音楽がながれている空間などそうそうない。その非げんじつをもとめる気持がいまのおれにはあった。なにか音楽をかけてくれませんか。そうおねがいしたらマスターは厭なかおをするだろうか。そんなことをかんがえながらグラスをながめた。白かった。おれが見たゆかも白かった。赤にすればよかったとおもった。白いゆかにひたいをつけてそれでことはおさまった。あの男に見くだされてそれでことはおさまった。よかったじゃないかと同僚のひとりは言った。ほんとよかったよとおれはこたえた。そんなふうにこたえなければよかった。あるいはことをおさめなければよかった。いつかいい記憶になりますよ。マスターが言った。そうですかねとおれは言った。つよい反発をおぼえた。知りもしないのになぜそんな月なみなことを言うのか。知ったふうなことを言うまえになんでもいいから音楽をかけろ。そうおもいながらおれは白をのんだ。背後で鐘の音がした。客が入店してきたのだ。じみな女がおれのとなりに坐った。知らない女だ。なにかを話しかけてきた。会話はもりあがった。われわれはあびるほど酒をのんだ。女はつぶれておれは生きのこった。店がしまったのでふたりでホテルにとまった。目覚めるとまだ昨日の記憶が目のまえにあった。起きた。女が問うた。起きた。おれはこたえた。服をきてわれわれはホテルをでた。駅についた。じゃあ。そう言ってわれわれはわかれた。わかれたくなかった。だがわかれたくないとは言えなかった。なにも他人に強要したくなかった。駅のホームのゴミ箱にネクタイをすてた。意味のない行為だった。スーツもすてたかった。はだかで電車にのりたかった。電車にゆられながらスマートフォンで音楽をきいた。若者に媚びた歌だ。すぐに消してそとのけしきをながめた。ながめることしかできないのがにんげんだとおもった。マンションにかえってきた。部屋着にきがえてベッドによこになった。スマートフォンが音をたてた。手にとって見ると駅でわかれた女からメッセージがきていた。着きましたか? どこにも着いていない気がした。おれはやりとりをするのがめんどうでスマートフォンの電源を切った。頭からふとんをかぶってしばらく目をつむったが眠気は来なかった。耳をすませても部屋にひとりだった。おれはまだ昨日に生きている。そうおもった。まだゆかにはりついて生きている。そうおもった。頭が痛かった。だが呑まなくてはならないとおもった。もう二日休むとまた会社に行かなくてはならない。だから呑まなくてはならないとおもった。冷蔵庫をひらいた。缶ビールが何本かあった。あとで買いに行こうとおもった。二日たって月曜日の朝になった。頭が痛かった。会社に行かなければいけないとおもったがからだがうごかなかった。会社を無断欠勤して一週間がたった。おれは心療内科の先生に言って診断書を書かせて休職した。ひと月の予定がふた月になっていよいよ明日が見えなかった。おれはうつでアルコール依存症ということになっていた。うつではないがアルコール依存症ではあるとおもっていた。心療内科の先生はおれにアルコール依存患者の会に出てみないかと提案した。経験を話せばよいと言われた。出る。おれはそうこたえた。会に行くと見たことのある女がいた。あの日駅でわかれた女だとすぐに気づいた。女もこっちに気づいたようだった。おれたちはかるく頭をさげた。会がはじまって女が話しはじめた。最初は毎日缶ビールを一本あけるだけだった。それが二本になり三本になり四本になった。今は一日に何本呑んでいるのかわからない。そんな話だった。会がおわって女が話しかけてきた。おたがいがんばりましょうね。おれはそう言って逃げた。マンションにかえるとまたスマートフォンに女からのメッセージがきていた。おまえはひどい男だ。そんなことが書かれていた。そうかもしれないとおもった。寝室のまどからそとをながめると夕やみがおりていた。つまりもうすぐ夜が来る。
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