カーマ(カルマ:業)……ゴーダマ・シッダールタ、後にブッダと呼ばれたナイーブで慈しみに溢れたその男はカーマについて――「その報いはわたしには来ないだろう」と思って、悪を軽んずるな。水が一滴ずつ滴り落ちるならば、水瓶でも満たされるのである。愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、やがて災いに満たされる。――と語っている。悟りに達したブッダは、真理を人々に説いても徒労に終わると一旦は結論付けていたそうだ。その彼を説得したのが、仏教の守護神である梵天と帝釈天だと言われている。しかし、どうやらブッダの直感は正しかったようだ。
ピッピッピッピッ……くぐもった警告音が手の甲から仄かな赤い光とともに発せられている。飲酒が思ったよりマイナスになったようだ。半年前の法改正なんて誰が覚えているというんだ。とにかく、奴らがすぐにやって来るだろう。逃げなければ……エドワードはパイントグラスに残ったビールを一気に飲み干して、ダンッと湿った木製のテーブルに乱暴に置き、席を立った。壁に掛けた外套を羽織り、襟を立てて顔を隠すようにして急ぎ足で地下のパブから出て階段を上る。空は漆黒の闇にバケツでぶちまけたような安っぽい弱い光が散らばっている。向かいの継ぎはぎに増築されたビル群にプロジェクションマッピングで映された、国の威厳を称えた赤い光の方がよっぽど立派に見える。センチメンタルな気持ちを抑え、エドワードは外套のポケットに警告音を発し続ける右手を突っ込んで、煌々と光を放つ歓楽街から黒い触手を伸ばすような闇に包まれたスラム街に向かい走り出した。
「No.1997521、止まれ。止まらない場合、発砲する!」
闇に紛れるような全身黒いプロテクターに包まれた二人の男が、エドワードの後ろから鈍く光る銃口を向けた。パンッという乾いた音と共にたなびく外套の裾を銃弾が回転しながら貫通する。おいおいおい、警告って言うのはもう少し粘り強く行うべきだぜ……。
「カーマ・ポリス、逮捕するなら、うちの隣でやかましい冷蔵庫をいつまでも修理しないおっさんが先だろ!」
エドワードは振り向きざまに、警告音を発し続け赤く光る右手の甲を向け、中指と人差し指を立てた。
カーマ・ポリスが組織されたのは、三年ほど前のことだ。この国では二〇年近く一党独裁政権が続いている。政治的に党の主張に反する者は容赦なく思想犯として告発され、逮捕されて後にその生存を知る者はいない。党はよりその権力を確固たるものにしようと、すべての国民の情報を手の甲に埋めたマイクロチップを通じて集め国民をポイント制でランク付けし、上位者には税金免除などの待遇を施した。カーマ・ポリスはこのポイントが〇、もしくはマイナスに転じた者を追跡し“矯正機関”に入所させ啓蒙活動を同時に行う組織で、警察と同等の権利を有する。ちなみに、このポイントの基準については何度も法改正がおこなわれ誰一人把握できていないのが現状だ。この国は、長らく民主主義国家として経済的にも世界を牽引して来たが広がる格差問題が深刻となり、世界的恐慌とともに社会主義的政権が誕生した。さらに、キリスト教的倫理観を重視する禁欲的な価値観が広がり、新興宗教を母体とする政党議員が実権を握るようになった結果がこれだ。
エドワードは何とか追手を振り切り、スラム街に辿り着いた。未だに警告音を発し続ける右手を忌々しくポケットに突っ込み、左手の甲で打ちっ放しのコンクリートの建物の錆びついた鉄の扉を三回、二回、三回と叩く。鉄の扉に慌てて取り付けたような監視用の開閉式窓からギロリと二つの目が覗き、エドワードの顔を確認するとギギギギと重々しい音を立てながら扉が外側に開いた。
「やあ、ジェームス。元気にしてる?」
スキンヘッドの大柄な男はエドワードの右手の甲を見てあからさまに顔を歪めた。
「……またか。この前取り替えたばっかりだろ。尾けられてないだろうな?」
ジェームスは、エドワードの背中を押し建物の中に引き込むと改めて外を見回した。
「大丈夫さ。ちゃんと撒いてきた」
