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下痢壷4の独白

文豆一郎

若かりし日々の情熱はすっかり燻ぶり、八百長・博打・小細工のデパートと化した十両力士。マンション麻雀での揉め事の末、気がつくとそこは水平線まで広がる糞の大海原だった──。果たして彼は地獄絵図から脱出できるのか?

小説

17,896文字

俺はいま、糞の海を泳いでいる。糞の海っても四股名じゃねぇぞ。そんな力士は立ち会う前から不浄負けだ、土俵にすら上がれねぇ。もっとも俺が土俵に戻ることなんざ、もうないんだろうけどな。糞ったれ。いや、ここで糞というのはややこしいからやめよう。とにかく糞まみれなんだ。うんこ味のカレーを喰らうか、カレー味のうんこを喰らうかお前も迫られたことがあるだろう。いわゆる究極の選択というやつで、小学生の前に立ちはだかる最初の理不尽のひとつだ。そいつを更にブルータルにして、うんこ味のうんこを思い浮かべてほしい。その中で俺はいま、泳がされている。しゃばしゃばで取っ掛かりも糞もねぇ。呆けっとしてたら沈むほどに柔らかい。水平線いっぱいの糞をお前は見たことがあるか? 俺は初めて見た。四方八方、なんにもねぇ糞の海。

 

