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※本作は無料版です(本編完結済み)。有料版との違いは、あとがきおよび注釈の有無のみとなります。

タグ: #純文学

小説

13,570文字

一、カレー

 

キリコは悪で、ブラックジャックは善。果たしてそうだろうか?——朝になったら、私は相変わらずこの前のカレー屋で読んだ単行本に悩まされて、しかも、卒論を書くために文献が溜まっているのだが、私は何故かキリコを善だと直感して、——あるいは、私はただの安楽死肯定派なんだろうか? 時々、こういう正しいか否かが頭痛の種となって、そんな時はなるべく外に出て、朝の清潔な空気を体に取り込もうとする。

イマヌエル・カントの道徳の視点からして、かつての戦場での経験で、安楽死を一つの治療法として採用するキリコの理念は、あくまで仮言命法であり、——要は、彼は他人ではなく自分の経験から由来した整合のために自ら言葉を作り、それを他人に押し付けたにすぎないのだ。また、苦痛を無くすために自らの命を破壊するというのは、一種の論理的矛盾である。例えば、エアコンがカビだらけで、まずやるべきことは清掃か、買い換えることであり、破壊は最も意味のない行動であろう。——では、絶望に陥った人間は清掃される術も、そのまま交換する術もなく、もし絶望させないことが一つの善であれば、この状態をただ放置するのは果たして善なんだろうか?——それこそ、放置という行動自体が、「関わりたくない」という心理への解決案であり、仮言命法であり、また、その放置行為自体を善と是するのはただの自己欺瞞ではないか?——ブラックジャックは現実にいない。つまり、キリコは現実にいる人物であれば、彼の行為を否定するのは困難である。

彼は経験も技術もあり、クランケの意思も尊重して、最善な「関わり方」で接するだけであった。ただ、その関わり方は「死」という結果がついてくるのだ。では、例えば現実にブラックジャックがいるとしたら、彼は実際に救えることのない難病を自信満々に治せるという時点で、クランケ本人の絶望的な心情よりも自分の技術に対する自慢が先に来たので、私はどうしてもそれを道徳的だと判断できなかった。たとえ、クランケがその怪しい闇医者を信じて、手術を願って、治療が成功した場合、クランケは一度自分の命を彼に丸預けにしたのであって、その莫大な責任義務が発生した時点で、真の善とは言えるのか?——そうだったら、アセットマネジメントは皆善良であろう。


 

二、鹿肉

 

用事もなければ、渋谷のような忙しい性起Ereignisに赴く必要は全くないが、ここは時間が歪んでいる。ずっと四角のままで東京の若者↔︎観光客↔︎地下アイドル↔︎ビジネスマンを運んでいる。どうりで、成長するような場所じゃなかった。人は来なくなるが、それは成長するにつれて渋谷に相応しくなくなったのであって、「渋谷らしく」振る舞わなければ行ってはいけない場所になっているせいか、却って、渋谷は永遠に渋谷の再演ループとなっていて、新しさと若々しさはまた欺瞞である。町は常に新しい人を受け入れるだけであっても、決して数年前と比べて何かしら進歩することも、成長することもなく、ショーケースですらなく、人が想像した遊戯場をコピーしつづけるのである。一〇九も、あの小さな本屋も、犬もずっとあのままだった。親は若い頃も渋谷で遊んだ人間である筈だが、彼らが想像した渋谷はまさに今の渋谷と然程、変わらずにあって、彼らが渋谷は若者が行く場所だと言ったのは自分の懐古主義から来たのではないか?——まるで、家に上がる前に靴を脱いでくれと命令するのに似た口調で、この定言命法は渋谷の新しさを担保するというより、その場はいろんな家庭のコミュニケーションによって固着したと感じた。東京は駅ごとに箱となっていて、東京人の若々しさはそうやって分類され、渋谷という四角の箱に入れられたのではないか……。

フランス料理は食べる機会がないとはいえ、ロカンタンの嘔吐物に何が入っているかは以前から気になっていたので、丁度、奨学金の返済を早い段階で計画的にやっていくつもりで、鉢山町のとあるフレンチにバイトの応募をして、そして無事に採用されたのであった。鉢山町まで来たら、駅前とはまた別世界となっていて、朝っぱらから犬の散歩をする資産家のような男もいるので、フレンチはまさにこういう人生の課題をほぼクリアした優秀な人間の為にあるのではないか?——鹿肉はフレンチじゃなかったらグロテスクなジビエの筈だが、フレンチというラッピングがあれば、鹿肉も何かしらヨーロッパの優雅な馨りを帯びている。