エドワードは、手術痕でもともと半分閉じかけている左目の瞼を閉じてウインクした。建物の中は錆びた工具やコード、大小さまざまな鉄の塊や紙の本があちこちに散らかり、雑然としていていた。エドワードはその中を慣れたように軽い足取りで部屋の奥に進み、革張りのマッサージチェアを改造したデンタルクリニックの手術台のような椅子に腰掛けた。
「さ、始めてくれ」
エドワードが右手を向かいの丸椅子に座ったジェームスに差し出す。ジェームスは赤く点滅しながら警告音を発するエドワードの右手の甲を一瞥し、銀のプレートに乗った医療用メスを手に持った。
「ちょ……待った。レーザーでやってくれないのか?」
「今修理に出してる」
ジェームスは意地悪な笑み浮かべて、エドワードの右手を押さえた。「我慢しろよ、男だろ」とウィンクして小さな刃をサッと突き刺す。ツーと鮮血が甲をつたってタイル地の床に滴り落ちた。「ぐっ……」エドワードは苦悶の表情を浮かべると、目を瞑って顔を背けた。ジェームスは切り開いた右手の甲からピンセットでマイクロチップを摘まみ出した。皮膚の下でくぐもって聞こえていた警告音はハッキリと大きな音へと救急車が近づく時のサイレンのように変わり、薄暗い部屋に響き渡った。ジェームスがピンセットを開き、マイクロチップを床に落とし右足のサンダルで踏みつぶすと再び静寂が戻った。ジェームスは立ち上がり、薄汚れたビニールシートで区切られた部屋の奥に行きガチャガチャと音をたてながら何かを探す。再び戻ったジェームスの右手には新たなマイクロチップが握られていた。
「先月から値上がりしてるんだ、あまり無駄遣いするんじゃないぞ」
エドワードの眉間にマイクロチップを近づけ、ジェームスが丸椅子に腰かける。
「何だって? 法改正のせいか?」
「ああ。政府の取り締まりも厳しくなってな、ブローカーもぼやいてたよ。最近じゃ死体から抜き出す前に役人が火を放っちまうんだと」
「マジかよ! 何て罰当たりな……」
「てめえが言うかよ(笑)」
ジェームスは再びピンセットでマイクロチップを挟み、エドワードの手の甲に押し込める「ぐぬ……」エドワードは顔を歪め、目を閉じた。ジェームスが銀のプレートから包帯を取り、エドワードの手の甲に巻いている間も目を閉じていた彼の脳裏には火が放たれ、燃え盛る死体の山の映像が浮かんだ。
バババババババババババ
コンクリートの壁を撃ちつける銃声音が静寂を破った。
「お前、尾けられてんじゃねーか!」
ジェームスが手術台を照らす明かりを消し、部屋の奥からカラシニコフを持ち出し、エドワードにベレッタ92と銃弾ホルダーを投げ渡した。
「おかしいな……しっかり撒いたと思ったんだが」
「来たもんはしょうがねえ。ここから下水に通じる地下道に降りれる!」
ジェームスは手術台を片手でひっくり返し、右足でダンッと床を踏みつけて小さな取っ手を引き出して隠し扉を開いた。
「俺が奴らを引き付ける。お前はその間に下水を通って繁華街に戻れ」
「……オレの不始末だ。オレも闘う」
「奴らが追ってるのは、お前だ。俺が捕まっても大したことにはならないさ」
「すまない……」
「貸しだ。次に会う時は混じりけ無しのウイスキーを一瓶頂くぜ」
エドワードは返事の代わりに包帯を巻いた右手の親指を立て、扉の下に続く急な階段を下った。
ジンジンと痛む右手の甲を気にしながら、錆びついた梯子を上りマンホールの蓋をゆっくりとどかす。瞬間に眩しい色とりどりの光が差し込み、エドワードは顔を背けた。再び穴の中から上を見上げると雑然としたビル群を背にホーバークラフトで低空飛行する車両の裏側がビュンビュンとエドワードの頭の上を通り過ぎる。ここから出るのは危険と判断した彼は梯子を下り、ビル群側のマンホールから外に出た。千鳥足で行き交う人々は、マンホールの中から人が出てきても誰も驚かない。ネオンの光に紛れたエドワードは血の滲んだ包帯を巻いた右手で外套の土汚れを払い、ポケットに手を突っ込んで俯きながらネオン街で踊る陽気な連中のパレードの中に紛れ込んだ。
「……起きろ」
余程疲れていたのか、いつの間にか自宅の一室で眠っていたエドワードを呼ぶ声に彼は身体をビクつかせ、ウール地のズボンの腰下に忍ばせていたベレッタ92を掴み取り、声の聞こえる方に向けた。
