十
秋山支隊に戻ってきた織辺上等兵と石見上等兵は、先ず少将の幕営を訪うた。織辺上等兵は支隊の幕営に戻って来てから、奉天の曠野が再び暴力的な風采に変わり果てていることに気付いた。浮かない表情をした。戦地にいる限り、人の笑顔とは稀少であった。だから石見上等兵も、彼に何かしら訊ねることはなかった。
「すまないな。折角好い居処を見つけたというのに、勝手に此方の都合で異動して了ったから……」秋山少将は幕営の前で彼らを待ち望んでいた。少将はいつもの愛想の好さを見せた。傍には青木准尉も居た。准尉は織辺上等兵のを素形を見ると莞爾として一瞥した。織辺上等兵も懐柔した、穏やかな好意を示した容子で一瞥した。
彼らは再び戦場へと戎馬を駆った。やはり露軍後方へ迂路を通り退路遮断しか有効な手立てはないようだった。幾ら永沼挺身隊らが橋梁を爆撃して露軍の戦意を缺いたとはいえ第三軍らに充てられた膨大な大予備軍は未だ片付いていなかった。二人は秋山少将に随って撹乱のために軍中へ切り込んだ。露軍の前方へと突っ込む振りをして、少将の合図で露軍左翼への撹乱突撃が始まった。織辺上等兵らは後方援護の機関銃を頼りに軍中へ飛び込んだ。蹄鉄に蹴られた黄砂が舞う。砲音と共に彼の馬は跳ねた。と思えば、彼らは一挙に軍中から退いた。露軍が左翼方面へ集中しているのを見謀らって、少将は右翼方面へと別軍を突撃させた。──これを、ひたすらに繰り返すのである。外側を機関銃で討ち取って、内側を騎兵で討ち取るのであるから、露軍は敵うことなく、できる限り北国の意地を見せながら、軍刀を振い続けるのであった。
秋山支隊は一時的に戦場を退いた。露軍相手に多少の切りがついた。支隊の幕営は第三軍と共用であった。少将と二人が話しているところに、乃木将軍が歩行いてきた。少将より、濃く長い髯を具えていた。
「見ておったぞ。見事な騎兵術じゃった」
織辺上等兵は、こうも近く将軍の顔を窺ったことはなかった。将軍らしい厳しい顔付きの中には、薄っすらと死の幻影が、彼にだけは感じ取れるらしかった(石見上等兵は将軍の顔を窺うまでもなく硬直していたのだ)。
「つい暮れまでは歩兵だったというのに、なるほど少将の絶賛するのも無理はないわい。それだのに……此奴は好い軍人になるじゃろうな」
「恐縮です。しかし将軍がそこまで仰言るのならば、精進しましょう」
織辺上等兵は憤怒を抑え込むことに必死であった。彼の言葉の最後には、発音したかどうかも怪しいほど、唇の顫えるほど、鋭い塊をなんとか抑えていた。己が帝国軍人の模範生候補となったことが何よりも赦せなかった。軍曹らと同じ立場になるのも、同じ輪に入ったことで彼らの思想をより近くで聴くことが厭だった(彼は地位や名声を塵芥ほどに望んでいなかった)。
「しかし、露軍はやはり手強いですな。体躯の創りがまるで違いますから……」秋山少将は口惜しそうに、それでも笑って云った。
「そうじゃな。だがこの国には日本魂があるから気合では敗けんぞ。戦は長引けば長引くほど士卒の勢いも減るが吾々が活気づけてやらねば不可んのじゃ。そうでなければ──またいつ背信が起きるかも解らんぞ。あんな莫迦げた行動をとられては士気が下がって了うから怪しからんのじゃ……」
織辺上等兵は激怒した。それは心中だったが、彼は今にも──遠い昔のような、李の件のときと同じように──軍刀の𣠽に手を掛けた。今回ばかりは秋山少将も、織辺上等兵の行動にその先がないだろうと思って(同時に強く庶幾って)知らぬ振りをしていた。
織辺上等兵には勿論その行動の先はなかった。彼の怒りは𣠽に手を掛けた時点で已む姿勢を顕していた。今回ばかりは乃木将軍に悪を焼き付けることができると強く思っていた。己の戦友を、それも身内を済おうとして死んだ戦友を辱められて、どうして黙っていられようか? どうして平然と根源の話を聞いていられようか? 将軍は今、己らに杭を打ったのだ。お前たちは、彼らの二の舞になるような行動を、採らないだろうな? という、忠告に信用を添えて──漠然とした衝動だ。これは不可ない。人望とか、そういう類の問題で、赦せるものではないのである。この衝動は激たるものだったから、織辺上等兵には煩わしくも頼もしく存在していた。先ほどの、己を優秀たる模範生にしようとする将軍の姿勢などどうでも好くなった。彼が忌み厭う軍国主義の、柱となり得ることへの怒りをも、どうでも好くなるくらい彼は今物凄い衝動を背負っていた。──これは将軍の勿体ではなかった。単なる侮辱であり悪行であった。それ以外にも、何か漠然とした意で譬えることができたのやもしれぬが、それが難しいくらいの行為を将軍は犯していた。彼は𣠽から手を離したが、その衝動はいつまで経っても彼を抑えつけるばかりだった。彼は殺意を視線に雑ぜないよう、成る可く乃木将軍の顔を見なかった。ひたすらに、カーキィ色の軍服を凝視めていた。俯かない程度だったから、肥い馘元がハッキリと映っていた。