 

三、玉ボケ

 

「capek」「lelah」「letih」「penat」「lesu」「payah」「kelelahan」「stres」「jenuh」「bosan」「lunglai」「loyo」「erak」……。インドネシア語の辞書を適当に巡ったら、疲れを表現する言葉は多様で、南国は常にバカンスの印象だったが、どうやらこれも一つの先入観なんだろう。——インドネシア人は常に疲れているのではないか?あるいは、定言命法に対する反論の言葉が多かったからこそ、自由に生きるのではないか?——バイトし始めたら、「お疲れ様です」の万能さから抜け出せなくなり、そういえば、「お疲れ様です」は定言命法でも仮言命法でもありえるのか?——普段はあまり意識してないが、疲れというネガティブな事象を尊敬語にすることで、まるで労働のコストが肯定されるような、そんな空気は人を歯車にしてしまうのではないか……。なるほどこのような挨拶は、ついつい使いたくなるくらい便利で、そして、労働する時にだけ発生するというのは、その都合の良さ、即効性によるものなんだろう……。あと、この手の尊敬語は大抵の場合、厄介なニュアンスが含まれる。お客様もお日様もお母様も大抵厄介だから。

去年の五月、まだ梅雨入りする直前で丁度花粉症がまあまあ酷かった頃の話だが、新宿御苑で読書しようとふいにそういう気持ちになり、当時は天気が良かったのとゴールデンウィークの最中だからとにかく苑内の人が多かった。レジャーシートを敷いていた人も多かったし、苑内唯一のスタバに行ったら明らかにキャパオーバーになって、——あの店だけはなぜか作りがパノプティコン的だったな……。コーヒーを待ってる人たちは延々と時間と共に監禁された気分になって、一刻も早く自由を欲しがっても、自分の番号がなかなか来ないので結局一時間以上は待っていた。東京に居れば、殆どのことは時間というコストが発生するが、しかし代わりに東京にしかない体験というのは確実にあるから、みんなそれを理解して、どこに行っても律儀に列を並んだ。東京のない人生は人生じゃないとすら思えるくらい、東京はそんな忙しい性起Ereignisと陶酔を提供してくれて、労働の「お疲れ様」もまた、列を並ぶのと似た複雑な感情である。この巨大なパノプティコンに居たら、どの人も自分は囚人側か監視側か一瞬にして忘れる。——労働はコストが発生しても、それは東京という楽園への入場券なんだから……、それで、いよいよ自分の番号が回ってきたら、私は頼んだカプチーノを持って座れる場所を探しに行った。そして、陽射しがあまりにも強かったので、程よい木漏れ日を探した所、やっと古色のブナと池のあいだに空いてるベンチを見つけて、そこで読書し始めた。
「あの、ここは座っていいですか?」

と本を開いた数分後、紳士めいた柔らかい声が上から降りてきて、私は手を止めて、声の元を一回確認した。

身長は二百くらいありそうな、そんな大柄だが、まったく威圧感のない白人の男性だった。天パなのかパーマなのか判別のつかないクリンクリンとした髪の毛で、——昔、教科書で見たダビデ像そのまんまだった。眼窩が深いのと、額が隆起したから眼元に深い陰翳がかかっていて、その身長と相応しくない華奢な四肢とが相まって、神経質な学者風を作った。

それは彼との最初の出会いだった。どうぞ。と返事したら、彼は隣に座って、カメラのデータを確認し始めた。
「どこ出身ですか?」
「ぼくはイギリスから来て、仕事で滞在しています」

彼は一回手を止めて、よく見たら眼の色が青かった。外国人と話す経験はそんなにないので、あの青さが不思議に思えた。それで、彼も私が読んでいる本(今となったらどの本だったか忘れたが)が気になったので、話が弾んだ。