事の始まりは、おすもうさん専用SNS「のこってぃあ」だった。随分前に、力士が八百長の打ち合わせをしていたという報道があっただろう? 負け越しそうな力士が、星の貸し借りをしていたというやつだ。やさぐれた手頃なのを見つけて、色々と交渉の末に負けてもらう段取りを組むんだよ。あれは主にメールでやり取りしていて、携帯の本体にもデータが丸々残っていたから挙げられたお粗末な事件だ。下らないように思えるが、当時は情報端末に対する意識なんてゼロに等しかったからな。ある程度は仕方がねぇ。こういうのを無責任な年寄や世間の連中は、俺たち力士の怠慢にしたがるよな。しかし、論点はそこじゃない。番付の歪なピラミッド構造にあるのよ。力士養成員である幕下までは、賞金の類を除くと場所手当の合計が年間百万ぽっちしかない。文字通りふんどし担ぎというやつで、絵に描いたような下積みだ。親方や先輩にぶん殴られるし、真面目に稽古して四六時中付け人やってもまともな月給すら出ない。悔しかったら関取まで上がって来いというメッセージだ。ソシャゲを始めると、白いランシャツに坊主頭のキャラクターを寄越されたりするだろ? こんな裸の大将みたいなアバターが嫌なら課金して身なりを整えろという圧力なわけで、それとほぼ同じものだと思っていい。そこから頭角を現して、めでたく十両まで上がってこれたら人生バラ色よ。まず月給で百万を超える。年間じゃなくて月だ。加えて賞金の類も出るから年間二千万近くある。おまけに化粧廻しも繕ってもらえる、付け人もあてがわれる、マスコミも取材に来る。全てが花形の待遇になる。ただし負け越せば関取から転落、何もかも失って山下清に逆戻りだ。ここまで格差がある中で、十両が負け越しかけているとすれば──その地位を守るためなら、なんだってやるさ。俺は長年、ちゃんこ番に甘んじながら、三十路を過ぎた頃にやっとの思いで十両になれたんだ。喜びもひとしおだったよ。「楽園ノ嘘」っていう四股名を貰ってさ。幕下までは俺、ずっとフルネームでやってきた口だから。こういう本名にかすってないのは嬉しいよね、プロっぽくて。しかし、はしゃいでたのも束の間だったな。十両はそりゃもう魔境でさ、全然勝てない。俺ね、上背がそんなにないの。一七五センチだから、関取の中じゃ大分小さい方だ。そのくせ、脚は長いからいわゆる腰高で廻しを取られやすい。体重も一一二キロってとこで、まともに四つ身で組んだらすぐ投げられる。こんななり・・だと、激戦区の十両取組じゃ生き残るのがやっとよ。当然、技巧を凝らしたり読みを利かせたり、相手の研究も人一倍しなくちゃいけない。もう、必死よ。幸い、手足は結構でかい方でさ。腕の力や握力も、この体格にしちゃ備わってるほうだ。だから俺、まともに四つ身に組む前に「手四つ」といって、プロレスの力比べみたいな立合いに持ち込むのが十八番なんだ。お互いが、両手を掴み合って徒手空拳の鍔迫り合いをするんだよ。普通はとにかく押せ押せになるんだけど、俺は駆け引き上手なもんでさ。急に力を緩めて引き落としに持ち込んだり、ささっと側面に回り込んで押し出したりしてね。あの手この手で自分の勝ち筋に持っていくわけよ。ここまでやって、ようやく成績は五分五分がいいとこかな。散々頑張っても結局、最後は「人情相撲」に頼んなきゃいけなくて、世話ねぇやな。あぁ、それにしても体が痒くて仕方がねぇ。全身が糞にかぶれてやがる。ここまで糞しかねぇとよ、臭くねぇんだ。一周して嗅覚がいかれてるんだろうな。最初は自分の腕で糞の海を漕ぐたび、強烈な臭いのが来やがった。じきに、その振れ幅自体に慣れちまった。俺は喜んでるように見えるか? えぇとなんだっけ、そう、例の報道以降も、俺たち十両はあの手この手で足がつかないように、星の貸し借りを続けてきた。メールはもう駄目だってんで、電話や直談判だとか紆余曲折を経て、チャット内容が残らない通信アプリに移行した。「シグナル」っていうんだが、ニュースでたまに見ねぇか? 匿名性が高くて、通信内容の復元が難しいからばれにくい。が、こんな便利なものは当然半グレも隠れ蓑にする。堅気なら九割九分が今どきLINEを使うわけであって、そんな胡散臭いアプリを入れてる時点で怪まれるのが難点だ。なんでこんなもん入れてんだ? おら、吐いちまえや。ってな調子で詰められたら日にゃ、たとえ白でも黒だと思い込んじまうくらい人間は柔い。元が黒なら、言わずもがなだ。一人がさらわれたら名前を吐かされて、あとは芋づる式だろうな。このままじゃまずい、なんかいい方法はねぇか……。と模索していたところに「のこってぃあ」を紹介された。そりゃなんだと聞くと「おすもうさん専用SNS」だって。他の部屋にいた序二段のやつが三年前に辞めたんだが、そいつが意外なことにエンジニアを目指して修行中らしい。電卓やブラックジャックみたいなアプリはもうお手の物で、いまやサーバーを借りてSNSの構築にも挑戦しているってさ。殊勝なこったね。その練習の一環として、やつは紹介制の小規模SNSを立ち上げたと。まぁ相撲取りなんざ、横綱から力士養成員の下っ端併せても六百人ぐらいだしな。数十人くらいが同時接続するかどうかってくらいか? 個人規模のレンタルサーバーでも何とか回せるんだろう。紹介コードを入力して画面を立ち上げると「入門」ボタンがあって、それが登録を意味する。最初は付き合い程度でお茶を濁そうと思ってたよ。しかしやってみると結構面白いのよ、これが。身内だけだから基本的にはFacebookの作りをお手本にしていて、機能は色んなSNSのパロディになってやがる。例えばインスタのストーリーだったり、Xのスペースをもじってたりする。馬鹿々々しいし独創性も糞もないんだけど、知ってる顔ばかりだからこれが意外と盛り上がる。他にも使わねぇような機能もてんこ盛りで、プログラムの練習でやってみたかったんだろうなという意気込みだけはよく伝わった。で、こっからが本題でさ。そのしょうもなっオアァッ、消えろ、消えろやこの野郎。悪い、この海でよ、俺の脚を引っ張ってくるやつがいるんだよ。糞の海の中でだ。いや、こいつの話は後にする。そう、そのしょうもない機能の中には「消えるメッセージ」もあるわけよ。これインスタにあったんだよな? それを自分でも実装してみようと思ったんだろう。案の定、これに目をつけるやつらが現れた。「すいません。明日の一番、相談できませんか」ってな具合で来るわ、来るわ。おいおい、ここでかよと最初は戸惑ったが、逆に悪くないのかもと俺は考えた。「シグナル」みたいな半グレ御用達のアプリならいかにもだけど、こんなふざけたSNSなら少なくとも表向きのインストール目的は身内の交流だ。もし仕組みを確認されても、機能が阿呆みたいに多すぎるから「消えるメッセージ」は目立たない。木を隠すなら森、ってやつだ。虫のいいこと考えてる気はしたけど、俺は流されるままに「のこってぃあ」で星の貸し借りをやるようになった。しばらくして、半グレ集団による大規模な強盗が相次ぎ、全国ニュースで「シグナル」は知れ渡るようになった。俺達は「のこってぃあ」を渡りに船だと思ったね。しかし穏便に使ってりゃあよかったのによ、すぐに調子に乗っちまうやつが現れてさ。俺んとこに来やがったんだよ。「マンション麻雀どうですか?」って。そいつは……さすがに実名は出せねぇから、賭乃海とでもしておこう。他の部屋の十両だった。賭乃海は博打が好きでさ。ちょくちょく、声をかけて来やがんの。まぁ俺も十両の端くれだから、遊ぶ金には事欠かねぇわな。麻雀はさ、幕下の頃からフリーで鳴らしてたのね。そこら辺のおっさんにはそうそう負けなくてさ。手前味噌かもしんないけど実際、大方勝ち越せてたんよね。一般の雀荘だからテンピンが限界だったけど、それでも結構な小遣い稼ぎになってたな。俺と賭乃海はコンビを組んでさ、よく初心な素人を騙してた。符丁さえ巧妙に仕込んどきゃ、相方の欲しい牌や当たり牌を伝えるなんて数半荘くらいは全然ばれない。二人とも関取になってからはさすがに顔も割れるんで、舞台をマンション麻雀に切り替えたのね。これも例の賭乃海が誘ってきてさ、やくざの組が取り仕切ってる個室マンションにこっそり行くわけよ。レートはゴジューやデカピンだから、一晩で何十万も動く。組にもそれに比例した場所代が入る。ウィンウィンの関係だ。本場所終わった時期なんかちょうど時間もあるし、俺もまだまだ殺気立ってるから、呼ばれたら行くよね。