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妖精郷

腥田をにゆり

題名の読み方は「アフワロン」です。ファンタジーを書こうとしたが、しかし…。

タグ: #純文学 #金枝篇

小説

4,173文字

妖精郷アフワロン

腥田をにゆり

アンデル=センの鼻腔の奥、ふだんは意識さえしない粘膜のひだ、その裏に染みついて離れようとしなかった——焼かれた人間の脂が、ケルンの大伽藍だいがらんの薄硝子を透かして来る光のなかで、空気そのものを脂ぎらせているような、あの匂いだ。喉の奥に貼りつき、唾液を飲み込むたびに胃の底から押し返されてくるその匂いを吐き出すこともできず、アンデル=センはただ硝子越しの炎を見つめ続けた。炎のなかで、彼の鼓膜に届いていたのは叫び声というよりも、脂が爆ぜる音、皮膚が裂けて中の水分が沸騰する音、その怯懦きょうだした破裂の連続だった。石に打たれた悪魔の——血が滲んで目と鼻の境がわからなくなったその顔は、彼の記憶のなかで病死者の経帷子きょうかたびらしわと重なり合っていた。その鼻を侵犯するような焦げ臭い匂いを、蒸発を繰り返す液体の破裂の連続を、手元にあったハンス・ルフト印刷のルター訳本の上にそっと置いて……。しかし匂いはすでに紙の繊維に染み込んでいて、彼が本を開くたびに脂と燃えた骨の匂いが立ち上ってくるのを、ただ確めるだけだった。

街から遠く離れた丘を越えると、髑髏どくろの荒野に鴉で出来た山が燃え切らない炎のような叫びを背面にした。アンデル=センは次第に麦畑。豊穣祭。妖精の辺境。と——宣教の道中にはわずらく聴こえるナラティブの声が脳内にい交ぜになる。が、百花の満ちたライン川左岸で、果樹園の底には炎のように燃えた地獄色のあんずが爛れて、おのおの自分の内部に向かって、春の死因と共に熟成の浮腫みと一緒に流された。それは、彼の浮き浮きとした信心を破壊できなかったのだ。地獄の炎の騒めきは河の中にぎっしり、絡み合いながら浮かび廻って、春の茂みから白い野花の茎を持ち上げた少年たち、岸辺で駈けっこして、微かな生の温もりが鳥の翼に張り付き、急に大きな苛立たしい声が聴こえた。
「邪魔だ」

と狩人のような、粗暴な男が石に座った。顎は熊肉を常食するような逞しさで、あの聞き取りにくい声は恐らく地方の訛りが混じっていた。
「また鴉男に怒られた。別の所に行こう」

茶髪の少年が金髪の少年に明るい視線を送った。頬の模様は陽射しを弾いたほどに清々しく描き込まれて、やがて二人は急に山の方へ移動した。
「ふん」

皮膚に粘った汗の粒を指で擦り落とし、途上はずっと同じ子牛革の靴を履いたが、靴の表面では雨と泥土の汚点しみが、乾燥された跡として固定した。少しひびが入った履き口……。と狩人はその脚先に軽蔑を込めた視線で視察したように、アンデル=センをじっと見廻して、そして喋った。
「何処に急ぐんだ? 祈り屋」

と野兎の長い耳を彼が片手で掴み、野兎は既に逃げようとせず絶望した丸い眼をしていた、「葡萄酒、少し分けてくれねえか?」ときいた。
妖精郷アフワロンは何処に?」と、狩人に革の水筒を渡した。乾いた笑い声が空気を湛えて、狩人が空いた手で受け取りながら、アンデル=センに答えた。
「この先の谷間にあるんだ、坊主。説教なんざ、あそこは辞めとけ」