若手の映画監督の彼は日本の風景を撮影して、自分の自主映画に使うつもりだったが、私がなぜ日本でなければいけないかと彼に聞いた所、彼が「日本Japan無神論Atheism聞いたthey saidけど、しかしHowever,平和そうでいい場所people are so nice so peacefulだった」と話した。あまりにも皮相的な発想だが、しかし自分も海外に行ったことがないので、反論する言葉は咄嗟に見つからなかった。観光客の身と実際に住み始めるのと、また感想が変わるんだろうと、少なくとも日本は丸切り楽園であると肯定したくはなかった。私は平和について考えて、今ガザのことどう思うかと聞いたら、彼は「自分の母さんはユダヤ人だから、親戚も何人かイスラエルにいるよ」と急に日本語に戻って、そして彼が続けた。——「だから撮影して、いつか戦場にも行ってみて、世の中にいいことも悪いこともありのままに見せたい」と。

おそらく母語じゃないので、実際英語で会話すれば、こんなに皮相的にならないのだろう。語彙が不足したために、いちいちそんな深刻さが伝わらなかった。まるで玉ボケだった。私はその時、「日本はアンパンマンがありますから、アンパンマンはキリストですから、実は無神論Atheismじゃありませんよ。みんな隣人にパンを分けるのを善だと思っています」とだけ返して、
「Oh…それは善じゃない。自己犠牲なんだよ」と、彼が急にすごく微妙な表情になっていて、その返してきた「自己犠牲」はなぜかいやに正確なイントネーションだったので、余計に重く感じてしまった。


 

四、蛙

 

新宿御苑で出会った青い瞳の彼と仲良くなれて、丁度梅雨入りした頃、その日、私が卒論の六割程度を書き終えて、思うほど絶好調のど真ん中、ガス抜きするつもりで、ついつい彼を誘った。彼が坐禅の教室に参加して、教室が終わった後に私たちは渋谷で待ち合わせて、予約した漫画喫茶に向かった。

店に入ったら、彼が在留カードを店員に提示して、ふいに在留期間の数字が眼に入った。もし彼が帰ったら、当分は一緒に映画交流会できる仲間がいなくなるだろうと少し悲しい気持ちになっていて、それが気づいた彼が「大丈夫だよ、また観光しに来るから」と相変わらずその大柄と相応しくない愚直な平熱さで声掛けてきて、私は頭を上げて当時の彼はどういう表情なのか確認しようとした。しかし彼は狭い店の中にすぐにでも移動しないと、動線を邪魔してしまうような、そんな気持ちにもなったせいか表情は早い動きの中に消えて、読み取れなかった。

ドリンクバーも同じく狭い廊下に配置されて、明らかに消費者目線を逆手に取るように、使いにくさを前提に設計されたかのよう。私たちは決められた部屋番号に向かうついでにお互いはコールドドリンク一杯ずつを素早く作って、次の狭い廊下へ向かった。

ドアを開けたら、ドアの可動域と靴を置く土間の面積とピッタリ重なり、クッションを踏まないようにどうにかドアの裏側に回ったらやっと靴を脱げた。しかし、彼は本当に大柄で、ガンダルフがホビットの住居に入るシーンを思い出すほどどこか滑稽だった。実際、彼も日本の家は狭いと自分から話したことがあって、ただ、彼はそんなミニチュアな所にも日本らしい魅力を見出したという。

個室は土間以外、一面の黒いクッションが敷かれて、まさに昔の新聞記事に出てきた人身売買の巣窟と似たアングラさがあった。高校時代の同級生は付き合った彼女と、こういう個室で乳繰り合ったらしいが、——そう考えるとクッションはちゃんと消毒されたかと一瞬気になって、また、彼に東京の小汚い所を見せるのにも後から少し後悔を感じた。

私は鞄から、TSUTAYAのサブスクからレンタルした円盤を取り出した。ガス・ヴァン・サント監督の『エレファント』なのだが、梅雨の日には相応しい映画だと思った。コロンバイン高校銃乱射事件を最も美しく撮った映像なのだが、犯人は最後まで心境が読み取れないのにどこか不思議であって、それなのに深刻さがちっとも薄められていないので、映画監督の彼はこの作品をどう見るかと、前から気になった。

それなのに、急に感想が変な方向にズレていた。

そうだ。最終的に二人は八王子まで行って、あの心字池で蛙を探しに行ったのだ。
「なぜエレファントというタイトルだったの?」と彼に聞いたのが発端だった。
ガリア戦記The Gallic Warsという本に、エレファントが狩人に襲撃huntedされて、それでユニコーンが助けに来るのが書かれwrittenて、そういうのじゃないかなseems like

と返してきて、なぜユニコーンなのか?と私が再び聞いた。
「ガリア戦記の象は無防備に木に寄りかかったjust resting against a tree状態に襲われるから、それは学生と一緒で、ユニコーンが助けに来るcome to helpのは、救世主の慈悲Mercy of Christだと例えられているから、そこからエレファントなんじゃないかなIt could be

寓意をうまく伝えようと彼は殆ど英語で話していた。ガリア戦記は日本で言えば平家物語なのだろうか?

