生温く、病んだ風が凪いでいた。黒田龍二はナオミの部屋の真下のコンビニで液体胃薬を買い、自動ドアの横で一気に飲み干した。
毎日のように渉の店の白痴の女達を相手に飲んでも、黒田自身、面白くも可笑しくも無かった。こんな遣る瀬無い日常に、嫌悪感すら抱いている程だ。黒田はエトランジェと渉のキャバクラ以外は、何処の店も出入りを禁止されていた。それどころか、黒田はこの街の人々から蛇蝎の如く忌諱されていると言っても過言ではなかった。
ナオミは今まで俺の脅しに怯え、奸計に嵌まり続けてきた。あいつはさぞかし俺を恨んでいる事だろう。
黒田は乱暴に胃薬の瓶をゴミ箱に投げ入れると、ナオミに電話を掛けた。コール音三回で彼女は電話に出た。「おう、俺だ。今お前の部屋の下にいるぞ。金は用意出来たんだろうな?」
「ええ、きっちり、」とナオミは言った。「じゃ、下りて来い。」
ナオミは僅かの内に酷く窶れ果てていた。流石の黒田でさえ正面に見ていられない程であった。「おう、ご苦労だったな。今から後輩の所に謝りに行って来るからな。お前もいい社会勉強になっただろう。」何かを悟った顔の彼女は、黒田にそっと銀行の封筒を差し出した。黒田は封筒を受け取ると、スーツのポケットに仕舞い込んだ。「これで、本当に最後ですね、」とナオミは訊いた。ああ、約束する、黒田は静かに頷いた。気を付けて、と彼女は言った。
「ああ、お前もな。」黒田は慙愧に耐えない思いで言い残すと、黒塗りのベンツに乗り込んだ。黒田は一刻も早くナオミの目の前から姿を消してしまいたかった。
あいつがこんなになってまで守りたかった、エトランジェの仲間とは一体何だろう?
ナオミは這うように部屋に戻り、寝台に倒れ込んだ。颱風は過ぎ去ったのだ。ソープランドに売られる事も、恐らく無いだろう。
ヤクザにもなり切れない癖に、女衒に等なれる筈も無い。
♢
「俺は日本で最大規模の売春組織を作りたいんだ。」
出会った当時、黒田は店でそんな大風呂敷を広げていた。黒田は暴力団組織に胡坐をかき、その上前だけを要領良く撥ねたい、と言う強烈な願望がありながらその割りに世故には長けておらず、不満たらたらの毎日を送っていた。
「人がどんな目標を持つのも自由だけれど、龍二さんは自分の愛する人を売ったりできるの?」
目の前の未知の女は真剣な眼差しで訊いた。
愛する……? 果たして俺は今迄本当に人を愛した事があったのだろうか。「いや、俺にはできないよ……、」黒田は戸惑いながらも小指の欠けた掌に視線を落として言った。天秤座の黒田は、常に己の仏性と魔性の間を揺れ動いていた。
「矢っ張りね、そうじゃないかと思っていたわ。」
「何でそう言い切れるんだ?」と黒田は率直に疑問をぶつけた。
「だって、あなたは今迄たくさん傷付いて、心から血を流して来た人だからよ。だから、本当は人の痛みが良く分かるのよ。」
「お前、名前はナオミって言ったっけ、」と黒田は訊いた。
ええ、と彼女は頷いた。
「ナオミは、少しは俺の事を理解しているみたいじゃねぇか。」
(8)
女装クラブ帰りの明日香は、エトランジェが休みの日曜日、居酒屋でナオミと和也が来るのを待ち構えていた。約束の時間の十分前に待ち合わせ場所に辿り着いた明日香は、焼酎の烏龍割を飲みながら眉間に皺を寄せ、貧乏揺すりをしていた。唐突ではあるが、明日香は今日ナオミに結婚を申し込む積もりであった。
明日香は部下を連れ、エトランジェに行く度に、酔っ払って「俺はナオミを嫁さんにするぞ!」と吹聴していた。ナオミは何時ものようにのらりくらりと飲んだくれて、明日香の出鱈目を正面に取り合おうとしなかった。店の常連も明日香の部下もママを嫁に貰うなんて、冗談は顔だけにしろよ、と半ば呆れ顔で笑っていた。然し、他の誰が何と言おうと明日香本人は何処迄も本気だったのである。
