茉莉子の汗は、さんぴん茶の香りがした。もちろん茉莉子はさんぴん茶に使われている茉莉花にちなんだ仮名だし、汗のにおいから安直に名前をつけられるなんて本人にしてみれば心外かもしれない。それでも、彼女の汗のにおいが一番印象に残っているんだからこれはどうしようもない。今はもう付き合っていないから本名を使うわけにもいかないし。
それに本人にも少しは責任がある。僕の記憶にある限り、茉莉子は常にペットボトルのさんぴん茶を手にしていた。黄色いラベルに包まれた金色に輝くお茶。僕の中でそれはもはや彼女と切っても切り離せない存在だった。たぶん体内に吸収されたさんぴん茶は全身の血管をめぐり、汗に混じってにじみ出ていたのだろう。さんぴん茶を口に含んだときに広がるジャスミンの花の強烈な甘い香りは、いつも瞬時に茉莉子を脳裏に呼び起こした。
あのころの僕の使命は、茉莉子に制汗剤を使わせないようにすることだった。体育の授業のあとになると、制汗スプレーのガスが教室じゅうに充満して呼吸すらできないくらいである。誰もが自意識過剰になって自分の体臭を消し去ることに必死になっていたけれど、さいわい茉莉子は自分の体からさんぴん茶の匂いが発せられていることにまったく気づいていなかった。
「8×4のにおいって、きつくて目が回りそうだよね」などと僕が言うと、茉莉子は素直にうなずいた。女性的な身づくろいにもまったく無頓着で、化粧をしているのを見たことがない。腕の産毛は未処理のままそよ風になびいていた。
"茉莉子、さんぴん茶、僕"へのコメント 0件