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鹿打

萩原蔵王

狩りから帰ってきた尾上兵衛、木内歌之助、佐々木浅次郎、木暮新助、砂川四郎兵衛、美濃九之亮。彼らは黙々と山を下りながら各々の苦悩を考える。

小説

3,089文字

「よぐれただ」と、帰り際に兵衛ひょうえが云った。山中を歩行あるまわっていたがために、彼のこえしわがれていた。

「うん。でっかいのが獲れただね。これでしばらくは無事だろう」歌之助うたのすけはそうかえした。

山道には、二人の他に、佐々木ささき浅次郎あさじろう木暮こぐれ新助しんすけ砂川すながわ四郎兵衛しろべえ美濃みの弓之助きゅうのすけが、皆各々の猟銃りょうじゅうを携えて──尾上おがみ兵衛と木内きうち歌之助と、佐々木と木暮とで二疋にひきの鹿を担いで──山道を黙々と歩行いていた。兵衛がそれにえ切れずに口を開いたのであった。

「畑だ」誰かが云った。全員の耳が銃声に疲れていた。

孫市まごいちは?」四郎兵衛は遠くに在る民家をちらりと見てから思い出したようにたずねた。孫市は村一番の烟突えんとつを持っていた。

虫垂炎アッペだど」

「ほうか」

山道がもうすぐ終わって、砂利のかれた、山麓の傾斜の緩やかな小径こみち這入はいろうとしていた。夕暮れは激しくなって、砂の一粒一粒を無理りに照らし付けていた。

死んだ獲物はぐったりとなった毛を夏風になびかせていた。その夏風が妙にしめったものだから、それをちょっと触れる程度ほうずに担いでいた四人の気持ちはさして不快であった。そうして黒々とした鹿の目を、後ろを持っていた兵衛は時々、生きているか確認するように見た。その鹿が、まだかすかに息をしているかと錯覚するほど、体が揺れていたのと目が耀かがやいていたからであった。その耀きは夏陽なつびによるものだった。兵衛は何度めかにして鹿の目が黒々くろぐろしいと解ったきり、もう見たくはなくなった。彼は常に獲物を狩るとき、その山の幸を自分に変換して考えて了うようになった。これは戈人かじん*として致命的なものではあるが、なんとか猟銃の音を聞いて平生へいぜいの心意気を保てるまでではあった。今見た鹿の目が、なんともむなしかったために、癖が出てしまったのである。すぐ傍に居た弓之助は猟友の心情を悟った。またあれが出たかと訊こうとしたが、それは今度二人切りになった時が兵衛にとって丁度好いだろうとした。

弓之助は老いを感じ始めていた。しかしこの男は、自分だけではない、此処ここに居る六人全員が屹度きっと己と同じ老いを感じているだろうと踏んでいた。それがたとえ事実だとしても虚偽いつわりだとしても、弓之助が自分の老いを考慮するのに仲間を道連みちづれにして思っていたのは、自分一人だけが老いという層に突入して、猟という老いの大敵たいてきと鉢合わせて、他の猟友に見捨てられたくないという切望せつぼうと、世間的に猟に出ることをはばまれることへの大いなる恐怖を抱いたからであった。

晩夏ばんかの夕暮れは長かった。その分獲物が夕陽に照らされて──彼らの不快感はこの後暫く続いた──傍観者からすれば途轍とてつもない寂寥せきりょうであったし悲惨でもあった。それを彼らは感じることができなかった。

左隣となりは麦畑で、右隣となりは芋畑であった。山麓にある小さな畑は、村長むらおさひらいたものであった。折からの夏風は涼しくなって、ようやく秋の訪れを、皆猟師の勘で知るのであった。

歌之助は自分のさいを案じていた。孫市が虫垂炎にかかる一月前から、彼の妻はそれをわずらっていた。彼には蔵松くらまつという子が居た。今頃寝込んでいる母の傍で、母の身を己と同じ様に案じながら、長い父の帰りを待っているに違いない。彼の生活は苦しかった。この村の中で、猟師であって妻をめとっているのは彼だけではないが、しかしこの六人の中で妻が居るのは彼だけであった。それは、この六人は狩という生き甲斐に集中したいからという訳がほとんどであった。彼らの居た山は西の山だが、東の山に居る戈人たちは皆妻を持っている。それは東の山の奴らが皆戈人として充分な実力をそなえていて、戈人に集中しながらも妻子を育てる余裕というものを持ち合わせていたからである。歌之助は仕合しあわせであったが、それは家庭を持ったことへの仕合わせであって充分な暮らしをしていることにはまったくの仕合わせを感じていなかった。そうして彼らは西の山を越えた。