乃木将軍は、佐官の召集に因ってその場を去っていった。秋山少将も同行して行った。織辺上等兵は、将軍の素形が佐官らの人込み中に消えてゆくまで、忿懣の視線を堪えず送り続けていた。乃木将軍が、鍛えられた殺気の感知によって己の行為が悟られたとして、別段構わないものだった。
とうとう彼は、もう辛抱もできなくなって、今宵、将軍の幕営を討ち入る覚悟を決めるのであった──。
× × ×
涼しい夜だった。荒蕪な奉天の地に、点々と帷幕を連ねた日本軍の、幕営だった。もう皆んな臥静まった頃で、雷のような鼾声が、時折天幕を穿って聞こえてくる時分だった。
織辺上等兵は、ひっそりと、天幕を退けて一目散に馳しり出した。──この男は、乃木将軍の幕営を事前に把握していたのだ。石見上等兵は物静かに臥入っていた。この戦友は、一度深く臥入って了えば到底起きる容子のない性質だった。
織辺上等兵は、乃木将軍を確実に屠る自信が寡なかった。しかしながら、一層のこと刺し違える気でいた。もし運好くも、将軍をこの手で除くことができたとしても、屑よく腹を切って死ぬ心算でもあった。今、彼の手と脚とを動かして、将軍の幕営へと体躯を進ませている過半は、怨恨と憤怒の衝動だった。彼は軍刀の𣠽に手を当てて、勢い能く抜いた。
「誰ぞ、在る」乃木将軍の咾は重かった。織辺上等兵はちょっと迷って、一言も発さずに天幕を退けた。
乃木将軍は──静かに書物を読んでいた。織辺上等兵は驚いた。「誰ぞ、在る」と厳しく云ったものだから、てっきりこの将軍は自分の同じように軍刀を構えて立っているのかと思っていた。お蔭で彼は肩の高さまで軍刀を振り上げていた。しかし乃木将軍は、些っとも此方と目を合わせなかった。しかし、何故か自分が一体何者かを理解しているようだった。彼は将軍の気迫に圧倒された。
「おれを殺すか? おれを殺して、そうしておれの思想を亡ぼすか?」
将軍は暫しの合間黙りこくっていたのだが、徐ろに口を開いて、厳かにこう云った。──織辺上等兵はまだ幕営に這入り込んでいなかったから、顔の殆んどが闇夜に紛れていた。彼は急に、己がこの所業を成し遂げられるかが大いに不安になってきた。将軍は此方を向いた。
「そう常に殺気立てられてはおれも困るぞ。馴れてはいるがこれほどまで近くで立てられたことは先ずないからな」将軍は、尋常とは違った、口調と気風で話していた。
「どうなのだ? お前は今まさにおれを殺そうとしているが、それはおれの思想を駐めるがためではないのか? ──戦友を亡くしたことがおれの責任だと云うのか?」
「はい閣下」織辺上等兵はいつしか、無意識にこのような発言をしていた。しかし、何も間違ったものではないから、虚言を吐こうとは思わなかったが、この将軍に己の意思が随っていると思うと不快になった。気迫に圧されて、敬語になっていることも、これから除こうとしているものへの態度としては寡し違和感があった。それも併せて不快だった。しかし歴戦の将帥の気迫に、一介の騎兵が勝る訣もなかった。
「おれの何が気に喰わんのだ?」
「死と名誉についてであります」
「その思想だな。しかし戦争に於いて、勝つための手段は道徳心に囚われない方が靭いのではないか?」
「しかしわたくしは人であります。人である以上死を奨めることは良心が赦さないのであります」
「戦争に良心が必要かね」
織辺上等兵は知らぬ間に軍刀を降げていた。おれは一体何をしに来たのだ? 今日に至るまでの、どうしても赦すことのできない男一人を、除くために来たのだろう? 然らば何故に、今、おれは疑懼に駆られているのだ? ──この男を除くことが、果たして死んだ二人の戦友に向けた花になり得るのだろうか? この男を殺して、同時におれも死んだとして、果たして二人はおれをどう見るだろうか? 物寂しい眼で見るのではないか? これは仇討ではないのだ。玉砕名誉の思想を阻むための──この行為は、おれの意志なのだ。それもただの延長線であって、欠片のような小ささではあるが、兎に角しっかりとおれの意志として存在しているのだ。ならばその意志をおれが遂げなければならない義務があるはずだ。人の意志はその人が遂げる前から存在意義を示しているが、遂げる前の意志より遂げた後の意志の方が格段に強固なものになっていることは相違ない。完遂が遅れればその分意志は薄弱になり、人も興味を失くし始める。その延長に在り、それを活性させるのが思想という形而上*的行為である。しかしながら危険思想もそのために生じるのである。してみれば乃木将軍の思想は危険思想であって、それは戦争に勝つという意志の延長だと云える。だから除かねばならぬのであるが──織辺上等兵は今、己の所業が果たして意志なのか仇討なのか、ハッキリとしないことに苛立ちを憶えていた。同時に己への猜疑を抱いてもいた。それがハッキリしない以上、己はこの男を除くことはできないと、彼は口惜しくも、苛立たしくも、歯痒くも悟るのだった。
「……」
織辺上等兵は軍刀を仕舞って、静かに幕営を去っていった。
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