今まで二回くらいついてったことはあったけど「のこってぃあ」で誘われたのは初めてだった。これがほんとによ。糞。糞だったんだ。俺いま後悔してるもん。賭乃海の野郎がさ、次のにちゴボボッ。おぇぇぇ! ごめん、いやまた脚引っ張りやがってさ、糞がいよいよ口に入りました。終わりました。絶対こうなると思っててさ、いや、ここまで苦いとは思わんかった。本当に、後味がさ。後味が……いいやもう。この糞の海の中でさ、一回も息継ぎせずに泳ぎ続けてるこいつは何なの。俺たぶん二時間以上は泳ぎ続けてるんだけど、彼、すごくない? 何の話してたっけ。そう、賭乃海の野郎がさ、次の日曜日に面子足りてないんで来てくださいって誘うわけね。消えるメッセージで。それにしても指定された場所が、いつもと違うマンションでさ。違和感はあったんだけど「自分も着いていくから大丈夫です」って言うから、まぁとりあえず一緒に行ってみたわけよ。九月に入ってたけどまだまだ暑いから、Tシャツに短パン。ラフな格好でいかにもオフってムードで。相方と合流してさ、道すがら今回のレートについて聞こうとしたら「最近、変化増えましたね」って急に話、振ってくるのね。これ、俺の相撲のこと言ってるわけよ。なんだよ藪から棒に、と茶化したはいいものの、内心では冷や汗をかいていた。俺は勝つために、土俵の内外問わずなんでもやるようになりつつあったんだ。賭乃海ときたら遊び人のくせにさ、相撲はガチンコなんだよ。博打はうつのに、星の貸し借りには乗ってくれたことがなくて。こいつはがっぷり四つの立合いが信条だもんで、変化や猫騙しの類は良しとしていない。世間的にはさ、体格に恵まれない力士であればそうした飛び道具も大目に見られる。そんな風向きを鑑みても、あまり度を越していると周りの心証もよくないわな。何か言われるかなぁと思ってたらやっぱり言われちゃったわけで。どうせ俺はがっぷり組まないから何やっても同じだ、と自嘲すると「俺、楽園ノ嘘関の手四つ好きなんすけどね」って、歩きながら笑う。俺は照れながら、罪悪感に包まれる。実際、手四つは面白いと思ってる。単純な押し引きだから、相手の性格がよく出るのよ。一本調子に押す奴、ムキになる奴、引き算ができる奴。普通はお互いの廻しを取るもんだからよ、こんな力比べは型がなくて相手の地金が出る。よく知ってる力士だと、俺たぶん目を瞑ってても誰と立合ってるか当てられるよ。手四つは確かに、醍醐味があるんだけどな。ご指摘のとおり、最近の俺はちょっと及び腰だね。歳も歳だから、ピークが過ぎちゃってて。俺より力のある若手なんて、ごまんと居るわけで。あれ、遊びに来てるのになんでこんな湿っぽくなってるんだ。賭乃海の野郎が仕事の話なんかするからだった。俺は話題を麻雀に切り替えて、レートを聞いた。聞いてびっくらこいちまったね。デカリャンピンだとさ。千点が二千円だよ、正気かよ。ウマも加味すると、半荘一回で十万ぐらいは動くんじゃねぇか? 六十万くらいは俺は持ってきてたのに、少し不安を覚えた。お前も打つの? と賭乃海に聞くと「今回、自分は案内人なんで」と澄ましてる。聞きたいことがもっとあったのに、気づいたらマンションに着いててさ。駅前のタワマンで、エントランスがもうホテル一階の応接間みたいになってるの。もう漂ってる芳香剤の匂いからして格が違うわけよ。奥に二重の自動ドアがあって、ここでインターホンを鳴らすのかなと待ってたら鍵持ってやがんの。そこまで裏社会に足突っ込んじゃった? とからかうと、苦笑いでごまかしてる。そのマンション全体がさ、結構な家賃取ってそうなんだけど生活感ないの。怖いなぁと思いながら七階の奥の部屋に着いて、またインターホン無しで相方は鍵を開ける。中にどんな奴らがいるのかなと、俺はかなり緊張していた。白状すると、ちょっと指震えてたんだよね、俺。んで扉を開けると、真っ暗。筋者どころか人っ子一人いなくて、靴脱いだ相方が黙々と入っていく。恐るおそるついていくと、人どころか家財すらないんだよね。リビングに行くと、カーテンだけは窓に付いてるのが分かった。他は空調どころか照明器具もなくて、引っ越しの下見に来てんのかとすら思ったね。部屋、間違えてない? と賭乃海に聞いたら「合ってます」とだけ返事して、こっちを見向きもせずに奥の部屋へ進む。ドアを開けると、その部屋だけ涼しいの。エアコンが効いていた。ここもカーテンで仕切られてて、真っ暗。慣れてきた目でよく見ると、部屋の真ん中にさ、勉強机と椅子が置いてあった。机の上には、何故かタブレットみたいな端末が光ってる。俺、麻雀しに来たんだよね? と念のため確認すると「だから、これです」とその端末のほうを顎でしゃくりやがる。いやはや、ってなっちゃって。敢えてもう、何も言わなかった。俺が立ち尽くしていると、向こうから説明を始めた。今回は、この端末を使ってネット麻雀の形式で賭けを行いますと。いま、暴対法が厳しくなってるじゃん? やくざのシノギになりそうな収入源については、警察がかなり目を光らせてるもんね。大金持って四人で実際に卓を囲んでたらアウトだから、こうして回りくどいことをやってるって。ってことは、他の面子も同じ状況だからさ、場をひとつ成立させるために四部屋もマンション借りてんだろ? 家賃の元取れるのかって聞いたら「それがあるから、このレートなんです」と言う。金はどうやって受け取んのよと確認すると、これも面倒臭い。ゲーム終了時の総収支決算画面をスマホで写真に撮って、後日に組員のヤサ・・へ見せに行って現金化すると。こんなの興醒めもいいとこだね。世知辛い世の中になったなと思いつつ俺は渋々、椅子に座った。タブレットだと、姿勢的にゲームセンターの麻雀ゲームをふと思い出した。画面には「雀鬼黙示録」というアプリが起動されていて、シングルとオンラインの二項目が表示されている。オンラインを選んで、相方から指定されたルームナンバーを入力すると、既にルームが立ち上げられていた。ルール設定の欄を見ると、東南戦、食い断有り、後付け、飛び終了と基本的な決まりごとが並ぶ。その下には「レート」「ウマ」「割れ目」って風に、いかにも博打しますって意気込みの用語がずらりと見えた。これ大丈夫か? と思ったけど、このアプリ自体が昔からある有名な賭博漫画のパロディになってるっぽいんよね。イカサマ麻雀のゲームなんてありふれてるし、カモフラージュの一環なんだろうか。まぁ、もっと露骨なオンラインカジノのアプリとかもあるし、この時はそこまで気にしなかった。で、賭けに使うルールで実際に今回、採用されているのは「焼き鳥」のみだった。その半荘で一度も和了出来なかった場合の罰符みたいなもんで、十~三十ぐらいのポイントを追加で他家に支払うルールだ。飛び有りも加味すると、場を攻めに偏らせて早く回したいんだろうなという主催側の意図を感じた。あとは、ウマがワンスリー。四位が一位に三十、三位が二位に十ポイント余分に渡すということね。オーケー。他の「客」も既にログインしていて待機中だった。相方に促されるまま、俺は開始ボタンを押す。早速、ゲームが始まった。まず俺はね、面食らったよ。名前がさ。俺んとこには「プレイヤー」としか書いてないのに、他の奴らは「下痢壷1」「下痢壷2」「下痢壷3」になってるんだよね。乾いた笑いが一瞬出て、すぐに俺は真顔に戻った。これ、こいつらデフォルトネームなの? 何? って動揺してるうちに「始まってます」と相方に言われて、我に返った。上家かみちゃが親で、もう第一打が切られてちゃってて。わわ、ってなりながら俺は液晶をタップした。まずは冷静に字牌から処理する。平場の場合、下家しもちゃの風牌から切ると俺は決めてるんだ。一度でも役を確定されると、後はチーし放題になるからさ。あんまり絞る方でもないけど、やりづらくなるし、何より癪だよね。こうして東一局が始まったわけ。最初、こいつらコンピュータじゃないかなって疑問があった。ってのも、さすがにデカリャンピンの場に来るくらいだからそりゃ下手なやつはいないわな。全員がとにかく切るの早いし、状況判断も正確で卒がない。相当、打ち慣れてるのは画面越しでも分かった。そう、あまりにも隙がないから機械的に感じたんだよ。とはいえ、しばらく打ってると長考する場面もあったり、ちょっと嫌らしい感じの一発消しもあったから人間なのは徐々に分かってきた。東場は、それはもう一瞬で過ぎていった。