あまり馴染みのない書物だったので、狩人あるいは象はどうこの事件と結びつくのかとても難しかった。——でも、与謝蕪村よりも松尾芭蕉の俳句のほうが英語に翻訳する時が困難という話は昔聞いたことがあった……。

古池や蛙飛び込む水の音。という馴染みのある名句は英語だと〝An old pond—A frog jumps in:The sound of water.〟となるが、ここの〝pond〟はモネが描いた池とは同じイメージで、少なくとも古い寺にある池と結び付けるのが外国人にとって自然ではないのだろう。——あと、ヨーロッパの蛙といえば、グリム童話に出てくる『かえるの王さま』みたいなメルヘンな印象が強かったので、日本の侘び寂びよりも、可笑しさFunnyが先に前面に出てきてしまって、私は急に蛙と池を正しく紹介しようとする衝動に取り憑かれて、忍べなかった。

 

春先の梅雨時、由緒正しい蛙合戦を彼に見せることができて、あの日は家に帰った後もずっと愉快であった。


 

五、破れ目

 

フレンチでバイトし始めた半年後、クリスマスの一週間前にホールスタッフのYさんと仲良くなれて、クリスマスイヴはデートの約束をした。向こうもきっと期待しているだろうから、ホテルの飛び込みというリスクを背負いたくないために私は色々とリサーチして、先に一部屋を確保した。——流石にイヴってくらい値段が高かった。運が良くて露天風呂の付いたデラックスルームが取れて、あとはディナーを何にするかだけに悩めばいい。

Yさんは三歳年上で、実は介護士をやっているので、このバイトは掛け持ちの形で応募した。昔付き合った人と比べたら、やはり年上の余裕なのか、細かいことを気にしない人だった。介護士もきっと楽な仕事じゃないが、彼女は一緒にいる時一切職場の話を持ち込んでこなかった。元々はネイリストが憧れだったらしいが、家族の事情で仕方なく介護士資格を取って、その流れで介護士になったとだけは私に話した。それについては聞かずとも何となく察せられたし、きっと職場でのいざこざなど比ではないほどの重圧なのだろう。ふとした拍子に口にする言葉の端々からでも、無自覚に家族に関するストレスが溢れ出ていた。結婚とか、まだ付き合い始めた段階だから、私は余計に未来のことを考えていなかったので、彼女もおそらくそれを理解していて、重い話はその後何一つ言ってこなくなった。

静岡出身だからか、スタバに行ったら彼女は必ず抹茶を頼んだ。
「さすがに偏見だよ、もう」

と彼女が笑いながら、ワインを傾けてその桜色のリップに塗られた唇に注いだ。
「けどなんで入所施設なの?」
「なんでって?」
「大変そうだよね」

彼女がもう一口飲んで、
「夜勤が少ないからね、あとは個人的にこっちのほうが————」

と彼女がほろ酔いして、話が止まらなくなった。
「話通じないんだからストレス溜まりそうだけどな」と私が相槌を挟んだら、
「そう言ったら、言葉を操れる人だって話通じないことよくある。入所のほうが————」

珍しいことを言う。普段はこんなに喋る人じゃなかったが。ワインが美味かったのかガブガブ飲んでいる彼女の顔が軈て赤らんできて、もう焼き上がったハラミを渡しても全く気づかず、無防備な所はちょっと可愛く思えた。
「ああ、たしかにこの前、カイノミは聞いたことないから、ヒレに変えなさいと言い張る人が居たね。対応したのは誰だったっけ?」
「そうだ、あったな。最近入った大学一年の男の子だよね……。名前なんだっけな」
「安村、いや、安間くんなんだっけ」
「あ、安間くんだ。あの子可哀想だったな、————」