明日香はナオミと再婚を果たす事で、長く病床に臥している年老いた父を安心させてやりたかった。誰でもいいから再婚して早く孫の顔を見せておくれ、と明日香と顔を合わせる度に懇願していた母も祖母も大喜びするだろう。それから、時代の最先端を行く電気機器メーカーの癖に、案外封建的な社風の会社の仕事にも良い影響を及ぼすに違いない。明日香はナオミと二人の自由気儘な生活を夢見ていた。それは、結婚生活と言うより、気の合う二人の乙女のお洒落な共同生活、とでも言った方が相応しかった。和也に申し訳無い気持ちも若干あるが、彼は働き者で外見も悪くない。ナオミじゃなくても女に不自由する事はないだろう。明日香はどう言う風にナオミにプロポーズの言葉を切り出そうか、と考え倦ねていた。
約束の時間きっかりにナオミと和也が現れた。明日香はナオミを正面に座らせる為、女装グッズの入ったボストンバッグをテーブルの下に仕舞い込み、襟を正したように座敷に座り直した。酒が運ばれてくると、三人は和気藹藹とグラスを合わせた。
「ナオミ、話がある、」と明日香は言葉を選びながら突然切り出した。「明日香ちゃん、何?」彼女はきょとんとして訊いた。
「あたし、いや、俺と一緒に暮らさないか?」
明日香はナオミがどんな反応に出るか、注意深く観察していた。彼女は仰天し、何で? と訊き返した。
「いや、俺と暮らせば家賃も浮くし、可愛い洋服だって沢山あるから一緒に着られるだろう?」ナオミは明日香の真意が余り分かってはいなかった。「一緒に住んでもお店は何時も通り続けて行けばいい訳だし、週末になればあたしも女装してみんなで飲めばいいじゃない。何も変わりゃしないわよ。ただ婚姻届けを役所に提出して、ナオミの姓が変わるだけで……。」額に冷や汗を浮かべた明日香は、声を上擦らせていた。和也は錐のような視線で明日香を刺し貫いていた。
「イヤよ。あたしは一人暮らしの方が性に合っているんだもの。それに、明日香ちゃんと結婚なんて、考えてもみなかったわ。」
明日香は俯き、オシボリで額を拭いながら、彼女の言葉を自分なりに解釈した。「ナオミ、お前、それは俺と結婚できないと言う事だな? 俺は親族にも会社の連中にも、みんなにナオミと結婚するって喋り捲ったんだぞ!」明日香は非難と拒絶の入り混じった声を喉元から絞り出した。「そんな事言われたって困るわよ。今でも十分楽しい関係なのに、何で明日香ちゃんは結婚しようなんて思い付いたの?」明日香は握り締めた拳を膝の上で震わせていた。
「もう一度訊く? つまりお前は俺と結婚する気はないんだな?」
「ありません。」「分かった、もう、いい!」
こうなったらプロポーズと言うより脅迫だ。明日香は激昂していた。和也はむっつりと薄気味の悪い沈黙を守り続けていた。
「俺と結婚できないなんて、お前はとんでもない奴だ。もう、勝手にしろ。エトランジェなんか二度と行かないからな!」
明日香は語気荒く皮肉な抑揚を付けて捲し立て、女装グッズの入ったバッグをテーブルの下から引き摺りだして伝票を引ッ摑むと、ナオミに未練がましい一瞥を呉れて店を後にした。「明日香ちゃん、待って!」とナオミが追って来る事を期待したが、彼女の姿は無かった。明日香はがっくり肩を落とし、家路に着いた。
明日香の鼻先を生暖かい春風が擽った。もうすぐ春が来ると言うのに、俺の春は遠い。そう思うと明日香は遣る瀬無さで胸が一杯になった。
♢
明日香は真っ直ぐ帰宅する筈だったが、満たされない思いの儘線路沿いにひっそりと赤提灯を灯すホルモン焼きの店の前に佇み、導かれるように磨硝子の嵌め込まれた引き戸をガラガラと引いてしまった。明日香は自棄酒する積もりでカウンターの端に腰掛け、バッグを足元に置いて、女将に焼酎のロックを頼んだ。