自分以外、東場はほぼ全員が毎局鳴いてたんじゃないかってくらいポンチ—の嵐でさ。俺、忘れてたんだよ。「焼き鳥」の存在を。一度も和了出来ずに終われば、ペナルティだ。仮に三十点とすると、一人焼き鳥で全員に十点ずつ、つまりこのレートだと通常の受け渡しに加えて二万円ずつ、計六万渡さないといけない。一晩中打つとして、相当な額になる。あとはウマもワンスリーでデカいから、本当にラス回避麻雀みたいな性質がある。ドラ二枚の手をさ、たんで流せばいいところを俺だけ悠長に面前リーチいこうとしてて。そりゃ和了ホーラできんわなって話で。当然、俺だけあがれてないから東四局が終わった時点でラスよね。で、こっからが地獄だった。南入りしてから、完全にマークされたの。だって俺を和了させないという完全試合を決めるとさ、最大で二万円確定なんだよ? 下痢壷どもがよ、結託して俺を殺しにかかってきやがんの。あいつらもトップを取るための決定打は欲しいから、さすがに南場の進行は面前が増えた。それも俺の手が遅い場合の話で、こっちが鳴くや否や三人で申し合わせたみたいに鳴きはじめる。南二局で迎えた俺の親も、その手口であっさり流されちまった。そして迎えた南三局、鮮明に思い出せるね。俺がラスの五千点で、三位の下痢壷2が一万四千点。素点で九千点足りないから、満貫でも直ツモじゃなきゃまだ足りない。オーラスでまともな勝負をするためには、ここで大物手を和了する必要がある。意気込んで肝心の配牌を開くと、赤々二枚で四五六の三色が見える。よしきた。まっしぐらだ。ほぼ決め打ちしたね。牌効率的には怒られるやつなんだけど、点棒的に仕方ねぇよ。運良く五巡目で一向聴イーシャンテンまできた。七巡目に親からリーチが入ったけど、押したね。押しまくって、十巡目にようやく張った。メンタンピン赤々で安め満貫まんがん四七萬すーちーまん待ち、三色高め四萬すーまんツモで倍満ばいまんまで見える。タブレットぶん殴る勢いでリーチボタン押しちゃって、相方が怪訝な顔で制してきたけどもう無視した。萬子まんずは場況が良かったし、これは引くだろと思ってたら甘かった。自動でツモって九索きゅうそうを切らされたときに、ラグがかかるわけよ。ネット麻雀だからね。あぁ、終わったと思ってたら案の定でロン。リーチ・ドラ・裏の三はん、親だから七千七百点。オーラスにすらたどり着けず、飛ばされた。俺は深い溜息をついて、何も無い天井を見上げていた。まだ夕方の十九時過ぎだった。休憩を挟んで明け方までやるらしいから、まぁこれからだよな。と落ち着いて画面に目をやると、対局後の精算に移っている。俺は自分の支払額を見て、目を疑った。三十万六千円。おい、どういうことだ? 賭乃海に向き直り、説明を求める。すると「焼き鳥ですね」とだけ奴は答えた。焼き鳥なんて、せいぜい三十ポイントの払いだろう? 俺の計算だとレートとウマの払いで十二万強、加えて焼き鳥で数万だから二十万もいかないはず。内訳どうなってんだよと凄むと、賭乃海は面倒臭そうにタブレットのルール確認タブをタップする。焼き鳥の項目の右下には、「九十」と小さく表示されていた。「一人焼き鳥で九十ポイントだから、掛けることの二千円で十八万円ですね」って平然と抜かしやがる。正気の沙汰じゃねぇ。一晩で何百万動かす気だよ。聞いてねぇと叫ぶと「最初の時点で表示出てたでしょ? 自分が見落としてたんじゃないですか」と、さも毅然としてますって態度を繕ってやんの。んなこと言われたって、俺は異様な雰囲気に圧倒されてそれどころじゃなかったよ最初は。そもそも道中で事前に忠告してくれよ、レートよりそっちが肝心、要じゃねぇかって話でしばらく一悶着だ。この時点でかなり苛立っていて、もう帰るわとこぼしつつ俺は席を立つふりをした。すると、奴は無言で俺に手を差し伸べてきた。「三十万六千です」と奴は言って、微動だにせず固まっている。まさか、お前に支払うの? と聞くと「だって、負けたやつはトンズラするでしょ」なんて、さらっと失礼なことを吐く。言われてみりゃ、そうだ。いくら組が相手だからといって、大負けして律儀にわざわざ自分から足運んで金払うやつはそんなにいねぇだろう。回収は案内したやつが立会人としてきっちりやる、ってのは分かる。分かるけど、やっぱり腑に落ちねぇ。お前、長いこと俺の相方やってきただろ? まるで身内と思えねぇ態度でさ、どっちの味方してんだよと思ったね。焼き鳥食らったことよりも、そいつに対してのほうが腹立ってきちゃって。しばらく睨み合ってたんだよ。タブレットに「再戦」というボタンが点滅しはじめて、俺らが待たせてることに二人で気づく。「どうするんです? 相手方、お待ちですよ」と奴は煽りを入れてくる。埒が明かねぇし、いいや、もう一回打とうと思って画面に向き直った時だった。「次は三味線しゃみせんこかないで下さいね」と、釘を刺された。三味線ていうのは、対局中にあることないこと言って相手を撹乱するやつね。当然、マナー違反だ。どうやってネット麻雀で三味線やるんですか? と慇懃に聞いてやったら「南一局。八索ぱっそうチーで止まってたの。あれ、わざとですよね?」と、ちゃっかり見てやんの。そう、南一局。俺は配牌から萬子の混一色ホンイーソーに振り切ってたんだけど、索子そーずの七九だけ塔子ターツがまだ残ってたのよ。俺は上家から萬子を絞られたくないから、なるべく一色手と悟られないように捨て牌も気を遣ってたわけ。で、序盤に八索が早々と二枚切れになった後、上家が三枚目の八索を切った。俺は要らないのに、わざと鳴くかどうかを時間切れの五秒間、たっぷり悩むふりをしたのね。すると他家からすれば、二枚切れの牌だからチーでのラグが確定する。つまり俺が索子の上塔子を真面目にやってる風に見える。こうすりゃ、萬子は相当鳴きやすくなるだろ? 何度も使えないけどさ。これも他人を欺いてるから、れっきとした三味線ね。なんで三味線の話してたっけ。えぇと、あれだ。あいつ……ごめん、誰だっけあいつ……。なんか、だいぶ泳ぎ疲れててさ、意識が朦朧としてるかもしれん。いきなり死んじゃったらごめんね。というか、あてもなくずっと泳いでるけど陸ひとつ見えないんだよね。このままじゃ死ぬなぁ。いや、本当に分かんない、これって。怖くなってきたかも。もう糞がどうとか言ってらんないよね。あぁ、糞で思い出した。糞乃海だ。自分で決めた仮名忘れちゃってた。この歳になるとさ、あり得ない単語が出てこなかったりしてさ。俺も潮時なのかもなぁ。十両までは来れたけど、その先がね。見えてこないというか。俺さっき糞乃海って言ってた? 賭乃海ですねすいません。ま、賭乃海が俺の三味線を非難するわけよ。前まで散々、一緒にコンビ打ちしてたような仲なのにさ、なんで急に学級委員みたいなこと言ってんだよ。向こうの肩、持ち過ぎじゃねぇか? そもそも、こんな現場の鍵まで渡されてる時点でお前、半グレになっちゃったのかよって。散々まくしたてると、あいつも黙っちゃってさ。また一触即発のムードだよね。なんか分かんないんだけど俺この時、これカップルだったら絶対別れてるなぁって考えてた。その後、あいつが禁句を口にしちゃったのよ。今までずっと仏頂面決めてたくせにさ、にやりと口角を上げて「やっぱ小細工無しだと勝てないすか」ってね。明確に、麻雀を超えて俺の相撲にまで言及してるニュアンスだった。あぁこれ駄目だ、ってもう自分を抑えられなくて衝動的にいったね。椅子から立ち上がって、胸ぐら掴もうと思ったのよ。ところが向こうも現役の力士だから、相手の初動ぐらい分かるわな。先手取られて、頭を押さえつけられちゃってさ。殴られるのかと思って、一瞬体が強張った。そしたらさ、あいつ俺の頭頂部を思いっきり親指で押しはじめたのよ。俺が力士といっても、プライベートだから髷なんて結ってないからね。普通に後ろで束ねて、お団子にしててさ。体重百五十キロ超える人間の握力だよ? 渾身の力でね。誇張抜きで、雷が落ちたのかと思うくらい痛くて。あっ、下痢壷ってこれのことか、って俺は意味不明な納得を覚えた。小学生の頃に流行らなかった? 頭のてっぺんにツボがあって、そこを押されると下痢になるって話。根拠なんてないはずなのに、脳天から肛門まで貫く痛みで信じざるを得なかった。じきに立ちくらみを激しくしたような感覚に襲われて、そこから記憶ないから多分気を失ったみたいなのよ。いや、あんなのやられたら誰でも気絶するって。お前も一回喰らってみて、本当に。すごいから。