そして、雰囲気が良くなってきて、一緒に店から出た時彼女は勝手に私の手を引っ張りながら、ホテルの反対側へ向かった。「違うよ、こっちこっち!」となんとか酔っ払った彼女を誘導できて、「はしご!二次会!セカンド!」と信号の所で彼女が大声を出して、他人からの視線がとても恥ずかしかった。——イルミネーションの逆光でそんな彼女はこの冷んやりとした夜風と暗闇に溶けていたが、声とハイヒールの踵だけは谺が返ってきそうで、空気の中に長々と消えなかった。

セルフチェックインの手続きを済ませるあいだ、ただ横で待っている彼女は退屈しているからかやっと落ち着くようになり、発行された二枚のカードキーを受け取ったら彼女とエレベーターに乗って高層階へ向かった。
「花びらだ!」

子供のように彼女が土足のまま助走して、そのままベッドに飛び込んだ。デラックスルームは広かった。靴を脱いだら、まず硝子張越しに黒く広がった都会を俯瞰して、都庁が一瞬に小さくなってきた。東京タワーとスカイツリーだけは平たい水平線を貫き、星空がまるで地に落ちたくらいビル、自動車の灯りがこれらの巨大な足元を埋め尽くした。

眼をベッドの方に向いたら、彼女は少しも眠気を覚えなかった。頬は赤潮のまま、瞳の中には花びらもう写っていなかった。白い襟口に汗が付いて、放恣な両腕は誘うようなカーブを描いて、よく見たらその睫毛はモウセンゴケのように美しく立っていた。

緩んだボタンを解いていくと、イルミネーションすら感じるくらいに硝子張にピリついた光の玉たちがお互いに迫ってきて、その捻れた腰を持ち上げて、時折り指先が飛び出そうとするように痙攣して、へんな動きにも真直な感情が溢れていた。肌は痩せて、桜の枝のように揺らいだら、先ほどの花びらは既に乱れゆき、川に浮かんだ花筏みたいにずぶずぶとなってきた、————なんか、夕立みたいだ。空気が急に暖められて、汗でぐしょ濡れた彼女の背中にふわーっと雲ができた。
「背中暖かいね」と彼女が話して、
「一緒にお風呂に入る?」
「露天風呂だ!やった」

彼女が笑った時、アルコールの匂いが残っていて、風呂から上がった時もその薫りが鼻腔の中でしばらく留まっていた。


 

六、瞳

 

「可愛い、みんな眼がまん丸」

エスカレーターは黄色い帽子に占領された。近所の保育園の子達だ。その後、Yさんと付き合うようになって、朝はお互い休日だから、日本橋で開催される特別展を見に行くつもりだった。——死刑囚絵画展だ。彼女の趣味なんだから、こんなイベントって普通に都内で行われること自体には衝撃を受けた。

そんな感じで、昭和以来の大物揃いで、中々見応えはあるだろうと思いつつ、もしかしたら論文のヒントにもなり得るから、むしろワクワクした。エスカレーターが下がっていくあいだ、先生の後ろについている長列はみんな元気だった。自分も保育園の頃はああだったな。眼に入るものはなんでも刺激になるので、この歳だともうこんな物騒なイベントにしか刺激を感じなくなったかもしれない。

そういえば、昔は生き物図鑑も好きだった。ドイツの生物学者エルンスト・ヘッケルが描いた挿絵がいっぱい載っていた図鑑を延々と見ていたけど、今から見ても彼の挿絵は刺激的で、連続対称性Continuous symmetryと色彩に拘っていた作品群だった。今思えば、生物一つ一つが幻視芸術サイケデリック的だった。
「不思議だね、子供はいつ見ても可愛い。自分は別に子供欲しくないのにな」

と彼女が不意に呟いた。
「子供の眼って怖くないよね」
「あ——。わかる、大人の眼って大体怖いから会話する時以外見ないようにしてるわ」

と話しながら、ぐっと彼女が首を後ろに反らして、こっちを睨んだ。
「あんたなら全然見れるわ」
「前見てね、もう降り口だから」
「へえへえ」

Yさんは付き合ってから少しずつ幼児退行した気がするが、気を許したからなんだろう。で、眼に関する意見はお互いが一致していて、——よく考えば、物理的な殺傷力がない割に、見られる時にしか感じない特有の膚触りが時に暴力的とさえ感じた。それは数億万年前から、種の競争に仕込まれた本能に近い何かなのか。そして彼女の眼も、よく見たらとても不思議だ。今も瞳二つに私の輪廓が反射されて、もしかしたらこの記録は今晩の夢にもなって、再編集されるかもしれないし、数年後も曖昧となってきた映像としてリバイバル上映するかもしれない。——そう考えると、人類の営み、人類の歴史はまさに眼の歴史ではないか?恋愛も、革命も、絶望も、全ては眼があってからではないか。 とても乱暴な考えかもしれないが、まさに恋愛は桜色で革命は赤色で絶望は黒色で、天国も地獄もきっと各人各様の想像があるだろう。