女将さんは大きなマスクで顔の半分を覆った、でっぷり太って愛想の悪い中年女だった。明日香は最初から容赦無く飲み倒す積もりだった。それにしても、余り雰囲気の良くない店である。掃除の行き届いていないお粗末な店内は電車が通る度にミシミシと歯軋りを起こし、天井に張り付いている蜘蛛の巣が震えて埃を撒き散らした。誰が開けたのか、ご丁寧に壁に穴まで開いている。明日香がカウンターにぼんやりと手を突くと、何か異物感があった。吃驚して掌を見るとゴキブリの死骸が貼り付いていた。
アル中患者や、柄の悪いオッサン連中の異様な熱気を、明日香は身の危険を感じながら観察していた。女将が何か一言喋る度に限りなく猥褻な野次が店の彼方此方で飛び交う。
それにしても、あの女将さん、あたしが女装した方がまだマシじゃない。何で中年女ってわざわざ糠床の中の腐りかけた野菜みたいな色の服を着るのかしら? あたしは何時も乙女って感じのパステルなのに。それにしても彼女、典型的なメタボリックよね。あたしはああならないように毎週新宿までバレエを習いに行っているもの。レッスンでは二十代の若い女の子達から王子って呼ばれているんだから。ま、あの女将さんが今更バレエやったところでもう手遅れでしょうけどね。それにしてもあの大きなマスク、花粉症なのか三回くらい美容整形に失敗したのか分かりゃしないわ。このホルモン屋は気持ち悪いオッサンばかり。淳様みたいに渋い殿方はいないしねェ……。
「しのぶちゃんはこの店のマドンナだよ!」
蜷蛇の一匹が素ッ頓狂な声を上げた。「やだわァ、スーさん、もっと飲んで。」と女将が頬を染め、訊いた。
何言ってやがるんだ、色キチガイ! と明日香は顔を背けた。
「幾らでも飲むよ。しのぶちゃんみたいな美人に酌をして貰えるなんて、バラ色の人生だ!」「ンもゥ、お上手言っちゃってェ、」彼女は品を作り、蜷蛇のグラスになみなみと焼酎を注いでやった。
しのぶ、此処の女将さんの名前か……。あれが美人? あのオヤジ飲み過ぎて到頭目に来たか。然し、このご時世に目が潰れるような酒など出回っているのだろうか? 有線放送から辛気臭い歌謡曲が流れ、濡れ落ち葉のような客の集うこの店は、娑婆と地獄の境界である。
明日香は狂人染みた騒擾に馴染めず、孤独を噛み締めていた。
天井から蜘蛛がぷら~んと下りて来た。この連中は自分の目の前に蜘蛛の糸が下りてきた事すら気付きもすまい。
引き戸がガラガラと開き、浅緑色のジャンバーを着たよれよれのハゲオヤジが丸めた競馬新聞を片手に店に入って来た。水虫に蝕まれた素足にゴム製の便所サンダルを突っ掛けている。男はウィ~ッと唸りながら、明日香の隣に腰掛けた。何がウィ~だ、フランス人でもあるまい、明日香は男を一瞥し、椅子をずらしながら思った。男のびっしり毛の生えた福耳には、ご丁寧に赤鉛筆が挟み込まれている。キャー、不潔! 明日香は慌てて視線を逸らした。
このオヤジと何処かで会った事があるような……。明日香は隣の席で競馬新聞をガサガサ広げ、爪楊枝で歯の隙間を挵り回しているこの男を思い出そうとしていた。ああッ! と明日香は閃いた。そう言えばこのオヤジはエトランジェで二、三回見た事のある客だ。こいつは耳が腐る程下手なド演歌を立て続けに歌う客で、耐え切れなくなった常連客が早々退散してしまうため、ナオミはカラオケの機械が故障したと嘘を吐いてこの男を追い返した事があった。確か、松沢と言う名で、マッちゃんと呼ばれていたような……。
松沢はワックスを掛けたかのように脂ぎってツルリと禿げ上がった頭を、湯気の立ったオシボリで拭っていた。そして、焼酎のキープボトルをフンフン鼻歌混じりにグラスに満たしていた。