「おいおいおい! 寝ぼけてんじゃねーよ」
声の主が両手を上げながら叫ぶ。
「何だ、チャールズか……」
「“何だ”とは、なんだ。お前のデータが消失したから心配して来てやったのに」
チャールズはベッドの上に腰を下ろした。
「お前が無事だったのはいいが、ジェームスが消えた」
「何だって?」
エドワードの眠気は一気に吹き飛んだ。ベッドから起き上がり、洗面所で顔を洗う。窓の外から差し込む太陽の光に照らされると泥汚れが思っていたよりもひどいことが分かる。サスペンダーを外し、シャツを脱ぐ。
「どこに行くんだ? 何か知ってるのか?」
「ジェームスにこいつを埋めてもらったんだ」
エドワードは右手の包帯を取り外し、赤く腫れあがった甲を指差す。
「レーザーでやらなかったのか?」
チャールズは顔をしかめた。エドワードは鏡台の下から新しい包帯を取り出し、右手に巻き付けながら「オレはMだからな」とつぶやく。クローゼットからハンガーに掛けられた黒いシャツとスーツ一式を取り出し着替える。
「待て待て。チップを取り換えたってことは、ジェームスはカーマ・ポリスに捕まったってことだろ? 一人で矯正施設に乗り込むなんて無茶だぜ」
チャールズは、そそくさと着替え終えコバルトブルーの細いネクタイを締めるエドワードに向かって忠告する。
「オレのせいだ。黙っているわけにはいかないし、すぐに奴らもオレを見つけるさ」
鏡越しにチャールズを見ながらエドワードはそう言って振り向く「どうせ見つかるなら、こちらから出向いてやる」。
「とにかく、一人は無理だ。ジョンとリチャードを呼ぶ」
チャールズは右耳に付けたピアスフォンに触れ、リチャードに電話をかけた。エドワードは「好きにしろ」と吐き捨て、黒地のハットを被り外に出た。
首都から北東へ約八十キロ離れた中核都市に矯正施設は存在する。山岳地帯に囲まれた立地で、建物自体は巨大な石造りの壁に囲まれ、外部からの交通、通信が遮断された陸の孤島だ。チャールズの運転するホーバークラフトカーで矯正施設を見下ろせる丘の上まで移動し車を降りる。施設の上空には分厚い黒い雲が立ち込め、不穏な雰囲気が辺り一帯に満ちていた。
「……本気で行くわけ?」
チャールズの弟のリチャードが長い前髪をかき上げながら、誰にというわけでもなく呟く。
「まず、ドローンをどうにかしないと近づけもしねえな」
身長が一九〇センチ近くある大柄のジョンは腕を組んで施設を遠目に眺める。
「ああ。こいつで電磁波を飛ばしてコントロール不能にする」
チャールズは車の後部についたレバーを回し、左側のドアに格納されたボックスを開けて中からロケットランチャーを取り出した。「おお!」興奮気味にジョンはボックスをのぞき、「これも使えそうだな」とバズーカ砲を持ち上げた。
「まずはドローンだ。ちょっと待ってろ」
チャールズは片膝をつき、ロケットランチャーを構える。「リチャード、標準を合わせてくれ」チャールズの後ろからリチャードが「知らないよ、どうなっても」と呟きながらスコープを覗きトリガーを握る。ブシュッという音と共に黒いロケット弾が施設に向かって大きな弧を描きながら飛翔した。施設の上空でロケット弾の頭部が切り離され、頭からパラソルの様に広がりゆっくりと落下した。
「何だ? 爆発しないのか?」
エドワードは拍子抜けした表情を見せた。
「ドローンを制御不能にする電磁パルスがあのアンテナから発信されるんだ。高高度核爆発と一緒のようなもんだ。さ、行くぞ」
チャールズはスマートウォッチで電磁パルスの発信を確認し、車に乗り込んだ。運転席のハンドルの真ん中の丸ボタンを押すと、車体の四隅に付いた噴射口から風が吹き出し、ゆっくりと車体を持ち上げる。後方から青白い炎が発射され、四人を乗せた車体は丘から急降下し施設に向かって森の中を進んで行った。 寒く長い冬を乗り越える為に木々は葉を残らず落とし、腐敗した葉をバクテリアが食べ豊饒な土を生み出す。地中深くにぎっしりと根を伸ばした木々はそこから栄養を吸い上げ命を繋いでいる。そんな生命の営みなど真っ二つに遮断するように聳え立った高い壁の周りには、主人からの指令を乗せた電波を阻害されたドローンがいくつもプロペラの動きを止め、地面の上にひっくり返ってその機体の腹を無防備にさらしていた。