 

そこからよ。なんだか眩しいなぁ、って感じだしてさ。気がつくと何故か屋外にいて、陽が昇ってるの。えっ、昼? ってびっくり。マンションで麻雀打ち終わって賭乃海と揉めてたのが十九時過ぎくらいだったから、十五時間以上は気絶してるよな。なんでこんなに真正面から太陽と向き合ってんだと思ったら俺、仰向けで水面にぷかぷか浮かんでるんだよ。しかも、着ていた服が全部脱がされてる。下半身を触ると、廻し姿にさせられていた。嘘だろ、と思うと同時に激臭が鼻に直撃してさ。溺れかけながら、まず吐いたね。臭すぎて。そこで初めて空じゃなくて周りを見渡したら、あたり一面、糞の海なのね。海そのものが肥溜めになってて、三百六十度どの方角を見渡しても島ひとつねぇの。脳の理解が追いつかなかった。五感の全てで感じてる状況なのに、まだ夢のほうが可能性高いと思ってた。その時点ではね。俺はしばらく呆然として、まずめられたことは確実だと考えた。どこの組だか知らねぇが、俺の相方をそそのかして潰しにかかってるのかなって。それにしちゃ、変なマンションに誘い込んでまで一回打たせて、やってることが回りくどいんだよな。そもそも、この場所は地球上のどこなんだよ。糞の海なんてあり得ねぇ。俺が立てた仮説はさ、一見果てしなく続くこの水平線はフェイクなんだよ。よく洒落た服屋とか雑貨屋に行くと、やたら広く見えた店内が実は全てガラス張りの壁面でしたってのがあるだろ? ああいう類のからくり・・・・で空間を囲って、そこにありったけの糞をぶち込んだと俺は推測した。そもそも、俺を殺したかったら気絶してるうちに仕留めるじゃんか。これは糞の大海原に見せかけた、ある種の懲罰房なんだ。俺がベソかいて、もう三味線こきません許してくださいって叫べば救われるんだよ。救われるはずなんだ。しかし、のっけから頭下げるなんて癪だからよ。俺は再び大の字になって糞の海に浮かんだ。こんな風に思考を働かせたからさ、状況には絶望してるけど生死については意外なほどに楽観的だった。糞の中、泳ぎ回りたくもねぇしこうなったら持久戦だな。悪臭に耐えながら、俺は目を閉じた。