この見事なハゲ頭にマジックで一本線を引いたら亀頭みたいで面白いのに。こいつは俺の一回り上位の団塊の世代だろうか。忌忌しい上司の顔が明日香の脳裏に浮かんでは消えた。奴らには入社当時から随分可愛がられたものだ。ある飲み会で上司が、今夜は無礼講だ! 何て言うものだから、俺は口が滑って普段思っていた事を洗い浚い喋っちまった。あの上司と来たら、蒼褪めていやがったな。その後日、掌を返したように冷淡になった奴が「岡田君に是非海外の営業所を立て直して貰いたい。」等と御大層な大義名分を付けて、俺を厄介払いしやがった。はっきり言って、島流しか、国外追放みたいなものだ。然し、上海、香港、台湾、マレーシア、俺は何処の国の営業所でも猛烈に働いた。仕事の鬼だった。この十年で、俺の実績は高く評価され、日本に帰国し、今のポストに就いた。
当時の女房だった裕子……。俺があいつと上海のゲイバーに遊びに行った時、綺麗なオカマちゃんやニューハーフに囲まれて、俺は龍宮城にいるような気分だった。俺は、酔っ払った拍子に裕子の頭を手で叩き、「お前もあのステージのオカマちゃん達を見習え! 女を捨てるな!」等と口を滑らせちまったらしい。裕子がこんな些細な事をあんなに根に持っていたとは知らなかった。裕子を連れ帰国した或る日、あいつは行き成り俺に離婚を切り出してきた。その理由を尋ねたら、あの時あなたがゲイバーで私にこう言ったから、と言って来た。俺は寝耳に水だった。「そんなにオカマが好きだったら、あんたもオカマになったらいいじゃない!」裕子は憎憎しげに離婚届を突き付けると、俺の身包みを剥いで出て行った。裕子の服を時折拝借して、俺が女装していたのをあいつは知っていたのだ。
明日香は沈んだ気持ちで焼酎を啜っていた。
何かの拍子に明日香と松沢は視線が搗ち合った。明日香はいけない、と思いながらも松沢の顔を見てプッと吹き出してしまった。
くくく……、苦しい。笑いを堪えるのに骨を折る。
「おたく、何が可笑しいんですか?」
松沢は露骨にムッとして明日香に絡んできた。
「い、いや、何処かでお見掛けした方だな、と思うと親しみが湧いて、アッ、アハハハ……。」明日香の苦し紛れの弁解に単細胞の松沢は機嫌を直し、焼酎のボトルを片手に擦り寄ってきた。
「そうですか、何処かでね、まぁ、いいじゃないですか、どうです、一杯?」それは悪魔の誘いだった。申し訳程度に溶け掛かった氷の浮いている明日香のグラスに、松沢はドボドボと焼酎を注ぎ足した。
「いやァ、これはどうも、折角ですのでご相伴に預かります。」
明日香と松沢はグラスを合わせた。松沢は熱々のモツ煮込みを明日香に取り分けてくれた。明日香は素直に礼を言った。
「漸く暖かくなって来たものですねェ、年寄りに冬の寒さは堪える、」と松沢はしんみりと言った。
「そんな、年寄りだなんてマッちゃんはまだお若いですよ。」
「おお! マッちゃんだなんて、私のニックネームまで憶えていて下さったんですか。」松沢は赤黒いハゲ頭を上気させ、明日香の手を握り締めた。明日香は地雷を踏んでしまった。
「え、ええ。何時だったか、演歌をカラオケで歌っていらっしゃいましたね。見事でしたよ。」こんないやらしい禿オヤジ、ナオミがあんなに毛嫌いしていたじゃないか、と言う気持ちと裏腹に、明日香の口から日頃営業職で鍛え抜いた社交辞令が滑り落ちた。
「女房に先立たれてからと言うもの、私は酒と演歌が何よりの生き甲斐なんです。いや~、あなたは話せる方だ。」
松沢は自分が酩酊するだけでは飽き足らず、誰かを巻き添えにしようとしていた。傷心の明日香は格好のカモだった。有線放送から安井かずみ作詞の『経験』を、辺見マリが色っぽく歌っているのが流れている。やめてッ! て言いたいのは此方の方だ、と明日香は突っ込みたかったが、懲りもせずアッという間に松沢の罠に嵌まっていた。何時の間に松沢は同期の桜と言った感じで、馴れ馴れしく明日香の肩に腕を回し、酒を酌み交わしていた。明日香は社員旅行で出来の悪い課長から執拗に酒を飲まされ、終いには浴衣から乳をはみ出させ酔い潰れているOLのような気分だった。
