康暦の世の、秋のことなり。
周防の国より長門の奥処へと、ただ独り草鞋の緒を締め直して巡礼の歩みを運ばせし僧・浄雲は、赤間関の荒れ果てたる浦にて、奇異なる裂を見たり。
その日は朝より陰欝なる雲垂れ込め、玄界灘より吹き寄する北風は、岩肌を削りて潮煙を巻き上げ、海を渡る烏の羽をも凍らせんばかりに吹きつけてゐた。関の瀬戸は、壇ノ浦の合戦より星霜を経てなほ、底に沈みし平家一門の怨嗟を湛へて渦を巻き、急流の鳴動は地底の呻きにも似て、旅人の耳朶を絶え間なく打ち据ゑる。此岸に立ちて沖を望めば、白波の合間に赤き旗の影が揺らめき、幼き帝を抱きて入水せし二位の尼の黒髪が、海松のやうに揺れて見ゆることさへあると、浦の海人らは声を潜めて語り合ふ土地なりき。
浄雲がこの地の古刹・紅石山阿弥陀寺を訪ひしは、西国巡礼の途次、海底に朽ち果てたる亡魂を弔はんがため、寺に伝はる古き施餓鬼の作法と経典を乞はんがためなりき。されど、石段を登りつめたる先に立ち現れたる堂宇は、潮風に柱を洗はれて白骨の如く痩せさらばへ、金堂の扉は傾き、釣鐘の緑青ばかりが寒々しく夕暮れの薄光を弾いてゐた。
客殿の薄暗がりより現れたる住持の老僧は、齢七十を越えて腰は弓の如く曲がり、咳を繰り返すばかりで、生気といふものを持たぬ老人に見えた。浄雲が来意を告げ、経蔵の拝見を乞ふと、老僧は濁れる眼を眇め、しばらくの間、浄雲の濡れたる足駄と麻の墨染衣をぢつと見つめてゐたが、やがて掠れたる声をもつて、かう呟いた。
「経を求めて参られたか。……されど、経の文字などは、この海に沈みし魂の何一つ救ひはせなんだ。文字は紙の上の仏にすぎぬ。……見るがよい。文字よりも重く、経よりも深く、この海の悔恨を吸ひて固まりたるものを」
老僧は手にせる油灯の芯を掻き立て、本堂の裏手に建つ土蔵へと浄雲を促した。
海風を遮るべく低く築かれたる土蔵は、扉の鉄鎖が赤く錆びつき、錠を開くるごとに、軋む悲鳴のやうな音を立てた。内に一歩足を踏み入るれば、乾きたる土の匂ひに混じりて、潮の饐えたる気配と、泥の底に眠る藻が腐敗しかけたるが如き、甘く冷たき匂ひが鼻腔の奥を重く塞いだ。
蔵の奥、埃に埋もれたる厨子の扉を押し開けば、そこに白木の箱が一つ、鎮座してゐた。桐の木肌は既に黒ずみ、蓋には封印の紙が幾重にも貼られてゐたが、紙は年月の重みに耐へ兼ねて朽ち破れ、墨の文字は判読も叶はぬ。
老僧は震へる指先で蓋を取り、油紙の包みを慎重に解いた。
現れたるは、一領の袈裟であつた。
灯明の頼りなき光の下、その布が露はになりし瞬間、浄雲は思はず息を呑み、半歩後退りした。
青であつた。
されど、その青は、浄雲がこれまで目にしてきた、いかなる染め物の色とも似てゐなかつた。天平の古裂に見る縹にあらず、唐渡りの錦に見る群青にもあらず、都の公卿が好む露草の浅き青にもあらず。
深く、暗く、光を吸ひ込みて決して跳ね返さぬ、海底の底の底のやうな青。
布の目を凝視すれば、平織りの繊維の隙間に、青よりもなほ暗き、赤黒き染みが斑紋のやうに沈殿してゐる。灯火の揺らぎに合はせて布を傾くれば、青の内奥より、微かに血の気配が浮かび上がり、また闇の底へと沈んでゆく。色そのものが、生き物のやうに緩慢なる呼吸を繰り返してゐるかのやうに見えた。
「……これは、何染めにございますか」
浄雲が声を絞り出すと、老僧は枯れ枝のやうな手を伸ばし、袈裟の縁を指し示した。