 

五分くらい経った頃かな。突然、右脚が沈んだんだよ。俺が体勢を崩したんじゃなくて、明らかに何かが俺の脚を引っ張った。心臓が飛び出るかと思ったね。この時が一番、頭を回転させたかもしれない。いや絶対、マンション麻雀のどの局よりも考えてた。噛まれた感じはないから、魚や鮫の類ではなさそうな気がした。タコとかイカか? この糞の海の中で、生きながらえる生き物がいるのかよ。三分ほど考えていたら、また来やがった。今度は左の足首を掴んで、糞の海底へ引き込もうとする。首まで沈みかけて、すぐに脚をばたつかせて振りほどいたんだけどさ、その時の感触で分かった。手だ。人間の手。糞の中に、人間。これってどういうことだ。しばらく考えて、俺は逆に安心した。おそらく、手の部分以外はラバースーツを着ている。背中にはありったけの酸素ボンベを背負っていて、ホースを通じて呼吸している。首から上も装備万全で、マスクの上から頑丈なゴーグルを密着させてる。要は、グローブ以外の潜水服一式をフル装備させた刺客を送り込んでさ、俺を驚かせてるんだよ。それ以外にない。素手で触られると、姿が見えない以上はパニックに陥ると踏んだんだろうな。しかし、こちとら馬鹿じゃねぇ。ネタが知れたら怖くねぇし、そもそもこの空間も作り物だと宣言してるようなもんだ。あとはこいつを引きずり出して締め上げりゃ、この糞世界から脱出する方法も白状するだろう。俺は刺客と戦うと決めた。待つこと三分、五分、七分。肩透かしにも、やっこさんときたら音沙汰が無くなっちまった。短時間で二回も襲ってるわけだから、向こうも三度目はそりゃ慎重になるわな。どちらも動かないまま、千日手になりそうだったんで俺は策を弄することにした。それまでは首だけ糞の水面から出して漂ってたのをさ、諦めたふりしてまた大の字で浮かびはじめた。一見、休憩を装ってはいるけど頭の中ではバチバチよ。次にどこを掴まれたらどう動くか、しっかり予行練習している。ここで、不気味なことに気づいた。俺に締められてる廻しが、よく見たら俺が普段使ってる廻しなんだよ。左側の擦り切れ具合と色褪せぶり、間違いないのね。勝手に誰かが俺の部屋に入ったってことか? 考えるほどに気味が悪くて。空を見上げながら周りも警戒しているあいだ、廻しのことが頭を離れなかった。それから三十分ぐらい経ったかな。奴さんときたら、ようやく餌にかかりやがった。今度は左足を掴まれた。俺はとっさに、左手でやつの手首を掴み返した。この一連の流れで分かったのがさ、奴は結構手がでかい。それに、腕自体も相当作り込んでいる。こいつ力士だ、百戦錬磨の俺が直感したんだから間違いない。こんなところでわざわざ俺を牽制しにきてる役回りの力士といえば、賭乃海しかいねぇ。何の目的か分かんねぇけど、てめぇで潜水服まで装備してよぉ、いよいよ頭がおかしいんじゃねぇか。ともあれ絶好の機会だ。あと一息で取っちめてしまえば、この糞地獄は終わる。もうすぐ解放される安堵と、相手が曲がりなりにも顔見知りだったことで俺は笑いがこみ上げてきた。俺は握りつぶす覚悟で左手に力を込めて、奴の手を自分の左足首から引き離した。そのまま間髪入れず姿勢を起こし、奴の頭がありそうなところを右脚でためらいなく蹴り込んだ。痛みを与えるのが目的じゃない、俺の狙いはゴーグルだった。視界が遮られたら奴は終わりだ。蹴りが頭じゃなくて背中に滑ってもいい。酸素ボンベに繋がるホースを蹴り飛ばすことが出来れば、奴は糞の海面に上がるしかない。どっちにせよ、あちらさんは白旗だ。ここぞとばかりに踏み込んだ俺の右脚は、奴の顔面を正確に捉えて撃ち抜き、勢い余って背中にまでずるりと踵を滑らせていった。完全に入った。勝利を確信した直後、俺はあることに気づいて身の毛がよだつ思いをした。全身に鳥肌が立ったね。ここだけの話、軽く漏らしていた。

そいつ、ゴーグルも酸素ボンベも、一切身に着けてなかったんだ。

 