「本当に効くんだな……」
ジョンが車窓からその様子を見て感心した。
「そりゃそうさ。ここのセキュリティを作ったのはリチャードなんだから」
チャールズは助手席に座るリチャードの右肩を左手でぽんぽんと叩きながら、得意げな顔を見せた。
「言っとくけど、四人やそこらで破れる軟なシステムじゃないよ」
チャールズの左手を退けるように右肩を捻り、リチャードは窓の外の施設を物憂げに眺めた。壁際ギリギリまで車を寄せて急激に上昇させ、壁を上る様に車は直角に高度を上げて壁を越えた。石造りの壁には似つかわしくない、真っ白で巨大なドーム型の建物が四人の眼下に見えた。
「どうやって入る気?」エドワードは思いついた疑問を口に出した。
「もうすぐ向こうからこちらを出迎えてくれるはずだ」
チャールズはハンドルを彼の胸に向かって引き付け、車体を急降下させる。ドームの屋根の一部が切り開かれる様にパックリと空き、中から黒い巨大な筒状の物体が伸び出て来た。その先端が一瞬、黄色い光を放ち黒い煙を立ち昇らせたかと思うと、凄まじい衝撃とともに車体が激しく揺れた。
「ちっ! 当たったか……」
運転席と助手席の間にあるモニターに“DANGER”の文字が映し出され、ブオーンブオーンという警告音が車内に鳴り響く。
「おい! この中で仲良く四人でお陀仏なんて御免だぞ!」
エドワードは運転席の座席を後ろからつかみ、チャールズに向かって叫ぶ。「しっかりつかまってろ!」チャールズはハンドルを握り直し、車を真っ直ぐに大砲に向かわせた。ジョンは左側の扉を蹴破り、身体を半分出してバズーカ砲を構える。大砲から再び放たれた砲弾とバズーカの弾がぶつかり、車両の目の前で爆発する。モクモクと広がる黒煙の中を通り過ぎると、目の前に大砲が現れる。リチャードが助手席から立ち上がり、フロントガラスを内側から叩き割る。向かい風が入り込み、車体が急激に減速しながら落下する。リチャードは手榴弾の安全ピンを抜き、大砲の発射口の中に投げ入れた。耳をつんざく大きな爆発音を立てて、砲台ごと大砲が建物の中に崩れ落ちて行くその炎の中に車両は突っ込んだ。エドワードは後頭部から身体を抱え込むように前屈して目を閉じた。
車両は組み立て工場で見られるような骨組みだけを残して、ドームの中に輪っかの様に広がる円状の広場に着地した。
「……みんな無事か?」
チャールズが咳き込みながら辺りを見回す。「落下傘部隊の上陸作戦より酷いな……」車体の外に転がり出たジョンは片膝を立てながら、頭の土埃を右手で払い落とした。リチャードは、神に祈っていたかのように両手をクロスさせたまま席から立った。エドワードはゆっくりと目を開けて、生きていることを確認し身体を伸ばして車両の外に出た。
「ここからどうするんだ?」
「ジェームスの居場所はリチャードが知ってる」チャールズがズボンを両手で払いながら立ち上がる。リチャードはゴーグル型のデバイスを起動させて三人を先導した。「あ、ちょっと待った」チャールズが思い出したように三人を呼び止める。
「各自、自分の身は自分で守ること」チャールズはリュックの中をガチャガチャとまさぐり、手榴弾と自動拳銃SIG SAUER P320を三人に手渡した。「これだけで?」ジョンは苦笑いしながら、P320の弾倉を確認した。「まあ、敵に合わないように行く予定だからさ」チャールズは、立ち上がって両手を広げる仕草を見せた。「もう来てるよ」ジョンは最下層に集まるカーマ・ポリスたちを指差した。
チャールズは、リチャードの肩に右手を置いてぽんぽんと叩いた「頼んだよ、兄弟」。チャールズの手を払いのけて、リチャードは走り出した。三人は顔を見合わせ、リチャードの後に続いた。ドームの中は空洞で、屋根伝いに砲台が等間隔で設置されていて屋根の両脇に階段が設置されていた。ぐるぐると螺旋状に回りながら四人は下へと降りて行く。