山麓を越えてから道は平坦で、獲物を担ぐ四人の負担は軽くなった。不快さもようやく失せた。しかし寂寥と悲惨さは、消え去ることをまるで知らなかった。

新助は近頃、己の戈人としての役割を忘れようとしていた。今日も今日とで仲間と共に山にもぐったは好いものの、三月ほどぜんから彼の猟の腕は衰え始めていた。鹿一疋を打ち殺すことにも疲れ始めていた。視力的な問題ではなかった。彼は村一番を争えるほどに目が好かった。元から彼は、あまり猟が得意ではなかったのだ。年老いた両親を支えるため、一番に稼げるのが狩猟だった。商人になることも考えたが、この村から隣村まで実に二日かかる。加えてその計算は、彼が猟銃一本を担いで出掛けた場合に適用される計算だった。しかし新助は誰よりも孜々ししと努力した。しかし他の誰よりも、猟の腕が劣っている気がしてならなかった。彼は身震いをした。鹿の不快さはなかったから、それは彼の、彼自身に対する不安と焦燥しょうそうだった。

浅次郎は最近己の体調に異変を感じていた。普段はの刻*前に家を出て一人で銃の腕試しをするというのに近頃はたつ*かの刻*辺でしか起きれない。彼はすぐに、この異変が老いというものだと気付いた。しかし彼は、それを断じて認めなかった。ここで、尾上兵衛との相違ちがいが出た。元より浅次郎は自分に都合の悪いものは剰りハッキリと呑み込めないさがであったから、自身の生き甲斐である猟を必然的にめさせるような、老いという事実を認めることは自身の生き甲斐を捨つることに均しかった。尾上兵衛はすんなりとそれを認めている。認めた上で、自分の限界まで踏ん張るというのが彼の性であった。浅次郎には兄が居た。病弱で猟ができず、家で母と一緒に裁縫しごとといった内的なものをするような兄である。浅次郎は兄を軽蔑している。男児おのこならば猟銃片手に山に籠もって鹿、兎、羚羊かもしかを打ち熊を退け一人で黙々と生きることが当たり前だと感じている。兄のような、如何いかにも怯えて外に出ないような行為は彼にとって忌避きひすべき事物なのである。その自分が、もうすぐ兄のような事物でしか為事のできないとなると、とても生きる心地がしないのである。

六人の最後方を歩行いていた四郎兵衛は、自分の猟銃を見詰めながら、猟に対してきたような心情であった。これは六人の中でも就中なかんずく、深く老いを認めるものだった。彼が自分の老いを感じ始めたのは一年前である。或日一人で西の山に籠もって、鹿やら兎やらを狩っていたのだが、猟銃を一発と打つ度に酷く腕のもろい感じがしてならない。今にも腕が千切ちぎれるやもと思いつつ猟銃をぶっ放って、揺れるふとった腕の感覚を検べる。たしかに猟師の腕である。しかし感覚は外からではどうにもならないから、内なる気力を養わなければならない。彼はその日から決心して、内なる気力を養うためにいろいろなことをした。食をやしてもみた。猟に出る頻度と山に潜る日数を殖やしてもみた。しかしどれも、内なる気力を養うには何の効果も成さなかった。彼はここで初めて、自分が老い始めたという事実に気が付いた。思いのほか四郎兵衛は、自分が老い始めていると気付いてからそれを認めるまでに一瞬の時間も経たなかった。逆に、自分の猟の衰える訳が判明したことですっきりした心持であったから、彼は最近むずがゆい気がない。お蔭で内なる気力のことも忘れた(依然として腕の顫えることに変わりはないのだが)。

六人は、漸く村に通ずる畦道あぜみちを通り始めた。まっすぐ先に、茅葺かやぶき屋根の家々が軒を並ばせている。夏陽が沈みかけていた。鹿はうに乾いていた。濕った毛並みも落胆らくたんしたように角立たず、堅くなく、柔らかにていた。かたぶく夏陽の最後の斜光が畦道をゆっくりと通り過ぎた。そうして後から暗闇の、段々とひろがっていく晩夏の夕暮れ──。

© 2026 萩原蔵王 ( 2026年2月15日公開

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