俺、奴が浮上してこないかは細心の注意を払ってたんだよ。大の字に浮かんでいる間もずっと目を光らせてたし、ぽちゃんと音がしないか耳をすませていたし。誓って、奴は一度も浮上していない。俺が意識を取り戻してから、どう見積もっても四十分以上は経っている。潜水の世界記録って二十分くらいか? 四十分は絶対無理だよな。しかも糞浸くそびたしの中でどうやってゴーグルも着けずに俺の居場所や四股の位置を正確に把握したんだよ? お前な、糞の海ってのを勘違いしてるだろ。たかが東京湾ぐらいに澱んだ海水にさ、ところどころ漫画みてぇな巻き糞や一本糞が申し訳程度に浮かんでるのを想像してるだろ。違う。下痢だ。下痢が全ての基本なんだ。硬度のグラフをイメージしろよ。下痢がゼロで、便秘のコロコロうんちを百としようや。その間にさ、一から九十九までのあらゆるスペクトラムの軟便、硬便が存在するんだ。そういう次元の糞の海に俺は置かれている。この空間はよ、世界中の糞を集めた博覧会なんだよ。その中で目を開けられるか? 絶対に、無理だ。断言する。

こいつは人間じゃない。俺は恐慌状態に陥った。全力で泳いだね。兎にも角にも、その場から離れたかった。安全などこかに辿り着きたかった。クロールは無理だし、背泳ぎも糞飛沫くそしぶきが顔にかかりまくるから残るは平泳ぎ一択だ。さっき言ってたようにさ、こんな水平線までの景色はハリボテだ。しばらく泳いでいれば、すぐに鏡か何かの壁にぶつかるはず。ほんの手品、こけおどしなのよ。泳ぎはじめて冷静に考えるとさ、意外と近くに抜け道があるんじゃないかなって。きっと、そうだ。俺が浮いてた位置のすぐ下、糞中のどこかに、秘密の穴蔵があってさ。そこから奴はこまめに出入りして、息継ぎを繰り返してたんじゃないかって。そんな風に自分を落ち着かせても、今度は視界の疑問が拭えない。どうやって俺を視ていたんだ? 抜け穴から入って、俺と正確な攻防を繰り広げたあとにさ、またその穴に戻っていくなんて不可能だ。ずっと考えながら、十分も二十分も、三十分も泳いだ。泳げば泳ぐほど、俺が推理していたことはただの希望的観測にしか過ぎないという事実を思い知らされた。この空間は、全てがリアルだ。実際に泳いでみて分かった。視界に映る、この空も雲も太陽も糞の海も水平線も、何もかも現実だ。どこまで逃げても、糞しかねぇ。散々逃げたはずなのに、何百メートルも離れたのに、また脚を触られた。さっきの抜け穴説も、脆く崩れ去った。俺と、糞と、化け物。それだけの世界。

 

ここまでが、俺がいま叩きつけられている現実に至るまでの話だ。未だに受け入れられなくてさ、かれこれ三時間くらいは泳ぎ続けている。奴から逃げなきゃいけないのと、進み続けることで時間を稼いでる。まぁ、突破口なんて見つかんないんだけどね。さすがにもう限界だな。体力の限界。俺も千代の富士関みたいになりたかったなぁ。ソップなのに腕っぷしが強くて、巨漢の大関でも物ともしなかったもんね。幕内優勝三十回以上なんて、もう伝説中の伝説だよな。俺ら十両から見りゃ、雲の上の人よ。でもね、俺が本当に憧れていたのはね、実は舞の海関なんだよ。舞の海関はさ、俺より更に小兵なわけよ。なのに三役までいってて、大した人だよね。子供の頃、小錦関の周りをぐるぐる回ってるのを見てさ、こんなの相撲じゃねぇだろと思ってたら本当にそれで勝っちゃうこともあって。もちろん、あの人だけが目標で入門したわけじゃないけど、自分も小柄だったからずっとお手本にはしてた。いつから俺って汚れちまったんかなぁ。二十代前半まではひたむきだったな。稽古も研究も熱心で。力つけるために、科学的な筋トレもプライベート使ってまでやってさ。酒や菓子も全然口にしてなかったね。いつからか、相撲と番付を天秤にかけるようになってて。星を借りたのも、俺からじゃないよ? 「今の場所、大変だろ。今回は貸しにしてやるから次は逆に助けてくれないか」って人伝てに持ち掛けられてさ。初めて八百長に乗ったとき、俺は未来のそいつを助けてやるためなんだって自分に言い聞かせた。その時の感情と思考をはっきり覚えてる。そこからは、麻痺したな。段々と、自分が小兵なのにかこつけて、正面から相撲を取らなくなってさ。「技巧と小細工をはき違えている」と解説から指摘されることも増えていった。次第に博打もレートが上がっていって、しまいにゃこの様だし。賭乃海が気にかけてくれてたように、自分を見直したほうがいいのかもな。まぁ、俺はこの糞の監獄で力尽きて死ぬからよ、もう遅いんだけどな。それにしてもよ。俺が気になってるのはさ、こいつよ。この糞の中から脚を引っ張ってくる、彼ね。俺を引きずり込もうとしてるものだと早合点してたんだけどさ、ちょっと違う気がするんだよね。あまり本気じゃないというか、挑発してるというのかな? どうも俺の気を引こうとしている感じがするんだ。何なんだろう。わっ、びっくりした。今さ、俺の手を握ろうとしやがった。気味悪ぃや。今までずっと脚だったのに、手に触れてきたのは初めてだ。うおぅ、まただ。手、引っ込めちゃうよね、こっちは。ちょっと離れたほうがいいのかな? どこ行くんだって話だけど……おわっ。手、出しやがった。あいつ、俺から三メートルくらい離れた糞の海面から、片手だけ出してる。やっとさ、姿を現したよ。手首から上だけ。しかし、なんだ。指差してるのか? 親指と人差し指だけ立ててるな。銃を撃つ真似するときの格好だ。あっ、俺気づいちゃったんだけどさ。もしかして、これって「シュートサイン」か? プロレスでさ、真剣勝負でこいよと挑発するときのハンドサインだ。俺の見解が正しければ、こいつの意図はそういうことになる。しかしだ、俺は力士よ? 大相撲は元々、ガチンコが前提だ。にもかかわらず、わざわざこんなサイン振ってきやがるというのは。「八百長野郎、やれるもんならかかってきな」と俺に対して言ってるわけだ。上等じゃねぇか。相手してやるよ。お前も力士のつもりなんだろ? 土俵はねぇからさ、ここでやるなら手四つになるけどいいの? それこそ俺の独壇場なんだけどね。もう泳ぎ疲れてふらふらだが、見てやるよ。お前の相撲をさ。ほら、両手突っ込んでやるからよ、お前も出しな。そう、そう……。お、本当に食いつきやがった。いま、奴さんの両手を俺が握ってる。糞の中で。おっ、おっ、ほっ、よっと。こいつ、やはり、力は強いね。手も、そこそこでかいし。体格はどうなんだろ? それ以上に、うおっと、興味深ぇのはさ、彼、なかなかの業師だね。手四つならだいたい、俺が出し抜けるのに、押しても、引いても駄目だ。技術云々の前にさ、ぐぐっ、頭ん中、見透かされてんじゃねぇかってくらい。んっ。親近感覚えるもんね。こうまで合口あいくちが似てると。互角も、いいとこ……。こいつ、どんな面してんだろな。んんっ。いいね、いいよ。正面からこうしてさ、力比べの根競べ、技比べしてよ。顔が紅潮してくるのに頭は冷静でさ、こっからどうやり込めるか考えるのが楽しいんだよな。右から潜り込んで叩き込んでもいい。わざと引いてぐらつかせてもいい。押し切って上手を取れるようなら、柄にもなくがっぷり組んでもいい。やっぱ相撲は面白ぇや。この感覚、久しぶりだよ。惰性でもない、地位のためでもない。自分の相撲のために、相撲取ってる。押し引き、読み合い、駆け引き。これが俺の土俵だ。あぁ、願わくばよ、もう一度、本物の土俵に上がりてぇな。はは。それにしてもよ、いよっ、決着、つかねぇな。腐っても十両なわけで、関取相手にこいつ、大したもんだわ。ぐ、ぐ、ぐ、ぐ……。いや、待てよ。この感じ、やっぱりおかしいわ。なんというか、ここまで、合口が似てるって。もしかして、もしかしてだけどさ。あぁ俺、おかしくなってんのかな。似てるどころじゃねぇ。こいつ、俺だ。俺自身だ。

