後期の授業がはじまってから二週間が経過したが、私の講義ではまだ一度もかのじょのすがたを見なかった。
二度目の講義おわりに、なんとはなしに受講者名簿を見ると、かのじょの名前がなくなっていた。通年の講義にあって、この原因として考えられるのは、三つ。ひとつ目は、手つづき上のミス。ふたつ目は、休学。みっつ目は、退学である。私は缶コーヒー片手に大学の食堂に入り、窓側のテーブルでLINEをひらいた。で、「もえ」とのトークを確認した。
最後のメッセージは、夏休みまえ最後の講義の当日に来たものであった。体調が悪いので今日は休むとのことで、それ以降は、体調が良くなったとも、悪くなったとも連絡がなく、長編小説のつづきがメールで送られて来たこともなかった。まったくの沈黙であった。
「受講者名簿に名前がありませんでした。体調がもどらないのかな。」
というメッセージをつくり、しかし、送らないでおいた。じっさいにまだ体調が悪いとすれば、それは相当に悪い状態だろうし、そんなときにこういう言葉をかけられても、わずらわしく感じるだけにちがいない。あちらが沈黙を守る以上、こちらも沈黙の姿勢をくずすわけにはいかない。……
「日がみじかくなっていた。
食堂の窓からは、夕陽が射しこんでくる。この夕陽にはおぼえがあった。かつて私が浴び、自宅の書斎で机の上に重ねられた原稿用紙の束が浴びた夕陽である。
が、かのじょは浴びない。かのじょはやみの中にいる。いまもまだ、やみの中でペンを走らせようと、苦悩している。それだけは確かだと思われた。」
カバンから原稿用紙をとりだし、私はそう書きつけた。いかにも説明くさい文章である。ボツだ。
「また一枚、日の目を見ることのない原稿用紙をつくってしまった。こうしたムダ紙を、この数年間に何千枚つくっただろう。
書いては消し、であればまだ良い。
書いては、捨て……、がいけないのである。そこには、走り出した文章があるのだ。それを伸びるところまで伸ばせば、しぜん、一篇の小説が出来上がるのだ。いや、すでに出来上がっていると言っても良い。その出来上がっているものを、捨てる。この何千枚のムダ紙は、すなわち、何千作の小説の中絶なのである。」
「と、書いたものもまた捨てる。書いて捨てたことを書く必要はないからである。
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