彼の喉はたまらなく渇いた、葡萄酒を一気に飲み干して、最後の一雫をも収穫しようと強く搾り出した。
魔付まずいお酒だ」

……狩人のくちに唾液が垂れて、満足できなかったせいか彼は怒りを野兎にぶつけた。 白く、毛に護られる小さな脳天を石に殴り叩いたのだった。頸が衝撃で折られて、鶏卵よりも赤子の泣き声に近い甲高さだった。耳だけが不安定に壊れた根元に繋がって、脳から髄液と濁った緋色が跳ね返った。しかし細工職人のように、彼は素早く研がれた薄刃を段袋ズボンに掛けた巾着から取り出し、まだだ……。まだだ……。と興奮気味の手捌きで毛の下にある淡い肉塊に開口を入れて、筋と骨をぶつり、べり、ごりごりと切り刻んだ。開口のなかには蠅が好む香ばしさがして、胆嚢を濡れた指で取り除いたら、薪で火を起こし、再び熱した刃で皮膚から全ての兎毛を毟り取っていった。あまりにも手慣れだった、残った淡い野兎の外套を川に沈ませ、たちまちその肩から水流の深みへ沈み込んでいった。硬直した淡く、断裂に近い耳を紅蘿蔔にんじんの葉のように、その片手で回転すると、開口から血合いや糞便が詰まった腸をさらし出した。
「葡萄酒への謝礼だな」

と狩人が滑らかな片脚をちぎって、香ばしく炙ったらアンデル=センに渡した。
「妖精を信じるとでも」

と脂が乗った兎脚を噛みちぎりながら、アンデル=センが彼にきいた。
「妖精……。なければ妖精郷アフワロンとは呼ばれまい」
「君は妖精見たことあるか」
「あるさ、麦畑のなかから出てくるさ」

兎の頸に挟まれた小骨を飢えた歯で噛み分けて、「いよいよ豊穣祭だな、妖精の王が現れるさ」と狩人が話した時少しも嘘のように感じなかった。あいつらには炎を与えて、秋の刈り入れに入る前に、麦粥キュケオーンを御裾分けする魔神キュベレーの祝祭を破らなければと神の御心に導かれる、泥土の付いたこの両脚を谷間まで行歩せねば……。とアンデル=センはそんな誓願を胸に隠して、ただ方位磁石コンパスを緩やかに狩人の眼の前で見せていた。
「それがありゃ、迷わないんだな」

と脣で光っている脂のつやを拭いて、骨肉の残滓ざんしはそのまま河に捨てた。炎は消されずに煙が執拗に鼻孔を掻き廻して、その匂いが甦ったせいかアンデル=センが方位磁石コンパスを鞄に仕舞う時に戦慄を覚えた。しかし、狩人が迷わずに「笑わせる、火を焚いたままだと祈り屋の御託ごたくが始まりそうだ」といって、片脚で薪の小丘を踏み潰して、火の粉が四散し、彼の長靴に付いた銀のプレートに炎の揺らぎが死相のように映り込んだ。

そして野兎を分けてくれたことに、アンデル=センは男に一礼をした。豊穣祭が始まる前にも、どうにかあの谷間に辿り着きたがっていた。

その途上、フィレンツェからの旅商人と出逢った。……親切な旅商人から、「神がお与えになったものです。どうかお受け取りくださいまし」といって、先程の狩人の男の喉に撒かれて、既に空っぽな革の水筒に葡萄酒を惜しみなく満たしてくれた。
「この先に二つの山がありますので、岐路に遭ったら大樫のほうに向かいなさいまし。反対の道中に追い剥ぎが潜伏しています。……どうか、神父様が聖ヨハネの日に間に合うように」

と旅商人が急いでぎっしりと肉桂シナモン、胡椒の積まれた荷馬車とライン川の上流へと向かった。しかし、アンデル=センは大樫のほうに向かわなかった。岐路にたどり着いた時には、どう追い剥ぎに眼を付けられないように谷間に到達するかとまず彼は考えた。——「あった!」とアンデル=センは思ったよりも緩やかな、外れた山道を昇って、用心深くして、谷間へ安全に入り込める横道から下がっていった。山の腰から、既に水の音が遠く離れ、山と山の深処では灯りが微かに見えた。煙が何本の糸となり、神の境地へと繋がった。やっと傷のない円形が、山から下がっていくうちに、煙と同じ高さとなってきた。忽ちアンデル=センは方位磁石コンパスを鞄から取り出し、やがて妖精郷アフワロンを囲んだ黄金の海に入った。

