大儒
腥田をにゆり
永楽年間、有一儒、名は薄処言。若くして、その博学才穎は京師に響き渡ったが、同郷の提学官、王中美の招きにより、北京を辞し江南の地へ赴いた。
三宝太監が数度出航し、天竺より復した宝船には瑰麗古怪たる舶来品が尽きることなく、永楽大典を編纂する傍ら、喫驚せざる得ない念を堪えずに居た。皇上の叡覧に供する前に、薄処言らは凡百の異国珍奇を眼光紙背に徹すべく、珍しき禽、怪しき獣の機微を端無くも字字真なりに詳記、又、水手と対談を重ね、世の中の無奇不有を疎通して、劬劬と港に臨み、曾ての典籍に記された謬りの有無を捜し求めるのであった。
処が、地元搢紳の呉伯仲と意気投合して、爾来、市井の辻々を、大凡に見廻って往来の閑人達と談笑、北京の消息、安南の叛乱、其の成行を論ずる声が両人の耳に入った。
呉伯仲曰、安南の時勢が溷濁して、東瀛にも倭人の略奪で、三宝太監此行は艱険と隣合せ、海象は千変万化が常、今迄は檣が無事に往返していたのが、皇上の大徳の御蔭である、と。
薄処言は其れに首肯した。皇上は曾ての堯舜に並ぶも恥じる所なし。
宝船が無事に瑞獣を一頭、具して帰来したら、天下泰平を顕彰して、あの側近の姚和尚も感歎するのだろう。天龍、霊亀、麒麟、鳳凰の四瑞獣の中、麒麟では水手が天竺で見たと云ふ。皇上の万歳天命を称えるには麒麟が最も現實だと、市井で両人の話は段々と興酣になった。
茶館で茗を品して、忽ち「儒者の先生達は、麒麟はどういう風なのか知ってるか」の一声に問われ、薄処言は茶杯を几に置き、虬髯を撫でながら、其の市井百姓に水手の云った事實を娓娓と教えた。
十有四年春、西に狩して麟を獲たり。
昔日、聖人は獲麟の奇事を記した後、春秋の筆法擱いた。経書と春秋に謂ふ麒麟とは、麕の躯に牛の尾、馬の蹄。頂に肉角を戴く仁獣なり。歩むに生草を践まず、五彩の毛を披る。
然、港で聞、其特徴は古伝と甚だ相違った。体躯は黄褐色、亀甲と似たる網目の斑紋、頭上には一角ならずして、毛に包まれたる二つの短き角が有。脚細長、歩みは霊気が無く、迂遠なり。
尚、首は徒に長くして天を突く程であった。
市井百姓は其の姿を奇異に思え、「首が馬の十倍もある獣などは現實的なのか」と嘲り、薄処言は軽侮された氣がして、其の日は茶館を出て早くも自宅に帰った。
翌年、三宝太監は無事。聞一奇獣が朝廷に献上され、榜葛剌國からの麒麟であった。薄処言は黄色の長首を視て、己の言行に安んず、以為市井百姓の侮りなど、眼中に草芥の如し、以来、愈々志業を熱心に励んだ。
永楽二十年仲秋。皇上の聖徳より宝船は又た順風満帆に港に至り。暹羅から、巨大な象が宝船の板を踏み、肉厚の踵は板を潰し、色は泰山で見た巨石に似た灰色、水手二十人は其々剽悍で羔裘豹飾ながらも、其の怪力にして蟷螂の斧なり。
共に港で見物する呉公曰、「卿の話した象と相違わないようだ」と、薄処言甚喜。
薄処言答、「人希見生象也。而得死象之骨、案其圖以想其生也。故諸人之所以意想者、皆謂之象也」と。
呉公不解、「徽州の商賈は大きな牙を輜車で運ぶのを眺めて、我聞、象の二本の牙は頬から伸び、不現實に思えた。何故か卿は事實通りに云ったのに、象は嘘に聴こえるか」
薄処言が両頬の虬髯を撫でて、笑曰、「其れこそ、至聖先師も獲麟の一件で春秋を辞めたのだろう。我々は如何に博学才穎、又は明察秋毫であろうとも、宝船に勝る事なく、現實は三宝太監が運んできたのだ」
翌年、遷都の慶賀の宴に列席すべく、薄処言は江南を離れ、京城へ向かった。長江の波間に孤帆は天際へと流れ去り、呉公ひとり芳草萋萋たる岸に残されたり。
京城の奉天殿、金碧燦爛、龍章鳳姿、天上の紫微垣を地に移したるが如し。宝船で運んできた奇珍も色褪せして、此行は薄処言には感慨深かった。
広げた宴席の深処、龍椅を背に皇上は鳳目を細め、其の天顔和らぎて仰せらく、「永楽大典を編纂する大儒達は、洗象圖の象、白きは何の故ぞ」と。
薄処言は戒慎して、答、「万歳万歳、白象は理想なり、三宝太監は象の現實を運んできたのです」と。
上は微かに笑みて仰せらく、「然らば鳳凰の現實とやら、汝が朕に見せよ」
勅を拝し、薄処言は三宝太監の宝船に随行して、天竺の地を踏んだ。
鳳凰とは、前は鴻、後は麟、頸は蛇、尾は魚、額は鸛、頷は燕、嘴は鶏、五色備はりて文を成すと云ふ。薄処言は天竺の博識者と対談して、鳳凰の特徴を娓娓と語った。天竺人は哄笑して曰、「其れは何処の空想か」と。然れども暫くして、天竺人は首を傾け、「其の五色の羽、赤き冠、尾の長き、雉に非ずや」と。
薄処言は其の言に打たれて、虬髯を撫でた。
帰路、宝船の舳先に立ち、波濤を眺めながら、彼は終に悟った。麒麟は榜葛剌の長首の獣であり、象は暹羅の灰色の巨躯であった。然らば鳳凰もまた、現實の禽に違いない。
京城に帰り、薄処言は一羽の雉を奉天殿の深処へ携えた。
上、鳳目を細めて仰せらく、「上呈するは何ぞ」と。
薄処言は叩頭して、答、「万歳万歳、天竺の博識者も雉こそ鳳凰の現實と申しました。五色の羽は鳳凰に符合し、現實の鳳凰を献上仕ります」と。
天顔忽ち翳り、大怒。
翌日、勅あり。薄処言、瓜蔓抄に処す。
"大儒"へのコメント 0件