「哭染と伝へ聞く。文永の頃、この浦の外れに棲みつきし染師が、人の流す涙と悔恨を以て建てたる藍なりと。……御仏に捧ぐる袈裟の形をしてはをれど、これは祈りの衣にあらず。呪詛の衣でもない。ただ、死にゆく者の流したる生への執着が、そのまま布の形を取りたる成れの果てぢや。……触れてごらんなされ」
浄雲は躊躇ひつつも、人差し指の先を、布の端へと沈めた。
絹の滑らかさはなかつた。麻の乾いたる強さもなかつた。
指先が触れたる刹那、ひやりとした湿り気が皮膚を伝ひ、骨の芯まで浸透してきた。あたかも、冷たき潮水に長く浸かりてふやけたる、死人の肌に触れたるが如き感触。布は乾ききつてゐるはずであるのに、指の腹には、ぬらりとした油のやうな、塩の粒のやうなものが吸ひ付いて離れぬ。
「布が……泣いてをるやうに冷たい」
「泣いてをるのではない。乾かぬのだ」
老僧は暗がりの中で、自嘲の如き笑みを漏らした。
「この袈裟は、百年の間、蔵の奥にあつても一度として乾いたことがない。天気の崩るる前には色をどす黒く変じ、晴天の続く日には、浦の潮が引いた後のやうな腥き香を放つ。……先の住持は、この袈裟を毎日拝み、夜毎に耳を寄せてをつた。布の目の奥から、幾百の人の啜り泣く声が聞こえる、わしを呼ぶ声がすると言ひ残し、最後にはこの海へ身を投げて果てた。……染めたる男の名は、青玄といふ。その男の眼は、人の命の終はる色を嗅ぎ分ける眼であつたさうな」
「色を……嗅ぎ分ける?」
「さやうに伝はる。青玄にとりて、人の命とは形にあらず、色であつた。それも、人が死ぬる間際にしか放たぬ、最も濃き悲哀の青であつた。男はその青を布に定着させんがために、己の命のすべてを藍甕の底に注ぎ込んだのぢや」
浄雲は、袈裟から眼を離すことが出来なかつた。
見つめれば見つめるほど、己の眼球の奥がじわりと熱を帯び、視界の縁が藍色に滲んでゆく。耳の奥で、遠い壇ノ浦の波頭の崩るる音が鳴り始めた。その波の合間に、矢を射立てられて海へ落ちる武者の絶叫、我が子を抱きて底へ沈みゆく女の咽び泣き、そして、暗き部屋の中で藍の甕を掻き回し、青き涙を流しながら笑ふ、一人の青年の幻影が、眼の裏に焼き付くやうに明滅した。
恐ろしくなりて指を引いたとき、老僧は既に袈裟の上に油紙を重ね、桐の蓋を閉ぢてゐた。
青が隠されたる瞬間、蔵の中の空気が、ふつと軽くなつた。
「……これを、読まれよ」
老僧が厨子の隅より取り出したるは、反故紙を束ねて麻糸にて綴ぢたる、一帖の古びたる草紙であつた。表紙には題もなく、ただ潮気と藍の染料が染みて、所々が濃青色に濁つてゐる。
「青玄の傍らにをりし女の語りしを、のちに旅の僧が綴りたる記録と聞く。女は文字も知らぬ浦の海女であつたゆゑ、冒頭の一行と末尾の数行のみ、己が拙き手にて記したと伝はる。青玄の譫言も、布の目の奥の囁きも、女は残らず聞き取つてをつたと見える。……わしにはもう、目が霞みて読めぬ。旅のお坊さん、あなたが読み給へ。そして、この青が仏の慈悲であつたのか、あるいは底知れぬ地獄の叫びであつたのか、確かめて下され」
浄雲は両手をもつて草紙を受け取つた。
紙の束は、見た目よりも遥かに重く、手のひらに冷たく沈んだ。
表紙を捲れば、最初の一頁に、震へる筆跡にて、大書されたる一行がありき。
——色は、痛みに似たり。
浄雲は土蔵の床に腰を下ろし、行燈の灯りの下に草紙を押し広げた。
海鳴りが、夜の闇を裂いて響いてゐた。
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