 

そう、あり得ねぇ。確かに考えられん。でも、請け負っていい。俺は、俺と手四つを組んでる。自分だからこそ、はっきり分かるんだよ。姿一つ見てなくてもさ。あっ、その証拠か知らねぇけどさ。いま、俺が気づいたと同時に、やめた。奴さん、力がもう入ってねぇ。ただ、両手を繋いでるだけだ。しかし一体、何のために? お前、まさか、俺とずっと相撲を取りたかったのか? いや、違う。俺に相撲・・を教えに来てくれてたのか。だから、ずっとついてきてたんだな。そうか。それしかねぇよな。こういうときって、ありがとうになるの? 自分と会ったことないから、分かんないよね。まぁでも、感謝は感謝だ。うん。ちょっと今ね、柄にもなくってごめんね。感極まってて、握手したいもんね、今。やってみよ。反応するかな? あっ、握手してくれた。返してくれたわ。右手でぎゅって。俺の握手会。客、俺。下らねぇなぁ。いやぁ、もう疲れたね。目がかすんで、土俵が見えるもん。土俵の上に、立派な吊り屋根があってさ。走馬灯だろうな。死ぬ前に、人生を振り返って色々思い出すっていうあれだな。にしても、景色が変わらねぇなぁ。ずっと土俵と屋根があって、俺よっぽど相撲好きだったのかな? これだけ不義理しといて笑っちゃうね。んん? いや、ちょっと待ってくれ。これ走馬灯じゃねぇや。島だ。島がある。島の上に、土俵がある。この糞世界に、陸があったんだ。何かの地方巡業かな? よくわからねぇが、せっかくここまで来てたのに、惜しいな。もう泳ぐ体力がねぇ。腕も脚も駄目で、もう漂ってることすら……おぉっ、おっ、おっ。本当かよ。「俺」がさ、糞の中から俺のケツを押し上げてる。わっ、わっ。糞の中で泳いでるわ。もう一人の俺がさ、糞の中でバタ足しながら俺を動かしている。あの島に目掛けて、連れてってくれるんだ。お前、もう一度俺に、土俵に立てってことなのか? いいぜ、やってやるよ。もう星は借りねぇし、貸しもしねぇ。「のこってぃあ」もアンインストールだ。俺なりのやり方で、今度こそ正面切ってやる。そこにいるんだろう、賭乃海? 俺の手四つをぶち破って、上手を取ってみろよ。やれるもんなら、懐に入ってみやがれ。待ってろよ、いま行くからよ。

 

って、あれっ、おいおい。ちょっと逸れちまってるぜ。どこ行くんだよ。ちゃんと前見てくれや、って見えねぇか。二時の方角ですよぅ。だめだ聞いてねぇ。土俵から離れていくじゃねぇか。あっちにゃ何があるってんで……んん? あぁっ、もうひとつ島があるじゃねぇか。あの島は一体、何だ? 見たところ、屋根も土俵もなさそうだ。えぇと、何だありゃ。座卓? 人がいやがる。四角い座卓を、糞まみれのデブどもが囲ってやがる。にしても、えらい集中してるな。いや、これもしかして麻雀打ってんのかよ。おいおい。俺が本腰入れてぇのはそっちじゃねぇぞ、相撲なんだよ。確かに押し引きや読み合いをやりてぇと言ったが、そういう意味じゃねぇ。あっ、加速するな。お前そんなに打ちたいのかよ。俺はもう懲りごりだぞ。まぁしかしレートだけ気になるな。あっ、こら。真に受けてんじゃねぇ。ちょ、ちょ、もう雀卓に着いちまうじゃねぇかこの糞ったれ。あぁ、また糞と言っちまった。

 

 

 

© 2026 文豆一郎 ( 2026年7月10日公開

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