死刑囚の絵画はどういう顔料を使うのか?と私はますます気になってきた。ただ、ゴッホが『ひまわり』を描いた時もクロムイエローが廉価だったからそうしていたかもしれない。——というのも、美の発生条件は、必ずしも一種類ではない筈だ。
「死刑囚の眼と一般人の眼はどう違うと思う?」と彼女に聞いたら、その時、通過した自動車に注意力を奪われた彼女はすぐに答えられなかった。

二台、三台目の自動車は全てシルバーで、信号渡った後にやっと言葉が返ってきた。
「少なくとも、この先は暗闇なんだろう。 私は少し想像したけど、みんなが罪を犯した瞬間に、殺された人たちの瞳に寄生されて、永遠に消された視覚が暴力で震えた手に這い上がって、今度こそ、死者の暗闇を背負いながら生きていくのではないか? 本当は知らないけど」

彼女が返して来た言葉をしばらく考えた。足が止まって、私は陽炎の中に自分の影を見詰めて、暗闇とはなんなのかを読み取ろうとした。

再び、空に眼を移したら、空に人の輪郭がして、————ジャンヌ・ダルクはもしかしたら影送りでも見たのかとふと思った。


 

七、肖像画

 

同日、絵画を見た後にまだ時間があったので、見た後の消化不良を整えたい気持ちで、あとは銀座線に乗って上野へ向かった。動物でも見れば。そんなカップルらしい発想だと思う。

さっきの会場は思ったより狭かった。展覧会と言いつつ、美術館でも画廊でもなかった。レンタルオフィスを一室借りて、小学校の書道作品をホワイトボードに貼って見比べるとかそんなノリだった。自己表現と言っても、絵作りの正しいアプローチを習得していない彼らはただ愚直に心象を紙に叩き込むのみだった。そういう面から見ると、人間というのは不思議であって、その場にいれば何でもかんでも死刑囚の視覚だと感じてしまう。しかし、この人たちは別に死刑囚として振る舞うつもりでもないだろう。罪は常に外から決められるのであった。あと、なぜか刑期の軽減やら自分は無実やら、そう訴えた作品からは全く自由を求めるような顔料を使わなかった。もしかしたら、本当に彼女の言う通り、どう足掻いても、深淵に堕ちてしまった人間は再び光明を求めようとしても、網膜の変質とかそんな外因でできなくなってしまったのだろうか?

大物揃いということで、あの男の作品も飾られていた。挨拶が返ってこない純粋な眼たちを暗闇に変える死の天使であった。間違いなくオートマチックで、ひたすら脳内にインプットされた優生思想を実行するような機械だった。あの事件のお陰で、実家の土地価値が下がった。そして彼の絵は常に黄色く、エルンスト・ヘッケルが描いた生物みたいな連続対称性Continuous symmetryを持っていた。——そうだ。ブラックジャックは善であるかどうかを別として、きっとブラックジャック本人は暗闇を見ていないだろう……。急に、ずっと長々と解決しない悩みが腑に落ちて、しかし、キリコは死者の視覚に寄生されて、盲眼の百々眼鬼になったのではないか?——ますます、善と悪はどういうことなのかわからなくなってきた。ただ、あの男は結局は視覚に支配された一人の人間に過ぎず、彼は連続対称性Continuous symmetryを持っていない純粋さになんらかの衝動を覚えたのだろう。

Yさんと一緒にあの男の絵を見た時、彼女は撮影をして、おそらく後でインスタに投稿するつもりだった。ひっきりなしに考え続けると、彼女のその場その場の行為自体にも何かしら意味があるように感じるが、案外彼女からしてはこの空間は自らの職場とまったく関係ないかもしれない。ただ、私はなぜか眼ばかり想像すると、一瞬気持ち悪くなり、昨日の夕食も朝の残滓も全て便所の水で流した。