「あれに突っ込む気か!?」大勢のカーマ・ポリスが彼らの反対側から階段を上って来ている様子を見ながらエドワードはリチャードに叫ぶ。リチャードが急に立ち止まり、手榴弾を最下層に向かって投げた。「飛べ!!」リチャードが叫び、手榴弾の放物線をなぞるようにドームの中央に向かって飛び込んだ。ズドーンと凄まじい爆発音が鳴り響き、黒煙が上がっている。「やれやれ、またかよ……」ジョンはリチャードに続いて巨体を宙に投げ出した。「我が弟ながら無茶するね」チャールズも続いた。黒煙で見えなくなっている最下層をチラッと見てエドワードも意を決し、腰辺りまである白い手すりを蹴って宙に飛び出した。黒煙の下に転がったカーマ・ポリスたちの重なる死体の上にドスッと鈍い音を立てて落ちてそのまま、床に転がるようにして着地した。
「みんなどこだ?」チャールズが土煙でほとんど視界の遮られた向こうから叫んでいるのが聞こえた。エドワードが手を上げようとすると、上から銃弾が飛んで来た。階段を上っていたカーマ・ポリスたちが戻って来る。エドワードは身体を伏せて「こっちだ!」と叫んだ。ジョンが手榴弾を投げて応戦する中、リチャードが最下層から外へと続く長い通路の入り口で「おーい!」と手招きする姿が見えた。
先程までの喧騒が嘘みたいに静かなレッドカーペットが敷かれた通路を四人は進んだ。チャールズが手榴弾で入り口を塞いだということも功を奏したようだ。金色の扉が通路の終わりに四人を迎えた。リチャードが扉の横に付いた数列式のボタンを押し、扉の取っ手についたランプが緑色に点滅する。ゆっくりと取っ手を回し手前に引くと、真っ暗闇の空間が広がった。チャールズがリュックから小型ライトを取り出し中を照らすと、部屋の中央に両手首を鎖で繋がれたジェームスが見えた。
「ジェームス!」エドワードが駆け寄ろうとすると、ククククク……とその背後から笑い声が聞こえ、四人は身構えた。
「……え?」
四人はその場に固まった。ジェームスの隣にジェームスと顔、背格好まで瓜二つの男が現れたのだ。
「どっちがジェームスなんだ?」チャールズの間抜けな問いを、「捕まってる方に決まってんだろ!」とエドワードは一喝する。
「どうかな……? 私が本物かもしれないぞ」男はニタニタと笑みを浮かべる。
「その通りだ」部屋の奥からもう一人の男が現れると、いよいよ四人は混乱した。その男はエドワードにそっくりだったのだ。「……どういうことだ?」目を見開くエドワードの前に、さらにチャールズとリチャードとジョンそっくりの男たちがぞろぞろと姿を現した。
「クローン人間か……」リチャードがP320を彼らに向ける。
「リチャード、君が創ったシステムは穴だらけだな」リチャードそっくりの男が鎖に繋がれたジェームスの背後から首元に医療用メスを突き付けた。
「リチャード!」エドワードが叫び、リチャードは銃口を下ろす。
「しかし、こんなものどうやって……」
「マイクロチップさ。我々は君たちを管理するなんて、とても無理だと最初から分かっていたんだ。マイクロチップから遺伝子情報を汲み取れば、初めから我々の管理下にある人間を生成できるだろう? 後は本物とクローンを入れ替えるだけで、外からは気づかれずに完全な国家が誕生するわけだよ。その為にこの施設は必要だった」
エドワードそっくりの男は得意げな表情で語った。エドワードはまるで自分がこの恐ろしい計画の首謀者であるような気がして軽い眩暈を覚えた。
「君たちが大量に虐殺した、カーマ・ポリスがいるだろ? 彼らはもともと一般人だ、クローンと入れ替えられたね。彼らは我々の情報操作でクローンをしょっ引いていると思い込んでる」とチャールズそっくりの男が続ける。
「何てことを……」
パンッ! ジョンがP320を発砲し、リチャードそっくりの男の眉間を貫いた。額から血を滴らせて、メスが地面にカランと落ちる音とともにジェームスの後ろに倒れた。エドワードは他の三人が身構えようと動いた瞬間に、ジェームスの手首の鎖に銃弾を撃ち込んだ。同時に動き出したチャールズは、倒れ込むジェームスをリチャードと共に抱え部屋の外に向かって走り出した。リチャードがジョンそっくりの男の右手を撃ち、彼は構えようとした拳銃を床に落とした。エドワードは彼らに向かって安全ピンを抜いた手榴弾を投げた。目のくらむ閃光が部屋を満たし、大きな爆発音が鳴り響いた。