「しのぶゥ、おい、しのぶちゃん、今晩一発やらせろォ!」
遠くで声が聞こえてくる。「なァに言ってンのよ、スーさん。そんなに酔っ払っていたら、立つモノも立たなくなっちゃうわよ。」
マッチ棒のように痩せて小柄なスーさんに、豚の肝臓のようなしのぶが馬乗りになったらどうだろう、明日香は一人で肩を揺すって笑いを堪えていた。更に松沢が不思議がってヌッと顔を覗き込んで来るので可笑しさに火が点き、明日香は目を白黒させながら、もう、どうなってもいい! と言う覚悟で止めの麦酒を一気飲みした。
「どうせ、どうせ、俺はアッチの方も駄目だよ。こないだ母ちゃんで試してみたけれど立たなかった。」サエないスーさんが女将さんの汚い尻を触りながらぼやいている。「誰だって、女房じゃ立たないわよッ!」しのぶはスーさんの華奢な肩をバンッと叩き、ガハハハと豪快に笑った。スーさんはつんのめって椅子から転げ落ち、悄気返っていた。
然し、俺のプロポーズを断るなんて、ナオミはとんでもない女だ。
明け方近くに這うように家に帰った明日香は、病欠すると会社と部下に連絡を入れた。毎月ノルマさえ熟し、会議さえ出ていれば、会社もそう喧しくは無い。俺はしがない働き蜂よ……。
明日香はベッドに倒れ込み、動けずにいた。明日香はベッドサイドの引き出しに仕舞われた体温計を脇に挟むと体温を計った。
明日香は四十度を越す高熱を出していた。
「あたし、死んじゃうのかしら?」
明日香の目から大粒の涙が零れ、頬を濡らした。
(9)
明日香が体調を崩している事を知ったナオミは、和也にお見舞いの品を持たせ、使いに行かせた。和也は果物や食べ物の入った紙袋を明日香の部屋のドアノブに掛けると自転車で店に戻って来た。明日香は昨夜の一方的なプロポーズに内心忸怩たるものがあったらしく、後日ナオミに素直に無礼を詫びた。日頃の過労と深酒が祟り体調を崩した明日香は、医者の言い付け通り数日会社を休み、薄紙を剥ぐように回復して行った。
「ご苦労さん!」ナオミが二人分の煮魚を料理しながら言った。店中に美味しそうな匂いが漂っている。お鍋のカレイは和也と最近エトランジェに迷い込んで来た落語家の三笑亭亀次の夕食だった。ナオミは亀次が落語の修業中の身だと知って、出来るだけ彼の助けになろうとしていた。落語を地で行く粗忽者の亀次は名幇間で、忽ち店の誰からも好かれる人気者になった。僧侶のように頭を剃り上げた彼は、清貧で何時も明るく朗らかだった。亀次のご利益あっての事か、最後の厄落とし以来黒田はぱたりと姿を見せなくなっていた。芸人が店に居つくと縁起が良いと言うのはどうやら本当の事らしい。
「咲ひ」がエトランジェに福を運んでくれた。
ナオミは月に一度亀次とその前座仲間の為にエトランジェで寄席を開いた。昔々亭喜太郎、春風亭べん橋、三笑亭春夢、亀次の落語仲間も遠方遥遥やって来て落語を聞かせてくれた。講談師の卵で、目を瞠るような和服美人の神田蘭さんが、ママは母性的な人ですね、と言っていた。幸先の良い出会いがエトランジェに舞い込んで来た。
月に一度の落語の日だけ、エトランジェはえとら亭になるのだ。ナオミは一応それっぽくなるように演出に努め、ピアノの椅子に座布団を敷き、出囃子の音楽も掛けた。噺が終わると、ナオミは「カンパ、求む!」と大声で呼び掛け、コーラの空き缶を客席に回し、御捻りを集めた。これは落語家達のギャランティである。
エトランジェは古を稽する者達の束の間の安息の地となった。今月の亀次は『強情灸』を披露し、皆の喝采を攫った。それに続く明日香の落語批評は手厳しく、時に笑いを誘うものであった。明日香は亀次と出会って以来落語にどんどんのめり込み、密かに研究もしていた。