方位磁石コンパスを持っておけば、この重苦しい黄金の波さえも受難のような甘美を帯びる。かつての預言者のように海を手と脚で退かせて、既に夏至ゾンマーに近かった虫の音楽が鼓膜に飛び廻して、この旅はやっと終わりに近いという予感に、アンデル=センの心は雀躍していた。度々虫が腕を噛み付けてきて、小さな腫脹ですら一つ一つの聖痕らしかった。たとえ、今唯一頼めるのは方位磁石コンパスの指針のみ……。指した方向へと進む時に、段々と暗くなった空はこの黄金色を網に残された魚のように、深い青ざめた帳に取り付かれてきた。歩みながら、彼のすねの裏がゴルゴタの死霊に引っ張られるような、土地に吸い付かれて、汗の粒が掌の裏に増大していった。眼は段々と夜の視覚になってきた。梟の反転する頸動脈の滞った声音が喉に浮かび出し、かさっかさっと袖口が肥えていた穂を擦って、同じくらいに肥えていた黒虫が耳の横に飛んでいき、皮膚には黒虫の裏にあった忙しい脚々の冷んやりの感触が残った。方位磁石コンパスが海にある過剰な生命力に惑わされて、一時的な混乱で素早く風車のように廻り続けた。指針は停止しなかった、廻った指針が止まるまでに、アンデル=センは過剰な生命力の中に、無数の冷んやりとした脚々と共に過ごす羽目になった。時に、脚々が脣に入ろうとして、それは野兎の脂のような甘さとは違って、口角に苦い汁が滲み、刺激し続けるのであった。豊穣祭の前には、彼らが凡ゆる所に産卵しそうで、やがて袖口の隙にも入ってきた。
アンデル=センは咄嗟に、旅商人から貰った一献の葡萄酒を、さながら聖水で額を濡らすようにと、まんべんなく頭の上からそそいで、黒虫の脚々を祓い退けていった。神の御血に洗われたこの身体は、旅の疲労を抜けないまま、眩暈が頭蓋の内で渦を巻き起こし、黄金色の波に打たれる度に、垂れた穂の影は黄ばんだゲツセマネの貫頭衣かんとういを想起した。

朝方の狩人が呉れた晩餐めしは野兎の片脚だった。あれは、毒々しい姿形だったが、妖精郷アフワロンの景色とも似た裏切りの塩気をしていた。果たして、妖精の肉は塩っぽかったか——とアンデル=センの苦悶は少しずつ増大していった、不安のなかから湧き出した心騒ぎを解けなかった。方位磁石コンパスを持つ手が少しずつ硬直してきた。

指針が止まった隙間に、煙が流れ込み、人の笑い声が聴こえた。妖精郷アフワロンにも、炎の匂いがして、豊穣祭の前にしては不思議なほどに騒がしい気がして、アンデル=センは四旬節しじゅんせつの祭服みたいな紫色に染められた上張を着たまま、立ち止まらず、波間をくぐり抜けていった。

月の下には、妖精郷アフワロンの祝祭日が始まった。豊穣祭の前日のような騒がしさであった。
「あら、妖精の王やっと出てきた」
「豊穣にまちがひないだ」

大鎌、熊手……ヤン・ジシュカが引いた軍隊の兵器を持って、彼らはアンデル=センを取り囲んだ。炎の音が凄まじく燃え上がった。アンデル=センは神の血の匂いがして、しかも、丸い宵闇の月のような眼で農民たちの悦びに満ちた興奮を見るしか、——あまりにも手慣れだった、収穫しようとする彼らを止めることができず、熟れた穂を刈るように、この畑から飛び出した妖精の王の手脚と首を刈っていった。
「神よ、神よ————」

ぶつり、べり、ごりごり。
「神よ、神よ————」

終わりなき苦難は……、やがてライン川の傍にある小さな揺らぎのように、震える歯音と共に消えていった。

© 2026 腥田をにゆり ( 2026年6月28日公開

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