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僕は三〇二号沿いをゆっくりと歩き、建ち並ぶ古書店の前にあるワゴンセールの本を物色した。ふと『古代中東の歴史』というタイトルの随分くたびれた分厚い本を手に取った。彼らの文明に大きな影響を与えたという「シュメール神話」の神々が図表で示されていて、そのページに目が留まった。
――彼らは多神教で天の神アヌ、大気の神エンリル、地上の女神ニンフルサグ、淡水の神(男性の繁殖力、知識の神でもある)エンキの四柱の神々が世界を創造した後、六〇の六〇倍、三千六〇〇の神々が彼らの子孫として存在するとされている。チグリス川とユーフラテス川の流れる肥沃な土地、メソポタミア文明が栄えた都市をウルと呼び、そのウルの都市神とされる月の神シンはその規則正しい満ち欠けの性質から暦を司る神として「遠い日々の運命を決める」力を持っていた。シンの練る計画を知った神はいないという――
頁の下部に石碑に刻まれたシンの像の写真があった。椅子に座ったターバンを巻いたような男の上に鋭く象られた三日月が昇っていた……ポケットに入れていたスマホが振動したので、僕は本を閉じて元に戻してスマホの画面を確認した。望月沙姫の名前が表示されていたので、スワイプして電話を取った。
「はいはい。着いた?」
「……あ、ごめんごめん。うん、今着いてA1の出口に居るんだけど……」
「あ、そっちに出た? そうか、分かった。じゃあそこに居て。すぐ行くから」
「了解でーす」
いつも通りの明るい彼女の声を聞いて、僕は少し胸が弾んだ。そして少し駆け足気味にA1の出入り口へと向かった。
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三日月が少し手を伸ばせば届きそうに感じるほど低く鋭く輝いている。カイルはその明かりを頼りに駆け出した。異教徒の集まる場所は観光地のほかにもう一つある、いつも父親が身銭を稼ぐために魂を売ったアメリカの犬、日本が建てたあのビルだ。カイルはベストの中の手榴弾のピンを纏めて引けるように細工した紐を握りしめながら、夜明けとともに彼らが揃うその瞬間を待つ。
紫色へと漆黒の空が変色し始め、三日月が淡く青い空の中で白く干からびていくように消えていくその頃、まだベッドで眠る父を母が揺さぶって起こす。母は寝室の隣、カイルの部屋の扉をノックするがうんともすんとも返事はない……いつものことだ。「開けるわよ」と一言、ガチャリとドアノブを回して部屋へと入る。ベッドの上に息子の姿がない。部屋は整然としている。天井には黒地に“神の使徒なり”という言葉が白い丸枠の中に書かれた旗が貼られていた。昨日テロを起こした連中のものだ。母は慌てて洗面所で歯を磨いている父の元に駆け寄った。
「カイルが居ないわ!」
「ん? また、つまらん仲間と夜遊びでもして帰ってないだけじゃないか?」
「あの子は最近様子が変だったのよ、天井に過激派の旗まで貼ってたなんて! あなた、学校に連絡して……今日はあなたも会社休んで警察に捜索してもらいましょう」
「なに馬鹿なことを言ってるんだ? 昨日の今日で混乱してるんだな。そんなことしなくてもすぐに戻ってくるさ。俺だって若い頃は無茶して母親を困らせたもんだ。元気な証拠だよ。それより今日は大事な会議があって、日本からも視察団が来るから早く出るよ。何かあったら連絡しなさい」
父はガラスのコップにミントの葉が入れられた氷水をついでゴクゴクと飲んでから口を拭って会社へと向かった。母は背広姿の父の背中を不安げに見つめて、空になったコップをシンクで洗い、拭こうと手に取ったがするりとコップが滑り落ちてパリンという音がキッチンに響いた。
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何十頭ものラクダと歩兵の隊列が太陽が照りつける砂漠の上をゾロゾロ歩く。ひと際大きいラクダの上に金色に輝く豪華絢爛な鞍、その上に置かれた赤いシルクのクッションに王はどかっと座って、肘掛けに片肘をついて頬杖をついている。隊列の後方にパラドとシャナクはついていた。月の神の名を冠した聖剣は人を切ってその美しい刀身を血に染めてしまうと思うと、シャナクはこれまでの灼熱地獄の窯で聖剣を打ち続けた長い年月は一体何だったのかと疑問を抱かざるを得なかった。砂丘を越えて、陽の光を眩しく反射するワジアイド川の河面が煌めくその手前に大きく聳える菩提樹は扇のようにグンと広げた枝に一杯の生命力漲る青々とした若葉を携えていた。その下で紺青色の豊かな螺髪頭で品のある面持ちの痩せた真っ白な袈裟を着た僧が胡坐を組み瞑想していた。隊列は僧を取り囲むように各々で瞑想していた修行僧たちの前で止まり、修行僧たちの怪訝な表情をよそに武装した歩兵たちが横一列に整列し敬礼する中、王が近衛兵の手を借りつつラクダから降り、修行僧たちのもとにゆっくりとシンの柄を押さえながら歩いて近づいた。
「ここで何をしておる?」
「……悟りを啓くために修行しております」
「はん……あの菩提樹の下の者は?」
「あのお方は、悟りを拓かれてこうして我々に説法を聞かせて下さっています。今は瞑想し解脱しておられます」
「解脱?」
「迷いや恐れを脱して自由の境地へと至ること、と言えば良いでしょうか……」
「では、今が至福の時だという訳だな、分かった……もうよい。下がれ」
「いえ。しかし……」
戸惑いの表情を浮かべた修行僧を近衛兵が押しのけた。王はシンの柄を握ってまっすぐ僧の元へと歩いた。川の反射だろうか、シャナクは螺髪頭の僧の背中が光り輝いているように見えた。
なにゆえ、その様に荒んでおられる?
「あ?」王は頭の中で声が聞こえた気がして、思わず声を上げた。
……そうか。あなたも寂しい人なのですね。まず、高い場所から降りて人々と同じ視線に立ちなさい。決して一人ではありません。あなたを分かってくれる人がきっといます。
「うるさい!」王は鞘からシンを抜き出し、右手を頭上に上げその三日月型の刀身を勢いよく僧の首元に振り下ろした。ザンっと僧の首から頭が落ち、胡坐を組んだ痩せた身体がどさりと倒れ、吹き出した血潮が菩提樹の木肌を赤く染めた。王の足元に横たわる僧の表情は穏やかで真っ赤な絨毯の上で静かに眠るようだった。王はビュンとシンを空中で振り、血を飛ばしてから鞘に納めた。
「な、なんてことを! いくら王とて許されませんぞ!」涙を浮かべながら叫ぶ修行僧たちを歩兵たちが殴り飛ばす中、王はシンを大臣に預けてラクダへと跨った。喧噪で砂埃が舞うその向こうに赤い血の海の上で横たわる僧に向かってシャナクは自然と手を合わせていた。
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