「あたしは、十代二十代が前座で、三十代四十代が二つ目、五十代以降は人生の真打ちになる積もり、だから、あたしもみんなと同じ前座の身よ!」とナオミは明るく言った。「前座は大変だよ~、」と亀次が笑いながら言った。
「あなた達は仕込みが沢山あるし、古典芸能の継承者だから、大変だと思うわ。でも、お互い頑張ろうね!」
まだ二十歳前の春夢君が、「落語は決して人を傷付けるような笑いは取らないから、好きなんです、」と言っていた。ナオミはその言葉に妙に納得したものである。
寄席の日のナオミは早くから店に出て、精一杯料理した。ナオミと明日香と吉行氏は噺家さん達のお土産に、手を真っ赤にして沢山お握りを作った。お握り作りは吉行氏が一番上手だった。
禍福は糾える縄の如し、ナオミは再び活気を取り戻し始めた店の片隅で、この言葉を噛み締めるように呟いた。
♢
「しかし、良くママは俺を店に入れてくれたよね。」
亀次は一見客と喋るのを億劫がって、頑なに店に入れようとしないナオミに言った。「あの時は偶然機嫌が良かったのよ。」
ナオミは煙草の煙を吐き出しながら苦笑した。彼女は自身を堕落させてはならない、と言う最後の誇りすら失ってしまっていた。
「初めて此処に来た時、オカマバーかと思ったよ。」
「明日香ちゃんとその仲間がいたからね。」
「あの日は女の子と飲みたくて、いい店ないか探していたんだ。最初二階のマリーさんの所に間違えて入って、一階のエトランジェに逃げて来たら、そこもオカマが三人もいたから、もう、あの時は覚悟を決めた感じだったよ。その種で噺を作ろうと思って。」
亀次が笑いを噛み殺しながら言った。
「あたしだって、最初亀ちゃん達が噺家だとは思わなかったわよ。何だかぞろっぺェお兄ちゃん達が来たなと思ってさ。みんな、普段はラフでしょ。で、亀ちゃんはチベットの坊さんみたいだし。あなたはね、チベットに行って袈裟を着て、鉄鉢を持って托鉢をすればいいのよ。何だか現地の人より似合ってるんじゃない?」
「海外だったらまた、インド行きたいな。俺、昔半年程インドを放浪した事があったよ。」
亀次は若い頃から実に飄飄と東南アジア各地を旅した。様々な旅先での体験が亀次の落語の肥沃な土壌であり、創作の源泉であった。亀次は脳裏に焼き付けるように、旅先で出会った人々の喜怒哀楽の成分を自身の細胞に吸収して行った。
エトランジェは傍から見ると、苦行とも思える放浪の旅に縁のある人達が多かった。灼熱の地で、目から火花が飛び散るようなカレーを手掴みで食べ、ハシシを吸い、リュックサック一つでドミトリーを泊まり歩く、そんな旅人が。一度では飽き足らずに、聖なるガンジスに呼ばれるように二度、三度とインドを訪れる人もいた。エトランジェはその名の通り、旅人達が最後に辿り着く駅のような場所なのかもしれない。
♢
白いパレットに水彩絵の具を水で溶いたような淡いパステルカラーの春は過ぎ去った。月日は奔放に流転し、瞬く間に街の風景を塗り変えていった。季節は廻り、軈て油絵の具で塗り込めたような原色の夏が訪れようとしている。重く澱んだ熱気は、確実にナオミの生気を蒸発させ、彼女を蛻の殻にした。ナオミは黒田の付けた傷跡を深く残し、事件から立ち直れずにいた。明日香と和也は時間と共に徐々に自分自身を取り戻し、其其の季節を無我夢中で生きていた。
「ナオミちゃん、俺と結婚しよう。二人でこの街を出て、何処か違う街で暮らそうよ。」或る日、和也が思い詰めた顔でナオミに求婚した。普段なら適当にはぐらかして逃げるプロポーズの台詞だったが、ナオミは首を縦に振っていた。全ては二人の思い付きだった。結婚と言う新鮮な言葉にナオミは少し微笑んだ。「それもいいかもしれないわね。もう、この街にいるのが疲れて堪らないの。」