トクトクトクトクトクと硝子のウイスキーグラスに、丸みを帯びた太いボトルから黄金色に輝く液体を注ぐ。「乾杯!」グラスの底を満たした液体を揺らしながらグラスを軽くぶつけた心地良い響きの余韻に耳を傾けながら、液体をくッと喉の奥に流し込んだ。口の中を焼き払うような熱がかっと広がり、身体の芯がほかほかと温まる心地に目を閉じて浸る。
「こいつは美味い。一体どこから仕入れたんだ?」
ジェームスはボトルのラベルを確認しようと目を凝らす。
「こいつはデッドストックさ。オレの友人が国に帰る時に餞別に置いていったんだが、知らない内にその国ではウイスキーの生産が中止されて、もう手に入らない一品になった」
「どおりで……全然読めやしねえ言語なわけだ。いいのか? そんな思い出深いもん開けちまって」
「ああ。あんたは命の恩人だ、これでも足りないくらい感謝してる」
ジェームスはラベルから目をそらして苦笑いしながら、残ったウイスキーを飲み干した。
矯正施設が全壊したなんてニュースはもちろん報道されず、人々の手の甲からマイクロチップがなくなることも、カーマ・ポリスが解散することもなかった。それどころか、政府はカーマ・ポリス関連の予算を増額し全国に新たに三カ所の矯正施設を新設する法案を可決した。まるでエドワードが体験したことは夢のように“なかった”ことになっている。しかし、夢と違うことはエドワード以外に四人が同じ体験をして、しっかりと覚えているということだ。
五人はそれぞれ、政府が秘密裏に進める国民総クローン化計画を阻止するために行動を開始した。リチャードは政府の情報操作を防ぐ為に、政府の広報システムにひたすらバグを起こすウィルスを送り続けているが、向こうのウィルスバスターとのいたちごっこ状態だ。ジョンはカーマ・ポリスに入隊し、出世して組織そのものを乗っ取ろうとスパイ活動を行っている。チャールズはレジスタンスの組織づくりの為にいろいろとやっているみたいだが、詳しいことは教えてくれない。ジェームスはいつも通り、エドワードや仲間が怪我したら闇医者として面倒を見てくれる。
ピッピッピッピッ……
「来たな……」エドワードは面倒くさそうにため息をつき、巻き煙草を咥えてジッポライターでその先端に火をつける。大きく息を吸って、肺に溜めた煙をゆっくりと吐き出す。冷たい闇の中に浮かぶ白煙に紛れて黒づくめの男たちが姿を見せる。
「No.20170623、止まれ。止まらない場合、発砲する!」
「カーマ・ポリス、オレはできることは全てやったぞ!」
エドワードは追ってくるカーマ・ポリスに向かって、彼が地下出版したルポルタージュ『クローンと真実』を投げつけた。カーマ・ポリスの放った銃弾が分厚い紙の束に阻まれた。
「紙の本なんて初めて見たな……」
一人のカーマ・ポリスが泥水の上に落ちた、衝撃でぼろぼろの紙屑と化した本を拾い上げて、パラパラとページをめくって先端がぐにゃぐにゃになった銃弾を右手でつまみ上げた。
ブッダの言葉には続きがある。――「その報いはわたしには来ないだろう」と思って、善を軽んずるな。水が水が一滴ずつ滴り落ちるならば、水瓶でも満たされるのである。気をつけている人は、水を少しずつでも集めるように善を積むならば、やがて福徳に満たされる。――
【了】
参考文献
Radiohead「Karma Police」、『OK Computer』(Songwriters: Colin Charles Greenwood / Edward John O’brien / Jonathan Richard Guy Greenwood / Philip James Selway / Thomas Edward Yorke(C)Wanner/Chappell Music,inc)
『ブッダの真理のことば・感興の言葉』中村元訳(岩波文庫)
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