九
「兄弟!」石見上等兵が隣に馳しって来た。
「どうなった。挺身隊が砲台でも奪ったのか?」
「どうだろう。しかし第三軍の方面じゃないか?」石見上等兵はその方向を指差した。織辺上等兵は、崩れ落ちた幾台もの砲台を目検した。露兵の塊が圧し重なって斃れていた。彼らは橋梁を降りた。
「中佐だ」
永沼中佐は右臂に傷痍を負っていた。他兵が憂いたが掠り疵だと説明した。軍刀の所持に問題はないようだった。
「第三軍の方から、偶然降ってきたのだ」中佐の発言を聞いて織辺上等兵は小咾で憤慨した。
「くそ、こういうときだけは運が好い。皮肉っぷりの幸運なんて不運と同一だ」
「橋梁は──どうやらあの一発で済んだようだな。もう少し、早く来てくれたら好かったんだが、そう我儘も云ってはいられまい。──一先ずは、本陣へ戻るとしよう」
× × ×
織辺上等兵は、新開河橋梁から挺身隊の幕営に戻るまでに、馬上で自身の今後を案じていた。──やはり己の見解を大成させる必要があると、意気込んでいた。──もしおれに、全大日本帝国軍の兵卒たちに死と名誉の乃木将軍の思想に対する反抗心を弁じる機会が与えられたとして、果たして幾人の軍人がおれの見解に賛してくれるだろうか。皆すぐに軍刀を抜いておれの馘をぶった斬るのではないか。ならば、おれ自身が動くほかあるまい。抑も強い決意を大成させるためにおれが怠けて全体どうするというのだ。誤った。織辺上等兵は懺悔に駆られた。石見上等兵に幾度も弁じたものの、彼は屹度、それでどうした。君がそう云うのは別段構わないが、君自身は何もしようと孜めようとしないのかと思っているに相違いない。おれは、おれはこの戦争で、何かをしなくっちゃならない。人に衝戟を与えてやらなくっちゃならない。そのためなら死んだって構わねえ。将軍たちはおれの死を、決して名誉ある死だとは云わないだろうが、人望の少しを缺くことぐらいはやってやろうじゃないか。……
× × ×
彼は戦を終えて幕営に帰した挺身隊の全体を眺めて、日帝軍部の中央に近いほど乃木将軍のような死を仄めかせる大義に賛する者・崇拝する者は多く、中央からより離れたこの挺身隊や秋山支隊の中の軍人は、そのような大義に関してさほど崇める容子もなくむしろ知る由も些っとも窺えなかった。今や下らん大義を主として動く宗主国の中で嫌悪感を示したお蔭で異動された末端の隊が彼の唯一の居処であった。秋山少将が自分らを異動した真の訣が解せた。己の見解に賛する者の比較的多い隊の中に異動してくれたのだろう。幾ら勝つためとは云え麾下に死を奨める将があってはならない。乃木将軍の数々の武勲を否定する姿勢ではないがその栄誉を己の思想の強要に用いるのは至極好ましくない。列強に対抗するがために豊国を進めるこの国だが、肝心の列強の中に玉砕を名誉として扱う国があるだろうか? 皆挙って乃木将軍を慕うが崇拝の対象は果たして偶像ではないか? 彼らは衆盲である。その偶像へ首を垂れる列記とした衆盲である。偶像崇拝は織辺上等兵の中で最も忌み厭うものの一つであった。突っ込んで死に、それは名誉だと──して見ればそれは口実である。国が勝つためでもあり、勝たせた将軍の人望を減らさずして殖やすための口実である。これは非であって決して是ではない。織辺上等兵はそのことに憤っているのである。名誉な死は慥かに存在するが、それは殉死や忠義といった誰がどの方面からどう見たって名誉がハッキリとしている場合のみ使うことができる。事実、名誉が人の徳行を讃め称えたものであるならば死が徳行の中に含まれているはずがない。やはり赤穂浪士は忠義の中に含まれる行為だろう。またやはり、乃木将軍が吾儕にこの理念を弁ずるのは、戦争という獰悪な所業の全うを狙う際、敵愾心*を吾儕に抱かせ蹶起させるためであり、名誉という赫かしき名目を与れる訣ではないのだ。それに媚び諂う輩共は奸佞邪知である。名誉は彼らにとって一種の毒なのである。