 

八、死亡診断

 

「私ですか?違います。親友ですが、彼の家族の連絡先を持っていません。ただ、家族から何かしら頼みがあれば————」

最後に青い瞳を見たのは二日前、何もかも早かったので、私は警察から連絡が入ってから暫くリアリティが感じられなかった。研究室から出てから、「これ書いてる時、どれくらい本気だったか」と教授に聞かれ、いよいよ、社会に出た後のこと考えなければと、私は仕事中の彼女に電話をかけた。

彼女は電話に出なかった。それで、母親にも電話した。珍しいじゃない……、と母親の声は相変わらずなのだが、低く聞こえてしまった。私は身長が伸びたからか? ほんの少しの会話で、自分が親友のことを話す時、何かしら喪失したように話そうとしたが、しかし母親がそれに気づかない程にこんな時の私も冷静に彼の死体について、手順を組み始めた。演技し始めた時、私はどこにいるのだろうか?——彼の宗教だったら、きっと私は地獄に振り分けられたのだろう。

桜新町のベーグル屋でベーグル買った後、やっと仕事が終わった彼女と多摩川の河畔で待ち合わせた。
「ロックバランシングが得意なんだ」
「ケアンなんだよ」
「ケアンって?」
「賽の河原を渡れるように眼印を作ったんだ」
「そうなのか」

と彼女が積んだ石の横にイチゴ味のベーグルを置いた。どうせ蟻の餌になるだろうと思って、私はやらなかったが、彼女らしいと思うから何も言わなかった。
「残念だな、イギリスの彼と会ってみたかった」

と彼女がプレーン味のベーグルを取り出して、一口噛んだ。ベーグルの空いた穴はなぜかパレスチナの飢饉を感じて、本当はあの轢き逃げの自動車を思い出すべきだったのに、——とある仮言命法を南無阿弥陀仏のように繰り返したらやっと正気に戻った。
「カリスマはいいよな……。果物食って、寝て、起きたらまた果物を食い、——何も考えなくて一番かも」

とベーグルを食べ切ったら、彼女がこの前に動物園で見たゴリラの話をし始めた。眼の話から、私たちは歴史上のカリスマあるいは政治家はみんな見られるのをあまり気にしないよね、とそんな結論に辿り着いて、あの檻で自然体に過ごすゴリラのオスのことをカリスマとふざけたあだ名で呼び始めた。
「カリスマも、カリスマの悩みあるんじゃないの?」と私が話した。
「たとえば?」
「ジャングルに戻りたいとかは?」
「そんなに淋しそうに見えないけどな」

といつもの平熱さで彼女なりの感想を話した。そして、急に飛行機が空を通過して、周りの静寂が一つの機械音に変化され、川の流れはそのまま動いたが、賽の河原にはきっと何一つ機械音がないだろうとふいに思った。

実は、あとから警察の連絡があって、死体の確認で私は一回病院であの華奢な四肢と青い瞳に立ち会った。

マイナンバーカードの背面にはドナーになるサインが残してあった。それで、一先ず海外にいる家族に連絡して、向こうも最初は納得できなかったが、法務のことなどは英大使館に任せて、財布と私物の整理だけは私に一任した。——知り合ってから一度も彼の家に行く機会がなかったが、こんな形とは想像しなかった。

きっと彼のように玉ボケに充填されるような部屋なんだろうと思って、そのままノブに触れると、あの死体のように掌の体熱が知らない所へと逃げてしまい、その時からやっとリアリティが戻ってきた。殆どカメラ機材だった。リストを作って、彼の家族に何枚かの写真をメールで送ったら私は整理できる分だけすっぱりと取り掛かった。
「だから鞄に円盤いっぱい入ってるんだ」
「そうだな、あとで返却するつもり」
「じゃ、先に帰ったほうがいいかな」

と彼女が体を起こして、明日も彼女は仕事があるから、私は止めようとしなかった。

その後、彼岸からフリスビーが飛んできて、先程からずっと彼岸にいる二人の若者が「すみません! 投げてきてくれますか」と頼んできて、私は直接川を渡り、手でフリスビーを渡すつもりだったけど、何かしら長くて、棒みたいなバランスが取れるやつがあれば渡れそうだったなと思いながら、仕方なくフリスビーを投げ返した。