ナオミはヴェトナムから奇跡的に生還した傷だらけの兵士のような顔で、和也のプロポーズを受けた。
店の解約はナオミの身を案じた吉行氏の強い勧めだった。ナオミは店舗の契約書の解約届けに印鑑を押すと、隣町の不動産屋を訪れた。不動産屋の社長はエトランジェの閉店を頻りに残念がっていた。
ナオミは四季の折々に、社長に近況報告の手紙を書いて送っていた。社長も彼女からの便りが届くと必ず店に顔を見せてくれる律儀な人だった。「このテナントの中に入っているスナックの中でエトランジェのナオミ君が一番真面目だ。家賃を遅れた事が一度も無いなんて、こんな事は珍しい、」と社長は口癖のように言っていた。
ナオミは戸惑いながらも、「あたし、結婚するんです、」と報告した。社長は吃驚していたが、何とかおめでとうと言って呉れた。
「ナオミ君はまだ若いから、結婚と言う偶像に過剰な夢を抱くかも知れないけれど、結婚の実態と言うものは結局、現実の共同生活なんだから、我慢が必要な事だらけだよ。」社長は深刻な面持ちで諭すように言った。「分かっていますよ、社長、あたし全然期待なんてしていないんです、」とナオミが素っ気無く言ったら、社長はきょとんとしていた。
「もしかして、君のお相手と言うのは、毎日のように店で夕食を食べていたあの若い大工さんの事かね?」と社長は訊いた。
「ええ、良く分かりましたね、」とナオミは微笑した。
「まあ、また、落ち着いてお店がやりたくなったら、何時でもおいで。君の事は信用しているし、格安でいい物件を見付けてあげるからね。」社長の親切な言葉にナオミは胸が痛んだ。
♢
ナオミはエトランジェを閉める理由を結婚の話題に摩り替え、訝る客を説き伏せて回った。彼女はメール街の山口百恵になる積もりだった。四十過ぎの飲み助の男達にとって通い慣れた飲み屋の一軒や二軒が潰れる位、大して珍しい出来事ではない筈である。然し、馴染みの常連は、頻りにエトランジェの閉店を惜しんでいた。
「此処が無くなると寂しくなるな。いい店程早く無くなっちまうんだな。」店の前のゴミ箱で拾われた西川がポツリと呟いた。
「何で、あたしはこうなんだろう。不器用で苦しむ事ばかり。」
「それは、ナオミさんがまだ若い証拠ですよ。自分の生き方を模索する時代って言うのは、泥塗れで傷だらけで苦しい事ばかり。でも、僕みたいにおじさんになって、昔を振り返ってみれば、ほろ苦さの中に甘さもあったなと思い返す日がきっと来る。青春時代って、そんなものですよ。」
森君がバーボンを飲み干して言った。
森君と西川はエトランジェで出会い、サイクリング仲間になった。彼らは毎週末を子供のように待ち焦がれ、レース用の自転車を走らせた。西川と亀次は銭湯仲間である。二人はひとっ風呂浴びた帰りに、麦酒を飲み、お好み焼きを突付きながら何時間も語り合った。
エトランジェには幾つもの友情の礎が築かれていた。
「そうだぞ、ナオミ、森さんの言う通りだぞ。苦しい時代があるからこそ、酸いも甘いも噛み分けた大人になれるんだ。俺もこの年で学生の頃みたいないい仲間が出来たしな。楽しかったよ。おい、酒くれ、酒! 何だ、ナオミ、泣くなってば、」
ナオミは涙で二の句が継げなかった。彼女の涙は涸れ果てても尽きる事無く、泉の如く滾滾と湧いて来る。それは、エトランジェで出会った男達の苦しみや悲しみをナオミが吸い取ってしまうからである。彼女は裏街のメシアだった。
「ナオミ! 和也に幸せにして貰えよ。」
西川が餞の言葉を送った。
色褪せた薔薇は散り、裏街に悲しい歌が流れている。
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