ひと度与えられればそれは酷く神々しい矜持となり得る。しかしその矜持は長くは持たぬ。そうして再び名誉を欲するようになるから危険。彼らは尋常に懶い*仮初の感情を抱いている。名誉が足りないから心中が伽藍とした、饑い*容子なのである。それを──僅かな時間を埋めるためだけに──毒を欲し始める。要は慾張である。崇拝の度が高いほど奴らは餓えている。石見上等兵はそれになりかけた。佐藤一等兵や野村一等兵はその枠に這入った途端に死んだ。山田一等兵の二〇三高地より後の所在は完く聞いていないが、おそらく枠の中では生粋の崇拝者であろう。彼を崇拝者として仮定するのなら、自分は抗議者である。将軍らは名誉というものの扱いを誤った。抑も、一所懸命仂き給え仂くほどに名誉を得られるぞ。しっかり遣って呉れ給えと虚言を吐いているところが莫迦莫迦しい。将軍らの自ずと己の神格化を進める行為は簡単に見破れる。至極莫迦莫迦しい。それに心酔して崇める者共も莫迦莫迦しい。秋山支隊や永沼挺身隊は好い居処である。したいにいた数日間だけで幾人かの騎兵らが崇拝者のことを然りげなく滑稽として嘲笑っていたのを見たことがある。──将軍らは、戦に於ける戦策に時折抜群さを見せるが人望と引き換えにする犠牲が酷いぜ。あれじゃただ勝つことに餓えてるな。しかし露軍ではなくって好かったな。向こうは戦策も情勢も失墜したと見える。──今まで孤独にも世情に諍ってきた彼が同志を見つけたときの僖びがどれほどのものであったか! 織辺上等兵は、風貌は澄ました顔であったが心中では酷く欣喜雀躍していた。間違った名誉の概念に反抗すべく堪えに堪えていた報いがようやく彼の元に降って来たのであった。乃木将軍ら偶像とそれに群がる帝国信者共は非でありそれに厭悪感を抱く吾儕は是である。戦争は獰悪なものであるから、互いに是非もへったくれもないのだが、その獰悪の中に少しは是があって欲しいものである。彼らの非は、つまりは獰悪を好いことに便乗しているのである。乃木将軍の死と名誉の件が後世になって批判されたとて、戦争という抽象的だが強大な獰悪的概念を以て隠らせて葬り去ることができるのである。戦争を美しく仕立てては不可ないし死と名誉を結びつけることはこの世の道理に違反する。道理と云うべきか、道徳と云うべきか、人の所業として、人の守るべき道と云うべきか──。
織辺上等兵は、己の何かしようという思案の末を生み出すことはできなかった。それは依然としてであって不可能な問題ではなかった。彼の、挺身隊兵としての戦は終焉を迎えた。挺身隊が幕営に戻って、帰り支度を始めていた──天幕が片付くのは早かった──織辺上等兵と石見上等兵は、二人で厩舎に行って馬を整えていた。秋山少将の書翰に因れば再び支隊へと戻るらしい。奉天での、彼らの挺身隊兵としての戦は終わったかもしれないが勝手に日露の戦を終わらせては不可なかった。
「戦もあと少しで終いか。早く故郷の長野に帰りたい」織辺上等兵の、上等兵の袖章が風に揺れた。
「向こうは大雪じゃないか」
「どうかろうね。おれの故里はあんまし降らねえもんだから」
「おれも、些っともだ。抑も雪なんて滅多だね」
「羨ましいね。お前は一回雪を掻いてみると好い。軍の稽古よりずっと辛いぜ」
「そいつは骨が折れる」
織辺上等兵は、戦友の煖かい微笑みを見て、酷く安堵した表情を見せた。その戦友の眼が、まるで子共のように柔らかい、純粋たる感を漂わせていたからであった。いつしか彼の眼も、戦友の影響下に擱かれていた。織辺上等兵は振り返って、幕営の先に拡がる奉天の曠野を眺めようとした。しかし、暴々しい風采をしていた曠野は──冬風の已んだからであろうか──静かにただ佇んでいるのみで、一切の暴力を消し去って漠然と希望を醸し出していた。……
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