フリスビーは低空飛行して、ブレずに彼らの懐に入った。一人はこっちに一礼した。眼が見えないくらい、深々とした一礼だった。

その頃、彼女が積んだ石の影が『神曲』にあった地獄の挿絵のようになってきて、自分が立ってる所はどっちなのか河原を見ても何一つ水の音がしなかった。


 

九、続・肖像画

 

硝子張を触る時、この分厚い障壁はきっと簡単に割れることはないと……、どうにか解決できないかと色々と考えて、そんな疑問を持って先ずは家に帰った。次には秋葉原の電気屋で店主に相談した。
「油圧ボルトクリッパーならギュルッと切れるよ」

とヒンジか閂を破壊できる程度のペーパーナイフを使って、今こそ檻の中にいる彼と会話したかった。彼は存在了解Seinsverständnisを有しているかどうか。——もし、同じく自由の刑に処せられていれば、その噎びることなく、抱愛することもなく、死後世界をも人の眼をも気にせずに野生のままに逃げ出す躯体には答えがある筈だ。——連続対称性Continuous symmetryもまた一つの自然に過ぎない。今脳内にはそれを証明しようとする衝動に引っ張られた。

閉園の後、深夜の上野の飲み街から不快な騒ぎ声がして、世の中は常にこんな風に流動し続けた。不忍池の裏を廻って、何層もの灌木の叢を超えたら、東京の人工さ、制御された全領域、小さな性起Ereignisの遊戯……。全ての照明が消された時では、不気味な舞台裏を覗くような気持ちで、動かなくなった青い瞳を空調の効いた死体安置所で見た時と変わらなかった。

軈て、夜の森に辿り着いた時はあっという間にアメ横から静かな空気を取り戻して、しかも自分は唯一の自由だった。

カリスマは相変わらず人間のような眼、人間のような唇、人間のような頬筋をしていた。肖像画を一枚、上手く描けるくらいに人間であった。暗闇の中でも黄色い眼が閃爍して、こっちを観察する気がした。

私は音を立てない軽さで獣医師が通る扉を見つけて、油圧ボルトクリッパーをさりげなく取り出した。あの金属の不自由Steifを破壊して、ギュルッと音が立ち本当に店主の声帯のままだった。——一つの不自由Steifを破壊したらまた次にも不自由Steifが出てきて、今回もまったく同じギュルッと音がして、閉められなくなった扉を開けた向こうに硝子張の時と同じ座り姿をするカリスマが微動もしなかった。
「カリスマ、もう自由だ!」

と警備員に気づかれない小さな声を掛けた。

しかしカリスマはこっちを見て、眼はまるで自由を知っているようだった。

私は怖くなってきた。

破壊した二つの不自由Steifはまるで油圧ボルトクリッパーから私の腕まで侵食して来るような——扉のように重くなり、何かを閉じ込めるような肢体になってきた。

もしカリスマは私よりも自由を知っているなら……。

ゾクゾクした悪寒がし始めた途端、一人で動物園から逃げ出した時にも街が全部淋しくなってきて、方向を失うくらいに電車に駆け込んだ私はこの衝動に後悔した。


 

十、ERAK

 

Yへ

実は上野動物園の錠を破壊したのは私です。

本当は、わかりません。いろんな出来事のせいで頭がおかしくなったと思えばいいです。

一緒に河川敷に座った時、フリスビーが急にこちらに飛んできて、私は返そうとすると、こんなゲームをまともにできない純粋な眼たちを許せないと感じてしまって、それで、まるであなたが昔話した暗闇のように、自分が盲眼の百々眼鬼になった気がしました。

本当は、間違えた人を否定したかっただけかもしれません。投げ返す時はもうこのゲームに参加する気がなくなりました。

ああ、正しさに拘っているのです。君に理解される積もりはありません。ドクター・キリコを正しいと信じる私は天国に行ける筈がなく、————蒼白な彼も、二十四時間内に埋葬できなかったので、私たちは地獄で待ち合わせる積もりです。

本当は逃げられなかったのだ。あの夜、逃げられなかった。あの眼に耐え難いものがあった。

バランスはどんどん取りづらくなったのだ。

今でも、地面に堕ちそうだった。

 

————四〇五室に残した怪文書より

© 2026 腥田をにゆり ( 2026年6月14日公開

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